#6【ソロモンの悪夢 〜重巡鳥海〜】


重巡「鳥海」 (昭和7年新造時)
基準排水量:13140t 全長:203.76m 最大幅:19.52m 喫水:6.32m 出力:133100hp 速力:34.25kt 航続距離:5000浬/18kt
兵装:20.3cm連装砲×5 12.7cm連装高角砲×4 25mm連装機銃×4 4連装魚雷発射管×4 航空機×3
乗員:970名 同型艦:高雄・愛宕・摩耶


 ベララベラ、サボ、クラガルフ、コロンバンガラ、ツラギ、レンドバ、イサベル、ガダルカナル……これら聞き慣れない名称は、全て島の名前です。

 この島々はその見た目の姿から、人々に「楽園」「天国」といったイメージを抱かせるでしょう。
――エメラルドグリーンに輝く透き通った海。
――その蒼く輝く海にうかぶ緑豊かな島。
――それを囲む白い砂浜。
――広大なリーフ、珊瑚礁。
――ゆるやかな風と、それに靡く椰子の葉。
確かにその自然が産む色彩のコンストラストは、それを見た人々に幻想的な魅惑を感じさせるに十分です。
しかし、これら島々に一歩でも踏み込めば、その美しさの中に潜む悪意に気が付く事になります。
原住民や動物、虫や植物、更には湿気や熱病といったその島の風土そのもの全てが、訪れた者達に容赦なく襲いかかってくる――そう、ここは外部からの人間にとっては地獄以外の何物でもない場所なのです。

 ソロモン諸島――南太平洋に位置するこれらの大小多数の群島は、日本で普通に生活をする上では全く知る必要はないし、現在の歴史教育方針では試験に出ることもないので、学生が必至に覚える必要もありません。
石油や石炭、金銀などの地下資源が有るわけでもないし、ましてや文字通りの金銀財宝があるわけでもない。
つまりは辺境、僻地であり、それは何も日本人に限ったものでもなく、世界の各所において忘れられた存在なのです。
しかしこのことは何も現代に限ってというわけではありません。
ソロモンの島々はある一時期を除き、世の人々の関心を受けたことは殆どありません。

 最初にソロモンの島々が人の関心を引いたのは、航海と探検が華やかし大航海時代の十六世紀の頃。
スペインの名航海者サルミエントが、時の王に金銀財宝が眠ると謳われていたソロモン海の冒険(当然ただの噂)を奏上した事に始まります。
冒険が認められると、彼の甥であるメンダナを指揮者として、七〇人の兵士と四人牧師、そして多数の奴隷を乗せた二隻の帆船による探検隊が結成され一五六七年の十一月十九日にリアを出立しました。
八〇日間に及ぶ航海の末、彼らは遂にソロモンの島に降り立ち、指揮者のメンダナはその大きな美しい島に、彼らの出立時の時期にちなんで「サンタ・イサベル島」と名を付けました。
だが彼らは、その見た目の美しさが――彼らにとって――欺瞞に満ちた物である事にすぐ気付く事となります。
この島の住人達からもたらされた最初の贈り物は、縦に裂かれた少年の上半身でした。
驚くべき事に、この辺りはカニバリズムが跋扈する地域だったのです。
勿論、この島に財宝などがあるわけも無く、かといって手ぶらで帰るわけにもいかないメンダナは次々に周囲の島を巡っては、それらに名前を付けて行きます。(冒頭で述べた島々の名前はこの時付けられた、もしくは現地の者達から教えられた物です)
しかしどの島に行っても、金・銀・宝石の類はおろか、食料になりそうな動植物すら見つかりません。
一見、美しく豊かに見える島々は、どこまでも貧しい土地であり、森に入れば湿度が高く腐った植物が鬱積しており、猛毒を持った蛇やまがまがしい姿をしたトカゲ、大きなネズミ、重さ数キロもありそうなカエル等が蠢いていました。
憎悪を剥き出しにして襲いかかって来る原住民も多く、更には強烈な熱病によって探検隊の数も減って行きます。
そんな状況下、メンダナはある大きな島に降り立ちます。
その島のすぐ横には小さな火山島が有り、それは原住民から「サブ」と呼ばれている島でした。
この名の発音が「サボ」変化して欧州に伝わり、後にこの大きな島と小さな火山島の間の海域をサボ海峡と呼ぶようになるのです。
そしてメンダナが降り立ったその大きな島には、彼の故郷の名が与えられます。
その名こそが――ガダルカナル
四世紀も後に大日本帝国と連合国が奪い争う事になる、飢えと熱病、血と肉と鉄塊に満ちた死の島です。

