さようなら戸倉章先生


 《CおじいちゃんDの暖かさ》
 「先生、どうもお久しぶりです」
 「やあごくろうさん」
 「先生、お身体の方はいかがですか」
 「まあ、まあだな。ヘッヘッヘヘ…………」
 昭和44年の対京都大戦で、園田純生と京大道場を訪れた時、戸倉章先生は京の凍み入るような寒さから身を守るように手を忙しくすり合わせていた。
 「ソコだ!腰を使え!」と気合を入れてくれた激しさはなかった。的枠に残った矢尻を「俺に任せておけ」とギリ粉入れの鹿角を差し込んで抜き取ってくれたCおじいちゃんDの暖かさしか、そこには残っていなかった。
 思えば大学4年間、どれだけお世話になったことだろうか。卒業し新聞記者になってからもネタの提供をしていただいたこともある。「筆を執りますよ」といったら「どうせ悪口しか書かんのだろう。石頭め!ちっとも変わっちゃあいねえ」とニガ笑いするでしょうね。最後まで悪態をつき、甘えるのをお許し下さい。

 《弓道なんて荷が重い》
 駒場道場での菓子コンパ。戸倉先生と初の対面。
 「弓道なんて荷が重い。私は術を教えるだけですから。道は自分で探して下さい」
 自己紹介の時の話を聞いて、いやにつけあがった、ひねくれた爺さんとしか思えなかった。だが、コンパのあとで指導を受けたら、第一印象が間違っていることに気づいた。
                 (昭和36年4月21日)
 ギリギリ、ポンの「かけほどき」で「これが無念無想。まさに弓道」なんて思い込み、弓の神秘性にあこがれていたC純な青年Dにはショックだった。まるでロマンチシズムがマルキシズムにぶん殴られたみたい。
 戸倉先生から指導を受ける。腰の入れ方を注意される。胴造りで一喝。
 「一度つくった胴造りは最後まで崩すな」
 手本を見せていただき、それに倣う。縦線の伸びを感じ取る。「しかし、先生。こんなに腰を入れたら、照るんじゃないですか」と反論した。
 「そうなったら、また直してやる。こういうものがあるということを知れ」
 さらに
 「胴造りのこの呼吸が弓術から弓道に通じる一つの関門だ」
 今日の稽古はやけに手厳しい。
            (38年4月1日=沼津合宿3日目)
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 合宿に三つの名物があった。一つは津田増夫の落語まで折り込んだ長い長い寝言。先を越されたら寝られぬほどの中村賢司の大イビキ。そして戸倉先生の「話好き」。
 この戸倉先生名物を生かしていただいたのが37年春の駒場合宿だった(駒場の合宿はこの時が初めてで、翌年から検見川合宿)。三晩にわたり戸倉先生の講義が続いた。古事記から始まって本多流の発生まで。この合宿はいつもの弓合宿とは違って弓のほか、サッカー、ランニング、サーキットなど体力づくりが重点。学生の方は昼間の疲れでバテ気味だ。
 「アマノハジユミとは…………」
 先生の熱弁が、オーバーや毛布をかぶった学生の耳元を通り過ぎる。
 これを知るや知らずや戸倉先生
 「川を流れてきた矢は、厠に座っていた女性の陰部を突き…………」
 エロチック物語に、トローンとした学生の目はパッチリ。
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 戸倉先生が射礼の権威であることは自他ともに認めるところ。五月祭射会には毎年、3年生が古式射礼を指導していただいた。だが、この射礼の権威、稽古の時には別に堅苦しいことはおっしゃらなかった。
 「弓は楽しまなくては」
 駒場の道場に来られて、道場の入り口手前から斜めに矢を飛ばしてみたり、「中りが初心者には最高の刺激」と尺五的を使わせたり、射位を前に移させたり、自由闊達だった。
 「中りだけは捨てるなよ」

