「日の出」はくるのだろうか

わが心の寺嶋廣文先生





本多流の弓を
徹底追求された。
1982年12月12日
東大育徳堂で


 ◇黄金の腕は冷たく
 安らかな顔だった。いまにも瞳を開けそうに、まぶたが柔らかに細かいひだをつくっていた。透き通るような白い毛が動いているかのよう。歯の白さが、異様に目立つ。92歳。弓にかけた一生だった。
 寺嶋廣文先生の顔に、再び白い布を置いた時、丸一日こらえてきた感情が一挙に吹き出した。ご子息の廣興さんに改めてあいさつしようとしたが、もう言葉にならない。視界はゆがむばかりだ。
 先生の自慢だった巻藁道場には、私が九州から贈った博多人形「茶を点てる少女」が悲しみをこらえている。居間には、金沢・江戸村で撮った時子夫人の遺影が微笑みかけている。信州・湯ノ丸高原のクジャクチョウが、赤い色をギラギラさせながらパネルの中で飛び交っている。寝室ベッドの枕元には五月祭の射礼の写真。天を突くような独特の打起しだ。庭には、私の子どもたちに最も人気のあった夏ミカンが、金色の光を反射させている。
 別れの時はすぐにやってきた。儀式は人間の感情を押しつぶすように冷酷にやってくる。納棺には廣興さん夫妻、お孫さん夫婦3組に私も加わらせていただいた。旅立ちの手甲をつけた。あの烈しい「本多流の離れ」を生み出した黄金の腕、手、指は、ドライアイスに冷やされ、固く冷たかった。あの芸術品はもう生のままでは、だれも見られない。身体はずしりと重く、なお暖かさが指に伝わってきた。大好きだったコーヒーの豆、今年出すはずだった年賀状などが棺に納められた。台車に乗った棺は、逗子・小坪の細い坂道をゴトゴトと下った。「さようなら、おじいちゃん」。私の42年の歩みの中で心の支えになってきた大きな柱が、消え去って行くのを感じた。

 ◇途絶えたC定期便D
 20年間、平均月1回のC寺嶋定期便Dが途絶えていた。昭和59年11月、廣興さん、茎田実さん(41年卒)、弓術部の佐藤一哉主務(当時)からの相次ぐ連絡で、寺嶋先生の入院、手術を名古屋で知った。「相当重いな」と思った。手足が十分動かない時ですら代筆まで頼んで手紙を送ってきていたのに、それもなかったからだ。先生の最後の書簡は9月8日付だった。
 「八月三十日神城から無事帰宅。神城では食欲も出たり、持参した車椅子のお陰で体は楽だった。但し、半分は砂利道故、学生はアブラアセ。文明の利器は田舎には向かぬ。
 涼しさがもどってきたので元気になりましょう。それで京大戦には十一月二十三日出かけようかと思っています。碧海部長、来年三月が停年ということもある。新部長には藤元先生にお願いするつもりらしい。そしてビデオの作者、小林の岩橋さんを訪ねたいと思っている。学生に伊丹まで送ってもらえば、何とかなると考えてのこと。但し、当の岩橋先生が不調らしいので受け入れが出来るかどうか。」
 長野・白馬の東大弓術部合宿の報告ばかりでなく、京大戦そして宮崎県小林市へのC本多流行脚D。この快気炎からは重病の予測はつかなかった。廣興さんらの連絡を受けて、さっそく見舞状を書いた。三十三間堂通し矢で有名な尾州藩星野勘左衛門の話などを入れた。廣興さんの連絡で耳にこびりついていたのは、「何せ歳が歳ですから。気も弱くなっているようですし……」のひとことだった。
 「生命力の強い先生のことだ。まだまだ」と私は思い込もうとしてきた。病院にでも見舞いに行けば、51年に新宿の国立医療センターに入院した時のように「私が死ぬとでも思っているのかい」とやられかねないな、と思ったりもした。
 「先生が今朝6時過ぎ亡くなられました」。59年12月18日午前9時、朝日新聞名古屋本社の夕刊デスク勤務中に茎田さんから受けた電話は、とても唐突に思えた。棒を飲み込んだような感じがした。来るときが来たんだ、と平静を保とうとしたが、しばらくは仕事が手につかなかった。

