インタビュー

調和の射姿

洗心洞と横山粂吉先生


本多利永宗家(左)と談笑する横山粂吉先生

洗心洞稽古会の例会で
東京・丸の内の三菱養和会弓道場で
2000年4月29日


 横山先生の力をお借りし高木先生の壁を超えよう

 横山粂吉先生、傘寿おめでとうございます。私たち後進を、懇切ていねいに導いていただき、本当にありがとうございました。
 傘寿のお祝いに何をしようかという話になりましたが、「弓における横山粂吉の世界」をまとめようということになりました。これまで、洗心洞と高木]先生の話もまとめなくていけない宿題もあっただけに、いっしょに懸案処理ということになりました。ところが、最大の敵は、なんと横山先生ご自身だったのです。高木先生は「恥を残す」といって、あまり文章を残していませんが、横山先生も同じ論理で、インタビューを文字にするのに難色を示しました。口で指導する場合は、相手の反応を見ながら説明し直せるが、文章は一人歩きして、文字になったとたんに弓の真実が離れていってしまう、ということのようです。インタビューの下書きをお見せしたら、はがき一通のなかに「発表したくない」「出したくない」を4回も連発されている要請文が返ってきて、記念誌は断念せざるをえないのかなと弱気になりました。しかし、せっかくの試みなので、文章化したくない先生の考えを明記することを条件に、取りまとめに同意していただきました。
 確かに、弓は、耳、目、心、身体で体得し、文章より口伝の世界です。禅の「不立文字」の要素も大きいのでしょう。世阿弥の「風姿花伝」も、伝えるべき世界は文字の理解とは遠いところにあるのかも知れません。しかし、多くの人があの本を読んでそれなりの感動を得ているのも事実です。横山先生の言葉も、私たちの稽古に刺激を与え、飛躍へのヒントになるのは間違いありません。それに、最も記録したいと思っているのは、「横山粂吉」という人間です。今回のまとめに当たっては、先生の意向にも沿うのではないかと考え、写真をふんだんに使うことにしました。「命弓」と題した昭和54年の東京電力弓道場の写真は、先生も合格点をつける堂々たる射前です。不鮮明な写真もところどころありますが、読者は目と心で、横山先生の弓を味わって下さい。
 「弓術の修業は『第二の天性なり』と云う言葉の通り、全く習慣の集積なのですから、平常の稽古を大切にしなければいけません。一本一本の矢を大事に稽古に励む事は勿論ですが、その座作、進退も慎重に、典雅に、正直にさらりと行わなければいけません。初心の間は、意識して行う運動が、鍛練を重ね修業を積むに従って殆ど無意識な反射運動に代つて来るのですから、悪い習慣をつけない様に注意して稽古を積む心構が大切です」
 これは高木先生が全日本弓道連盟機関誌「弓道」の昭和28年12月号に書かれた「本多流」の書き出しです。精神弓道論とは違って、合理的な弓を目指した先生の哲学がくっきりと浮かび上がっている部分です。この記念誌の第3部で本多利生宗家が「本多流の射手たち」のなかで、高木先生を「本多流の柱」と表現しています。高木先生の弓が本多流の一大潮流であることは間違いないようです。この原点を私たちは追い求めたいと思います。高木先生の弓を吸収された横山先生の力を借りなければ、壁をよじ登れないかも知れません。
 横山先生は平成8年の洗心洞・東大弓術部親善射会の懇親会で、卒寿まで弓を引くことを宣言しています。卒寿どころか白寿まで、私たちを導いて下さい。
 読者の皆様には、拙い作品をお届けすることになり恐縮しています。お金もかけず、時間は1カ月もないという制約のなかではやむを得ず、逆に手作りのソフトムードを成果として誇りたいと思います。
 横山先生の傘寿を祝う記念誌編集委員会
        (平成9年4月27日)

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 草が動く矢を飛ばせ 
    
 横山粂吉先生が語る弓の世界

 小林 先生の弓の世界では、やはり高木]先生・洗心洞とかかわりが一番大きいのですか。
 横山 高木先生の弓はすごかった。中りばかりではなく、「矢が地球を一回りするような射を引け」といわれた。練習も1寸くらいの反物の芯に金紙をはって的にするんです。それを見事に中てるのを何度も見ましたよ。それに、矢勢が違う。「草が動く」という感じだ。そういう表現がぴったりだった。洗心洞の道場の草をやたらと取るな、と自然のまま主義をとっていたが、「草が動く」の世界のひとつだった。人工的でなく自然の中で弓を楽しめということなんですね。
 小林 大平善蔵さんが高木先生の弓を見ていて、外れたら帰ろうと思っていたら、全く外さないため帰れなくなった、といった中り伝説があります。東京大学の学生のときは、京都大学との定期戦で2年連続の20射皆中をやったり、道場破りを4寸的の勝負で追い返したことも語り草になってます。
 横山 中てまくった人なんだ。中りがよく語り継がれているけれど、本当の弓という感じだった。晩年は震えが出たが、あれも両手の調和のあり方の問題で、人間が右、左と足を出して歩くように当然の現象というような感じに受け取れた。普通の人は震えをマイナス評価をするが、高木先生の場合あれはあれでいいと私は思うんだ。

