#4【日出づる国の哀姉妹 〜戦艦扶桑・山城〜】


(戦艦「扶桑」昭和19年、大改装後)
基準排水量:34700t 全長:212.75m 最大幅:33.08m 喫水:9.69m 出力:75000hp 速力:24.7kt 航続距離:10000浬/16kt
兵装:36cm連装砲×6 15cm砲×16 12.7cm連装高角砲×4 25mm機銃×90 13mm機銃×10 航空機×3
乗員:1193名 同型艦:山城


 大和――それは、日本と同義語であり、つまるところ日本国そのものの別名でありますが、同じ意味を持つもう一つの名、「扶桑」については今ひとつ知名度が低い。
そして「大和」と「扶桑」。
共に帝国海軍が保有した超ド級戦艦でありますが、やはり「扶桑」を知る者は少ないと言わざるをえないでしょう。
かたや漫画(アニメ)の主人公メカとして活躍し、各種ゲームでは贔屓ユニットやラスボスキャラとして登場、その圧倒的な存在感を示していますが、もう片方と言えば、その様な扱いを受ける事が有り得ないばかりか、普通に生活をしている人間が知る事すらありません。
もっとも、戦時中には扶桑こそが大勢の国民に親しまれており、逆に大和の存在が全く知られていなかったという事実は、何とも皮肉な話でありましょう。
とにもかくにも、帝国海軍の戦艦郡の中で、もっとも影が薄く、そしてもっとも凄惨な最期を迎えた戦艦。
それでいて、戦艦らしい最後を迎えられた艦
今回はそんな「扶桑」、及びその同型艦である「山城」の姉妹にスポットを当ててみました。
しかし、最初に申し上げておきたいのは、彼女達の物語は、数ある帝国海軍艦艇の生涯でも相当悲惨なものだという事です。
覚悟を決めてから読んでいただきたいと思います。




 まず「扶桑」という名称についてですが、この言葉が「日本」と同義語で有ることは先に述べた通りであります。
しかしより詳しく説明するならば、日本という国の「美称」――つまり、褒め称える意味をもつ言葉になります。
その語源は中国の伝説で、東海の日の出づる所にある同根から雄木と雌木が生えた神木を「扶桑」または「扶木」と言う事に由来されており、これに基づいて、東海の日出づる国である日本を扶桑国と美称するようになったのです。
ちなみに「秋津州」「八島」「敷島」「瑞穂」と言った名称も、日本国の別名・美称であり、全てが艦艇の名に用いられております。
さて、この扶桑という名を冠した軍艦は現在までに二隻存在しております。
明治八年、日本は帝国海軍の創立に際して、最初に保有する正式な軍艦をイギリスに三隻発注したのですが、この中で最も大きな艦に「扶桑」(正確には「扶桑艦」)の名称が与えられ、これが初代となります。
新興国として、また新興海軍としての意気と期待をかけて、自国の名を与えたのでしょう。
この初代扶桑は、排水量三七十七トン、速力十三ノット、二四センチ砲を四門搭載した、甲鉄フリゲート艦と言う艦種にあたりました。
彼女は就役後、幾度かの改装、大改装を受け、明治三一年に制定された「海軍艦艇類別等級」により、二等戦艦という種別を与えられ、日本における公式な戦艦第一号となります。
しかし日露戦争終了後の明治三八年に二等海防艦に転籍し、明治四一年四月一日に除籍となりました。

 話はそれますが、このコーナーにおいて「改装」「大改装」「改造」という言葉がよく出てきますが、それぞれ全く別の意味を持っております。
改装とは、機銃を増設したり兵装を交換したり性能をアップさせるための装備を交換したりする事。
大改装とは、艦の外観がかわってしまう程の改装――つまり艦橋を建て直したり、主砲を換装したり、艦首を延長したり――そのような改装の事。
改造というのはは、艦の性質が変わってしまう程の改装の事――つまり、戦艦を空母に造り替えてしまう様なものになります。

