#7【理想と現実 〜戦艦伊勢・日向〜】


戦艦「伊勢」 (昭和19年最終型)
基準排水量:35350t 全長:219.62m 最大幅:33.90m 喫水:9.03m 出力:80000hp 速力:25.3kt 航続距離:7870浬/16kt
兵装:36cm連装砲×4 12.7cm連装高角砲×16 25mm3連装機銃×31 航空機×22
乗員:1360名 同型艦:日向


 巨大な主砲を搭載し、いかなる攻撃をも跳ね返す鉄の城、戦艦。
搭載される艦載機により、戦艦の主砲以上の遠距離から自由自在な攻撃を可能にした空母。
それらの能力を一つにまとめられた時、それこそが最強の洋上兵器となるであろう。
近づく敵機を艦載機で叩き落とし、迫り来る敵艦をその強力な主砲でもって粉砕する。
放たれた敵弾は強靱な装甲がはじき返し、さらには艦載機による多種多様な戦術の展開等々――そんな少年少女達(少女?)の夢を具現化したような万能艦。
それこそが「航空戦艦」。
この素晴らしい艦種である航空戦艦こそ、新時代の主力洋上戦力に相応しい存在……のはずだったのですが、そう呼ばれる艦船は二隻しか存在していません。
「航空戦艦」という物を最初に考えたのは、イギリス最大の兵器メーカー「ヴィッカース社」の軍艦設計部長ジョージ・サーストン氏だと言います。
(ちなみに全砲門を艦首に集中配置した奇妙な戦艦「ネルソン級」の設計もこの人との事)
この変なオヤジをもってしても実現不可能な艦種であった航空戦艦ですが、これを作り上げたのが、当時の日本である大日本帝国であり、その名は「伊勢」「日向」と言いました。
しかし大日本帝国は、この航空戦艦という物を先に述べたような夢物語を実現させる為に造ったわけではなく、当人達――伊勢・日向姉妹にしても、産まれた時から航空戦艦であった訳でもありません。
紆余曲折を経て、彼女達にとっても全くの不本意な形として、そう生まれ変わったのです。
理想と現実の狭間で苦しみ、悶え、そしてその存在意義すら疑問視され、世界の海軍史上にて並ぶ者の無い異端児達。
今回は世界唯一の航空戦艦、伊勢・日向姉妹にスポットを当ててみました。

 さてこの伊勢級姉妹ですが、生まれる前からいきなり蹴躓く事になります。
彼女達は日米英の間で繰り広げられた建艦競争のただ中の大正二年、扶桑級の三・四番艦として計画された超弩級戦艦であり、同時期には扶桑級一番艦の「扶桑」の建造が始まっていました。
しかし二番艦の「山城」以降の三艦には、財政上の都合で建造に”待った”がかけられてしまいます。
過激な建艦競争は国家予算を圧迫し、それらの建造費は議会でもなかなか承認できない状態だったのです。
翌年、大正三年になって議会はようやく残りの扶桑級三隻「山城」「伊勢」「日向」の建造予算を承認、次女「山城」の建造がスタートしました。
ところが、続く「伊勢」「日向」二艦には、再び”待った”がかけられます。
予算の問題ではなく、扶桑級の設計に重大な欠陥が発覚した為でした。
(この辺りは前述「日出る国の哀姉妹〜戦艦・扶桑〜」で述べているので割愛します)
慌てた海軍は、近代的な戦艦として致命的ともいえる欠陥を有した扶桑級は、すでに着工してしまった二番艦の「山城」で打ち切りとし、三番艦以降は新型の戦艦として建造する事を決定します。
こうして誕生以前から躓いた伊勢・日向姉妹は、「扶桑級」三・四番艦ではなく、改めて「伊勢級」の一・二番艦として誕生する事になりました。
しかし予算制約の関係上、全く新しい戦艦を設計する時間も経費も無かったため、あくまで「改・扶桑級」として再設計されるに留まります。
主な改良点は、扶桑級最大のネックだった「主砲配置」です。
扶桑級で煙突を挟んで分散配置されていた三・四番主砲塔を第二煙突後方にまとめて配置し、致命的欠点だった罐室面積を大きく確保する事ができました。
また、新たな主砲配置は射撃指揮の効率化の向上、射撃時の爆風による環境への影響軽減の効果をも生みます。
主砲は扶桑級と同じ三六センチのままですが、次弾装填可能仰角が五度固定(扶桑級)から、五〜二〇度以内可変に改良され、発射速度が大幅にアップしました。
装甲も大幅に強化され、水平防御装甲板は扶桑級の六四ミリから八五ミリへ、水雷防御板は水防区画を増やしたり、装甲を湾曲させるなどして防御力を向上させます。
更に方位盤射撃装置――主砲の向きや仰角と連動し、自動的に主砲射撃方位に冠するデータを算出する装置――が初めて装備され、機関も新型の物に置き換えられ、速力は扶桑級と比べて若干早い二三.六ノットになりました。
これらの改良・追加装備によって伊勢級は、扶桑級と比較して何とか使える戦艦として誕生したわけですが、あくまで扶桑級に比べればまだマシ――といった程度であり、結局帝国海軍は続く「長門級」の完成まで、まともな自国生産の戦艦を建造する事は出来なかった事になります。