 《戸倉流から逃げろ》

 大学4年間の弓を振り返ると一つの目標はいかに戸倉先生の弓を吸収し、乗り越えるかにあった。こんなことをいうと「カッコイイ」とヤジが飛んできそうだが、実は「乗り越える」のではなく「逃亡」を企てたといった方が事実に近いようだ。
 行きつ戻りつ、ためらい、そして時には猛然と突っ走った。
 100射63中。十文字取懸けなど戸倉先生から指導。離れの不安がなくなる。上にはね上げる気持ちで離すときれいに離れる。入部当初、「拇指を起こして離す」といったら「弦に引っ張られて自然に離れるのがいい」と主張された戸倉先生だが、最近は離れでの拇指の動きについては何もいわない。
                  (36年11月7日)
 井出敦夫さんの矢渡しで合宿が始まった。寺嶋廣文先生と戸倉先生がいらっしゃったので、取懸けをどちらにしようかと迷ってしまった。寺嶋流にしてみると離れが強く、気持ちがよいので、寺嶋流で押した。しかし、戸倉先生の前では戸倉流でやった。対照的な二つの取懸けは的前講義の時、対決した。
 戸倉先生は、最終的には同じものであって寺嶋流の拇指を突っ込んで取懸けるのは初心者にとって無駄な力が入り過ぎる、と主張。寺嶋先生は、京大戦の時(昭和36年)に寺島孝一さんが第一回目にドスッタのは戸倉流の十文字の取懸けだったからで。その後の16射12中の好成績は寺嶋流の実績と反論。
 講義終了後、戸倉先生に改めてお聞きしたら、「下弦を引くように拇指のハラでとる」ことをいっているので、寺嶋先生の方法と変わりはない、と再度強調された。しかし、どう見ても会に入ってからも弦の張り方も違うし、離れ方まで、まるで変わってくるのだから、同じでないはず。
            (37年4月1日=大宮春合宿初日)
 午前中は十文字の取懸けでやったら13中した。昨日の中りが余りにも悪いので十文字取懸けの良さを感じた。しかし、味気ない。一つ先にある山を見ながら麓でウロウロしているみたいだ。トライ・アンド・エラー。明日から寺嶋流にかけよう。
                (同月2日=合宿2日目)
 このC反逆の弟子Dの気持ちを感じ取られたのだろうか、2年半ばころから戸倉先生は、取懸けや深い弓手手の内のことはあまり口にされなくなった。「力みすぎだ」と両肩にポンポンと手を置いて、ハヤル馬を鎮める調教師のよう。それとも「救いようがない」とサジを投げていたのかもしれない。
 射のことはいわれなくなったかわりに、「射を見る目をつくれ」といろいろな写真を駒場の道場へ持ってこられた。
 試験を前に部員も少なくなった38年2月、戸倉先生自身の還暦射会の写真(37年12月9日、三鷹市の寂光洞での答射礼)を道場の床に並べた。「批評しろ」という。本人の先生が前にいるので気後れ。なかなかまとまらない。懸命にあら探し。八方破れの批評しかできない。先生は「フム、フム」と聞いているだけ。一本くらい的に当たったかなと思って、先生の表情をうかがってみてもさっぱりわからなかった。
 やがて新学期、戸倉先生がその写真に「自賛」を書いて下さった。自賛には細かい説明や欠点の指摘が記されてあった。
 「一手とも近来稀な上出来の射。
 当日の気分が如何に射に影響するかということが更によくわかった」
 と結んであった。
 それから一年。生弓会発会式(38年10月)の写真を持ってこられた。森岡正陽先輩が撮影されたもので、当時の弓界大御所を含め、諸先生方の射がそろっていた。
 「取懸けが浅いから、勝手の肘が納まっていない」
 「顔向けが悪い」
 「腕を振って離している」
 「握りが落ちて見苦しい」
 「残心の緊張感がない」
 …………。
 十段の先生といえども写真は技を忠実に写し出している。言いたい放題を並べ立てた。
 数日後の卒業生送別射会。
 「恐れ入った。あそこまでいうとはな。何か欲しいものがあったらいえよ」
 内心シメタと思った。あの批評がパスしたのならC逃亡D成功だ。気負いすぎた送別の射の失敗も忘れてC勝利の美酒Dに酔おうかと思ったら
 「だがなあ、俺は取懸けの件については、納得しないぞ」
 戸倉先生がはっきりいった。
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 大学4年になると、戸倉先生は余り本郷道場に来られなくなった。39年秋、本郷道場の暗い明かりの下で巻藁を見ていただいた。1本、2本、矢を重ねても何もいわない。4本目の離れ。
 「つのっている」
 大声でひとこと。それが最後の稽古だった。