 ◇見透かされた慢心
 「頬付けが高いぞ」
 「もっと手の内(押手)の薬指、小指を緩めて」
 寺嶋先生の注文が付く。弓手の伸びはよく、離れで弓がトーンと背中に飛んだ。
 「こんなに弱い弓でも、弓が飛ぶんだからおもしろいね。やはり手の内だね」
 58年4月2日、小坪の自宅にある巻藁道場で、おじいちゃんは上機嫌だった。私も「おじいちゃんを喜ばしちゃった」と内心得意だった。先生の弓の強さは10数キロ。先生の弓を借りて稽古する限りでは、小細工はできる、いくらでも先生の好みの射をやってみせますよーーそんな気持ちで道場へ臨んだのだ。ご褒美をいただくような気持ちで、夕食用の新鮮な魚を手に、意気揚々と引き揚げた。
 その翌日に書かれた手紙が、すぐ届いた。
 「昨日は驚きましたね。お子様のお出かけかと思ったら、弓のおケイコ。稽古をしていない大兄に文句はつけられないが、押手はも少し低い方が中りはよいはず。頬づけが不安定なのは原因がつかめませんが、上唇の線を下らないようにしたい。しかし、これは稽古不足の大兄には無理な注文。押手の肩は使わず、左肘で弓を受ければ、出来ないことはありますまい。
 手首を使ったら、弓が飛んだのも面白かった。私にはいい材料。手首を使ったら、矢の飛びが締まるかどうか。締まれば中るはず。実験の結果を報せて下さい。目下の焦点は押手を浮かさないこと。
 追記 矢が上にぬけてぬけてどうにもならぬ時は、離れの瞬時に上押しをかけると中りがあるものです。試してご覧なさい。
 今日三日は暖かいので大助り」
 手紙を読みながらウームとうなった。57年12月12日に行われた藤田忠先生の傘寿祝賀射会の射については「とくに大兄の射は満点」と講評を書き送られていた。「稽古なんかしなくても格好はつくわい」と思いかけていた天狗の鼻はポキン。慢心を見透かされていた。


寺嶋先生の会

1963年5月18日
東大五月祭で
育徳堂



 ◇「お役ご免になれ」
 寺嶋先生とのお付き合いは、学生時代を含めて4半世紀。いま、本当に先生の弓がわかっていたのかな、と思う。最高の弓と認めているのだが、ではどれだけ吸収できたの、といわれると、口ごもらざるを得ないのだ。新聞記者という職業柄にかこつけて「忙しい」を理由に、弓から逃亡し続けたのではないか。おじいちゃんへの個人的な親しさ、それに紛らしてごまかしが多すぎたのではないか。反省すれば切りがない。
 「お役ご免になりませんか」ーー名古屋に送られてきた59年の年賀状にこう書いてあった。「本気で私の弓にほれこんでいるのなら、仕事を捨てるぐらいの覚悟で稽古したらどうですか」と、先生からいわれているような気がした。
 昭和40年の「繹志」卒業論文に「僕の弓」という一文を書き、「本鷹の矢」にも掲載していただいた。あれから20年、私の弓はやはり「僕の弓」であり、個人本位の「僕の弓」を脱皮するまでには成長しなかった。あの時「あと5万本も引けば目安が付く」などと大見栄を切ったりもしたが、矢数すら本気でかけたことはありはしない。約束違反の積み重ねでもあった。

