■ N o e l /l e o N #05




 窓から差し込む夕日に目を細めながら窓辺へ近付くと、ノエルは慎重に周囲を見回した。
 部屋の中に、盗聴器や危険物の類が無いかどうかは先ほど調べ終わった。
 彼女が今いる場所は四階の高さにあり、警戒すべき狙撃可能なポイントは窓から眺められる範囲に無く、その事は彼女に幾らか安心を与えた。
 だが、それでも彼女の心が晴れる事はない。
 星が瞬き始めた群青色の空と、沈みゆく夕日に照らされる緑豊かなアーデルハイドの敷地、そしてその向こうに広がる欧州の雰囲気を漂わせた学園都市の整った街並みは、初めて見る者であればそれなりに感動できる光景だろう。
 たが、ノエルに対しては特別な感情を抱かせる事はなく、それどころか彼女はそんな光景を否定するかのように、勢いよくカーテンを閉じてしまった。
 部屋にはベッドと机、そしてクローゼットがそれぞれ二つずつ用意されており、この部屋が二人部屋である事を語っている。
 ノエルは右脇にある自分のベッドへ進み腰を落とすと、その正面にある扉をじっと見つめた。
 扉の向こうからは、シャワーらしき水音に交じって、少女の楽しげな鼻歌が微かに聞こえてきた。
「はぁ……っ」
 自然と出たため息に、ノエルは咄嗟に表情を改めた。
 こんな事ではいけない。プロじゃない――そう自分に言い聞かせる。
 今朝から何度も同じ事を考え、そしてその都度自分に言い聞かせてきた。
 だが頭で解っていても、想像以上に厄介な任務を押しつけられた事に、自分の身体が不平不満を訴えている。
 少しでも身体のストレスを解消させるかの様に、手を握っては開き、また握りしめる動作を繰り返す。
 任務の初日がまもなく終わろうとしているが、別に”何か”が有ったわけではない。
 いや、むしろ”何もなかった”と言う方が正しい。
 ただ警護目標の理理に振り回された一日――それが任務初日の全てだった。
 それは今までひたすら眼前の敵を葬って来たノエルにとって、精神的苦痛を与えるに十分な一日だった。
 せめて敵でも現れてくれた方が、ストレスの発散が出来て良いかもしれない――と、そこまで考えてノエルは首を振って(呟く。
「何を馬鹿なことを」
 ターゲットの無事は即ち、自分の任務が上手くいっている証ではないか――そうことさら強く思う事で、ノエルは精神を落ち着かせようとする。
 だが、そう考えれば考える程、不条理な任務と自分を包む居心地の悪さが、彼女の精神を蝕んでゆく。
 自分の知らない世界。
 理理も雪野も、そして学園に在る他の者達も、みんなノエルの世界とは無縁の存在だ。
 故に異質なのは自分自身――それも解っている。
 だからこそ防ぎようのない現実に、ノエルの心に苛立ちが色濃くなってゆく。
 全く……よくガードはこんな環境で一年間も任務に就いていられる――ノエルは心からそう思った。
 そしてふと、その任務に就いているガード「D1」の事を考える。
 D1が学園に潜入したのは、理理が高等部へと進学を果たした一年前の春との事だった。
 中等部からエスカレーター式に進学する者が大半を占めるもの、高等部から入学して来る者も少なからず存在する。
 D1はそれに紛れて潜入したらしい。
 今日、彼女と連絡を取ったのは、朝の一件と放課後の一回だけ。
 生徒として同じクラスに紛れ込んでいるはずなのだが、今現在に至るまで彼女との接触は行われていない。
 ノエルは今日一日、それとなくクラス全員の様子を伺ってみたが、さすがはプロのガード要員と褒めるべきか、誰がD1かを特定する事ができずにいた。
 今でこそエマノン所属としてガード任務に就いているが、その為に他の組織――恐らくは日本政府か統合政府のいずれかだろう――から引き抜かれた者という事で、詳しい資料は余り無い。
 潜入前に裕樹から手渡された資料にも、彼女の写真は貼付されていなかったし、引き抜きである以上、エマノンの訓練所を卒業する際に掌に頂く傷痕も無いだろうから、それを識別に使う事も不可能だ。
 D1の正体が教えられないその理由は判らなかったが、こうして訳も教えられずに任務へ就かされる事と、何かしら関わりがあるのだろう――ノエルはそう思っている。
 彼女としては早く接触し、学園内で注意すべき人物や、過去における事件の事などを詳しく聞き、何かあった場合は連携が取れるようにしたかった。
 だから放課後に無線を使ってその旨を申し入れたのだが――
『今はまだいい』
 と、一方的に断わられた。
 更に回線を切断する直前に言われた――
『貴女、随分目立ってる……』
 という一言が余計にノエルの心をささくれ立たせた。
 何もかもが気に入らない。
 やたら馴れ馴れしい理理の態度も。
 何を考えて正体を明かさぬD1も。
 すっかり友だちの気でいる雪野も。
 好奇心の目で自分を見つめる周囲の生徒達も。
 戦場の凄惨な光景を知らずに、呑気に平和を謳歌している校内全ての者達が気に入らない。
 自分を不釣り合いな任務へ送った上層部も、エンダーも気に入らない。
「もう……帰りたい」
 苛立ちは不安へと形を変え、ノエルは久しぶりに――それこそ初陣の時以来――任務中に弱音を呟き、制服の内ポケットから取り出したPDAを見つめる。
 すがるような視線を向けられたPDAは、単なる情報端末というだけではなく、D1や裕樹、そして付近で待機しているエマノンの支援部隊へ連絡を入れる為のトランスミッタも兼ねている。
