やっぱり来るんじゃなかった――ノエルは早速、自分に不向きな任務に出向いた事を後悔していた。
「うふふふ〜」
 目の前には、テーブルに肘を付き、両手の上に行儀悪く顎を乗せたターゲットV1、天崎理理の姿がある。
 栗色をした少しクセのあるショートの髪の毛の下、大きめの目が興味を携えて対面のノエルを見つめている。
 彼女だけではない。
 テーブルにはもう一人、理理から親友と紹介された松井雪野という少女の姿もあり、こちらもノエルに対して――正確にはノエルと理理の二人に対して――ニコニコと人の良さそうな笑顔を向けている。
 更にノエルを居心地を悪くしているのは、周囲のテーブルに座る少女達からも送られている興味深げな視線だ。
 密林の奥地で姿の見えぬ敵と相対する方が、相手に遠慮が要らない分ノエルにとっては気楽だ。何しろ目に付いた者は片っ端から排除すればいい。実にシンプルだ。
 だが、例え気に障る視線を送る相手が居たとしても、今回の任務ではそれらを即座に沈黙させる事は出来ないのだ。
 改めて自分の任務が今までの物とは異質な上に、困難なものである事を自覚したノエルはそっと溜め息を付く。
「……何?」
 やっとの事で絞り出した声は、微かに裏返ってしまった。
「ノエルってすごいのね。私びっくりしちゃった」
「本当に……何かスポーツでもやっているの?」
 身を乗り出さん勢いの理理が興奮気味に喋ると、隣の雪野も楽しそうに相づちを打つ。
「……いえ。別に」
 暗殺術や戦場格闘技なら――という言葉を飲み込み、ノエルは目を逸らして素っ気なく応る。
 だが、そんな素っ気ない態度すら、理理を含めた周囲の少女達の目には、ノエルの魅力として映ってしまっていた。
 任務を円滑に遂行する為出来る限り目立つ行動は控え、ターゲットに近づく不穏分子を密かに叩き切る――それがノエルが描いていた当初の青写真だった。
 だが今彼女の置かれている立場はどうだ。
 軽く見積もっても二十名以上の好奇心に満ちた視線に晒されている現状は、とても計画通りとは言い難い。
 こんなハズではなかった――ノエルは目の前に置かれた品の良いソーサーからカップを口元へ運びつつ、頭の中でしきりに後悔を続けて思い返す。