戸倉章先生の蟇目射礼

1963年5月18日
東大五月祭
育徳堂

 《C幻の弓Dにしないために》
 社会人になってもう6年。各地を転々と歩きながら、思い出したように弓を握ってみた。一人静かに引いている時、本多流がC幻の弓Dになりはしないかな、とふと思う。こんな弱気をはいたら寺嶋先生はカラカラと笑い出されるでしょう。
 どこの公営道場へいっても師範格、世話役の先生がるものですが、本多流の弓を理解してくれない。「気合はいいですね」とほめてくれる人があっても、それ以上は進まない。手の内の話でもしようものなら「そんな射法があるもんですか」といった顔をして、議論も肩透かしだ。無視されるか、せいぜい矢取りの人数が増えたとありがたがられるくらい。学生時代、他の道場へ行って対等の議論ができたのは、やはり「東大弓術部」の名前が後ろに控えていたからか、とつくづく思う。
 北九州にいる田中潔が一時、弓の道場通いをした。ポンポン中るが、師範の方は「ココを直せ」「アソコを直せ」と射型の大改造を要求。率直に従わなかったら、結局、試合にも出してもらえなかった。「大学で本多流を習ったといっても、社会に出るとなかなか難しいね」と嘆いていた。
 こんな時の流れに抗して「それなら本多流のスザマシイ矢を飛ばして目にものを見せてやろうか」と力んでみても、稽古不足の身体がいうことをきかない。マメをつくって悪戦苦闘をしているうちに、転勤ということになってしまう。
 ただ残念なのは、「私は本多流です」といっている人たちが理解しようともしてくれないことだ。
 本多流とはいかなるものか||。もっとも手取り早くて本筋を外さないのは、本多利實翁の写真を分析することだ。本郷の道場には、額に入れてある写真(華族会館で写した七道)をはじめ、資料がたくさんある。卒業してから寺嶋先生から送っていただいた翁の褌姿の射型写真には感激している。ここに本多流を見る。この写真は岡崎政一先輩が大内道場で見つけ出されたと聞いている。
 これらの写真でわからないことがあったら、翁に直接、教えを受けた先輩にお聞きすればよい。本多流なんていうと、まるで遠い昔に遡るような錯覚にとらわれるけれど、まだ百年も経てはいない。
 さてここで、手元にある老師の写真と生弓会発会式に出席された諸先生方の写真を比べてみる。答えは明らかだ。老師に直接教えを受けた寺嶋先生の射に本多流の原型が流れていることを感じる。寺嶋先生の話によると、この生弓会発会式の射は会心のものだったという。離れの形。両手の内の動き。老師の射風にあまりにも似ているのでビックリ。他の先生方の写真には「コレゾ本多流」とあげるべきものは見当たらない。おもしろいことに、この寺嶋先生の射、目が生きている。もちろん小さな写真の上、眼鏡の反射で目玉そのものの動きはわからないのだが、生きているように見える。十段先生のは目が死んでいる。もっとも、死んだ目が「無念無想の射」を現しているというような声が出てくるのかもしれない。
 戸倉先生は寺嶋先生の射を初めて見て、驚かれたという。恐らく、「本多流はコレダ」というヒラメキがあったのではないだろうか。「弓矢に生きる」の著書で巻頭写真に寺嶋先生の離れの写真を掲げ、「正射」の見本を示したことからも推測できる。戸倉先生は、どれが本多流で、どれが本多流でないか、よくわかっていた。
 戸倉先生はよく言われた。「寺嶋さんの弓は大技」「寺嶋さんの弓は高等技術」と。今から思うと、それを強調しすぎ、学生には到底手の届かない弓だとの印象を与え、吸収力の強い学生の前向き姿勢にブレーキをかけたのではないか、とも思う。
 昨年暮れ、寺島先生と國学院大学の石岡久夫範士が本多流について意見を交換された。いわば元祖本多流と日弓連本多流の対決だ。国学院の道場で寺島先生が弓をとられC本多流の実際Dを披露された、という知らせを受け、思わず歓声。若い者も泣き言なんかいっていられない。
 そして、間もなく届いた「繹志」13号に、森岡正陽先輩が石岡さんに弓道理念・七道論で議論を挑んでいる。これまた陰ながら声援を送る。
 本多流と日弓連本多流の双方を知っておられた戸倉先生がこの論争に参加されたら、どんなことになっただろうか。
 ここで本多流をとりあげたのは、何もC本多流の血の純粋性Dを主張しようとしたのではない。理にかなった剛健典雅な日本の弓を残そうという願いからだ。合理的弓とかいって洋弓を引き伸ばしたような弓や、Cお稽古ごとDの社交弓では、あまりにも味気がなさ過ぎる。
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 手術後間もない41年夏、白馬の道場に現れた戸倉先生。
 「1週間しか稽古してないが、世間並みはいっているだろう。どうだね」
 巻藁前でチョッピリ自慢された。
 「弓を引くのには身体を鍛えておかなくては」と合宿後の白馬登山計画を語る先生の顔には、病魔と闘う苦痛の色はひとかけらも見えなかった。「弓はまだこれから」と意欲に満ちた表情−−その顔を僕は忘れない。
          (昭和46年2月23日・「繹志」15号)


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