 それではその伊勢級の欠点を見ていきましょう。
確かに主砲の配置を変更したことにより、戦闘力や使い勝手は向上しましたが、それに伴う艦全体のバランスの問題から副砲の配置が前方に集中してしまい、その副砲の門数も増やした結果、乗員居住スペースが小さくなってしまいました。
しかも乗員数は扶桑級に比べて百六七名も増えており、居住性の酷い艦となります。
居住性の悪さは、そのまま乗員のストレスに繋がり、戦時における精神・体力面で相当な苦痛を強いることになります。
また艦上の構造物は一見、整頓されて無駄の無いようにみえますが、実際に作ってみると……困ったことにバランス問題から、内火艇やカッター等の必須装備を配置する場所が無いという有様に。
艦中央部の煙突横に配置してみたものの、すぐ後方にある三・四番主砲を斉射すると、その衝撃波でひとたまりもなく壊れてしまい、やむなくカッターや内火艇を守る為の防御壁を設ける措置をとりますが、本来ならば全く必要ない装備であり、余計な重量を与えたに過ぎません。
また副砲の配置にも問題がありました。
艦中央部よりも前方に集中しすぎたため、荒天における航行時には波をかぶって発砲できない砲塔も在ったと言います。
結局、夢にまで見た初の自国生産超弩級戦艦である「扶桑級」「伊勢級」の四隻は、完成してみればただのお荷物という、余りにも情けない状態でした。
ともあれ、長女の伊勢は大正六年十二月十五日、妹の日向は大正七年四月三〇日、それぞれ就役。
難産の末に産まれた姉妹の、これまた波瀾万丈に満ちた人生は始まりました。

 出来の悪い娘ほど可愛いもの――かどうかか判りませんが、帝国海軍にとって……いや世界中に見ても、伊勢級ほど最終艦型になるまでに手を尽くされた艦はなかなかありません。
産まれたときから出来の悪い娘だった伊勢姉妹は、軍縮時代の海軍休日期間を利用して徹底的な再教育――つまり大改装を受けることになります。
まず最初。
大正十年(日向は昭和二年)に主砲の最大仰角を二五度から三〇度に引き上げます。
(仰角を上げるということは、それだけ射程距離が伸びるという事になります)
余談ですが、姉貴分である扶桑・山城姉妹の主砲の最大仰角は、誕生の時点から三〇度でした。
改良型の伊勢級主砲の仰角が二五度に抑えられていたのは、実は新造当時の射撃技術で最も命中率・攻撃効率が良かった仰角が二五度だったと言うデータによるものです。
つまり当時は三〇度の仰角があっても、当てられなかったという事ですね。
それが引き上げられたという事は、それだけ射撃装置の発達と射撃技術が向上した結果の現れになります。
この主砲最大仰角の変更と、それに伴う射撃指揮装置等の設置により、彼女達の艦橋は巨大化してゆき、外見上長門級ににたシルエットを持つようになりました。
こえで傍目に見ても、伊勢・日向姉妹が生まれ変わった事が世に伝わりました。
次いで昭和三年に、初めて艦載機が搭載されます。
(当時はまだカタパルトを装備していなかったので、フロート付きの水上観測機を海面に下ろし、海上から発進・回収するシステムでした)
また航空機の発達に伴い、対空機銃を増設したのもこの時が最初となります。
その後の昭和七年に、更なる対空火器の増設・変更などを行い、帝国海軍の戦艦群にあって最も貧弱だった対空兵装がようやく水準にまで上げられました。
こうして出来の悪い娘がようやく、言うことを聞く人並みの娘になったのです。