 さて、それでは今回の主題・二代目の扶桑の話に参りましょう。
このコーナーでは何度も書いているのですっかりお馴染みになったと思いますが、イギリスが建造した戦艦の革命児・ドレッドノートの就役に伴い、帝国海軍でもそれを越える戦艦――すなわち超ド級戦艦の建艦に奔走してゆきます。
そしてその悲願は、金剛級という形で達成される事となります。
しかしこの金剛級は超ド級巡洋戦艦。つまり、戦艦の砲撃力を持った巡洋艦であって、厳密に言えば戦艦ではありませんでした。
(後に金剛級は揃って大改装を受け、高速戦艦として生まれ変わります)
しかもその設計はイギリス製でありました。
そこで大正四年、海軍はれっきとした純国産の超ド級戦艦を建造する事を目標に掲げ、ここに日本初の自国設計・自国建造による超ド級戦艦・扶桑級として「扶桑」「山城」の二艦の建艦――実際には伊勢級二隻も含んだ四隻――をスタートさせます。
扶桑級は、金剛級に世界で初めて採用された当時最強の三六センチ砲を連装六基十二門も搭載し、完成時には基準排水量で二万九三三〇トンという史上最大、最強の戦艦となる予定でありました。
しかし、この扶桑級は産まれながらにして、重大な欠点……いや、欠陥があったのです。
その最たるものが、戦艦の要である主砲の配置でした。
(ドレットノートが革命的な戦艦だったのは、その主砲の配置が卓越していたからに他なりません)
六基もある主砲塔は艦の中心線上に配置されたのですが、問題はそれぞれが配置された場所です。
まず艦首から第一砲塔、第二砲塔と配置され、その後ろに艦橋と第一煙突が続き、その直後が第三砲塔となります。
更に第二煙突を挟んで第四砲塔となり、後楼(後部艦橋)の後ろに第五、第六砲塔と続くわけです。
つまり艦体に対して平均的に主砲を並べたのですが、この配置で側面への一斉射撃を行うと、その爆風と衝撃により艦の上部構造物、艦橋等に傷害を与えることが判明したのです。
この配置がもたらした欠陥はそれだけでは有りません。
そしてそれら欠陥の原因となるのが、中央の第一煙突>第三主砲塔>第二煙突>第四主砲塔という、一連の列びになります。
では、この中央の配置がどの様な問題を引き起こしたか?
まず射撃指揮。
艦橋前の二基、後部の二基は、それぞれ一つのグループとして同時に指揮できるますが、中央の二基は間にどーんと煙突が有るため、同時に指揮が出来ませんでした。
ともしれば、着弾のばらつきも発生する事となりますし、弾薬庫も別々に設けなければならないので、搭載数も制限されてしまいます。
おまけに主砲弾薬庫は、戦艦における動力・艦橋と並ぶ重要区画――バイタルパート内に設ける必要があり、弾薬庫が別になるという事は、その防御の為の装甲が余計に必要になるため、艦の重量増大の原因となるのです。
そして二本の煙突が主砲を挟んで配置された事が、彼女達にとって最大の問題を生むことになります。
煙突の直下には罐室――つまり動力部が置かれるわけですが、分離されて配置された事によってそれらスペースが小さくなってしまうのです。
これは大きな動力・ボイラーを設置出来ないことを意味し、つまるところ速力の向上が見込めない事に直結します。
しかも間が悪いことに、扶桑の就役は世紀の大海戦――ジュットランド沖海戦が行われた直後でありました。
この海戦によって、戦艦にも速力が必要である事が証明されていたのです。
世界の海軍で保有する戦艦の性能が見直されていきますが、罐室が小さい扶桑級は、改装を施しても肝心な大型ボイラーの搭載が不可能な為、速力向上が出来ない事が判明します。
その結果、就役当時で二三ノットいう速力の彼女は、仮に同規模の海戦が発生した場合、全く役に立たない事が判明しました。
そして同海戦にて露呈したもう一つの問題が装甲の重要性です。
装甲を簡略化した戦艦は、敵戦艦の砲撃を受けると即座に戦力を失う事が判明したのです。
扶桑級の装甲版はすでに旧式の物となってしまい、最大三〇.五cmの装甲では、戦艦として大した防御力にはならない事も判明してしまいました。
結局、帝国海軍がその威信と多額の費用、そして持てる技術の全てを投入して建造したものの、完成まもない新型艦であるにも関わらず、彼女は全くの能力不足な出来損ないだったのです。
未だドッグにある妹の山城にいたっては、完成前からすでに二等戦艦のレッテルを貼られることになってしまいました。
何とも不憫な話であります。
当初四隻建造の予定だった扶桑級は二番艦の山城で打ち切られ、三・四番艦は伊勢級として再設計される事となるのです。
(もっとも伊勢級姉妹にしたところで、基本設計を引き継いだ改・扶桑級であった為、色々な問題を抱え込む事になるのですが、その顛末は「理想と現実」を参照下さい)

