中りの神様と自然流

「自然のまま」を大切にした高木先生



高木先生の会

久喜市の洗心洞で


 《本多流宗家を支える》
 本多利生(としなり)三世宗家が亡くなられて1カ月ほどした平成6年8月、利生さんの射礼や稽古のスナップ写真を引き伸ばして宗家宅にお届けした。ご母堂の乙巳(とみ)さんから利時二世宗家、利生宗家の写真を10枚ほどいただいた。その1枚に目を引きつけられた。東京電力の道場らしい。高木](たすく)先生が和服で片肌を脱ぎ矢を番えている。その後ろに利生さんが、セーター・ズボン姿で、弓倒ししている。ご母堂の話では、利生さんが高校生のころだという。写真はややボケているが、おじいさんが孫に手取り足取り教えているような良い雰囲気が伝わってくる。本多宗家と高木さんの関係を象徴するような一枚の写真である。
 利生宗家は戦時中、埼玉県久喜市清久の高木先生の家に疎開された。弓書の宝庫といわれる生弓斎文庫も東京・巣鴨の生弓会本部から戦前、すでに移されていた。生前に利生さんからうかがった話では、久喜に疎開させられたのは「高木さんから弓を学べ、弓の知識を自然に蓄えよ、という父親の配慮だった」という。父利時さんは家族の疎開先・盛岡から東京へ帰る途中に発病し、高木さんのいる久喜で下車したが、手当の甲斐もなく昭和20年10月6日に亡くなられた。

 《追悼射会でお手伝い》
 いまから、32年前の昭和39年523日、私が東京大学4年生で、ちょうど五月祭のときに小野忠信先輩から高木師範の訃報を受け取り、先輩のみなさんに連絡した。戸倉章師範との連絡がとれず、戸倉さんの家に飛んで行って帰りを待ったのを思い出す。6月13日に東大の育徳堂で追悼射会が催され、私は在校生のひとりとしてお手伝いした。その直前に、高木さんの射影を借りに久喜に行き、写真が見つかる間に、洗心洞で弓を引いた記憶がある。追悼射会は東大弓術部、赤門弓友会、反求会の共催で行われた。学士会館での偲ぶ会には、全日本学生弓道連盟会長の樋口実さんらOBの大物がたくさんおみえになり、高木さんの名人芸や戦後の弓道追放や弓界立て直しの話に花が咲いた。

 《宗家の権限を一時預かる》
 高木先生は全日本弓道連盟副会長として射法制定に携ったり、全日本学生弓道連盟の戦後復興初代会長として弓界の発展に尽くされた。東大弓術部にとっては、まさに本多流の「星」であり、高木さん抜きに部史は語れない。流祖・本多利實翁の一番若い学生の弟子だった。寺嶋廣文師範の話によると、老師の弦取り指導では、高木さんは全く力を抜いて老師にフーフーいわせて弦を取らせるなど、かなり茶目っ気もあったらしい。大正6年10月13日、利實翁が浅草で交通事故にあわれ亡くなられたときは、多くの学生がテクテク歩いて帰ったのに、病院から棺とともに車に乗って巣鴨まで同道したことを、高木さんご自身が日弓連機関誌「弓道」の座談会で話されている。
 流祖が亡くなられたときに備えて、宗家の権限を東大弓術部に預かってもらう「覚書」が大正5年12月19日につくられているが、それにも立ち会って、当時の山川健次郎東大総長に報告し、関係書類を大学本部に預かってもらっている。「勝手なことをした」と総長から怒こられるかと思っていたら、「よくやった」と総長が手をついて感謝の言葉を述べたという。「覚書」には「利時今なお幼年未熟なるをもって他日その道に練達し弓術部師範たるに適するに至るまで門弟に対し家元の有する一切の権限はこれを東京帝国大学弓術部において保管すること」など4カ条が記されていた。
 大正六年には東大弓術部編「尾州竹林派弓術書」(いわゆる大正版)が高木さんが代表になって編纂されている。

 《本多流はよく中る》
 正確無比な射、中りの名人芸がよく語り継がれている。一高・東大を通して10年間、学生弓道界に君臨した。「連戦連勝、常に首位を占めてついに下らず、常勝将軍の栄を縦にし」と一高弓術部史にも記されている。東大・京大定期戦で、第1回、2回と連続して20射皆中の快挙を果たしている。よく中ったことが伝説的に語られている。本多流の三蔵といわれ、射仏と号した大平善蔵さんが道場を訪れて、よく中たる高木さんの射を見ていた。「外れたら帰ろう」といっていたところ、高木さんが中て続けて、大平さんが帰れなくなったという話もある。
 道場破りを追い返したことも有名だ。「頼もう」と髭ずらの壮士が東大道場に現れて「高木名手とお手合わせを」と申し出た。1,2,3手と2人とも外さず、これでは勝負にならないと、尺2的から金的勝負に。東大弓術部百年記念誌には四寸的と書いてある。4矢勝負で、壮士は3本目に的枠を打って外したが、高木さんは皆中だったという。
 高木さんは稽古に小さな的をよく使ったらしく、矢師の石津巌さんのところには高木さん手作りの1寸余の小さな的が残っていて、「一本目上八分、二本目一寸、三本目中り」と書き込みがある。この感覚からすると、高木さんにとって、尺2的がいかに広い広い空間か、がうかがえるというものだ。