 国際情勢が緊迫化してきた昭和九年――。
未だ完成していない超々ド級戦艦「大和級」を除けば、長門級に次ぐ有力艦であるはずの伊勢姉妹は、揃って大改装を受けることになります。
それは人並みの娘だった姉妹に秀才教育を強いるような大改装でした。
まず、一つ目は「主砲最大仰角」の向上。
電子装備の発達により、更なる射程距離の向上が見込まれた姉妹は、物理的に最大射程を確保するはずの四五度に最大仰角を上げます。
(この工事は単純に砲塔の仰角を上げられるようにすれば良いという事ではなく、それに伴う次弾装填装置、方位盤、砲身そのものといったメカニズムを総交換する必要がある大工事になります)
これによって伊勢級の射程距離は長門級と同じ三万三千メートルとなりました。
次に装甲の強化――特にバイタルパート(重要防御区画)の防御力の強化は重点的に行われ、水中防御に関しても、艦横にバルジを取り付けて水雷防御を強化しました。
(バルジとは艦の側面に張り出した巨大な膨らみで、中には衝撃吸収剤としてのパイプが詰め込んであり、水雷防御の向上の他、浮力の増加にも繋がります)
そして速力の向上――艦の高速化は今後の海戦において必須不可欠な要素であり、新型タービンエンジン搭載の運びとなりました。
結果、彼女達の最大速力は二五ノットまで引き上げることができた……のですが、やはり物足りない速度と言わざるをえません。
そこで更なる速力アップを求めて、船体構造の見直しが図られます。
速力の向上は、単純に馬力を上げれば良い物ではありません。速度が上がれば、それだけ艦首にかかる波の抵抗力が大きくなり、パワーが食われてしまうのです。
故に速力を上げるには浮力を増大させ、艦形を長く、そしてスマートにして倒波性を高める事になります。
伊勢・日向姉妹の場合は、艦尾を八メートル程延長する事で対処しましたが、この努力の結果、彼女達の最高速度は二五.三ノットになりました。
また使い物にならない位置にあった副砲も撤去され、また残った副砲に関しても仰角の向上などの処置がとられます。
対空兵装はまた一段と強化され、新型の対空機銃や高角砲を装備。
延長した事で出来た艦尾スペースにはカタパルトが設置され、艦載機の水偵も三機に増加。
さらに光学機器、測距儀の新設など、新装備を追加。
新型のタービンエンジンを搭載したことで、二本あった煙突は一本にまとめられ、伊勢・日向姉妹の姿は近代的なスタイルへと変貌を遂げました。
そして、世は太平洋戦争へと突入します。

 さて、様々な改造を施し才女となったはずの彼女達ですが、いざ戦争状態となってみれば、設計段階で問題が有った中途半端なスペックが影響し、実戦へ投入される機会は殆どありませんでした。
それでもなお、海軍が新装備のテストベッドとして彼女達を選出した事で、姉妹は事ある毎に改装を受ける事となります。
それは応急排水装置であり、司令部施設、無線関係、電探装備、測的観測所、機関部等であったりと、多岐に渡ります。
かくして姉妹は誕生以来、常に姿を変え続け、何時しか生誕時の姿を一変させてしまいます。
しかし彼女達の変貌は、これだけでは済まず――否、これからが本番となるのです。

 昭和十七年――中途半端な速力が響き、実戦参加を見送られ、主に内地にあって訓練の為の練習艦として運用されていた彼女達に、出撃の出番が訪れます。
そして同年五月五日、運命の日。
愛媛県沖の海域で主砲発射訓練を行っていた日向の艦尾にある、五番砲塔が突然大爆発を起こし、乗員五四名が一瞬にして亡くなり、砲塔部が吹き飛ぶという大惨事が発生したのです。
調査の結果、主砲発射手順に問題があり、内部の弾頭に引火爆発したものだと判明。
時あたかもミッドウェー作戦間近、やっとの出番に備え、訓練に訓練を重ねた結果の惨劇でありました。
主砲の故障といえば、戦艦にとっては致命的。
言うなれば、拳を怪我したボクサーのようなものです。
緊急入渠した日向は、砲塔部をそっくり外してその穴を鉄板で塞ぎ、その上に二五ミリ四連装機銃を増設するという突貫改装を間に合わせて、ミッドウェー作戦に参加します。
そしてこの事故とミッドゥエー海戦の結果が、彼女たちの運命を大きく変える事になるのです。

