”トン・トン……トン”
 二回連続の後、間を空けてもう一度机が叩かれる。
 その音に相沢祐一が気が付いたのは、四時限目の授業も半ば以上過ぎた頃だった。
 ノートへ鉛筆を走らせていた手を休め、素早く周囲に目を走らせる。
 最も警戒すべき敵――校内でも有名な暴力英語教師――は、今こちらに背を向けて黒板に例文を書いている最中だ。
 次いで、彼は周囲の女生徒の状況を素早く観察する。
 隣の席では、彼の従兄弟であり同居人の水瀬名雪が、教師――例えその正体がCIAやKGBの工作員であっても――に気付かせない完璧な擬態で、静かに寝息を立てている。
 教師以外でもっとも警戒が必要な存在は、名雪の後方に位置するクラス委員長・美坂香里だろう。
 祐一はカンペンケースの上蓋を立てて、鏡のようなその表面を通して、後方の状態を瞬時に把握する。
 教師はともかく、女生徒に対しても慎重に警戒しなければならないのには理由があった。
 なぜなら先程のモールスは、このクラス内の男子の間にのみ伝わる、授業中の秘匿通信を促す合図であるからだ。
 ”授業中の暇つぶしを発案させれば右に出る者は居ない”と、誰もが認める男、住井護によってその通信インフラが構築されたのは、このクラスが編成されて間もない四月中旬である事から、このクラスにおける彼の影響がどれほどのものか容易に察する事ができよう。
 周囲の警戒を終えると、祐一は曲げた指の背で”トントン”と軽く机を叩くと、出来るだけ前の座席との差を縮めるべく、前屈みとなり机の下で手を伸ばす。
 祐一の合図に合わせて、前に座る折原浩平が行動を起こす。
 まるで姿勢を直す様に椅子に浅くかけた折原は、背を倒して腕を背後に回し、机の下で素早くメモを祐一へと渡す。
 ほんの一瞬の内に行われる何気ない動作。
 祐一の手に機密文書を手渡すと、そのまま制服の上着の乱れを直す様なそぶりで、姿勢を戻す。
 その間、咳払いや首を鳴らす等の下手な演技――余計に人目を集めるような無駄な偽装は一切行っていない。
 完璧な動作だ。
『素人はここで、無理に不自然な行動をとってヘマをやる』
 以前、彼が祐一にそう語っていた事がある。
 ”無意味なこと程一生懸命に行う”がポリシーとも言える折原が、完璧な偽装工作を行ってもたらされた通達である。
 その重要性と機密性は疑う余地もない。
 祐一も、出来る限り自然に振る舞いつつ、周囲からは決して覗き観る事が不可能なポイントで、手渡されたメモをそっと開く。

『コードM 状況開始、本日一二:〇〇』

 メモに書かれていた文字を読んだ祐一は、その意味を瞬時に理解し、思わず偽装も忘れる程に驚愕した。
 自らの目を疑う様に、何度も目を擦っては手渡されたメモを読み直していた。

 祐一の右斜め後方に位置する美坂香里が、彼の不審な態度に気が付いたのはこの時だった。
 しかし彼女自身がそう思ったとしても、その原因たるメモの存在には気付いてはいなかったし、また例え折原からの受け渡し現場を抑えていたとしても、その通達が如何なるものなのかを理解する事は出来なかったであろう。
 更に付け加えるなら、この時仮にメモの一文が見えたところで、その内容を把握する事は、今の彼女にとって――その明瞭な頭脳を持ってしても――不可能な事と言えた。
 であるから――
「本気なのか……くそっ!」
 そんな祐一の呟きが辛うじて聞き取れても、その意味を知る事は出来なかった。
 香里は一瞬祐一の言動に興味を覚えるも、「いいかーっ!」という教師のだみ声に再び前方へと視線を向け、黒板に書き終えた例文の説明に、意識を集中させた。