 《震動流は埼玉の風土病》
 「清久の高木先生」といえば名医、仁術で知られていた。私は埼玉県桶川市の出身で、親類も久喜周辺に何人かいる。姪、甥が高木病院に通ったこともあり、中学生のころ一度自転車でついて行ったことがある。病院というより大きなお屋敷という印象だった。
 私の義理の姉は高木さんに久喜高女時代に指導を受けたが、そのころ先生はかなりの震動流だったと聞いている。私は高校時代からガタブルの震動流だったが、義姉は「弓のうまい人ほどガタブルなのよ」と、冷やかし半分に私を慰めてくれた。高木さんは、戦争末期に梨本宮の前で一手を引いたとき、落とした懐紙を無理してとろうとして肩を痛めたのが震えの原因とかいう話もある。震動流といえば、日弓連埼玉県連会長もした小野忠信さんもすごかった。私は高校、大学とお付き合いさせていただいたが、寺嶋廣文さんに腹を引っ込めるよういわれたら小野さんの震動がぴたり止まったことがある。本多流で秩父農工の原島栄次さんもかなりの震動流。私は射会などに行くと他人から「君のはすごい震えだね」とよくいわれたが、「これは埼玉県の風土病です」と、切り返して澄ましていた。こんな調子だから、私の震動流はいまなお続行中だ。小野さんは、私たちにとっては恩人で、母校浦和高校弓道部を戦後に再興してもらった人だ。東大道場にもよく来られ、活発に動くエネルギッシュな人だった。聞くところによると、小野さんは、利時二世宗家亡き後の本多流を高木家で引き取ったらどうかという考えをもっていたらしく、高木家の方が逆に迷惑した話もうかがっている。33回忌にあたり、そんな裏話の真偽も含め関係者が話していただければありがたいと思う。

 《「雪の日」の連想》
 高木先生の業績は語り尽くせない。意外なのは、高木さんご自身が書いた文献が非常に少ないことだ。すぐ思いつくのは、「弓道教本」第二巻の射法解説と日弓連機関誌「弓道」の「本多流」、それに戦前の「弓道講座」の「弓術の医学的常識」で、同工異曲の表現が多い。東大弓術部機関誌「繹志」にはわずか1回、創刊号(昭和32年)に極めて短い一文を寄せているだけだ。
「 思い出  高木 ・ 
 第一回京大戦
  大正七年十二月二十三日
 雪の日         」      
 わずか4行のこの文も、弓術部の役員が頼みに頼んで書いてもらったとか。この試合では20射皆中をしており、この文章は禅問答のように味わいが深い。表題や年月日を取ると、「雪の日」の3文字が残る。日置流竹林派の弓術書に出てくる「雪の目付」を連想するし、真っ白い雪の空間が頭の中に広がってくる。洗心洞の矢道の落ち葉を掃こうとしたら「自然のままがいい」と先生がおっしゃったという話を、ご子息泰(ゆたか)さん夫人の久子さんから先日うかがったが、「洗石」と号した高木さんの「自然流」がこの一文にも現れているようだ。3文字を勝手に解釈すると、「あるがままの射を引け」といってるようでもあり「ごちゃごちゃいうより、射を磨け」といっているようでもある。
 ご自身の書き物が少ないというのなら、もっと高木さんの記録をしっかりさせておく必要がある。洗心洞稽古会の坂本武彦さんや多々良茂さんらにしつこいほどいっている。高木さんと洗心洞の記録を残す義務があるのではないかと。洗心洞の洞守・横山粂吉先生が高木さんの講義をメモした資料も残っているという。記録や各種の証言が散逸しないうちに、短期間に取り組まねばならない。この原稿もそのために役立てばうれしい。
 これまで洗心洞の道場を提供し本多流弓術を支えていただいた高木家の皆さんに深くお礼申し上げます。私たちも、四世宗家利永さんを盛り立てて本多流を継承・発展させていきますので、高木 ・ 先生、見守っていて下さい。
 (平成8年5月12日・高木先生33回忌追善射会の日に=横山粂吉先生傘寿記念誌「調和の射姿」から)
 注 「高木]」の]は非かんむりに木


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