 ◇みやげに梅の花
 約束違反の積み重ね、といったが、先生のふところは広く、とがめだてをするようなことはなかった。ふんわりしたボールを投げてくるだけで、私の甘えを許してくれた。本多流にかけるすざましい執念、それと好対照の人柄の良さーー人間の生きざまを示すひとつの手本であった。
 「何もないけど、鎌倉の香りでも味わってくれよ」といって、先生が差し出したのは梅の花一枝だった。昭和55年1月5日、家族を引き連れて小坪の自宅にお邪魔し、退出する時のことだ。「子どもさんたちが来ることを事前に連絡してもらえば、何か用意したのに……。花は奥さん用かな」。やや照れながらも、ごく自然なしぐさ。こんな行為に粗野な私は完全に惹かれてしまう。
 外交官時代に培った素養を私にも伝授しようとした。テーブルマナー、ホストとしての接客の仕方……。私の方は尻込みし、逃げまくった。逃亡は成功したように思う。
 先生の人柄に惹かれたのは、私だけではない。文豪・島崎藤村もそのひとりだった。
 「自分等両人はT代理公使の厚意からこの公使邸に客となった。T代理公使のやうな人の何くれとない心づけで、このわたしが助けられたことは言葉に尽せないばかりでなく、家内はまた家内で同夫人のやうな情けを知る人に逢ふことが出来たと言って、夫人がアルゼンチン生れの女中に運ばせてよこして呉れる果実、パン、それから亜国名産のパタ、牛乳なぞも自分等の口に適ひ、実にうれしかった」
 藤村が昭和12年に書いた「巡礼」のアルゼンチン訪問の項の一節だ。T代理公使とは寺嶋先生、夫人とは時子夫人のことだ。雪舟の水墨画の話なども織り込まれ、藤村の先生ご夫妻に対する感謝の言葉がはさまれている。杉山広さん(36年卒)の話によると、木曽の藤村記念館に藤村と先生の並んだ写真が掲げてあるという。藤村もわずか短い間で先生にほれ込んだ。長い付き合いの私が、惹かれるのも、ごく当たり前なのだ。
 この「巡礼」の本は、先生が亡くなられたあとの59年末、廣興さんから届けられた。先生が病床の中で私に「受け取る気があるか」と廣興さんを通して打診してきたものだった。この新潮文庫版には、入手のいきさつ、文中にある頭文字で表した人の実名、公使邸の地図などが万年筆で書き込まれ、「離亜の際、四百米弗を出されたが辞退、旧詩二章は一時帰国の際送られる」と記してあった。私にとって貴重な遺品となった。
 まろやかな人柄に比べ、本多流となると姿は一変した。戦闘的だった。47年2月2日に書かれた書簡がそれをよく物語る。内山康一さん(41年卒)から、先生のご高齢を考えて弓術部師範の交代の話が出ているとの相談を受けた。さっそく大阪から先生の考えを打診する手紙を出したら、強烈なスマッシュが返ってきた。
 「三十日の御手紙拝受。やめるなんてトンデモない。足腰の立つ内は本郷え。立たなくても、口はきゝます。
 アメリカサンヨ、日本から手を引けと誰が言い出すか。それが国民運動に発展するか。私はそれをみてから死にたい。ソンナ時勢は来ないとわかっていても、ソレデ弓でうさ晴らす。又言いますよ。引退はしないと。
 翁の射は伝わで果てじ八十路春」

