矢師から見た東大弓術部と本多流

石津巖雄さんが思い出を語る



石津巖雄矢師

完成した矢を横山粂吉先生(左)
に届けに三菱養和会道場に
1997年煙首遠



 東京大学弓術部百周年記念誌「鳴弦百年」ができてもう2年余り。編集に携わった1人として「やはり無理してでも作ってよかった」と感じるときがある。私の出身の埼玉県立浦和高校でも、これに刺激されて「56年の歩み」の部史を編纂中だ。中身は「鳴弦百年」には及ばないが、編集の仕方などが参考になっている。
 大学外からもいろいろの反応がある。先日は矢師の石津巖雄(いしづ・いつお)さんから「太平洋戦争中に本多利時先生から、本土決戦に備えて弓矢を武器にする話を聞いたことがある」などの声が寄せられた。そこで石津さんにインタビューして「矢師から見た東大弓術部と本多流」をまとめることにした。対談形式にして、少しでも歴史の一片を記録しておこうという狙いだ。私は「繹志」35号の「鳴弦百年の落ち穂拾い」で、会員のみなさんにいろいろな形で部の歴史を残す工夫をするよう呼びかけた。この原稿もその試みであり、気楽な記録づくりをあらためて呼びかけたい。
 石津さんは大正7年1月生まれ、矢師である父、巌さんのもとで14歳から矢作り一筋。文京区の教育委員も務めた。奈良・春日大社の国宝の矢の復元をしたり、千葉県佐倉市の国立歴史民族博物館の展示品の征矢を作ったりしている。東大道場の弓矢額の矢は石津さんの作品だ。弓術部の師範や大先輩との交流も深く、たくさんの竹林矢を作られている。寺嶋廣文師範(大正5卒)の「知慧の矢」の巻頭に載っている会の写真の介添えが石津さんである。
 1994年1月に3時間ほど話をきき、小林が読みやすいように構成した。