 結局何の発見もできぬままメンダナはスペインへ帰国しました。
彼はソロモンの島々を制服し、スペインの植民地にすべきだと考えていましたが、前回の遠征が大失敗だった為なかなかその願いは叶いません。
約三十年後の一五九五年になって、ようやく第二次遠征隊を組織できましたが、彼の願いが成就する事はありませんでした。
なぜなら彼はこの航海の途中で命を落とし、遠征隊は帰国する事になったからです。
そして以後二世紀に渡り、このソロモンの島々は人々の記憶から消えます。

 一八世紀になって、フランス人、ブーゲンビルが再びソロモン諸島の探検に出立。
二百年前にメンダナが受けた恐怖を味わう事となった彼は、この群島を「殺人諸島」と名付けました。
(ブーゲンビル島はこの時名付けられたものです)
二、三年後、植民地拡大を争っていた英国もソロモンを訪れ、征服した島々に時の国王にちなんで「ニュージョージア諸島」と名付け支配地域とします。
ところが征服し名を付けてはみたたものの、さすがにその地を領有しようとする物好きな国民はおらず、宣教師が派遣されて僅かばかりの農園を開きヤシを栽培していたに過ぎませんでした。
この時期、ある旅行者がソロモンを訪れたものの、その風土、原住民の習慣、そして熱病の恐怖によりすぐに逃げ出しました。
彼は後にこう記述しています。
「もしも私が王であるなら、敵に与えるもっとも酷い刑罰は、ソロモンへの流刑だろう」――と。
結局の所、植民地争いの直中にあってもソロモンの島々には価値は無く、程なくして世界中の人々は、遙か太平洋の彼方に存在する死の島々の存在を意識の外へと追いやってしまいます。

 しかし時は流れて二十世紀も半ばに差し掛かろうとした頃になって、世界中の人々が忘れ去っていたソロモンの島々は再び歴史の表舞台へと登場します。
メンダナが発見してから数百年――一九四二年から四三年にかけての一年と数ヶ月の間、各国がこの島々を巡って壮絶な争奪戦を繰り返す事となり、世界中の人々が思い出す事になります。
再び人々の前に現れたソロモンの島々が、以前と変わらぬ死の島々だった事を。
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 とまぁ、相変わらず長い前書きですが、今回のお話は、このソロモンにおける悪夢のような闘いの中活躍した重巡「鳥海」のお話です。
と言っても単艦での物語付けが難しくなった上に、軍艦好きでも戦争の悲惨さを忘れてはならないという事で、今回は鳥海のお話というより、ソロモン関連のお話をメインにさせて頂きます。
では、ソロモン一帯で起きた戦闘を振り返りつつ、鳥海の物語を語ってゆきましょう。

 ソロモン海で起きた主な海戦は、以下のような感じです。
1)昭和一七年(一九四二年)八月八日:第一次ソロモン海戦。
2)同年八月二四日:第二次ソロモン海戦。
3)同年十月十一〜一四日:サボ島沖海戦。
4)同年十一月一二日:第三次ソロモン海戦。
5)同年十一月三〇日:ルンガ沖夜戦。
これだけの海戦が僅か四ヶ月の間に発生し、その全てが夜戦となります。
更にソロモン諸島全域へ範囲を広げると――
6)昭和一七年:五月七〜八日:珊瑚海海戦
7)同年十月二五日:南太平洋海戦
8)昭和一八年七月一二日:コロンバンガラ沖夜戦
9)同年十月六日:ベララベラ海戦
10)同年十一月一日:ブーゲンビル沖海戦
――等が含まれる事になります。

 さて、上に記した海戦の中で、米軍のレーダー等の電視技術よりも日本軍の職人芸的資質が打ち勝っていた頃、一隻の巡洋艦に率いられた艦隊が連合国艦隊に大打撃を与えたものがあります。
それが「米海軍史上最悪の敗北」と言われた海戦――「第一次ソロモン海戦」です。