■Beautiful 7days #1












「祐一お昼休みだよっ」
 チャイムが鳴り、英語教師がドスドスと音を立てて出ていくと同時に、目を覚ました名雪が嬉々として隣の祐一へ声をかける。
「ああ……そうだな」
 しかし祐一は、ノートや教科書を机にしまいながら、どこか上の空で答えるだけだ。
「ねぇ。祐一は今日も先輩達とお弁当食べるのかな?」
 祐一が転校してきて間もなく一年になるが、彼がこの学校に転入して暫くしてから今に至るまで、三年生の生徒二人と共に昼食をとる事が日常となっており、祐一がその二人の三年生と懇意に接しているのは周知の事実だ。
「その事なんだが……」
 そう名雪に向かって語る祐一の表情は、何処か重苦しい。
「?」
 ここ暫く見せていなかった真面目な表情に、名雪は黙って続く言葉を待つ。
「相沢」
 まるで祐一の言葉を邪魔するかの様に、折原が二人の間に割り込むと厳つい表情で祐一の名を呼ぶ。
「判ってる」
 折原の呼びかけに対して、祐一は諦めたような表情で短く答えると、黙って折原の後へ続いて行く。
「名雪。悪いが先輩達が来たら、今日は一緒出来ないと伝えてくれ」
 教室の扉で立ち止まって振り返ると、済まなそうな表情で名雪に伝言を頼んで踵を返す。
「あ、祐一」
 名雪が慌てて声をかけるも、まるでその声が聞こえていなかったかの様に、祐一はそのまま振り返ることなく教室を出ていった。
「……祐一何か変だったね?」
 教室の扉を見つめたまま、隣に立っていた香里へと言葉を投げかける。
 親友の言葉に、香里は授業中に祐一が垣間見せた不審な言動を思い出した。
「そうね…………北川君?」
 腕を組んで暫く思案していた香里が、有力な情報源となりうる男子生徒に協力を要請(強要とも言う)すべく振り向くが――
「あら?」
「北川君も居なくなってるね」
 いつも真っ先に香里を昼食へ誘うはずの北川の姿は見えず、香里達の視線の先には、主の居ない椅子と机がただその場にあるだけだった。
 机を見れば『美坂LOVE』の文字が見て取れる。
 マジックの類で書いたものではなく、どうやら彫刻刀で彫られたものの様だ。
 そういえば先の授業中に何か妙な音が聞こえていた事を思い出しつつ、自分の名が刻み込まれた机を見て、香里は困惑の表情を見せる。
「月曜はパテを持って来なきゃ……それよりもカンナの方がいいかしらね……あら?」
 溜め息を付きながら教室を見回した香里は、おかしな事に気が付いた。
 男子生徒の姿が見えないのだ。
 確かに休み時間になった途端に、購買部や学食へとダッシュする男子生徒は多数居るが、一人も居ないという状況は彼女の知る限り、かつて一度も無い。
 昼休みを迎えた教室には、ただ女生徒達の暢気で楽しげな話し声だけが響いており、下品で粗暴な男子生徒共の声は何一つ聞こえなかった。
「何かあるわね……」
「どうしたの?」
「名雪は気が付かないの?」
「え?」
「ねぇ名雪、香里、学食でしょ? 一緒に行かない?」
 食事が余程嬉しいのか、七瀬が笑顔で近づいて声をかけてきた。
「あ、わたし今日はお弁当なんだ。ごめんね七瀬さん」
「あたしも今日は栞がお弁当持ってきて一緒に食べる事になってるのよ。ごめんなさい」
「そっか……残念。じゃあたし購買部で何か買ってくるから一緒に食べよ?」
「そうね」
「うん。それじゃ待ってるよっ」
「それなら二人の飲み物も買ってこようか?」
「わっ有り難う七瀬さん。わたしイチゴミルクがいいな」
「それじゃ悪いけど、あたしは紅茶をお願いするわ」
「判ったわ。任せてね」
 七瀬が二人に笑顔で答えていたところへ、日直の仕事――黒板の掃除を終えた長森瑞佳が弁当を片手に、恋人の姿を求めて香里達の元へとやってきた。
「ねぇみんな、浩平が居ないんだよ。何処行ったか知らないかな?」
「折原君なら相沢君と一緒に何処かに行ったわよ」
「え? そうなんだ……」
 香里の言葉に、瑞佳が表情を曇らせる。
「あ、お弁当折原君の分もあるんだ。ひょっとして瑞佳の手作り?」
 名雪が瑞佳の手にした包みを見て尋ねると、少し照れくさそうに頷いた。
 そんな瑞佳を見て、一瞬七瀬がつまらなそうな表情を浮かべる。
「相沢と一緒って事は……学食にでも行ったんじゃないの?」
 それでも精一杯取り付くった笑顔でもって、瑞佳にそう伝える。
「無駄になっちゃったかな……あ、良かったら誰か食べる?」
 心底残念そうな表情を浮かべるが、すぐに笑顔に切り替えて、手にした巾着袋を持ち上げて尋ねた。
「あ、あたし食べる!」
 秋子の『了承』や茜の『嫌です』に匹敵する反応速度で、瑞佳の申し出に七瀬が即座に手を挙げる。
「うん。じゃ七瀬さんにあげるね」
「それじゃ、あたしみんなの飲み物買ってくるから。あ、瑞佳は牛乳でいいわね?」
 そう言うが早いか、七瀬はスキップしながら教室を飛び出して行った。
「あ……あははは」
「うふふ。留美ってすごい嬉しそう。ね〜名雪?」
「う〜っ」
 飛び出していった七瀬の背中を見ながら、瑞佳は苦笑、香里は含み笑い、そして名雪は唸り声を上げていた。
 丁度七瀬と入れ替わるように、可愛らしい包みを抱いた一年の女生徒が入ってきた。
「お姉ちゃ〜ん。可愛い妹が、ご飯を一緒に食べに来ましたよ」
「全く……自分で可愛いなんて言わないの。ほら此処に座りなさい」
「あ、この席って北川さんの席ですね? ははは、『美坂LOVE』って彫ってありますよ。お姉ちゃんモテモテですね。美坂の名は校内美人姉妹として認知されてるんですね。きっと」
 栞は一気にまくしたてると、ニコニコという擬音が聞こえそうな程の笑顔で座り、今度はニヤニヤという擬音がぴったりな表情で姉の顔を伺っている。
「変な事言わないの! 全く……誰が美人姉妹よ」
「それは、私とお姉ちゃんですよ」
「すごい、言い切ったよ」
「あははは……でも香里も栞ちゃんも美人だよね」