 ◆政治力の碧海、理論の村尾
 小林 先日、神田の古本屋から古書リストが送られて来て、驚きました。学生時代から30年にわたって探していた「日置流竹林派弓術書」(東大弓術部編、明治41年刊)が載っているではありませんか。翌朝6時に起きて、早速、古本屋へ。これはという図書が見つかっても、いざ行ってみると既に売約済みということがよくあって、今度もぬか喜びかなと思っていたのですが、幸い残っていて手に入れることができました。本をよく見ると、なんと村尾圭介さん(明治42年卒)の私蔵本。ところどころ書き込みもあって、たいへん貴重なものと分かりました。東大弓術部にも坂本森一さん(明治42年卒)の私蔵本がありました。坂本さんが発刊の経緯を墨書しており、これもまた大変な価値ある本でしたが、今は行方不明です。この弓術書は碧海康温さん(明治44年卒)らが協力しあってつくったものですが、大先輩たちの稽古はどんなだったのでしょうか。
 石津 大先輩の話の前に、東大弓術部の蔵書について一言いわせてもらいます。戦時中は弓術部の蔵書は本箱と一緒に、杉並区下井草の大内義一先生の道場不忘館へ疎開していました。戦後、大武信一さん(昭和16年卒)の尽力で東大へ移されました。数年前、藤田忠師範(昭和5年卒)が、私のところにおいでになり雑談している中で、「弓術部にある貴重な本は散逸しないように東大図書館に収蔵してもらった」といっていましたよ。
 小林 それが本当だとうれしいことですね。インタビューの大成果ということになります。坂本森一さんの私蔵本弓術書も保存してあるかも知れません。さっそく調べてみたいと思います。
 石津 先輩たちの話に移りますが、本多流を広げたのは、やはり碧海さん。学校を中心に広げようとした。政治力があったのでしょうね。打起しを正面にといって理論的に主張したのが村尾さん。正面で打起こせば、左右に大きく弓を引くことになるため、健康によいということでお医者さんの立場から、本多流を広めたんですね。当時の結核撲滅運動とも結び付いていて広がった。斜面打起しだと、どうしても大きくは引けない。矢をつくっていても、斜面打起しの人たちの矢尺は短いですよ。大体、背の高さの五割五分というんですが、本多流は長い人が多い。当たりはどうかというと、その人によりけりですな。強い弓で大きく引こうとすると震えがきます。高木]先生(大正10年卒)も晩年はそうでしたし、野辺山の亀岡武さん、秩父の原島栄次さん(昭和15年卒)もすごかった。震えているけど最後に押し手が決まってばっと当たるんですね。なんといっても大きく大きく引くと気持ち良いですよ。
 小林 正面打起しは流祖の利実翁が日置流竹林派の射法に取り入れたということでしょう。「弓道講義」でも要前の話をしたうえで「前に構ふることは中古騎射から移ったもので、実地の用向の為めではありません。唯形式として専ら用ひられて今日の有様とはなったことと存じます」といった解説までしています。村尾さんは「体育としての弓道」を強調され、いろいろな著作があります。正面打起しは、威容、儀礼、壮大、厳正、活力などに優れ、左右の相対性の面からもよいといっています。弓をやっている人が長寿であることを実例をあげて指摘している論文もありますね。
 石津 碧海さんは尾州竹林派の射型、太子流の酒井尚之さん同様に離れで勝手が下にさがる形でした。太子流道場は東大農学部の近くで、東大弓術部に入らない学生さんが弓を習っていました。日弓連の役員八反田角五郎さんも学生のころ、この道場で張り切っておられました。吉田能安さんが武徳会方式をつくったがこれは斜面打起しだった。新射型といっていた。本多流の高弟で、この武徳会流の範士資格をとろうとして、碧海さんにえらくおこられたことがありましたね。
 小林 大先輩たちで記憶に残る人達はいますか。
 石津 新橋の「一平」というおでんやの裏の道場には夕刻になると北条憲政さん、後藤助蔵さん、長谷さん、お医者の阪本孫重さん(大正13年卒)、碧海さんが来まして、皆さん上手で、よく中ててました。射距離は13間でした。碧海さんはこの道場ではよく射ていましたが、他所の道場ではあまり引かないのです。弓を射終わった後のお酒が美味しいのだそうです。すると目的は皆さんどこにあったのかなあ、などといらぬ考えを起こさせます。
 北条憲政さんは、なかなか快活な人で、政治力があった。競馬会の役員もやっていて、弓の支援をしていましたね。期間が短かったが朝日新聞にもいた。私ら親子や、弓師で叔父の重貞らの記事を写真付きで載せてくれました。終戦後、弓道連盟の下地をつくった。大日本弓道会の人と相談してつくったんですね。終戦後は西荻窪のお兄様の2階に住んでおられ、近くに武徳会遊神館吉田教場が有り、ここで後藤隆吉さん(昭和4年卒)とともに弓を引いておられた。大井競馬場をつくることになり、大井の社宅に移られた。敷地が広いので、射場を設けて本多利生さんの指導をなされた。終戦後の道場建設第1号ではないですか。
 先ほど話した原島栄次さんはお父さんも弓道教士で、甲州武田武士の家柄。秩父のお屋敷に道場をもっていました。それから、耳鼻科のお医者さんの小野忠信さん(大正15年卒)もよく引いていましたね。息子の忠彦さん(昭和26年卒)も弓道の医学的な研究をやっていますね。
 小林 小野さん親子は弓道体操をつくったんですよ。私が昭和33年のインタハイに出たとき、その弓道体操のお披露目をやらされたことがあるんです。戸倉章先生(大正15年卒)が「弓矢に生きる」でいっている弓道体操は利実翁の七道体操のようなものですが、この時の体操は、ラジオ体操をミックスしたようなものでした。

 ◆優れている東大の鳴弦
 石津 戸倉先生は苦労した人ですね。生弓会の柳原光春さんや亀岡武さんと一緒にやればよかったものを、ひとりでがんばった。矢数も相当かかっています。戸倉先生は「能楽に『序破急』がある。弓道の射行にこの『序破急』があるべきだ」と申しておられました。意味は「ダラダラしてはいけない」とでも訳すべきでしょうか。還暦射会の時が最高の射でしたね。
 小林 その写真は戸倉先生から組写真でいただきました。自賛のコメントがついていて「近来稀にみる上出来の射」と最高の評価をしてました。射礼の権威でした。寺嶋先生の話では、射法は寺島、射礼は戸倉、の役割分担で東大弓術部を盛り上げようとしたようですが、戸倉先生が早逝されたのは本当に残念でした。私も五月祭の古式射礼を教えていただいたのがいい思い出です。射礼の伝統もなかなか守りづらくなるんでしょうね。
 石津 昔は要前や騎射の射礼も伝わっていたはずなんですが、いまは途切れているのではないですか。本多利実先生の縄目の式の写真が東大の道場に飾ってあったのですが、ああいう射礼も残しておいたらよいと思います。東大の射礼といえば、亀岡さんが戸倉先生の後、指導していました。亀岡さんは五月祭の「本多流読書鳴弦」を奉仕しました。鳴弦は、皇居で催されるのをはじめいろいろな内容のものががありますが、東大の鳴弦は、形式、内容ともに優れていて、残すべきものですね。寺嶋先生、藤田先生、亀岡さんと熱心な指導者がいたればこそでしょう。是非、自信をもって続けてもらいたいと思います。
 小林 育徳堂が建ったのが、昭和十年ですが、その建立のいきさつはいかがですか。どんな人が設計したのですか。
 石津 恩田直虎さんです。道場の広さについては当初から、小さすぎるのではという声もあったようですね。恩田さんは東大OBで、本多流の印可を許され、差矢射、短矢(管矢)射をなされました。また、真上から写真を撮り射の研究をしていました。本郷湯島には射距離12、3間の町道場があって、この師範をされていました。日露戦役で腰に被弾し歩行が少し不自由なところがあったようですが、毎日、通っていました。
 東大の道場の思い出としては、藤田先生が、終戦後、部の再建にあったっていたのですが、道場の安土の方は医学部の図書がおかれ、母屋の方は大学事務局が使っていて、移転先も探してやっても、なかなか出ていかないというので、苦労していたようです。デモンストレーションということで、道場のひさしの下からアズチへむけて射て、早く事務局が出るよう圧力をかけるのをお手伝いした記憶があります。