 数多くの問題を抱えたまま就役した扶桑・山城姉妹は、大正十三年にそろって改装を受ける事になります。
まず方位盤や側距義等の交換により射撃指揮所の向上を計り、対空兵装の強化も行ったのですが、これは正直「焼け石に水」程度の改装に過ぎませんでした。
そこで昭和五年から十〇年にかけて、今度は大改装されることになります。
第二次大戦型の戦艦に生まれ変わるべく、砲撃力、速力、防御力、指揮能力と、あらゆる面での性能向上が図られることになりました。
まずは砲撃力。
主砲の仰角を引き上げ、射程距離が伸ばされます。
次いで防御力。
水平防御板を張り、さら喫水線下にはにバルジをとりつけ水雷防御も強化されました。
そして速力。
主機関を交換し、罐も全て交換。さらには艦尾を七.六二メートル延長させました。
しかし、ここでも例の弟三・四主砲塔の位置がネックとなり、十分な罐室面積を得ることが出来ず、これだけの改装を施したにも関わらず、彼女の速力は二四.五ノットに留まりました。
最後に指揮能力、射撃指揮、電装品の設置など、近代装備の増加と拡大に伴って艦橋が巨大化してゆくのですが……長女の扶桑の場合、まるで建て増し住宅のように、後から付け足していったものだから、まるで積み木のような不安定な外見となってしまいます。
(見た者を不安にさせる何とも凄いデザインなので、是非一度写真で確認してみて下さい)
延長した艦尾には、カタパルトを設置、水偵(水上偵察機)を三機搭載する事となります。
兵装も高角砲を八門増設し、対空能力を向上させました。
二本あった煙突も一本にまとめられましたが、それでも彼女達の外見は、お世辞に美しくもまとまった姿とは言えない鈍重な物であります。
大改装の結果、排水量は三四五〇〇トン、満載排水量で四〇〇〇〇トンを越える巨大戦艦に生まれ変わった扶桑・山城姉妹ですが、これだけの改装を施したにも関わらず、彼女達の性能は他の戦艦達よりもはるかに劣り、決して第一線級の戦艦に生まれ変わる事は有りませんでした。
結局のところこの大改装は、彼女達を帝国海軍最大の失敗作として再認識させただけの様にも思えます。
事実、太平洋戦争が始まっても彼女達に本格的な出撃命令が下ることはなかなか訪れません。
一応、ハワイ奇襲攻撃に成功した南雲機動部隊を、「護衛」という名目で伊豆大島沖まで出迎えに行ったのが最初の出撃となってはいますが、彼女達は太平洋戦争が勃発した後も、ほとんど内地にあって練習艦として使われる事となります。
次の出撃は昭和十七年の四月十八日、ドーリトル攻撃隊の東京初空襲の時に、敵機動部隊を追って出撃命令を受けましたが、鈍足の彼女達に高速の機動部隊を追撃できるはずもありません。
つまり、この出撃はそれらを承知の上、つまり海軍としての面子を立てる為だけの、形式的な出撃だったと思われます。
(実際、彼女達は敵と砲火を交える事なく帰還しています)