■ N o e l /l e o N #04







 兄の裕樹と共にエマノンが用意したシナリオに従い学園へ転入したものの、面倒見役の生徒として自分を迎えに学園長室へ現れるはずだった理理は、約束の時間になっても姿を見せなかった。
 その事に若干の不安を感じたノエルが、彼女を求めてD1の情報に従い庭園講堂へ赴いた――そこまでは問題ない。
 D1の姿こそ無かったが情報通り理理は庭園講堂に居た。
 ただ、学園長との約束事をほったらかして、当人が講堂内にこさえた簡易寝所で寝ていたという事実は、少なからずノエルを動揺させた。
 しかもその当人は、ノエルの呼び掛けに寝ぼけたまま眠っていた中二階から脚を滑らして危うく落下しかけた上に、その際に踏みつけた枕が階下に居たノエルの後頭部目がけて落下。彼女が隠し持っているフォールディングナイフ――グルヴェイグの一撃を食らって真っ二つに切り裂かれる結果となった。
 中身の羽毛が舞い散る中で二人は互いを認識したのだが、ノエルは慣れぬ警護任務の隠密性を失念し、理理は散々シミュレートしていた出会いの演出がご破算になった事を、それぞれ悔いる結果となった。
 ノエルは素早くグルヴェイグを袖へと戻し、枕がバラバラになった事を不思議がる理理に対しては、落ちたときに手すりか何かに引っかけたのではないか? ――というもっともらしい嘘で誤魔化す事に成功した。
 もっとも、手すりにぶら下がって宙づり状態の理理に、追求する様なゆとりが無かっただけかもしれない。
 結局、理理はしきりに自分の体重を気にしつつも、ノエルに両腕で受け止めてもらい、約束をすっぽかした事も含めて自分のドジっぷりを恥じらった。
 この時点では、それまでの推移はともかく、ターゲットの無事を確認し、かつ接触を果たしたわけだから、多少予定と異なれども任務に支障無し――といったレベルだった。
 枕をグルヴェイグで切り裂いた事は確かに問題だったが、それが上手く誤魔化せた以上特に気にするべき事項ではなく、今後大げさな行動を抑え影からガードに徹する様心掛ければ、全て事前の計画通りに事が運ぶはずだった。
 だが、そんなノエルの修正案は、想定外の出来事で早くも暗礁に乗り上げてしまう。
 想定外の出来事――それはノエルが理理にやたらと気に入られた事だ。
「私達は絶対お友達になる……いいえ、それどころか家族になるのっ」
 これは、ノエルと出会ってまだ数分も経たぬ内に理理が口にした言葉だ。
 更に彼女は「天使様みたいに見えた」とまで言って照れくさそうに微笑んだ。
 友人になる気もなければ、家族の暖かみも知らず、”死神”と呼ばれている事は知っていても”天使”としての自覚がないノエルにとって、理理の言葉はただ居心地の悪さを感じさせるものであり、彼女の一挙一動に自分の意識が揺さぶる事に困惑させられた。
 そんな彼女の心境を余所に、理理は一方的にノエルとの友情を結ぶと、その勢いのまま繋いだ手を引っぱって校内を案内するわけだが、やたらとハイテンションで口喧しい理理に引っ張られる転入生という図式は非常に目立つ存在であり、ノエルが描いていたシナリオは完全に瓦解してしまった。
 校内での挨拶の仕方、教室や各施設の場所、カフェテリアのお奨めメニューや酷くマズイ紅茶の事、注意すべき授業や先生等々……口早に捲し立てる理理に圧倒されつつ、ノエルはただひたすら相づちを打つ事しか出来なかった。
 これまでの自分の人生には無かった喧しくものどかな世界に、ノエルの思考は更に麻痺してペースが乱されてゆく。
 更に理理の追い打ちをかけるような一方的な提案で、授業前の空き時間に学園内にあるカフェテリアへと行く事が決定されると、その途中に理理の親友である松井雪野が合流した。
 彼女は現在のアーデルハイドで唯一の芸術特待生であり、他の生徒と異なり実家は庶民に過ぎない。
 いや、両親に先立たれ実兄と二人きりという家庭は、お世辞にも普通の庶民よりも経済的に厳しいと言わざるを得ない。
 そんな雪野がこの学園に居られるのは、彼女のしなやかな指が奏でるピアノのメロディに、芸術的価値を見出されたからに他ならず、過去にアーデルハイドが輩出した芸術特待生達の成功を考えれば、雪野のピアニストとしての将来は約束された様なものだ。
 理理に促され握手をした際、ノエルは重ねられた彼女の手が、自分のものと同じ機能をもつ器官だと考えるのを躊躇う程、その美しくしなやかな感触に驚いた。
 なし崩し的に雪野とも友好関係を強いられたノエルは、三人でカフェテリアを目指し進む事になったのだが、雪野も校内ではその特殊な立場故に目立つ存在であるため、余計に人目を引く結果となった。
 そして決定的な事は――
「近道をしようと思うの。だって時間が勿体ないじゃない? せっかく今日は私達が出会えた素敵な日なんですもの、一分一秒も無駄には出来ないわ。ねぇそうでしょう?」
 ――と、ノエルの手を引く理理が唐突にそう言った事から始まった。
「理理は単に食い意地が張ってるだけでしょ?」
 そう言いながらも雪野は笑って同意し、困惑したまま答えられなかったノエルの解答を待つ事なく、廊下から校庭へと向かって歩き始めた。
 三人が校庭に向かった時、予鈴が鳴るまで四二分の時間が有ったが、そこには既に登校してきた生徒も多く見られ「ごきげんよう」の挨拶が周囲で交わされていた。
 悲鳴にも似た叫びが上がったのは、ノエル達が校庭へ出た直後だった。
「危ない避けてっ!」
 悲痛な叫びと空気を振動させて物体が迫る音をノエルは同時に把握し、そしてしっかり相手と目標を確かめてから――これは講堂における行動を省みての事だろう――自らの背中に隠すよう理理の身体を引き寄せ、左手一つで側面から飛来してきたボールを受け止めた。
 感嘆に満ちた声が周囲から上がり、次いでボールを放ったと思われる女生徒――身なりからラクロス部に所属している者と思われた――が、走ってくると、ノエルに謝罪をしてきた。
 ノエルは一瞬殺意を覚えたが、今回の任務では無闇に相手を殺傷するわけにもいかず、ただその顔を脳裏にしっかり記憶するに留めた。
「大丈夫?」
 謝罪した女生徒が立ち去った後、背中に庇った理理が微動だにしていない事に気が付き、ゆっくりと振り向き安否を尋ねると――
「うわぁ……」
 理理は何とも惚けた表情を浮かべて、ノエルを見つめていた。
「天崎さんどうしたの? 何処か怪我をした?」
 まともな反応を示さない理理に、ノエルが今一度やや心配そうに尋ねると、彼女は目を数回瞬きさせてから、目の前のノエルに抱きついた。
「え?」
 瞬間、ノエルの鼻孔を擽った香りは、先程嗅いだ薔薇の香りよりも慎ましく心地よく感じられたが、それも一瞬の出来事だった。
「ありがとうノエル! やっぱり貴女は私の天使様だわ。ええ、もうこれは運命なのよ。友人? 家族? いいえ、これはもうもっと運命的な出会いだわ!」
 頬と頬が重なるような突然の包容に小さく驚きの声を上げるノエルに対して、理理は一気に自分の感情をぶちまけた。
「あらあら……でも理理。友達や家族以上の運命的な存在って言ったら、もう恋人くらいしか無いんじゃないの?」
「そっか。それもそうね……それじゃ、超親友、心の友? う〜ん、とにかく友情を超越した存在って事で」
 楽しげな雪野の言葉を受けて、理理はノエルの身体を解放すると誇らしげに胸を張って応じた。
 周囲を伺い見れば、登校中の女生徒達が驚きとも憧れとも取れる表情を浮かべてノエルを見つめ、友人同士居たものは互いに多少興奮気味に今のノエルの行動について意見を交わしている。
 ノエルには何が彼女達をそうさせているのか判らなかった。
 飛来してきた物体の速度は目測で約時速五十キロ、質量にしたところで精々が一五〇グラム程度。そんな物を手で受け止めるのは例え利き腕で無くとも容易いし、その気になれば握りつぶす事だって出来た。
 それが当たり前なノエルには判らなかったが、友人を咄嗟に庇いつつボールを片手で受け止め凛とした態度で相対した彼女の行動は、アーデルハイドという女子だけの世界においては何とも格好良く見えたのだ。
 そして年頃の少女達の情報伝達速度は、エマノンの情報部も舌を巻く程である。
 結果、ノエルは転入後一五分で、すでに校内で噂される存在になってしまっていた。