 ミッドウェー海戦において、連合艦隊は彼等が誇る最強の機動部隊を失います。
自ら築き上げたはずの「機動部隊」と「海上航空戦力」の重要性を痛感した帝国海軍でしたが、この敗北でようやく新型の量産型空母を計画していなかった事に気づきます。
この救いようのない状態に驚愕した海軍は、商船、水上機母艦等、あらゆる艦種を空母に改造する事を決定。
しかし商船を改造した空母では、速力、防御力共に完全に不足気味ですし、肝心な艦載機も大して載せることは出来ません。
こうして一隻でも多くの空母を装備したい海軍は、あれほど渇望して止まなかった戦艦すら、その改装対象として検討を始めます。
流石に完成したばかりの大和級は、最初から対象外とされましたが、他の全ての戦艦群は改装対象として検討されました。
長門級――大和型に次ぐ主力戦艦であり、世界のビッグセブンと謳われていた彼女達を改造するのは勿体ない。
金剛級――最も古い戦艦だが、三〇ノットの速力を発揮し、機動部隊に随伴可能な高速戦艦を改造するなど現場が許すはずがない。
扶桑級――余りに欠陥が多く戦艦としての使い道は既にないが、速力が遅すぎて空母への改造は余りにも手間がかかりすぎる。
そして伊勢級はと言えば――妹の日向が五番砲塔を損傷している状態でした。
それは何とも好都合じゃないか――そんな台詞が出たかどうかは不明ですが、どうせ復旧に手間がかかるのならいっそ伊勢級の二艦を空母にしてしまえ――そういう意見が出るのはごく自然な展開だったと言えるでしょう。
こうして伊勢姉妹に空母改造の白羽の矢が刺さります。
そうなると今度は手間の問題になりますが、この姉妹を完全に空母に改造すると、全長二一〇メートル、幅三四メートル、搭載機は五四機、そして必要期間が一年半と算出されました。
「幾ら何でもそりゃ無理だ」と誰が言うでもなく、これではお話になりません。
スペックはともかく、一年半という期間は、戦時においてあまりに長過ぎました。
更に期間以上に深刻な問題が表面化します。
改造工程があまりにも複雑であり、戦艦の巨体がドックを占領し続ければ、他の艦の修理に影響が出る事が判明したのです。
それだけではありません。
工事が複雑化すれば、工期や資材・人材の影響で他の新造艦が未完成に終わるということに繋がる事も判明したのです。

 ”空母は喉から手が出るほど欲しい! でも伊勢級の空母への改造は不可能!”

帝国海軍を襲うアンビバレンスな衝撃!
悩み抜いた末に海軍が導き出した答えはこういうものでした。

一.空母は絶対に必要であり、その改造対象として伊勢級の二艦を使用する。
一.しかし、伊勢級の正規空母への改造は不可能であるから、出来る限り空母としての能力を強化する。
一.伊勢級の五・六番主砲は撤去し、不必要な副砲は全て撤去とする。
一.対空兵装を強化する。
一.できるだけ多くの艦載機を搭載できるよう改造する。
一.年内に完成させる。

この決定こそ「半空母半戦艦」である「航空戦艦」という全く新しい艦種の建艦を意味したものでした。
この命を受けた開発部は早急に検討し、「単に水偵の数を増やした戦艦」や「航空機輸送に使う戦艦」ではなく、あくまで「半空母」としての艦載機による攻撃力を有した防空・航空戦艦として改造することを決定します。
そして伊勢は呉工廠、日向は佐世保工廠にそれぞれ入渠し、大改造を受ける羽目になります。
これは言うなれば、手術で改造人間にしてしまう程のすさまじい出来事です。
その資材には、すでに不必要となった大和級四番艦のものを流用する事と決まり、また建造中だった同大和級三番艦の「信濃」も併せて空母に改造されることになりました。

