本多流を支えた人々



本多流の射手たち

本多利生宗家の
生弓会70周年記念講義から




本多利生宗家の射影

本多流生弓会70周年
記念祝射会で
1993年9月26日
東京・綾瀬の東京武道館で


 《利實に心酔した日本5人男》
 利實が射術の改良をして百年以上の歳月が流れ、古い射手たちについて話をしてほしいという声があり、生弓会70周年の機会に話をしたい。利實の弟子たちというと、一般の弓術家の人と学校教育の中で利實に弓を学んだ人たちと2つの大きなグループがあり、分けて話すのが分かりやすいと思う。まず、一般の弓術家の方から始めたい。
 皆さんも1人、2人ぐらいはご存じと思うが、明治末期から大正初期にかけて日本5人男といわれた先生方がいる。大平善蔵(会津)、阿波研造(仙台)、長谷部慶助(東京)、徳永純一郎(九州)、石原七蔵(九州)の5先生だ。明治42年から44年ぐらいにかけて、利實の弟子になった人たちで、利實が京都の武徳会で射を行じたのを見て、感服してそろって入門した。また一説では、大平先生が先に入門して、他の4人を強引に勧誘して弟子にしたという話もある。「本多門下に三蔵(造)あり」といいわれたのは、大平、阿波、石原3先生の名前をとったものだ。三輪善輔先生を入れて、本多門下の四天王ともいわれた。みな当時の日本での名だたる射手だった。
 大平先生は初めは日置流道雪を学び、30歳で武徳会精錬に。明治42年に利實に入門。射仏、素弓とも号した。大正12年に射学院道場をつくった。長谷部先生も加わった。大平先生は昭和27年まで存命だったのに、私は大平先生の弓を見ていない。長男の善治先生は本多流研究会や生弓会にも顔も見せ、一緒に弓も引かせていただいた。
 阿波先生は30歳で仙台に道場を開き、明治43年ごろに二高弓術部の師範になった。「弓と禅」を書いたオイゲン・ヘリゲルも教えをうけた。小町谷操三先生はヘリゲルと阿波先生の間をとりもった人で、二高で阿波先生に教えてもらい東京帝大で利實に入門している。阿波さんの弟子には神永政吉先生(足利)がいる。神永先生は明治40年に利實に入門しており、阿波先生より早い入門だ。福原郁郎先生も神永先生の系統だ。安沢平次郎先生(新潟)、吉田能安先生(岡山)、全日本弓道連盟会長をした中野慶吉先生も阿波先生の弟子だ。
 徳永先生は博多の人で、明治45年に本多流免許皆伝。利實を看板にした大日本弓術会に大正2年に入門、のちに阿波先生とともに師範になっている。石原先生は大蔵派の出で、明治43年に弓術会に入門している。
 利實に直接教えてもらった人としては、群馬で亀井朋次さんがいる。明治48年に利實についた。非常に熱心な方で立派な弓術家だった。大内義一先生にも師事した。3年で武徳会精錬になっている。寿徳斉と称した。荻原喜代次先生が寿徳館道場を伊勢崎につくった。現在でも生弓会の支部が伊勢崎にあり、生弓会師範の大島善春先生を中心に活動が続いており、寿徳会の名も継いでいる。
 大内義一先生は大正4年に武徳会精錬に。利實が亡くなったあとの東京帝大の師範で、学習院の師範もした。生弓会の初期の師範もし本多流の指導にあたった。根矢熊吉先生は、大日本弓術会を運営し、本多流のPRに力があった。
 屋代]三(じょうぞう)先生は静岡の出身。「竹林射法大意」という本多流の名著を書いた。学習院の師範もした。美術学校に務められて、利實に師事した。大正9年に亡くなられている。
 小山梧楼先生は埼玉の人で、晋一郎先生の父親としても有名だ。農大、浦高、開成中学で弓道指導をした。浦高でたくさんのお弟子さんがいるが、本多流随一の射論に関する権威者、森岡正陽先生も教えを受けた。
 以上あげた中には本多流の射手として名をあげるのは適当でないという人がいるかもしれない。利實没後、違う道に進んだ人もいるが、これらの人を除外し名前をあげずに話すのは不公平ということになると思う。