石津さんからも
認められた
東大の鳴弦
射手(太郎)は
飯野雄一郎さん
2001年2月11日
洗心弓友射会の
20回記念演武
大宮公園弓道場


 ◆本気で弓矢の本土決戦
 小林 一高の弓術部史には、本多利時先生が語ったエピソードとして「軍は本土決戦に備え、弓道の心得ある者による国土防衛組織を考えており、鏃に爆薬を付けたるもの、あるいは毒を塗りたるものを準備し、指揮官となるべき錬士以上を代々木練兵場に集め、犬を標的に演習をなす」と記してあります。石津さんは、利時先生から相談を受けたときいていますが、どんな内容だったのですか。
 石津 昭和18年8月ころ私が仕事をしているとき、本多利時先生がおやじ(巌さん)に研究を頼んでいましたね。御殿下のグラウンドでやっていた組矢(戦闘の射法。組弓ともいう)を見ていた配属将校がいて、本土決戦に立派に使えるということになったらしい。矢が痛むので数矢でいいからつくってくれと頼んでいた。ただ、おやじは「本多流にそんなものはあるか」という調子で本気で作るような雰囲気ではなかった。当時、根矢鹿児さんたちの大日本弓道会の方は戦弓の練習をかなりしていましたが、本多流は別と思っていたのでしょう。私はその年の末に戦地へいってしまったので結論はみていないのですが、恐らく作っていないでしょう。
 本土決戦に備えて当時、竹飛行機の研究が始められました。飛行機の補助タンクに犬山焼の焼き物を使用しようなどと考えた時代です。叔父の重貞は既に大正八年に竹ヒゴで飛行機を作ったのです。その特許を申請した関係で、研究に引っ張り出され、土井子爵の後援で作った。赤羽の競馬場でグライダーのように飛ばす実験をしたのです。飛ぶには飛んだが、観覧席に衝突してしまった。しかし、壊れもせず、弓師のつくった飛行機は強いということになりました。こんな話もありました。昭和19年に軍から技術将校が来まして、竹飛行機に弓の製作技術を活かしたいと、ヒゴ合板の法を聞きに来たのです。強度を計るため、弓を横にして日本刀の試し切りをしようとして失敗した例も見ています。弓は結構強いものです。
 小林 利実翁の教えを受け、鬼才といわれた大平善蔵(素弓)さんはどんな人だったのですか。
 石津 よく手紙をいただき、いまでも2百通ぐらいが残っています。筆まめで汽車の中でも筆を握っていたようです。碧海さんが学校関係で弓を普及させたのと対照的に、社会人に普及させた功績が大きいと思います。よく弓を落としていました。昔は飛ばした方が押し手がきいてよいといって練習したんです。
 小林 寺嶋先生の話でも、すごい迫力のある弓だったそうですね。ただ、弓が身体の前、的側に飛んでいたので「投弓術」といわれていたとか。寺嶋先生は弓は身体の後ろに飛ばせといって、弓を前に落とすのは下の下といっておられた。
 石津 うちのおやじは、やはり弓を落とすのは手のうちの締まりが悪いからだといってましたね。私もそう思いますよ。
 小林 昔は堅物射抜きをよくやったのですか。
 石津 本多流は「貫」を重視しますから、よくやったんですね。大内義一先生の道場では、小山梧樓さんが戦後の焼野原に転がっている鉄兜やラジエーターをもってきて射抜きをやった。鉄兜の中心をねらって押し切るんだといって射抜く。6分5厘いまでは30キロぐらいの弓で挑戦する人もいた。最近でも、埼玉の人が矢の相談にきた。社会人でもやはりいろいろなことをやって楽しく弓を引くのが大事ですよ。