 その時、帝国海軍第八艦隊指揮艦であった重巡洋艦「鳥海」は昭和三年三月二六日に起工、七年六月三〇日に就役した高雄級条約型重巡洋艦の三番艦になります。
条約型重巡というのは、ワシントン条約で制限された規定枠内で作られた重巡の事を指します。
この「高雄級」はその究極と言える艦で、その制限された中において、速度、武装、航続距離、等の軍部の「無茶無理無謀」とも言える要求を満たして完成しました。
「鳥海」の名前は秋田と山形両県にまたがる鳥海山から取られていまして、鳥海山は別名「出羽富士」「鳥海富士」とも呼ばれており、その山上には大物忌神社があり古くから信仰の対象とされています。
姉妹艦は同級ネームシップである「高雄」の他に「愛宕」「摩耶」があり、四姉妹となります。
この四姉妹最大の特徴は、最初から指揮艦として作られた近代艦であり、艦隊司令部を収容し効率よく作業が出来るよう、現代のイージス艦ほど巨大なものになっている艦橋になります。
私の個人的な意見かもしれませんが、これが非常に格好良いです。
無論、見た目だけではなく、日進月歩する新たな電子技術に対応するにも、巨大な艦橋は都合良かったそうです。
武装や装備面に関しても、よく条約枠のなかでここまで……と感心出来る程充実しています。
主砲は二〇cm連装砲五基十門を備え、連装魚雷発射管を両舷二基ずつの計四基。
搭載航空機は三機ですが、カタパルトを二基備える事で運用性が向上しています。
(この二基あるカタパルトは軍機扱いだったそうです)
 姉妹の特徴であり、独特のデザインでファンの心を捕らえている巨大な艦橋――妙高級巡洋艦の三倍ものサイズを誇る――ですが、流石に運用性と居住性は良かったと言います。
逆に被弾率を高めるという指摘も受け、開戦前に姉妹は順次改装を受けることになります。
これは余談ですが、すでに艦隊旗艦任務に就いていた三女の鳥海だけは改装が見送られ、結局そのまま改装される事のないまま生涯を過ごす事になります。生涯を通じて改装が無い艦というのは意外と珍しい例だったりします。

 就役当初、四姉妹は揃って艦隊を形成していましたが、太平洋戦争開戦当時は高雄、愛宕が南方部隊へと回されマレー攻略作戦に参加、摩耶はフィリピン攻略部隊の旗艦として、鳥海は南遣艦隊の旗艦として、それぞれ活躍します。
この時、鳥海はマレー沖で英国海軍が派遣した「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」の二艦と遭遇しそうになります。
如何に高性能とはいえ、重巡に過ぎない鳥海にとって戦艦二隻が相手では分が悪過ぎます。
しかしこの危機は、海軍航空隊が英国艦隊を壊滅させるという――大活躍によって逃れる事が出来ました。
もっともこの時、その航空隊に英国艦と誤認され、危うく攻撃を受けそうになったりもしているのですが……。(女王陛下の不沈艦の章参照)

 その後、高雄と愛宕がミッドウェー作戦に参加し、摩耶は第五艦隊に編入され北洋方面の作戦に従事します。
ミッドウェーの大敗によって戦局が変わり、珊瑚海で世界初の空母同士の戦闘が発生し、日米双方の関心がソロモンの島々へと向きます。
日本軍がソロモンの島々に兵を送り込みガダルカナル島で基地の建設を始めると、それを奪取すべく昭和十七年八月七日、米軍が上陸作戦を敢行しガダルカナル島を制圧。
この上陸こそが、以後の米軍反抗作戦の口火であり、帝国崩壊の発端となります。
孤立した友軍を救うため、そして基地を奪回する為に日本軍が増援を送り込むと、米軍を中心とした連合国軍がそれを迎え撃つ状況となり、以後一年半に渡ってソロモンにおける泥沼の戦闘が始まります。
 昭和一七年八月八日、三川中将が将旗を掲げた鳥海率いる第八艦隊が、ソロモンにあるガダルカナル島(略称「ガ島」)の陸軍を支援するために、敵上陸地点であるルンガ泊地を強襲するべく南下を開始。
その頃のガ島は日本軍が飛行場を建設中であり、まだまともな基地機能を有しておらず、部隊も陸軍の守備隊が僅かにいただけであり、攻め込んだ米軍はほとんど無血で同島を占領する事に成功していました。
守備隊は島の奥へと逃れましたが、其処は熱病と狂気の巣窟であり、やがて彼等は大した抵抗も出来ないまま弱体化してゆくことになります。
軍令部ではガ島を取り戻すために大部隊の派遣を決定し、第八艦隊はいわばその露払いとして派遣されたのです。
このようにして(日本軍にとって)無益なガダルカナル攻防戦とソロモン海戦は始まりました。