 《東大には碧海、和田、村尾ら名手続出》
 学校弓道で利實に学んだ方々をあげたい。
 宇野哲人先生。ご尊父は細川藩の弓道師範で、日置流を引いていた。ご子息の精一さんも一高、東京帝大で利時に習い、東大弓術部のサポートを今でもしていただいている。別格として香坂昌康さんがいる。
 関屋龍吉先生。生弓会初期からの理事長で、昭和40年代まで理事長をしていただいた。最近、横山粂吉先生のところから、利實に弦をとってもらっている人の写真をいただいたが、これは関屋さんらしく、大変貴重なものだ。文部省に奉職され、社会教育局長までされた。
 碧海康温先生は、文部省に進まれ、関屋さんが公務で忙しいので、それに代わって生弓会をもり立て、射も運営も指導をしていただいた。愛知県の出身。お茶の水女子大など多くの学校の指導をしている。
 文部省といえば、藤田忠先生がいる。五十嵐裕宏先生。神麻良平先生も文部省で、碧海先生のお弟子さんだ。曽我部太郎市先生は小離れで豪快な射をしていた。碧海先生が生弓会の射に大きく影響を与えている。小野田静先生は松竹の弁護士をされていたが、生弓会に対し財政的なサポートをしていただいた。
 和田盛一先生は一高、東京帝大で利實から習った。古河鉱業で足尾銅山にいて、本多流の射手を育てた。いまでも鹿沼には本多流らしい射が残っている。忘れてならないのは、射礼を残すのにも大きな役割を果たしている。竹林派をもとに本多流の射礼の制定は利時とともに和田先生の力があった。高木](たすく)先生も「私は射術は知っているが射礼は知らない。射礼は全部、和田さんがやっていた」といっておられた。
 村尾圭介先生。浜松の出身で、結核の専門医。「弓道」という名著を残された。医学的立場から弓道を研究されて、非常に立派な業績を残されている。生弓会初期の師範として、射術にも大きな影響を与えた。
 時代は変わるが、寺嶋廣文先生。一高、東京帝大で利實に習った。外交官として海外生活が長く一時、弓道から離れていた。昭和三十年代に東大の道場にお見えになって修業され、利實が目指していた鋭い離れ、早い矢飛び、この点に絞って研究され、東大を指導していただいた。生弓会顧問として、京都の研修会にもよく出ていただいた。独特の離れで、鋭い離れ、早い矢飛びで、昭和30年代以降、我々を啓蒙していただき、ありがたいことと思う。