 屈託のない笑顔で素直に同意する瑞佳を見て、栞は嬉しそうに、そして香里はやや呆れたような表情を浮かべる。
「一応礼は言っておくわ。でも本当に美人っていうのは、あたしなんかよりも、茜や倉田先輩の様な人を指すんじゃないかしら」
 隣の席に腰を降ろした妹の頭を軽く小突きつつ、祐一の席に座った瑞佳に答える。
「ねぇねぇ、それじゃあたしはどうかな?」
 香里の隣にいつの間にか座っていた、明らかにこの学校のものとは異なる制服を着た女生徒――柚木詩子が笑顔で問いかける。
「……今更もう驚かないけど、何時の間に来たの?」
「わたしは詩子さんも可愛いと思うよ」
 既にこの状態を受け入れて居るのか、瑞佳が詩子の存在に驚く事もなく平然と答える。
「うん。わたしもそう思うよ」
 名雪も同様に笑顔で答える。
「へっへっへ〜ねぇ聞いた茜。詩子さんも満更じゃないわよ〜」
「……私に振らないで下さい」
 茜が怒りの中にも、若干の恥ずかしさをブレンドした様な表情でたしなめる。
「あ、茜さんと詩子さんも一緒にどうですか?」
 栞が姉に小突かれた頭を撫でながら、二人を食事に誘う。
「うん。よろしく〜。ほら、茜もおいで」
「……ふぅ。では失礼します」
 相変わらずマイペースな詩子に誘われる様に、茜が自分の席を立って皆の処へ移動する。
「えぅ〜綺麗処が集まりました。お姉ちゃん! 私達も美人姉妹の名にかけて負けてはいられませんっ!」
 奇妙な闘争心を燃やす栞の頭を、香里は無言で再び小突く。
「えぅ〜……あ、また美人が来ましたよ。舞さーん、佐祐理さーん!」
 まるで自分の教室に居るような気楽さで、栞は手を振って二人の最上級生を呼ぶ。
「あははー。皆さんお揃いですね」
「……祐一は?」
 彼女達もまた、物怖じせず慣れた足取りで教室の中へと入ると、佐祐理はいつもの笑顔で挨拶を、そして舞はぶっきらぼうに目的の要点――祐一の所在を尋ねる。
「あ、祐一なんですけど、『今日は一緒出来ない』って、折原君と何処かに行っちゃいました」
「そうなんですか……残念だったね舞」
「……」
 祐一の手前じゃない為か、舞は照れ隠しのチョップは入れずに、素直に小さく頷いた。
「せっかくですから、先輩方もご一緒に食べませんか?」
 瑞佳が弁当を用意しながら誘いの言葉をかけると、二人は揃って頷いた。
「それではご一緒させていただきますね」
「……よろしく」
「あ、ここどうぞ」
 名雪が気を利かせて、近くの椅子を持って来て二人に勧める。
「有り難うございます」
「……ありがと」
 二人が礼を述べて腰を下ろす。
「それにしても、今日は随分静かですねー?」
 椅子に腰掛けた佐祐理が、辺りを見回しながら言葉を洩らす。
「そういえばそうですね」
 茜もつられて周囲を見回し、静かに同意を現す。
 慣れてきたとは言え、上級生の二人がこの教室を訪れると、今なお少なからず叫声を上げる生徒が居る。(主に男子生徒だが、舞を見て声を上げる女生徒も居る)
「男子が一人も居ないからよ」
 香里が栞の持ち込んだ弁当を受け取りながら答えると、他のみんながクラスの中を見回し始める。
「あ、本当だ。あれ? 何で居ないんだろ」
 名雪が心底驚いた様子で呟く。
「そう言えば、私のクラスも男子生徒がすぐに教室出ていってましたね……」
 栞は唇に人差し指を当てて、教室の様子を思い出しながら言う。
「佐祐理達のクラスでも、男の人達の行動は、いつもより足早だった気がしますね」
 佐祐理が笑顔で答えながら、弁当の入っている重箱を机に列べてゆく。
 舞は話題に興味が無いのか、列べられて行く弁当を、ただじっと見つめていた。
「ただいまー。あ、川澄先輩に倉田先輩、どうもこんにちは……げっ、詩子。あんた何で居るわけ?」
「七瀬さん、どうもお邪魔してますー」
「……」
 佐祐理が笑顔で、舞は片手を上げて、飲み物を抱えた七瀬を迎え入れる。
「詩子さんは神出鬼没なのがモットーなのよん」
 詩子の言葉に頭を痛めながら、七瀬は用意された席に着く。
「七瀬さんありがとうね」
「悪かったわね留美」
「ありがと七瀬さん」
 名雪、香里、瑞佳が礼を述べて差し出された飲み物を受け取る。
「はい。栞ちゃんも」
「留美さん有り難うです」
 栞にも飲み物を手渡している処を見ると、購買部へ向かう途中で二人は会って居たのだろう。
「あれ? あたしと茜の分は?」
 詩子が物欲しげな表情で七瀬に尋ねる。
「あほっ! 何であたしがあんたの分まで用意しなきゃならないのよっ!」
「あ、酷い〜。ねぇ茜、聞いた? 留美さんって酷いよね?」
「……七瀬さん、私達の事は気にしないで下さい」
 茜が神妙な表情で、詩子を無視して七瀬にわびる。
「う、うん……行く前に言ってくれれば良かったのに……もう」
 何となく体裁の悪さを感じて、七瀬は頭をかきながら口ごもる。
「それにしても七瀬さん早かったね」
「あ、それなんだけど、妙に学食や購買が空いてたの。特に男子の暑苦しい姿が少なかったから、列ばずに済んだわ」
 七瀬の言葉に、香里達は顔を見合わせる。
「一体、何が起きてるのかしら?」
「難しい事は後にして、早くお弁当食べませんか?」
 香里が怪訝な表情を浮かべるが、栞の興味は既に机の上に列んだみんなのお弁当に向いている。
「わ〜佐祐理さんのお弁当すごい〜。少し貰っても良いですか?」
 重箱の蓋が開かれた佐祐理の弁当を見て、栞が自分の箸を取り出していた手を止めて尋ねる。
「はい、皆さんも宜しければつまんで下さい」
「有り難うございますっ」
「やったー!」
 佐祐理の言葉に、詩子と栞がはしゃぎ声を上げる。
「はぁ……まぁ、今考えてもしょうがないわね」
 はしゃぐ妹の姿を見て、香里は深く溜め息をついた。
「そうですよ。それじゃ……」
 姉の苦言を聞き流した栞が箸を、まるでタクトの様に目の前にかざし、演奏を促す様に軽く振り下ろす。
『頂きます〜』
 少女達の声がオーケストラの様に、綺麗に重なった。