 それでも彼女達は、ミッドゥエー海戦、マリアナ沖海戦に参加する事になるのですが、劣速のため前線に出ることができず、敵と砲火を交えることも出来ないまま引き上げてしまいます。
欠陥品とは言えども扶桑・山城姉妹は戦艦――つまり国の象徴であり、彼女達を含めた艦隊が行動を取る場合は、その艦隊の中で最も速力の遅い彼女達に速度を合わせなければなりません。
つまり、扶桑級の劣速は、艦隊そのものの能力を下げる結果になってしまうのです。
そんな実害もあってか、彼女達は再び内地にて練習艦として使用され続ける事となります。
仲間の戦艦郡が太平洋を走り回り、ある者は武勲を立て、またある者は沈んで行く間も、彼女達はその巨体を持て余し続けるのです。
しかし、そんな彼女達にも、艦隊旗艦としての出番が訪れます。
それは連合艦隊最後の大規模作戦、捷一号作戦への参加でした。
しかしそれは決して華々しいものではなく、老朽艦――しかも欠陥品のレッテルを貼られ練習艦に落ち着いていた彼女達に出撃命令が下ったのは、それだけ戦局が悪化している事に他なりません。
連合艦隊が一大決戦の地として選んだのが、フィリピン――レイテ島周辺の海域です。
こうして彼女達姉妹は第一線に返り咲き、艦隊を率いて一路レイテを目指すことになります。
しかしこの事が、彼女達の生涯にとって、あまりにも悲惨な悲劇的結末――ジュットランド沖海戦で判明した旧式艦の悲惨な末路を、彼女達の断末魔でもって如実に証明してしまう事となるのです。

 昭和十九年十月十七日、マッカーサー率いる、約二〇万もの上陸部隊が、戦艦、空母を含む百六七隻もの大機動部隊に護衛されフィリピンのレイテ島に上陸しました。
対する連合艦隊は、そのもてる兵力の全てを持って、敵船団が埋め尽くすレイテ湾への突入し殲滅する捷号作戦を発動させます。
まず、栗田提督の率いる大和、武蔵、長門らを主軸とした主力艦隊が西から進撃。
次いで小沢提督の率いる空母瑞鶴、航空戦艦伊勢らを主軸とした機動部隊が北から進撃。
この頃には、すでに空母こそが艦隊の主力であり、小沢機動部隊を狙って敵艦隊が北上するであろうと考えたのです。
つまりこの小沢機動部隊は囮でした。
囮に釣られて護衛の艦隊が減ったところで、主力艦隊がシブヤン海からレイテ湾に突入し目的を果たす。
そして、主力部隊の突入に呼応して、南のスリガオ海峡から西村提督率いる別働艦隊を突入させる――そういう計画でした。
扶桑・山城姉妹は、別働隊である西村艦隊に有りました。
三方向からの同時に大艦隊行動を起こす連合艦隊、そして迎え撃つ百隻以上の大艦隊と数百機もの艦載機を有する米艦隊。
人類史上最大のレイテ海戦は、こうして始まりました。