 さて、そんなこんなで改造工事は始まりました。
戦艦としての攻撃力も残す以上、主砲は無論、巨大な艦橋も必要になります。
しかし飛行機を飛ばすには飛行甲板――つまり滑走路が必要なのは言うまでもありませんし、なにより空母としての能力を最優先で装備する事が今回の肝ですから、飛行甲板はどうしても作る必要があります。
その場所にしても、艦後方の五・六番主砲跡地と決まっていましたから、デザインは自ずと決まります。
しかし、 ここで問題が出ます。
飛行機は一体どうやって運用するのか?
飛行甲板を作っても、艦の中央には巨大な艦橋が鎮座しているわけで、普通の空母のような発艦が不可能なのは明白です。
それならば発艦はカタパルトで艦載機を射出させればいい――となりましたが、では、それで発艦できたとして、着艦はどうするのか?
ただでさえ資材の乏しい日本軍にあって、まさか飛行機を使い捨てにする訳にはいきません。
(当時、まだ特攻作戦は行われていませんでした)
そこで考えられたのが「発艦した機体は同時に作戦行動を取る空母に着艦する」というアイディアでした。
無茶というより、無理矢理取って付けた様なアイディアです。
何しろ着艦すべき空母にも艦載機は搭載されているわけですから、「出撃後に墜とされ数が減る」という事を前提にしてある辺り、追い込まれた海軍の焦りや実状が伺えます。
このようなネガティブかつ無茶苦茶な構想ですが、このアイディアで改造すれば一艦辺り二二機、二艦合計なら中型空母一隻分の航空戦力になるのは事実でした。
しかも戦局次第では戦艦として使用する事も出来るわけです。
現実的にそんな運用が必要な戦局があるかどうか疑問に思いつつも、自分達を誤魔化す様に期待を抱きつつ改造は始まりました。

姉妹に装備されたカタパルトは新型であり、三〇秒間隔で射出できるスグレ物でした。
二基あるので、一五秒間隔で艦載機を射出でき、全機発艦まで五分十五秒というF−1のピット作業ばりのスピードとなります。
搭載機は新型の「彗星」艦上爆撃機を計画したものの、実際には数が揃わず、半数は新型水偵の「瑞雲」の改造機を充てました。
そして航空戦艦への改造と併せて行われたのが、防空戦艦としての対空兵装の強化でした。
今まで装備されていた連装機銃が全て撤去され、新たに三連装機銃を配置。その砲門数は一〇四にまで増加しました。
更に新開発の十二サンチ三〇連装対空奮進弾(ロケット砲)を六基装備。
また各種対空火器用の射撃指揮装置も増設され、強力な防空戦艦としての能力も身につける事となりました。
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というわけで完成した世界初の「航空戦艦」伊勢・日向の姉妹ですが――
「なるほど、これが航空戦艦という物なのか」
――と、見た者を取り敢えずは納得させるデザインになりました。
貴重な資源と時間を割いて作り上げた史上初の航空戦艦伊勢・日向ですが、結論から言ってしまえば、彼女達の甲板から艦載機が飛び立つ事はありませんでした。
彼女達が改造手術を受けている間に発生したマリアナ沖海戦により、航空機と乗員を大量に失った帝国海軍航空隊は、もはや立て直しようがない状態に陥っており、彼女達が完成した時には載せる航空機が無い状態だったのです。
十九年十月一日に、ようやく彗星・瑞雲併せて三五機が割り当てられたのですが、二週間後の台湾沖航空戦で全機消耗
結局、格納庫が艦載機で満たされることが無いまま、姉妹は揃ってレイテ海戦へと参加します。

 小沢提督率いる囮部隊に編入された彼女達は、空母瑞鶴、千歳、千代田の護衛として戦艦として参加。
そしてこの作戦が、彼女達にとってまともに参加する最初で最後の作戦でした。
昭和十九年十月二四日――
姉妹は揃ってフィリピン沖にて、ハルゼーの機動部隊が繰り出してきた約六百機もの大編隊を敵に回し熾烈な戦闘を開始しました。
結果的に守るべき空母は全て沈没の憂き目にあいましたが、元戦艦の頑丈な身体に対空兵装を極限まで強化した姉妹は最後まで奮戦。
自身は傷つくこともなく、二〇〜三〇機の敵機を撃墜する事ができたと言います。
しかもこの戦闘の最中、沈んだ瑞鶴の乗員を救助する為、戦闘海域にて機関を停止させるという、ほとんど暴挙とも言うべき行動を取りました。
しかしこの果敢な行動によって、百名近くの乗員を救出する事が出来たのも事実であります。
以下にレイテ開戦時における伊勢の奮闘ぶりを記します。