§





 慌ただしくも楽しげな雰囲気が校内中を覆う昼休みにあって、校内のとある場所だけは何処か異質な雰囲気に包まれていた。
 広く、そして密閉された室内に、何かが静かに蠢いている。
 雪が積もった外と異なり、室内の温度は蒸し暑さを感じる程だ。
 遮光カーテンによって外部からの光を遮られているその闇の中から、大勢の生徒達の息づかいが聞こえてくる。
 やがて僅かなスポットライトが壇上に当てられ、その中に長い机と、その席に着いた数人の男達を照らし出す。
「皆よく来てくれた。今この場所に集まってくれた全ての者へ、心より礼を言おう」
 中央に腰を下ろしていた男が立ち上がり、壇上にあつらえた机に手をついて頭を垂れる。
「さて、こうして皆に集まって貰ったのは他でもない……」
 礼を述べた男が、立ったまま静かに語り始める。
「……我々がかねてより進めていた例の計画が、ついに発動可能段階へ達した事を、皆に伝える為だ」
 男の言葉に、会場内に居る者達がざわめき始める。
 壇上の男はそんな様子を心底楽しみつつも、皆が静まり返るのを待った。
「今回の計画に賛同し、この場に集まった者の数は?」
 ざわめきの中、壇上中央の男が視線はそのままに、隣に座っていた男へ小さな声で問いかける。
「各クラス・サークルの代表は無論、全校男子生徒の約九割がこの場に集まっている計算になる」
 隣に座っていた男もまた、姿勢を変えず静かに答える。
 会場内の喧騒に紛れ、彼らの会話は壇上に居る者達の間でしか聞こえていない。
「此処まで揃うとは……奇跡以外の何ものでもないな」
 男からの答えを聞いて、中央で立ったままの男が満足げに呟く。
「しかし、これ程大規模な行動を起こしては、秘匿性を失うのではないか?」
 反対側に座っていた男から、この度の挙行に対する危惧が指摘される。
「あと数時間、本日の放課後まで保てばいい。それに今更感づいた処で何もできん。我々の勢いは既に大河の奔流が如くだ。もう誰にも止められんよ」
「だが、念には念をだ。放課後まで機密の漏洩には注意すべきだろう」
「うむ」
 男達が頷き合う合間も、会場内のざわめきは続いていた。
「………」
 だが、そんな中にあって、壇上に設けられた最も端にある席に腰をかけていた男だけが、何も言わずただ目を閉じて思案に耽っていた。
 その表情には微かな苦悩が見て取れる。
「では始めようか」
「議長……」
「うむ」
 壇上中央の男が、咳払いをする。
 やがて壇上の男の意思を感じ取ったのか、その場に居た者達が自主的に口をつぐみ静寂が訪れた。
 それまでざわついていた室内が静まり返る。
 しばし間を空けて、男がゆっくりと口を開く。
「諸君、時は来た。今この場に集まってくれた諸君らは、この計画に賛同してくれた同志と思う。無論、今後の活動が必ずしも我々に平穏や利益をもたらすもので無いことも確かだ。だがそれでも諸君らはこの場に参じてくれた。その数は正確ではないにせよ、全校生徒の半数近くに及び、もはや無視出来るものではない。つまり、これはこの学校生徒全体の意思と考えて良いだろう。歴史は常に人が動かすものだ。この学校の歴史が十年にも満たないとはいえ、これだけ大勢の生徒の意思が、同一目標を達成させる為に共に団結し邁進した事は無かったであろう。我々は今こそ団結し、今後の七日間における我々の闘いを、この学校の歴史へ永遠に刻み込むのだ。諸君らはこの学校が存続する限り永遠に語り継がれる存在となる!」
 男の熱のこもった言葉が、会場内の群衆の心を掴んだ。
 ざわめく会場内を満足げな表情でゆっくりと見回すと、最前列に居た男が挙手をしている事に気付く。
「何か?」
「議長、質問がある」
 議長と呼ばれた中央の男が、発言を許可すると、その男にスポットライトが当てられる。
「全校生徒の過半数に限りなく近い賛同者が居る事は判った。しかし生徒の……いや校内関係者全員の賛同を得たわけではない以上、敵対勢力や反抗組織による妨害工作が予想される。それらに対する対応がどうなっているのか? また我々賛同者の心身の安全はどうなのか? それが知りたい」
 男の質問に群衆がざわめく。
「君の指摘はもっともだ。君に限らず今この場に居る諸君らの中には、計画参加した事による世間体や、クラス内での迫害、学校側からの処分や制裁等を危惧している者も居ると思う。しかし安心して欲しい。今回の計画は全クラス各部活はもとより、近隣学校、公共機関言うには及ばず、町内会や商店街等各方面への根回しが済んでいる。そしてなにより、校長の黙認も取り付けてある。抜かりはない」
『おお〜っ』
 議長の返答に、驚愕……いや、感嘆とも取れる呻き声が室内に満ちる。
 根回しの範囲の広さやにも驚かされたが、まさか教員側、それも最高責任者である校長の(非公式とはいえ)許諾を得ていた議長の手腕に、その場に居た者達が驚きを隠せなかった。
「生徒会は?」
 別の者から新たな質問が投げかけられる。
「ふっ……久瀬ごときの力で今の我々を止める事など不可能だ」
「それに今回の計画、恐らくはヤツですら我々の側に付くと予想される」
 議長の横に座っていた男が補足する。
「そのケースは多分に考えられる……つまり、組織だっての妨害活動が起こりうる可能性は、著しく低いと言えよう」
 計画が成功する確率が高い事を伝える議長の言葉に、再び場内がざわめく。
「だが、先月の学園祭に間に合わなかったのだ。もう失敗は許されんぞ?」
 壇上のある男の言葉が、会場内に蔓延していた安堵の雰囲気を引き締めさせた。
「判っている。来月になればセンター試験も始まり、受験も正念場だ。無論、今の時期が問題無いわけではないが、もはや一刻の猶予もない」
 議長の言葉に、会場内に居た全員が頷いた。否、壇上のただ一人を除いて。
「どうした? 先程から黙っている様だが……この期に及んでまだ怖じ気づいたか?」
 議長が、壇上席の端で一言も喋らずに黙っていた男に声をかける。
「俺は心配なだけだ」
 男がゆっくりと、そしてはっきりと答えた言葉に、会場内の皆が固唾を飲んで事の推移を見守っている。
「何がだ?」
「判っているのか? 今回の計画が実行に移された場合、校内……いや、下手をすればこの街そのもののパワーバランスが瓦解するんだぞ?」
 男の言葉が、会場内に居た者達の興奮を、一気に現実へと向けさせた。
「……その結果起こりうる災厄の責任を、一体誰がとれるというんだ?」
 そう締めくくると、男は目を閉じて口をつぐんだ。
「その問題に関しては、既に議論済みのはずだが?」
 議長の隣に座っていた男が答える。
「我々に必要なのは、見せかけだけの馴れ合いや欺瞞に満ちた平和ではなく、真実……ただそれだけだ」
 議長が声をやや荒げて答えると、会場内に居た者達の心が再び熱を帯び始める。
「そうだ! そろそろはっきりさせる必要がある!!」
 誰かが叫んだ言葉で、会場内の者達が一斉に『意義無し!』と叫ぶ。
「皆静粛にしたまえ!」
 議長の言葉に、周囲のざわめきがピタリと止む。
「それでは諸君、我々は今この瞬間をもって、かねてより推進していたM計画を発動する。……告知は本日の放課後だ」
 そこで言葉を区切り、議長が両手で机を叩く。
 そしてやや間を空けて、再び口を開いた。
「……往くぞ諸君!」
 その瞬間、会場内の熱気は沸点を超えた。
『応!』
 会場内に居た全ての者が一斉に叫ぶ。
 その音量は、音という物が空気の振動である事を、その場に居た全ての者が理解出来るほどの衝撃波となり、建物全体を揺さぶった。