「でも、本当に有り難う。私ってちょっとドジ時折ボケボケってしてるから、ノエルがああしてくれなかったら、きっと今頃顔面に痣を作っていたと思うわ」
 目を輝かせながら今一度礼を述べると、理理はお気に入りのエスプレッソを口に運ぶ。
 喉がこくりと鳴り、何とも幸せそうな表情を浮かべた。
「理理のドジはちょっとじゃないし、ボケッとしてるのも常時じゃなくて?」
 雪野が可笑しそうに理理の言葉に茶々を入れると、二人は腰掛けたまま小突き有った。
 そんな二人の姿を見て、ノエルは再び気付かれない程度に小さく溜め息を付いた。
 こんな事態を招いた原因は私――そうは判っていても、オフェンスしかしたことの無い自分が警護任務に就けばこうなる事くらい、兄も上層部も判っていたのではないか? そう思うと、今回の作戦を引き受けてしまった自分に対して腹立たしさが込み上げてくる。
 だが、ノエルはプロだ。
 一度引き受けた任務は、完璧に遂行する。
 今までずっとそうしてきたのだ。今更「イヤです」では済まされないし、済ますつもりもない。
 だから後悔も、兄や上層部に対する文句も、脳裏に思い浮かべただけですぐに忘れる事にした。




続く>

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