 『伊勢』は『瑞鶴』、『瑞鳳』の後方に位置。
 午前七時三十九分、敵編隊を『伊勢』の電探が二〇〇km前後で捕捉。
 第一次空襲では至近弾二、被害無し。
 第二次空襲では艦爆一〇機の攻撃を受けるも五機を撃墜。第二砲塔に小型爆弾直撃一、至近弾八。
 第三次空襲においても被害無し。

 午後一時五分、『瑞鶴』沈没。『初月』『若月』が救助に当たる。
 午後三時二六分、『瑞鳳』沈没。『桑』が救助に当たる。
 状況を見ていた『伊勢』艦長中瀬大佐は『瑞鳳』乗員救助を命じる。
 新たな空襲、敵潜水艦の攻撃も考えなければならない戦場の真ん中で約一時間停止し、九八名を救助。
 付近の溺者すべての救助を完了の後、全速で味方部隊を追った。

 第四次空襲、約三分間の内に艦爆八五機、右舷より魚雷七本、左舷より魚雷四本の攻撃を受け至近弾三四。
 第五次空襲、『日向』『霜月』に至近弾多数、『伊勢』は攻撃を受けず。
 第六次空襲、三六機の攻撃を受け命中弾一、被害微小。

 延べ襲来数五二七機

 午後八時三十五分敵機の接触が切れ、『大淀』『日向』『霜月』と共に『五十鈴』『初月』『若月』救援のため反転。
 午後九時五十三分、『五十鈴』『若月』と合流。(『初月』は米巡洋艦と交戦、沈没)

 翌日午前六時三十分、再度転進。

(※以上レイテ海戦詳細情報提供:ふれでぃ様)


 しかし結局の所、彼女達は戦艦として生まれたものの、中途半端な能力で時代に振り回されたと言わざるを得ない悲運の姉妹に過ぎませんでした。
己の身体を改造してまで生まれ変わったのは何のためだったのか?
経費も、時間も、人員も全てが無駄に終わった夢の艦種、航空戦艦――あまりにも空しく皮肉な結果です。
それでも彼女達の存在意義を見出すならば、こんな話があります。

 せっかく作った格納庫を使わない手はない。
そんな話が出たかどうか、彼女達は南方戦線への航空機輸送として用いられます。
しかし外地へ運ぶ航空機も無くなると、物資や燃料の輸送任務に就くようになりました。
輸送艦での輸送任務が絶望的な状況にあって、戦艦である彼女達で物資を輸送する方安全だったのです。
戦艦に輸送任務をやらせるなど、本来言語道断の出来事でありますが、巨費を投じながらも巨体を持て余していた彼女達に選択肢はなかったのでしょう。
昭和十九年十一月九日、マニラへの物資輸送任務を終わらせた姉妹は、シンガポールから航空燃料・ゴム・錫などを満載し内地へ向かって旅立ちます。
途中、何度も米潜水艦に付け狙われましたが、揃って無事内地に辿り着きました。
この時姉妹が持ち帰った航空燃料が、日本が外地から持ち込んだ最後の燃料でした。
その後伊勢は、燃料もなくなり洋上を走ることもなく海上砲台として呉に停泊。
終戦間近の翌年昭和二〇年七月二四日。
米国軍機の猛攻撃を受けて、最期まで抵抗を続けたものの大破着底。
妹の日向もまた七月二八日の空襲で同じ運命を辿ります。

戦艦の攻撃力を持つ空母――そんな理想が生んだ幻。
日本神話の地、日向の国とその神話を奉る聖地、伊勢神宮の名前を冠した姉妹は、理想と現実の狭間で翻弄され儚く散っていった。


※2003/3/26:レイテ湾における人命救助の部分を加筆。ふれでぃ様情報感謝です。


総員隊艦!