§




 結局、男子生徒達が戻ってきたのは、休み時間が終わる直前だった。
 一様にその表情が妙に神妙な事に一部の女生徒は訝しんでいたが、大部分は『どうせあの二人の企みに違いない』と達観していた。
 無論、二人とは校内の問題児、折原浩平と、住井護を指している事は言うまでもない。
 そして彼女たちの読みは正鵠を得ていたが、その事がもたらす影響に関しては楽観視していたと言わざるを得ない。
「ねぇ祐一、昼休み何処に行ってたの?」
 無言で席に着く祐一に、名雪が少し躊躇いがちに尋ねる。
「別に……あ、舞と佐祐理さんは?」
「あ、うん。祐一が出ていった後に来たから、伝えておいたよ」
「サンキューな」
「うん……じゃなくて、祐一昼休み……」
 名雪の質問を鳴り響くチャイムがかき消す。
「ねぇ北川君?」
 チャイムが鳴り席に着く北川に香里は呼びかける。
「何だ? 美坂」
「今日の昼休みだけど……」
「あ、その事か。ごめんな一緒に食事出来なくて。不本意ではあるが、美坂には寂しい思いをさせてしまった。でも安心してくれ。この北川潤、例え離れていようとも心は常に美坂と共に……」
「悪いけどそんな事はこれっぽっちも気にしたことがないわ。あたしが聞きたいのは、貴方達男子生徒が一体何を企んでいるのか? ただそれだけよ」
 香里は北川の言葉を躊躇うことなく遮り、自らの疑問をぶちまける。
「な、な、何の事だ? 俺には何の事だかさ〜〜〜っぱり」
 露骨な狼狽に、香里の疑念は確信へと変わる。
「そう……ねぇ北川君。昼休みに体育館に行ったクラスの子が居るのよ」
「へ、へぇ〜。食後にスポーツとは健康だね。広瀬かな? そてとも……」
「誰だって構わないわ。問題なのは、体育館に内鍵が掛かっていて入れなかったという事と、その後で大勢の男子生徒が、閉じられていた体育館から出て来たって事よ」
「あ〜そりゃ男子でバスケでもやってたんじゃないか? うん、そうだ。きっとそうだ。そうに違いない」
「何で鍵をかけて、しかも裏口からコソコソと出てくるわけ? それに中からすごい大声がしたとも言ってたわよ?」
「きっと試合が白熱し、ついつい器物を破損するほど盛り上がってたんじゃないか? それなら辻褄合うぜ?」
「無理矢理辻褄を合わせてるのはあなたでしょ! どうせあなた達が中心になって、ろくでもない事を画策してるに決まってるわ。既に状況証拠は十分揃ってるんだから、いい加減に観念してキリキリ白状なさい!」
「いや……その……美坂?」
 言葉を荒げて詰め寄る香里に、北川はただ口ごもる事しか出来なかった。
「答えられないのね? あたしとしても穏便に事は進めたかったけど、協力が得られないんじゃ別の方法を採らざるを得ないわね」
 そう言いながら北川の上着に手を伸ばすと、彼の首を締め上げる。
「ま、まて美坂〜! 俺達は別段やましい事を企んでるわけじゃない」
「そう。やっぱり何かは企んでるのね?」
「え? いや違うぞ。えーとだな……うっ!」
 突然小さな呻き声を上げると、北川が”ドサッ”と机に伏せる様に倒れる。
「ちっ……」
 香里は小さく舌打ちして斜め前方の席を睨む。
 その視線の先では、住井が手にしたストローのようなモノをちらつかせつつ、口元に不敵な笑みを浮かべていた。
 直後、教師が教室へ入ってきた為、香里もそれ以上の追求は諦め自分の座席へと戻った。
 席に着いた香里が七瀬と目を合わせると、彼女は黙って首を横に振っていた。
 どうやら彼女も周囲の男子生徒から何も情報を引き出す事はできなかったらしい。
 結局、香里達は何も判らぬまま午後の授業が始まった。