 第八艦隊は闇夜に乗じて、帝国海軍のお家芸「夜襲」を仕掛けるため小さな火山島のサボ島を迂回しながらツラギ及びルンガ泊地を目指します。
島と島の間にある狭く浅い水道を抜ける時は、艦隊がまともな回避行動が取れないため、もっとも危険な時間である。
当然、敵はこの水道を厳重に警戒していると思われており、艦隊は突入前に可燃物を全て海中投棄し、弾薬庫に注水までしていた程だった。
だが三川提督率いる第八艦隊は奇跡的にも敵に発見される事はなく、無事水道を抜ける事に成功します。。
実は、上陸部隊を援護する為に哨戒についていた米豪の連合艦隊は、何度も発見するチャンスは有ったのですが、まさか”昨日の今日”で夜襲を仕掛けて来るとは想像もしておらず、その可能性を自ら完全に否定していた将兵達は、怪しげな艦影や機影をことごとく友軍の物と思いこんでいました。
登場したばかりのレーダーもうまく機能せず、鳥海の観測員の肉眼による観測が先に敵艦を見つけた事も、この奇跡を生んだ原因の一つでしょう。
九千メートルの距離で米艦を発見した第八艦隊でしたが、艦影が一隻しか見あたらなかった事で「命令有るまで発砲は厳禁」とし、攻撃は控えます。
やがてこの米艦は四千メートルの距離まで近づきましたが、くるりと反転し引き返してしまいました。。
この艦は水道出口を哨戒していた米駆逐艦だったが、乗員達が三六時間以上も哨戒任務に当たっていた結果、疲労により日本の艦隊に気付かなかったとの事です。
次いで反対側から別の駆逐艦が現れたが、第八艦隊は進路をやや修正しこれをやり過ごす事に成功します。
やがて第八艦隊はもっとも危険な水道を突破し、ツラギ泊地の目前まで侵入する事に成功します。
「帝国海軍伝統の夜戦において必勝を期し突撃せんとす。各員冷静沈着、事に当たりよく全力を尽くすべし」
鳥海から全艦に向けて発せられた三上提督の訓辞を受け、第八艦隊は攻撃態勢へと移行、艦載機による吊光弾の投下を合図として「全軍突撃」を開始し、月月火水木金金の猛訓練によりその極限までに鍛え抜かれた夜間統制魚雷戦を開始します。

 長い哨戒任務に就いていた護衛艦隊の指令、ボード大佐は上陸支援作戦の為疲れ切っていました。
そこへ突然、豪重巡キャンベラが水柱を上げながら傾きます。
更に吊光弾により、格好の標的と化したこの哀れな豪重巡は集中砲撃を受け、瞬く間に艦橋にいた艦長以下主要スタッフを亡き者にしてしました。
次いで米重巡シカゴが相次いで雷撃を受け、駆逐艦パーターソンも被弾します。
僅か五分の反航戦で、敵艦三隻にダメージを与えた第八艦隊側は全くの無傷でありました。
まるで通り雨のような攻撃に連合国軍は混乱し、泊地の輸送船団は我先にと逃げ出し始めました。
又、もう一つの支援艦隊司令のリーフコール大佐は、この状況になっても、日本軍が泊地まで夜襲に来た事実を認めていませんでした。
全てにおいて自分の考えが正しいと思いこんでしまっており、爆発音や砲撃らしき音は友軍が敵を追い払っている物で、艦載機の吊光弾すら味方の物と確信していました。
この誤認がさらなる悲劇を連合軍に、幸運を第八艦隊に招く事になります。 
完全に誤認していたリーフコール大佐は、自らの旗艦米重巡ビンセンスの横を併走していた重巡アストリアに、鳥海の探照灯(サーチライト)による照射がされても「味方がなぜ?」と思っていた程度であり、彼がようやく事実を受け入れた時、探照灯の照射を受け闇にその姿をさらけ出したアストリアは、砲雷撃の洗礼を受け火達磨になっていました。
更に僚艦、重巡クインシーが艦載機に引火し、闇夜に自らの姿をさらけ出し、格好の標的となってしまいます。
その影響で集中砲火にさらされたクインシーは、一発の砲弾を撃ち返す間もなく轟沈。
ビンセンスもまた同様に艦載機が炎上してしまい、その炎は四発の魚雷を招きます。
リーフコール大佐が総員退艦を発した時、第八艦隊は撤収を開始、僅か30分あまりの戦闘でした。
第八艦隊の被害は、旗艦の鳥海の海図室に不発弾が一発有っただけで、皆無と言って良い状態です。
連合軍にとって突然始まり突然終わった初めての夜戦は、気が付いた時には一方的に艦隊が壊滅されていた、という屈辱敵な結果に終わりました。
やがてビンセンスもソロモンの海に沈み、最後にオーストラリア海軍の巡洋艦キャンベラが激しいスコールにも消されない程の強い炎と共に夜の海の底に消えていきました。
この海戦はアメリカ海軍史上最悪の結果となり、すぐに調査委員会と査問委員会が発足し指揮官の問題と敗因追及が始まりました。
その結果、指揮官のリーフコール大佐はほとんど廃人になってしまい、鳥海への海図室に砲弾を撃ち込んだのは自分で、その結果泊地の輸送船団が無事に済んだのだ、とふれ歩くようになってしまい、ボード大佐に至っては報告書を上げた後、司令部の風呂場で自殺をしてしまった。