 山城を旗艦とした西村艦隊は、麾下の艦艇七隻をまとめて、栗田艦隊とタイミングを合わせて、スリガオ海峡からレイテ湾に突入する――それが当初の計画です。
突入予定の前日、西村艦隊は順調に北上を続け、静かな朝を迎えたと言います。
この時点ですでに主力の栗田艦隊は敵潜水艦の攻撃を受け被害が出ていましたが、西村艦隊は奇跡的に敵潜水艦や航空機の接敵を受けず、無傷のままやってこれました。
しかしそんな奇跡も長続きしません。
遂に敵機に補足される事となり、やがて多数の敵機による空襲を受けてしまいます。
この戦いで彼女達は初めて主砲を放ちました。
大改装により最大仰角を四三度にまで引き上げられた十二門の三六cm砲が敵航空機に向かって火を噴きました。
妹の山城も続いて打ち放つと、つい先刻まで静けさが支配していた海上は、主砲・機銃の咆哮、急降下爆撃のつんざくような音、そして爆発音によって撃ち破られます。
最初の交戦は僅か五分。
扶桑が艦尾に一発の爆弾を喰らったものの戦闘航行に支障は無く、他の艦艇も大した被害は有りませんでした。
西村艦隊が幸運だったのは、その時敵のほとんどが、栗田艦隊への攻撃に回っていたため、最初の攻撃以来、空襲はなかったのです。
更に恐るべきハルゼーの大機動部隊は、囮である小沢機動部隊を追って、猛烈な勢いで北上を開始。
その結果、レイテ湾に残った米艦隊は、上陸支援の為の旧式(くしくも扶桑姉妹と同世代の)戦艦郡と、護衛艦隊だけになっていました。
その日の夜中、遂に突入地点にたどり着いた西村艦隊でしたが、幸運はそこまででした。
敵主力をまんまとおびき寄せた小沢艦隊。
敵を振り払い突入地点にたどり着いた西村艦隊。
ところが、肝心の主力・栗田艦隊だけが当初の予定通りに進んでいなかったのです。
栗田艦隊は激しい空襲の結果、一度大規模な反転しており、その結果突入地点にたどり着く事が遅れていました。
本来であれば栗田艦隊の到着を待ち、双方がタイミングを合わせて突入をすべきなのですが、西村艦隊は彼等の到着を待たずに単身で突入を開始してしまいます。
この時、西村提督は栗田艦隊の遅れを知っていたと言います。
にも関わらず、無謀極まりない単独での湾内突入に踏み切ったのは何故でしょうか?
これは苦戦を強いられている栗田艦隊の援護――と言われておりますが、その真意は今なお不明であります。
一説のよると、この時ちょうど栗田艦隊は謎の反転劇を行った直後で、軍令部は栗田艦隊に対して「全軍突撃セヨ」の命令を発したといわれていまして、この命令を傍受した西村艦隊が、命令を守り玉砕覚悟の突入を決意したのではないか? とも言われております。
しかし肝心な打撃力であった栗田艦隊は反転し、戦場から次第に遠ざかっていきました。
残された小さな西村艦隊にとって、それがどういう事か考えるまでもありません。

 確かに夜襲は、帝国海軍の十八番でありました。
職人芸とも言える、鍛え抜かれた水兵達の行動は一糸乱れず、どの様な状況下にあっても統率の取れた作業を迅速に行えました。
ほとんど神業とも呼べる夜間見張り員の監視能力は、当初の電子装備をはるかに凌駕し、敵発見・先制攻撃に貢献していました。
しかし、訓練による人間の限界を、レーダーを初めとする電子技術が抜き去っていたその時にあって、この行動はまさに無謀でしかありません。
栗田提督の主力反転により、完全に崩壊した捷一号作戦は、その結末へ向けて進み出しました。