活発に射技論議

石岡久夫師範(左)と
会員の論議を見守る
本多利生宗家(右)
1993年9月25日
東京・綾瀬の
ホテル・パインヒルで


 《高木先生の弟子は全国津々浦々に》
 高木 先生は、本多流の柱ともいうべき人で、一高から東京帝大へ進み、利實の一番若いお弟子さんといってよいかもしれない。利實に弦を取ってもらったひとりだ。亡くなったときまだ学生で、期間は長くないが、本多流の本質を体得され、印可も受けられた。本多流研究会を中心に、多くの射手を育て指導された。
 古くは、阪本孫重さん、北条憲政さんも埼玉・久喜市の道場に通った。阪本さんは生弓会の師範代もした。北条さんは全日本弓道連盟を復活させるのに力があった。早く亡くなってしまったので、このことを知らない人が多い。戦後の弓界を立て直した。
 高木先生は、本多流のみならず、全日本弓道連盟の副会長もし、全日本学生弓道連盟の会長も長くした。連盟を通して、全国津々浦々に弟子がいる。本多流研究会のなかで師範になる方々を指導された。
 晩年に道場に通って指導を受けられた方々では、小山晋一郎先生。戦後の本多流射手の中では最高の方と私は思っている。横山粂吉先生も高木先生に当時指導を受けられた。羽賀浩一先生もよく通われた。多賀武先生もその一員である。私もご一緒してご指導いただいた。
 弟子といっていいと思うが、藤岡由夫先生を忘れてはならない。この先生は物理学で有名な方で、東大で弓を引かれた。関屋さんのあとの生弓会理事長を引き受けていただいた。全日本学生弓道連盟の会長もした。一度、高木さんの道場で藤岡さんの弓を引くのを見たことがある。何10年ぶりということだったが、非常に型に入っていて、本多流の射を体現していた。「本多流の弓をちゃんと勉強していると、こんなもんだよ」と高木さんはいわれた。
 美術学校では、松野永三郎先生。戦後は松江で指導に当たられた。習院関係では、西牟田砥潔先生。鹿児島で生まれ、学習院、国学院で教えた。昭和初期から生弓会の師範をされた。道場に行くと必ずおられた。福島徳寧先生も生弓会の師範をされた。村上喜三次先生もいる。
 昭和の射手は利時のお弟子さんが中心になる。
 松本正さん。弓がうまかった。和田さんが鹿沼で教えていて、若手で秀逸な人として、生弓会に派遣して来た。橿原神宮で二十射皆中を記録している。将来を嘱望されたが、第二次大戦で中国に行き戦病死している。碧海先生の「本多流」という論文の写真に松本さんが登場している。この碧海先生の本には四人の写真がありそれをもとに解説している。松本先生、亀岡武先生、柳原光春先生、それに利時の四人。よく誰を撮った写真かとよく聞かれるが、細身の写真で、背中から撮られているのが松本さんだ。
 亀岡武先生は東京の生まれ。生弓会の師範代をし、戦後には師範に。野辺山に道場をもっている。平山龍郎先生も第一生命で一緒に研究されていた。
 戸倉章先生は、東京帝大の卒業だが、大学では弓を引かず、生弓会に入って弓を引いた。実業団の指導もよくされ、第一生命、日新精糖などを指導した。初期の弟子では、焼津におられる斉藤孝太郎範士もそうだ。射礼はどうあるべきか、非常に研究され、基本的動作はどうあるべきか教えていただいた。
 大牧谷治先生は利時の指導を受け、東芝で指導した。羽賀先生もお弟子さんだ。小高源太郎先生は、戦争末期の熱心な先生。四高の師範をした。戦後も研究会に何度かお見えになったが、早く亡くなくなられたのは残念だった。伊藤〆夫先生は利時の弟子で、生弓会の運営に苦労され、お世話になった。田部終吉先生は一高出身で利時にかわいがられた。弓はうまくてよく中った。
 国学院は利時の出身大学でもある。尽力していただいた方が多数いる。古い方からいうと、道鎮実先生。立派な論文をたくさん会報に寄せていただいている。戦前の会報の発行を担当し、運営もやった。「弓道辞典」の力作がある。関東大震災で巣鴨に逃げて来て、道場に迷い込んだところ、利時が「君は国学院の学生か。泊まっていけ」ということで、いつくことになった。
 生弓会の初期から射術の指導から会の運営にご協力いただいた方に柳原光春先生、石岡久夫先生がいる。岡山出身で大守麟児先生。研究会当初、いろいろ尽力していただいた。
 佐藤洋之助先生。衆院議員だった。亀井朋次先生に教えを受け、利時に師事した。昭和10年に弓道を中学、女学校の正課にするよう提案していただいた。昭和13年に本多流の印可を受けられ、弓道連盟をサポートしていただいた。茨城・古河市に孟科堂があり、昭和22年の道場開きには、宇野要三郎、香坂昌康、高木]、吉田能安、梶谷丈夫、増田儀三郎さん(足利)ら当時の主だった弓引きが見えている。私も高木先生に連れて行かれ弓を引かされた記憶がある。
 生弓会の歴代師範を挙げておくと、大内義一、小山梧楼、村尾圭介、増田儀三郎、福島徳寧、西牟田砥潔、和田盛一、茂木]太郎(こうたろう)、平松精二、高木]。昭和18年の師範代は亀岡武、阪本孫重、柳原光春。戦後の師範は、戸倉章、亀岡武、大牧谷治、小山晋一郎、羽賀浩一。現在は柳原光春、石岡久夫、伊藤〆夫、多賀武、大島善春。師範代は、寺内弘、千葉栄祐の各先生方だ。
 これまで本多流・生弓会を作り育ててくださったことに皆さんに感謝したい。本多流として、生弓会として弓道の発展に尽くしたい。日本の弓道はどうあるべきか、弓道の本質は何かを問いかけていきたい。

 《解説》 この原稿は1993年9月25日、東京武道館で行われた本多流・生弓会70周年中央研修会のさい本多流宗家本多利生先生が約1時間にわたり「明治・大正・昭和の本多流の射手」と題して講義したものを要約したものです。生弓会会員でもない私や内山康一さん(1966年卒)が、この会に招かれたのは、この講義をぜひ聞いておいてほしいというメッセージがあったような気がします。かなり事前の準備もあり、自信作の講義だったようです。講義終了後、内山さんから東大の部分だけでも原稿にしたらどうかという提案もありましたが、忙しさに紛れて、物ぐさをしてしまいました。
 この講義を発言どおり再録しますと膨大になりますので、かなり省略しています。ただ、言及された射手の名はすべて記したつもりです。原稿は生弓会顧問の横山粂吉先生に点検していただきました。先生方のお名前は、利生先生が残された講義のメモと照合したりして確認していますが、不手際がありましたらお許し下さい。小見出しは私が読みやすいように付けたもので、要約の責任はすべて私にあります。
 本多流を習った以上、かつての名手たちの名前くらいは知っておいてほしいと思います。さらに興味ある人は、歴史をさかのぼって射技研究を深めていただければ、利生先生に喜んでいただけると思います。
  (1994年12月14日記=「繹志」38号、「調和乃射姿」にも転載)
 注  「屋代]三」の]は金へんに丈。「高木]」の]は非かんむりに木。「茂木]太郎」の]は金へんに工


TOPページへ
NEXT 「日の出」はくるのだろうか