 ◆1寸余の的で中てる稽古
 小林 高木先生の的中のすごさは語り種になっています。小さな的で練習したということですね。稽古ぶりはどんなでしたか。
 石津 高木先生は1寸2、3分の小的を自分でつくられて稽古をされてました。一つをいただいて保管してますが、そこには「一本目上八分、二本目一寸、三本目中り」と書いてあります。1、2本目は少し外したが3本目は中ったということです。金的の3寸的なら、全部当たっている訳ですね。その正確さが分かろうというものです。高木先生は十段百手の行射も数回やっていて、その中りはすばらしいものでした。
 小林 高木先生の道場である埼玉県久喜市の洗心洞では横山粂吉先生が頑張っています。高木先生の生誕百年記念射会が1993年1月15日に開かれましたが、その席で本多利生宗家から、「射は剛健典雅を旨として精神の修養と肉体の錬磨とを以て目的とす」という東大弓術部の綱領は、利実翁がつくったことを聞きました。「鳴弦百年」ではこの綱領について書こうとしても資料が集まらず記述を見送ってしまったのですが、何かの機会に、少しずつ分かってくるものですね。洗心洞には、すばらしい竹林矢がたくさんありますね。古い矢といえば、石津さんのところから、関口源太左衛門から利実翁に贈った矢が出てきたということですが……。
 石津 やはり竹林矢で小筈がついていました。大鳥の羽で、一手は石打でした。朱書の文字が入っていました。
 小林 竹林矢というのは、どんな作り方をするのですか。
 石津 江戸時代、戦もなくなって三十三間堂の通し矢に精を出し始め、矢をいかに軽くするかを考えた。その流れです。ノは麦粒の流線形にし、羽中に奉書紙を巻いて、それぞれの祈りをこめて梵字などを入れた。
 小林 「本多流始祖射技解説」で寺嶋先生は「本多流としては麦粒の竹林矢が常識。重さも7匁(26・25グラム)以下が望ましい。碧海大先輩は5匁台(6匁=22・5グラム)の矢を使用していた。使い方に細心の注意を要するのは勿論だが、つくる方が苦労したであろう」と記しています。寺島先生も軽い矢を使っていましたが、私がいただいた雌鷹の竹林矢は矢尺96センチ、24グラムです。碧海さんはそんなに軽いものを使っていたのですか。
 石津 使ったかもしれませんが、5匁というのはもう材質からいってすぐ壊れてしまいますよ。普通は6匁ですね。
 小林 私は矢尺96センチで21グラムのカーボンの矢を実験的に使っていますが、使い込んでくると根っこの方が薄くなってきて、的枠に当たっただけで矢の先が割れてしまいます。しかし、その速さは、病み付きになるような爽快感がありますね。
 石津 本多流は速い矢を飛ばすことを教えられるから軽くしたがる。軽い矢を御してこそ上手、ということになるんですね。しかし、竹林派の人でも重い矢を使っている人もいる。重い方がむしろ中りが安定しますからね。重い矢を御してこそ上手、といった違った発想も出てくるんでしょう。
 小林 最近は弓の道具も、カーボン、グラスファイバー、ジュラルミンと材質がかわり、昔の味わいが出なくなりました。矢の場合は、ワシントン条約の制約で、国内はもとより外国からも矢羽が絶対的に手に入らなくなってきた。先日、仙台へ出張したとき矢師の人と話していたら、最近は古道具屋と仲よくしていて旧家から出た矢を譲ってもらい、羽を確保する人もいるようですね。
 石津 羽は本当にありません。もう在庫のものでしのぎ、なくなればそれまでです。昔は尾羽しか使ってなかったのものが、いまは翼も使っていますがね。窮すれば通ずで、雑羽を脱色してそれを染める手もあり、中白、妻黒などが簡単にできてしまう。かえって本物よりも奇麗に見えるのもありますよ。道具の変遷は、時代の流れで仕方ないと思います。時代は進むべきもの。とめられない。私は古来伝わってきた矢をひと組でも多く残しておきたいと思っています。歳を取って矢の作品が悪くなったといわれないようにしたい。また、昔の大将の矢などは立派に保存したいと思います。
                 (1994年2月7日=「繹志」37号) 


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