 ◇腑分けの論理
 人柄の良さは書き尽くせない。しかし、寺嶋先生にうかがえば「射を観てくれよ」の返事が返ってきそうだ。
 「弓もやはりフワケですよ」
 「……。はあ、フワケですか」
 「杉田玄白の解体新書だ。腑分けをやって初めて近代医学が動き始めた。腑分けをしないと弓は分からない。精神論や天分論で弓をやっていると、何も分からない。その人にあった弓をどう引くかだ」
 50年2月16日、小坪の自宅で先生は熱弁をふるった。「本多流始祖射技解説」を執筆中の時だ。「フワケ」なんてまた何を言い出すのかなあと思った。
 「諸流派が残っているというのも、先人の形を定形化しているわけだが、古文書に記されている文字だけを守ろうとすると、おかしくなるし、無理が出てくる。腑分けをして、どこがポイントか、押さえるところを押さえないとね」
 腑分けの主張ーー当世風の弓に対する先生の強烈なアンチテーゼ。弓術書の用語にこだわる私への批判も込められていた。腑分けについては「射技解説」の総論や離れの項でも触れられている。わかりやすく言えば、射の科学的解明だ。先生にしてみれば、自分の思っている射は科学的解明に十分耐えうるという自負があった。ポイントを押さえれば、体重をかけた矢が早く強く飛ぶ「剛健典雅」な射ができる、という信念があった。
 そのポイントとは何か。足踏み、胴づくりの重心、弓構えから始まる両手の内、打起しから大三、会への勝手のアーチ、押手肘の弓の力の受け方、離れでの押手中指抜き、勝手の返し……。「射技解説」に七道のそれぞれの勘どころが記されている。
 そのひとつ、中指で握る押手手の内を見てみよう。中指一本で弓を握り、薬指、小指を緩めた組み合わせに、弓返りの強さと冴えた弦音の秘密はある。流祖本多利實翁の弓返りが、握りが落ちもせず一往復半もしたという話は、やや誇大な感じはするが、離れでの中指抜きがなければ実現不可能と想像する。「爪ぞろえ」「紅葉重ね」の手の内では限界があるのは明らかだ。道場に掲げてある利實翁の写真の手の内と、離れの裸の写真での中指抜きが、寺嶋先生のいう手の内を示してくれる。
 この手の内、本多流の先生方のなかでもマスターしている人はあまりいない。「こんな素晴らしいものを知らない人が多いということはどういうことなんですか。利實翁がそう指導していたのなら、もっと多くの人が、この手の内を主張してもいいと思うのですが」と、寺嶋先生に問いかけたこともあった。そうしたら「じいさん(利實翁)は弦をとって『ウメイ、ウメイ』というだけで、口でどうこういうことはなかった。じいさんの手の内をわかった人でも、弟子に口で『これだ』といって教えることはなかったのではないか。プロの名人ともなると、自分でつかんだ秘密はじっとしまっておく人が多いですからね」という返事が返ってきた。


寺嶋先生の離れ

1963年5月18日
東大五月祭
育徳堂



 ◇果敢なトライヤル
 老師の写真の射は寺嶋先生の射と似ていないという人もいるが、射技のポイントを絞りながら見ていただきたい。両手の内、勝手のアーチ、押手肘の受け方……と共通点はすぐわかるはず。あまりにも違う両者の体形を差し引かないと、目がだまされてしまう。押手にしても正常型の老師と猿腕型の寺嶋先生とでは印象が違ってくるのは当然だ。ただ、老師の大三の写真についていえば、勝手のアーチはなく、寺嶋先生は気に入らなかったよう。先生自身の写真を点検してみると、先生のもアーチになっていないものがあり、射者の気持ちと形が食い違うことはよくあるようだ。だから、写真を撮った時の射が最善だったのか、いつも点検する必要があるのかもしれない。
 押手の肘の受け方も、議論のあるところだ。寺嶋先生も時によって微妙に角度が変わっていた。教える時も押手を巻き込む人には肘の内側を天井に向けるような極端な注文をしたりしており、稽古の段階で受け止める方の印象もそれぞれ違ってくる。老師の肘の角度が完成型とみていいように思える。
 寺嶋先生の射も東大弓術部の師範になられた時と、その後の射ではだいぶ違う。矢数をかけておられた昭和40年前後が一番精彩を放っていたように思う。当初から完成型ではなく、弓術部員を相手にしながら、研究の積み重ねがあった。先生の弓を「天才の弓」と位置づけてしまうのは容易だが、日常の努力、研究を私は重くみたいと思う。先生は「打起しから大三移行の時の勝手のたぐり(アーチ)の実験を学生相手にやってみたが、うまくいかないもんだねえ」、など実験の成否をよく語ったりしていた。先生の仮説通りにならず、先生を嘆かせた部員も多かった。私もそのひとりだったのだと思う。
 歳をとられてからも、果敢なトライヤルの連続だった。老師の射のイメージと自分の射をどう一致させるかが大命題であった。「射のイメージ」を強調、それを優先目標にしたのが特色だった。敢えて類型化すれば、弓の諸先生方の多くは積み上げ型のボトムアップ方式、寺嶋先生のは目標明確型のトップダウン方式。そこに自ずから射の方法論の違いが出てくる。
 日常の積み上げは大事なのだが、目標がはっきりしていなければ稽古も無意味になることは多い。射は的中率の向上という共通の課題があるだけに、的中に力点を置いてしまえば、射型よりも安定性、無難な射に傾くことになる。先生は「飛・中・貫が射の醍醐味」と説いた。そのための射型であった。そして観る人にどう感動を与えるかのイメージを追い続けていた。