§




 五限の終業を伝えるチャイムが鳴り、教師が教室を去るやいなや、香里は隣の席で死んだように寝ている北川の服を掴むと、引きずる様に廊下へと連れ出していった。
 まるで申し合わせていた様に、七瀬が後を追って続いて行く。
 彼女達が、男子が企んでいるであろう”何事か”の情報を引き出すのに北川を選んだのは、彼が他の男子に比べて心身の構造が極めて頑丈である事と、彼女達自身(不本意ながらも)他の一般的な生徒よりも親しい間柄である事、そして北川自身が今回の企ての中枢に近い位置に居るであろう……という推測からだ。
 他のフツーの生徒達に迷惑をかけまいとする、精一杯の良心からとも言える。
「うわ……香里ってすごい積極的だよ」
 まだ寝ぼけているのか、名雪が目を擦りながら明らかに見当違いな感想を口にすると、再び身を伏せて眠ってしまった。
 連行される北川を見ながら、折原が隣の席に座っている住井に耳打ちをする。
「なぁ議長……じゃない、住井。北川が敵の手に落ちたぞ?」
「ああ、確認している」
「しかし、ホームルームをサボってまで行動に出るとは予想外だったな。おまけにあの二人が相手では、流石の北川も口を割るんじゃないか?」
「なぁに、此処まで来れば計画が露呈してももう問題はないだろう。それならこちらも予定を繰り上げるだけだ。サボりにはサボりで対抗すれば問題ない」
「なるほど、それは道理だな」
「では、オレは一足先に最後の仕上げに行ってくる事にしよう」
「うむ。頼んだぞ」
 お互いに拳を突きつけ合うと、住井は素早く教室を出て行った。
 そんな二人のやり取りに聞き耳を立てていた茜は、静かに立ち上がると前の座席に座っている男子生徒にそっと声をかけた。
「南君……」
「な、何里村さん?」
 茜に声をかけられ、クラスで最も貧乏くじを引く哀れな男子生徒である南が、思わず身を竦める。
「一体、何をしでかすつもりなのですか?」
「え、え〜と……」
「言いたくなければ、無理にとは言いません」
「ごめん、里村さ……」
「ですが貴方達の計画とやらが、私にとって災厄でっあた場合、貴方にとって”良くない事”が起きるかもしれませんよ」
 茜は南の弁明を遮りつつ言葉を続けるが、その間表情は全く変えない。
 哀れな南は、顔を青くさせ目を白黒させている。
「くっ……ううっ……」
 震えながら咽び泣く南。
 背後を常に抑えられているという、戦略的不利な状況に加え、茜は”詩子”という強力な戦術兵器も持ち合わせている。
 南にとって恐るべき存在である詩子は、午後になって自分の学校に戻った様子であるが、気を抜くと、いつのまにかその場に現れている事が多い。
 その都度、南は座席を横取りされる羽目になる上に、授業中のカムフラージュに利用されたり、買い出しに頼まれたり(要はパシリ)と、詩子による悪行は、南の深層意識にまで刷り込まれており、彼の精神に影を落としている。
「実は……」
 ワイルドカードを切られた南は、呆気なく茜の軍門に下った。
 耳を寄せ、南の言葉を聞いた茜は、露骨に不快感をその表情に現す。
 そしてそのままの表情で、折原の席へ向き直ると、丁度瑞佳がその場を訪れたところだった。
「ねぇ浩平? 今度は一体何をするつもりなの?」
 住井と入れ替わるような形で折原の脇に来ていた瑞佳が尋ねる。
「あ〜何だ。その……もう少し経てば嫌でも判ると思うから、まぁ暫く待っていてくれ」
「……」
 瑞佳は黙って取り繕う折原の目をじーっと見つめる。
「浩平、わたしは心配なんだよ」
「何がだ?」
「こういう時の浩平って、何かとんでもない事を考えてるもん」
「そっかー?」
「うん」
 二人の間で何気ない会話が展開する様子を、茜は押し黙ったまま見つめていた。
 その間、南は両手で頭を抱きかかえるように背を丸め、身体を震わせながら何かに祈りを捧げていた。
「南君?」
 暫くして茜が視線を動かさず――折原達を見つめたまま――に南の名前を呼ぶ。
「は、はい?」
 南がおどおどと振り向くと、茜もまた視線を戻し南の目を見据える。
「その計画……面白いですね」
 茜は口元にごく微かな笑みを浮かべつつ、そう短く呟いた。
 南は呆けた表情で自分の耳を疑った。
 その直後チャイムが鳴りはじめ、それとほぼ同時に教室の扉が開き二年四組担任の石橋が入ってきた。
「ほれ、石橋が来たぞ。席に付け」
 石橋の出現に、折原が会話を打ちきり瑞佳を強引に振り向かせて、その背中を軽く押す。
「う、うん……」
 まだ納得のいかない表情で自分の座席へ戻る瑞佳の背中を見送ると、折原は着席しつつ背後を振り返って祐一に話しかける。
「何だ、まだ心配なのか?」
「ああ……当初の予定よりも大掛かりな計画になった事が、俺には心配でならない」
 ホームルームを始めている石橋に気付かれないよう、小声で二人は話している。
「確かに、予防線を拡大する内にこんなになっちまったが、まぁこれはこれで面白いだろ?」
「はぁ……長森じゃないが、俺もお前のその楽観論に満ちた精神が心配でならない」
「余計なお世話だっ」
「お前さ、今回の計画で長森がどんな目に遭うか考えたか?」
「は? 何で今回の計画で瑞佳の心配せねばならんのだ?」
「……やっぱりお前は馬鹿だ。本物の馬鹿だ。掛け値無しの馬鹿だ。七瀬っぽく言わせて貰えば『あほっ』だ」
 心底呆れたように、馬鹿という単語を羅列する祐一。
「馬鹿馬鹿言うな。お前だって似たようなものだろうが?」
 大きくなりそうな声を抑えて、折原が反論する。
「……良いか折原? 当初の計画規模なら俺も大手を振って賛成しただろう。だが、ここまで巨大なプロジェクトになってしまった以上、舞や佐祐理さん、そして恐らくは名雪に降り懸かる災厄を考えると、俺は心配で仕方がない。さっきも言ったが、お前は長森の心配をしなくて良いのか?」
「はい? だから何で瑞佳の心配をせにゃならんのだ?」
 説明を聞いても意味を把握出来ない折原を、祐一は哀れむような表情で見つめる。
「はぁ〜……浩平の事が心配だよ」
「だぁっ! 貴様が瑞佳の口調をまねるなっ気持ち悪ぃ!」
 思わず大声を上げた折原に、クラス中の視線が集まる。
 瑞佳は顔を真っ赤にして俯いている。
「何だ折原。こんな時まで彼女の心配か?」
 石橋の言葉に、クラスの至る所から冷やかしの声があがる。
 実は結構シャイな部分がある折原は、悪態を付きながらも真っ赤になった顔をして窓の外へと向ける。
 背後から感じるプレッシャーが強くなり、南はただひたすら震えていた。
「あれ? 何かあったの? 祐一?」
 クラス中の笑い声で名雪が目を覚ます。
「いいから寝てろ」
「うん」
 祐一が呟くと、名雪は再び瞬時に夢の世界へと旅立った。
「あー、それじゃちょっと早いが、今日はここまで……」
 暫くして石橋がホームルームの終了を告げようとしたその時、教室内に設置されているスピーカーから放送が流れ始めた。