一五六八年に、メンダナが名付けたサボ海峡――しかしこの海峡をその名前で呼ぶ者はいない。

鉄底海峡――

この戦闘以後、サボ海峡はこう呼ばれる事になる。

 ほとんど完璧に近い戦術的大戦果を挙げた三川提督率いる第八艦隊ですけど、戦略的視点から見た場合は多くの不備が目立ちます。
それは本来の目的であるルンガ泊地とツラギ泊地にあった肝心な輸送船団を逃し、敵上陸地点への攻撃を怠り撤退する艦隊を追うこともしなかった事です。
その結果、陸揚げされた支援物資は全て残り、日本軍がやっとの思いで作り上げた飛行場は瞬く間に整備され、その後航空隊が進駐してガダルカナルの防備は強化されてしまい、以後の戦局に大きな影響を与えることになります。
そしてこの後、この島を巡って幾度と無く戦闘が起き、この海峡でも海戦が数度勃発します。
先の夜戦で完璧なワンサイドゲームを演じた立て役者、第八艦隊と鳥海もまた四ヶ月後、再びこの場所を訪れ第三次ソロモン海戦に参加し今度は傷つく事になるわけです。
レーダーなどのエレクトロニクス技術が、人間の限界以上の力を発揮し始めたのです。
海上での戦闘も地獄の有様ですが、地上での戦闘はより悲惨でした。
「ガ島」は「飢島」となり「殺人諸島」としてのその姿を、より一層強い物にしてゆきます。
此処で敵は何も連合国軍だけではなかく、島の住民が、気候が、虫が、全てが敵でした。
食べる物はなく熱病が蔓延し、あまりにも多くの者が闘わずに命を落としました。
以後、数度に渡り海軍は何とかして補給を送ろうと躍起になり、駆逐艦や潜水艦での補給を試したが、ほとんど全てが失敗に終わります。
航空機による物資輸送もまた、レーダー技術の進化に伴い自殺行為となてしまい、島に残された将兵達を助け出そうにも、船が近づくことすら出来ない状況になっていました。


 さて、鉄底海峡の新たな生け贄にはならず何とか戦い抜いた鳥海は、レイテ海戦に四姉妹が揃って参加する事になります。
艦隊旗艦用として誕生した高雄、愛宕、鳥海、摩耶の四姉妹は十月二三日、レイテに向かう途中、米潜水艦の待ち伏せに合い高雄・愛宕が同時に雷撃を受けてしまいます。
高雄は耐えられましたが、次女の愛宕はそのままパラワン海にその姿を沈めます。
その直後、末っ娘の摩耶も同様に米潜の雷撃により沈没し後を追います。
第一次ソロモン海戦の立て役者である三女の鳥海も、二日後の十月二五日、駆逐艦の雷撃と多数の航空機による攻撃を受け大破落後。
味方駆逐艦「藤波」の雷撃による自沈処分となりその生涯を終えました。


 その後もソロモンの島々は、それらを支配する為にすさまじい量の鉄と血肉を強要し続けていきます。
日本軍はガダルカナル島を求めて行った無益な作戦で十七万人以上もの犠牲者を出し、鉄底海峡では僅か十七ヶ月の間に、米軍、空母二隻、巡洋艦九隻、駆逐艦一八隻、輸送艦や油送艦八隻、揚陸艦三隻、魚雷艇一五隻、他補助艦艇数十隻を。
日本軍は、空母二隻、戦艦二隻、巡洋艦八隻、三七隻の駆逐艦と十一隻の潜水艦、無数の輸送船をそれぞれ生け贄に捧げる事になります。
他にも豪州軍や英国軍の艦艇もこの海峡に沈み、今でも鉄塊となっています。

ソロモンの海と島々は、まさに死の島々でした。
両軍がこれだけの犠牲を払って奪い合いを続けたガダルカナルの小さな飛行場は、現在はその跡地があるだけで機能していません。
この島々は、再び人々の記憶から消えて行くのでしょう。

尚、高雄級の四姉妹の長女「高雄」は航行不能状態では有ったが大戦を生き抜き、シンガポールで終戦を迎えマラッカ海峡にて海没処分となりました。


総員隊艦!