 ◇「日の出をみたい」
 寺嶋先生は精神主義を徹底的に排した。もちろん長い間には、弓の稽古と社会人としての生き方を関連づけた話は何度かあった。精神論といえばいえるのかもしれないが、射技そのものに絡めた精神論は全くなかった。「無念無想」なんていわなかった。
 射技なきところに精神論ありーーこんな感じでとらえていた。本多流の弓にかける執念、高齢にもかかわらずたゆみない研究心。その生き方が、我々にひとつの道を示していた。その意味では、言葉のない精神論を身体全体で示してくれたのかもしれない。
 「日の出がみたい。窓を開けてほしい」
 先生の病院での最後の言葉だった。亡くなる前の午前6時ごろといえば、夜明け前。素直に受けとれば「朝の日の光をみたい」ということなのだが、私の勝手な解釈を許していただければ、本多流の隆盛を見たい、という意味になる。また、老師の射のイメージと自分の射が一致することが「日の出」だったのかもしれない。東大弓術部を本多流のメッカにという悲願も感じ取れる。
 私はかつて寺嶋先生から「東大弓術部をどうすべきか」の質問を受け「本多流弓術の実験室にしたらどうですか」と回答したことがある。47年1月20日付の先生からの返書には、こう記してあった。
 「十八日のお手紙、全面賛成。実験室はいいですね。息の長い実験室づくり。その長い間に私のような妙な人間が出てくるでしょう。その点私は、宮坂利明さんの射を見て常に思っていることで、ヒョンなきっかけで、本筋を自得できるものと、幻の人をあてにしています。息を長くすることが、一番大事だと思っています」
 やや意味不明のところがあるが、C幻の人Dを待望しているようである。第二の寺嶋先生が出てくるかどうか。先生は毎年卒業していく人たちの中に数人ずつ、その可能性を見ていたようだ。
 寺嶋先生が亡くなられた今、東大弓術部が利實翁の射を伝える道場として存続しうるのかーー大見栄を切るのは簡単だが、決して楽観は許されないだろう。ただ、救われるのは藤田忠先生、本多利生宗家師範をはじめ、OBの中にも権威者が健在していることだ。また先生がまいた種が、着実に芽をふき出しているような気もする。若い卒業生の中には、弓を手にして活躍している人もいるし、弓を再び握ろうと待機している人も多い。
 私も待機組のひとり。弓を持つ時間もなく身体もいうことをきかなくなってはいるが……。かつて先生に「弓も握れず、まさに口舌の徒になり下がりました」といったら、先生は「朝起きたら布団の上で、離れの形を毎日少しずつやって、筋肉に覚え込ませていれば、それでいいですよ」といわれた。
 「素引き」ならぬ弓を持たない「素離れ」の稽古だ。日弓連の弓道体操は私の高校時代、弓友会の小野忠信さんらがつくって、インタハイ大宮大会(昭和33年)で披露したものだが、「寺嶋式・本多流離れの体操」でもつくろうかなと思う。朝夕の日の光を背中に受けて、自分の長い影をみながら、離れの型の練習をするのは実に気持ちいいものだ。将来、私に弓を握る時間が与えられるのか、となると絶望的で、離れの練習も無意味かなとも思う。が、かすかな可能性に期待をかけるしかない。先生の教えを受けた人々の心の中で寺嶋先生が生き続けるように、先生の弓も生き続けさせなければならない。
            (昭和60年2月4日・名古屋=「繹志」28号)



本多流の東大メッカ論で
快気炎をあげる寺嶋先生
左から藤田忠先生、
本多利生宗家

1982年12月12日
藤田先生傘寿祝射会
の懇親会で
東京・上野の東天紅


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