§




「……あ?」
 北川が目を覚ますと、そこは今の時期、祐一達が昼食時に利用している階段の踊り場だった。
「目が覚めたかしら?」
「美坂に七瀬……って、イテテテテテッ! 何だこれ? これって拷問か? 拷問なのか?」
「違うわよ。あたし達からのオ・ネ・ガ・イ」
 香里が妙に演技がかった口調で答える。
「じゃぁ何でオレはロープで縛られてるわけ?」
 北川の身体は、階段の手すり部分にしっかりと縛られ固定されている。
「それは、あたし達のお願いを、素直に聞いてもらいたいからね」
 そう答えつつ、七瀬が手にした竹刀を振り下ろすと、廊下に当たって乾いた音を立てる。
「ちょっと待て!」
「何よ」
「何?」
 北川の言葉にしれっと答える二人。
「オレの美坂への愛は本物なんだっ! 故にオレが美坂に隠し事をするはずがない。こんな真似をせずとも、正面から聞いてくれれば良かったんだ」
「ふぅ判ったわよ。……じゃぁあなた達の企みを教えて?」
 呆れた様に溜息を付くと、香里は改めて北川に質問をする。
「あのな……これはトップシークレットなわけで、これがバレるとオレもこの学校での立場が危うくなるんだ」
「それで?」
 内心で(立場なんて最初から無いでしょ?)と思っていたが、そんな事は表には出さずに促す。
「つまり、情報のリークは危険を伴うわけで、オレとしてもそれなりの報酬が欲しいわけだ」
「だから何よ?」
「ちょっとで良い。オレにキスしてくれれば全てを教える!」
「……」
「……」
 暫く二人共黙ったまま見つめ合う。
 しかしお互いの表情は全く正反対であり、北川の視線はねちっこく、香里のそれはまるで汚物を見るかの様なものだ。
 やがて北川が目を閉じて「ウチュゥ〜」と唇を突き出すと、香里は七瀬に向き直り――
「ちょっと貸してくれる?」
 と一言呟いた。
「はいこれ」
 その直後、七瀬から香里へと手渡された竹刀が、北川の肩に振り下ろされる。
「ぎゃぁぁぁっ!」
「さぁ、北川君? あなた達男子は一体何を企んでるのかしら?」
 香里が顔を歪めながら、北川の腹部にあてた竹刀の先端を、えぐるように動かす。
「ぐおぉぉぉぉぉっ……判った、話す、話させていただきます」
「当然無償よね?」
 香里の言葉に、北川は無言で勢いよく首を縦に振る。
「最初から素直にそう言えば良いのよ」
「全くアホなんだから……で、何を企んでるの?」
 七瀬が一歩前に出て北川に詰め寄る。
「実はな」
 北川が口を開いたその時、校内全体に放送が流れ始めた。