 旧式戦艦に過ぎない扶桑級二艦を中心に僅か七隻の西村艦隊。
それを迎え撃つのは、三九隻の魚雷艇、二一隻の駆逐艦、四隻の重巡洋艦と四隻の軽巡洋艦、そして六隻の戦艦でした。
そしてそれら六隻の戦艦の内五隻は、真珠湾攻撃により一度はその生涯を終えた「ウエストバージニア」「メリーランド」「カルフォルニア」「テネシー」「ペンシルバニア」――彼女達は大損害を被りながらも復活し、あの時の借りを返すために蘇ったリベンジャーです。
こうして多くの米艦艇によって、スリガオ海峡は二重、三重にも完全に封鎖されておりました。
西村艦隊はそんな状況に、自ら突入してゆきます。
まず最初に、闇夜に乗じて魚雷艇が襲いかかりました。
これらの攻撃は全てかわし、その練度の高さを証明した西村艦隊でしたが、海峡の奥深くへ突入すると、その前方には真珠湾の復讐に燃える戦艦達が完璧な陣形で待ちかまえていました。
巡洋艦、戦艦からのレーダーとの連動射撃、更に両脇から駆逐艦による魚雷攻撃が始まります。
敵の十字砲火の中に完全に飛び込んでしまった西村艦隊。
玉砕覚悟で突入した扶桑姉妹は、その生涯において初めて敵戦艦への砲撃を開始します。
戦艦は戦艦と戦う存在――それこそが彼女達に求められた姿。
しかし最初から欠陥の烙印を押され、屈辱に満ちた日々を送った旧式の悲しき戦艦「扶桑」はついに魚雷の攻撃を受けてしまいます。
その一撃で不運にも電源がやられ、無電も、電話も、発光信号さえも使用不能に陥った彼女は完全に落後。
やがて敵戦艦の主砲の直撃を受けた彼女は、闇の中に巨大な火の玉を吹き上げて、大爆発を起こし、船体は中央からまっぷたつに折れてしまいました。
建艦当時から言われ続けていた、防御力の低さが、最悪の結果で証明された事になります。
二つに割れた船体は真っ赤に燃え上がり、それはまるで溶鉱炉から取り出したばかりの鉄塊のようだった――と伝えられています。
日本人でこの後、彼女の最期を見届けた者は居ません。
なぜならば、彼女の乗組員で生き残った者は一人もいないからです。
まさに洋上の玉砕でした。
米国側の資料によれば、それでもしばらくの間浮いていた彼女の身体は、やがて静かに沈んだといいます。

 姉に先立たれ残った山城は、それでも突入を続けました。
しかし僅か十八分の間に、三百発もの四〇cm砲、及び三六cm砲、四千発もの二〇cm及び十五cm砲の攻撃を受けた彼女に生き残るすべは有りませんでした。
さらに四発の魚雷の直撃も受け、機能は完全に停止。
装甲板を突き破った四発目の魚雷が火薬庫に引火、大爆発を起こしてしまいます。
断末魔を上げる山城にて、ついに総員隊艦の命令が下りましたが、その僅か二分後には横転、姉の後を追うかのように彼女もまたスリガオ海峡へと没してしまいました。



 あまり書きたくないが、この物語には更に悲惨な結末が待っています。

 戦闘終了後も多くの生存者がまだ海面に漂っていました。
しかしその多くは鮫の餌食となり、また力つきて溺れていきました。
夜明けと同時に米駆逐艦がこれらの救助にあたったものの、生き残っていた将兵達は救助を拒み、自ら海中へ沈んでいったと言います。
一部の者達は近くの島に自力で泳ぎついたものの、そのほとんどが原住民によって殺害され、生き残ったのは僅かに十名でした。
(その十名も米軍の捕虜となっています)

結局、駆逐艦「時雨」一艦を残して完全に全滅した西村艦隊。
それは帝国海軍の歴史の中でも、海上玉砕といえる最悪の結末でした。

 日出づる国に産まれ、将来を有望視された双生児。
窓際の令嬢は、その周囲の期待に沿うことはとうとう叶わず、二人揃って多くの犠牲者の魂と共に、スリガオ海峡にその身を没した。

この姉妹の名は、恐らく未来永劫使われることはないでしょう。








ふたばちゃんねるにて、ある名無し様の描かれた「扶桑姉妹スリガオ海峡に散る」の絵。
彼女達姉妹の悲哀が凝縮されている素晴らしき一枚。
悲しき姉妹の結末に涙せよ。

掲載許可を下さった、名無し様に心から感謝を。



※文中で史実と異なる箇所が有ったので修正しました。戦艦同志の砲撃戦は、戦艦「霧島」がソロモン海戦にて行っており、まことに失礼をかけしました。

総員退艦!