 上部に備えられた大きめのボタンを押せば通信がオンになり、指定した相手――もしくは全員へ――通信が可能となる。
 微かに震える指をボタンにかける。
 既にバンドは裕樹とノエルの専用回線に設定されている。
 後はボタンを押すだけだ。
 そうすれば、耳には聞き慣れた兄の声が聞こえてくる。
 定時連絡でも無い通信を入れ自分が弱音を吐いたら、兄はどんな反応を示すだろうか? そんな興味も手伝って、ボタンにかけられた指に力が込められる。
 だが、彼女がスイッチを入れる事はなかった。
 今、兄にすがる訳にはいかない。こんなに早く弱音を吐けば、私の価値は無くなり、本当に居場所が無くなってしまう――それはエマノンの他に帰る場所を持たぬ彼女にとって、最も恐ろしい事だった。
 それに、何らかの形で兄に泣きついた事がD1に知られたら、それこそプロとしての名折れだ。
 ノエルは唇を噛み、PDAをポケットへ戻すと、右腕を伸ばして掌を見る。
 掌を横切る、刃物で切られた様な傷痕が有る。
 兄との絆にして、エマノンの紋章。
 腕に力を入れると、瞬時にグルヴェイグが姿を現し彼女の掌に治まった。
「何を私は考えている? 天崎理理を命に替えても守る……それだけ考えていれば良いだけだ」
 自分に言い聞かせる様にそっと呟いて、視線をシャワーの音が聞こえる扉へと向ける。
 扉の向こうには、ノエルが守るべき少女が居る。
 唯一の肉親である父親に、半ば見捨てられた哀れな少女。
 彼女は……果たして父親の――天崎製薬の暗部を知っているのだろうか? そんな疑問が浮かんだが、ノエルはすぐにかぶりを振った。
 昼間、彼女から聞いた父親に対する尊敬と、ノエルに対して行った家族宣言を考えるに、彼女は何も知らされていないだろう。
 だからこそ、秘密裏に警護をするという回りくどい事をさせられているのだ。
 本気で身の安全を確保させる気ならば、彼女を拘束してエマノンの日本支部にでも連れてゆけば良い。
 その実態が不明瞭なエマノンであるから、当然その拠点の位置を知る者はごく僅かでしかない。
 余程の事が無い限り、中に居ればそれだけで安全のはずだ。
 それが出来ない理由が、一足先に海外へ逃亡を図った父親からのせめてもの手向けだとするならば、ノエルにとっては何とも迷惑な話だ。
 彼女に家族の情は解らない。
 幼き日の記憶は無く、最も古いものは彼女が十歳の頃だ。
 だが、その時にはすでに戦うための牙を与えられ、他の者達と共にエマノンで戦闘訓練に明け暮れていたノエル。
 便宜上、兄と呼び任務の無い日は共に生活をしているとは言え、裕樹に対して家族という意識は無い。
 いや、家族を知らぬノエルには、その意識すら解らない。
 故に理理が自分と家族になりたいと言った言葉の真意も理解できていない。
「家族……血を分けた者が集ったもの。社会を構成する最小の集合体」
 いつの間にか、縋るように両手で握りしめていたグルヴェイグの、その黒く光る刃に映った自分の顔を見て、ノエルはもう一度頭を振った。
 余計な事は考えない……って決めたばかりなのに――再び何か余計な事を考えている自分に、再び嫌悪感を覚えた。
 戦いの無い、ゆるやかに流れる時間は、彼女に不本意ながらも考える時間を与えてしまう。
 ふとグルヴェイグを握る自分の指に目が止まる。
 淡い珊瑚色のネイルが塗られている左手の小指。
 昼食時、カフェテリアで理理が「似合いそう」と言って、頼まれもしないのに塗ったものだ。
 その色が、自分の世界を浸食している悪しき存在に思えて、ノエルはグルヴェイグを持ち直し、塗られたネイルを削り始めた。
「どうして……」
 削れ堕ちて行く爪の破片を見ながら、がふ脳裏に思い浮かんだものは、ノエルを引っ張り回して微笑みを向ける理理の顔。
 カフェで心から幸せそうにエスプレッソを飲む理理の顔。
 ノエルの手を取り鼻歌交じりでネイルを塗る理理の顔。
 雪野と共に冗談を言い合って破顔する理理の顔。
 いつでも何処でも、彼女の顔にあるのは常に笑顔だった。
 そんな脳天気な理理の笑顔を振り払う様に、一層グルヴェイグを握る手に力を篭める。
 よく研がれたグルヴェイグの刃は、ネイルだけではなく爪の表面も削り、やがて彼女の指をも傷つけてゆく。
 見慣れた赤い雫が指先に滲んだところで、ノエルはグルヴェイグを腕のホルダーへと戻した。
「どうして……」
 指先を刺激する痛みを無視してもう一度呟き、バスルームの扉から目を放して自分の膝へ顔を埋める。
「どうして……貴女は、そんな風に笑えるの」
 膝の合間から絞り出しされた声は、微かに震えていた。

 アーデルハイド学園の敷地内に設けられた学生寮。
 その煉瓦造りの建物の中、ノエルと理理の為にあてがわれたのは最上階の二人部屋。
 いつしか日が沈み、闇に塗られた部屋の中――自分のベッドの上で、いつしかノエルは一人、膝を抱いて震えていた。
 初めて感じる戸惑いと、漠然とした不安と焦燥。
 それらが渾然一体となって、彼女の心を責め立てる。
「帰りたい……ここは私の世界じゃない……帰りたい……私の世界へ……此処には……もう居たくない」
 震えながら弱音を吐くその姿に、死神と恐れられる戦士の面影は無い。
 今の彼女は、不安に打ち震えるただの少女に過ぎなかった。



続く>

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