§




 保険医の郁未にとって、その日は特に事故も無く平穏な一日だった。
 物騒極まりない不可視の力を、郁未はその身体の中に取り込んでいるとはいえ、学校そのものは至って平和そのものだった。
 ただその異能の力から、平和な校内の雰囲気の中に微かに漂う、ピリピリと張りつめた空気の様な物を感じていた。
「また、あのお祭り好きが動き出したかな? 本当に進歩とかしないわね」
 コーヒーを啜りながら、窓から差し込む午後の日差しに目を細める。
 もうすぐ放課後だ。
 部活動が始まれば、怪我人が出る可能性が高くなるわけで、郁未にとっては授業中より忙しくなる。
「さて……」
 コーヒーカップを机に置くと、郁未は立ち上がり軽く背伸びをして、ベッドの脇に立つ。
「気分はどう?」
 カーテンを開けて中で休んでいた女生徒へ声をかける。
 しかし中から返事は帰ってこない。
 女生徒は枕元に置いてあったスケッチブックを取ると、ページを開きペンを走らせる。
『大丈夫なの』
 郁未に開いて見せたページには、そう書いてあった。
「そっか。無理しちゃ駄目よ〜上月さん」
 澪は郁未に頭を撫でられると、ちょっと恥ずかしそうの俯きつつも、嬉しそうな表情を見せた。
『ピンポンパンポーン』
 校内放送を告げるサウンドロゴが流れる。
「あら、何かしら?」
 郁未と澪が放送に耳を傾けると――
『あ〜あ〜マイクのテスト中〜』
 二人にとって聞き慣れた声が、校内全域に響き渡った。




§




『あ〜あ〜マイクのテスト中〜』
 この学校の生徒にとってもはや馴染み深い声が、スピーカーを通して響き渡る。
「あ……この声、住井さんだね?」
「……」
 佐祐理の言葉に舞が頷く。
 教室で帰り支度を始めていた佐祐理が、その手を止めて放送に耳を向ける。
『全校生徒に告げる。こちらは二年四組の住井護だ』
 クラスの全ての者が突然の放送に注意を向けている。
 しかしよく見ると、不思議そうな表情をしている女生徒に対して、大多数の男子生徒は何処かニヤニヤと笑みを浮かべていた。




§




「あ、住井君の放送だね。ねぇ雪ちゃん今度は何かな?」
「しっ、みさきは黙ってなさい。聞こえないでしょ?」
 住井や折原による突発企画は、この学校ではもはや当たり前の行事として受け止められている。
『この度、本年最後にして最大のイベントを企画した。心して聞いて欲しい』
 それはみさき達、三年生の生徒達も同様である。
 受験を控えた三年生の生徒達が、皆一様に聞き漏らすまいと放送に聞き耳を立てている。
『人は生まれながらにして才能や資質を持っている。それは力の強さで有り、芸術であり、脚の早さでもある』
「雪ちゃんは演技かな?」
「ふふっ、みさきの場合は食欲かしらね」
「うーっ酷いよ〜」
 みさきと雪見がじゃれ合う間も、住井の放送は続いていた。




§




『人は自らが持つ可能性を信じ、磨き、鍛え、更なる高みへと己を昇華させる!』
 ホームルームの教室に流れる放送を聞いて、そのクラスのある男子生徒が立ち上がる。
「全く、あのバカがまた何か始めたのか!」
 苛立たしさを隠そうともせず叫び声をあげる。
「こら、久瀬〜いいから席に付け」
「し、しかし先生」
「最後まで聞いてからでも良いだろ? 座れ」
 大らかな教師に促され、生徒会長の久瀬はしぶしぶ腰を降ろした。




§




「始めやがったな……知らねぇぞ」
 先程から始まった住井の放送を聞き、祐一は諦めた様な表情で呟いた。
 目を覚ました名雪が、少しまだ寝ぼけた様子で放送を聞いている。
 瑞佳は放送が始まると同時に折原を見つめたが、苦笑交じりに姿勢を戻し放送に耳を傾けている。
 茜は……どこか不敵な笑みを浮かべつつ、放送を聞き入っている。
『……だが、人類が過去から現在に至るまで永延と追い求めて来たものの中で、最も崇高なものは何だ?』
 住井の問い掛けに、クラス中の生徒達がざわめき立つ。
 暫く間を置いてから住井の放送が続く。
『それは……美だ!』
 こんな台詞を恥ずかしげも無く大声で言える住井は、有る意味大器と言えるかもしれない。
『どの様な屈強な者も、真の美しさを持つ者に平伏してきた。そう、如何なる時代も、人々は美を追い求め、そして戦い争った』
 スピーカーを通して流れる住井の言葉に熱がこもってくる。
『皆も知っての通り、本校は類い希なる美少女揃いの学校として、県下にその名を轟かせている!』
 住井の声にクラスの中が色めき立つ。
 女生徒達は自分の容姿が誉められていると思い、満更でも無さそうに嬉しそうな声をあげている。
『今こそ我々は、我が校の中のベストオブビューティー、この学校における真のビーナスを選出すべきなのだ!』
 教室中が更にざわめき立つ。
『これは時代が求めた必然であり、大自然の摂理でもある! 何人たりとも購う事は出来ない!!』
 教室中が……否、学校中が次第に騒々しくなってゆく。
 そんな状態にあって、折原は満足げな表情で、鼻歌なんか歌いながら放送を聞いている。

 全校生徒のざわめきに負けぬ様、ことさら大きな声で、住井は締めくくった。




『我々は、今此処に”ミス学園コンテスト”の開催を宣言する!!』




 校内で驚愕と、歓喜と、怒号と、その他諸々が混ざり合った大歓声が沸き起こった。







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