潜入自体はいとも簡単に成功した。
それはそうだ。
なにも、敵性組織の直中に潜入するわけでもない。
学生として学園に転入するだけであり、しかも正規の手順を踏んでるのだから、例えこのような任務に不慣れなノエルとて難しい事は何もない。
むしろ、本来であればターゲット同様に学生として学園生活を送るべき年齢に過ぎない彼女だからこそ、エマノンとクライアントである天崎製薬が用意したシナリオ通りに話を合わせるだけで、容易に学園長を初めとした学園関係者を欺く事が出来た。
唯一の肉親である兄、吉川裕樹が仕事でニューヨークへ離れる為、親戚筋である天崎の紹介を得て、全寮制の学園へ転入。不慣れであろう転入生活を円滑に進める為に、遠い親戚であるターゲットと同部屋に相成った……というシナリオに無理な部分は無い。
アーデルハイドへの途中転入自体は少々珍しい事態ではあったが、それでもクライアントが学園に及ぼす影響を考えれば、誤魔化すのは差し当たって難しい事ではない。
当初任務に乗り気ではなかったノエルも、一度任務が始まってしまえばプロの顔に切り替わり、学園長――小日向よし子に対する転入挨拶の際には、見事完璧なお嬢様を演じてみせた。
その際、ノエルの表情は少なかったが、それでも端から見れば、新たな環境に緊張している少女にしか映らなかっただろう。
さしたる問題もなく、作戦は予定通りに進行していたものの、ノエルを出迎えに来るはずだったターゲットV1――天崎理理は、時間をだいぶ過ぎても姿を現さなかった。
学園長は呆れた表情を浮かべ「全くしょうがない」と苦笑しただけだったが、警護を任務とするノエルにとって、彼女が予定と異なる行動をしているのは危惧すべき事態だった。
だからノエルは簡単な挨拶を済ませた後は、事務的な手続きを兄に任せて、理理の姿を求めて学園長室を後にした。
無論、本当の理由は伏せ、学園内を見学したいというもっともらしい理由を口にした上でだ。
無駄なほどに天井が高く、足下は大理石という仰々しい廊下を進むノエルは、上着の内ポケットの中に手を伸ばし、手探りで忍ばせてある機械のスイッチを入れる。
「こちらレオン。D1合流した。V1の位置をしらせよ」
レオンとは作戦時における彼女のコールサインであり、エマノンの関係者は基本的に彼女をこの名で呼ぶ。
訓練期間は無論その限りでは無かったが、今彼女をノエルと呼べるのは、兄の裕樹とエマノン実行部隊全員の親父であるエンダーくらいだ。
通常男に対して用いられるべき名であるが、ノエルは特に気にしてはいないし、その名が同名の映画に出てくる哀しき殺し屋のもので、それを観て気に入った裕樹が与えたという事実も知らない。
裕樹がそう名乗れと言われたからそう名乗る。彼女にとって理由など、それだけで十分だった。
余談だが、裕樹のコールサインが「マチルダ」ではなく「スタンスフィールド」なのは如何にも彼らしい笑えないジョークだ。
それはともかく、ノエルが呟いた小声はチョーカーに組み込まれたマイクが拾い、内ポケットの携帯端末を通じて飛ばされる。
程なくして、長い髪の中に隠された右耳の小型イヤホンから応答が聞こえてくる。 『D1。V1は現在中庭の北東にある庭園講堂に在り』
D1――先に潜入をしたガードの言葉は、ノエルに負けず劣らず、何とも感情の起伏に乏しそうな淡々とした声だった。
「了解」
短く応じて交信を止めると、ノエルは頭の中に学園の地図を思い浮かべ、その中から庭園講堂と呼ばれている別館の位置を確認し、彼女が守るべき人物を求めて歩き出した。
事前に裕樹から手渡された資料を見て、学園内の地理は既に把握している。
砂漠やジャングルにおいてさえ任務を遂行してきた彼女にとって、幾ら広大とは言え、たかが学校の内部の地理を把握する事はいとも容易い事だ。
始業開始にはまだ時間があるからだろう、初夏の陽気と館内の冷気が混ざり合う廊下に人影はない。
無人の廊下を、ノエルが刻む規則的なヒールの音だけが響いている。
やがて長い廊下の突き当たりに辿り着くと、壁に在ったドアノブに手をかける。
ノブを回して扉を開ける。
蝶番が軋みを上げて扉に隙間が産まれると、踏み出したノエルの視界を眩い朝日が覆い尽くした。
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