 ◇◆利生宗家が「老木晴嵐」の書
 小林 往時の洗心洞の雰囲気はどんなものでしたか。
 横山 洗心洞は昭和8年に高木先生が本多利時2世宗家をしっかり育てようということで作られた道場だった。だから、利時先生もよく通われていたし、当時の本多流のそうそうたる面々が稽古に来られていた。村上喜三次さん、小山晋一郎さん、柳原光春さん、戸倉章さん、亀岡武さん……。近隣からも弓引きが集まって、中り外れを離れて、弓を引くこと楽しんでいた。お金持ちや大地主が多く、終わってからお酒を楽しんでもいた。「的が杯に見える」なんていっていた人もいた。稽古に行くと「横山おまえは座っておれ」といわれて入り口の畳に座って皆さんの稽古を見ていることがよくあった。戦時中は利生3世宗家の疎開を引き受けられ、利時宗家が亡くなられてからは、利生宗家の指導に当たられた。利生宗家は平成6年に亡くなられたが、これからというときに本当に残念です。私の喜寿のお祝いに、病床から抜け出して「老木晴嵐」の揮毫をしていただいた。大きな文字は、これが最初で最後の字ではないか。
 小林 高木先生との出会いは。
 横山 昭和27年10月の福島県郡山市での国民体育大会のとき長谷川弓具店の長谷川三郎さんが横山も本多流だと先生に紹介してくれたのが、洗心洞に通うきっかけだった。会社が夕方5時に終わると、すぐに上野駅に行って、東北線に乗って、当時はまだ汽車、蒸気機関車で、1時間余もかけて久喜に。バスがあればいいが、バスがないとジャリ道を歩いて40分。高木先生はそれにあわせて必ず、洗心洞で待っていてくれましたね。往復に毎日3、4時間かけて、先生に教えてもらう時間は10分か20分なんだ。いろいろ弓の話もあるから、弓を引く時間が限られてしまう。だから、矢数はわずか、4本、6本といった具合だった。だから、一本一本の矢がいかに大事かが身に染みて分かりましたね。
 小林 今の洗心洞もまだ周辺に緑が多いですが、当時はもっと田園風景が広がっていたんでしょうね。
 横山 高木先生は、駅まで自分の地所の上を歩いて行けるといってました。そんなに広い地所があるので、射流しもよくやった。たんぼに自由に場所が取れる。今はどこへいっても射流しの空間を取れる場所がないから射流しなんて味わえないでしょう。遠くへ飛ばすと、350メートルにもなりますからね。高木先生は、「来る者拒まず、去る者追わず」の考えだった。だから、いろんな人が集まった。こんな人が、と思うような人もいた。奥さんの芳枝さんも同じ考えだった。洗心洞の環境は最高だったし、先生の考え方も含めて、本当にすばらしかった。
 小林 弓はいつごろから始めたのですか。 
 横山 私は昭和6年、山形中学のときから弓を始めた。師匠らしき人が仙台から教えにきていたが、今から思うと、阿波研造一門の人だったのではないか。昭和13年に東京電灯(後の関東配電・東京電力)に入って弓を続けた。利時宗家や碧海康温さんから弓を習った。碧海さんにはすばらしいものがあった。私たちと一緒に風呂にもはいってくれた。小山梧楼さん、吉田能安さんもこられていた。本多流との付き合いは高木先生以前からずっとあったわけです。東電道場は四階ビルの屋上にあって5人立ち。剣道場、柔道場、卓球場やお風呂もあった。戦後、四階には連合軍総司令部(GHQ)関係の事務所が入っていた。第一ホテル、大阪ビルなどが回りにあって、なかには外国人女性が昼休みに裸になって日光浴するシーンもお目にかかったね。剣道場の掛け声には「あの悲鳴はいったいなんだ」とGHQから苦情がよくきていた。
 小林 高木家で本多流宗家を引き継ぐなんて話があったと聞きますが。
 横山 小野忠信埼玉県弓道連盟会長らが動いたという話を聞きますが、あまり詳しくは知りません。高木先生は宗家を引き継ぐなんて気はなかったと思う。
 小林 洗心洞の洞守を引き受けるようになったのはどういういきさつがあたのですか。
 横山 先生が昭和39年に亡くなられて、その後もずっと道場通いしているうちに、なんともなしに、ということかなあ。

弦取りの講義
洗心洞稽古会の人たちに
弦取りのポイントを
解説する横山粂吉先生(中央)
三菱養和会弓道場で
2000年4月29日



 ◇◆指導者は山登りのガイド役
 小林 高木先生は、日本弓道連盟の機関紙「弓道」に「本多流」を書いていますが、著作物は少ないですね。「弓道教本」の射法解説で会、離れの写真がないのは、何とも残念です。流祖利實翁のように七道の連続写真はないのですか。
 横山 「恥じを残すから」といって本はほとんど書かなかった。俺たちの求めるのはスポーツの弓じゃないから。芸道となると世界が違ってくる。稽古中に高木先生がしゃべられたことをメモにしたものが厚さ30センチほどにもなって残っている。稽古中に速記をしたり、夜、家に帰って来て整理したもので、細かいことに触れており、弓を引くよい参考資料になる。会の写真は代表的なのが残っていますが、連続したのは見ていないですね。「弓道教本」に会の写真がないのは、当時、震えがあって気に入ったものがなかったのではないか。いいものでなければ出さない。それだけ責任感があったということでしょう。会と離れは難しい。これが本多流の会と離れだといえる人は今は少なくなりましたね。
 小林 本多流のポイントはどこに置けばいいのですか。
 横山 射がきれいで、姿がよくて、中る射。七道でいえば、打起しと離れに本多流の生命がある。流祖がいわれた剛健典雅な弓を目指さなくては。言葉でいうと非常に難しいんだよね。本当はね、弓射について俺の考えを発表したくないんだ。発表すれば、それだけということだ。自分のことを、もっと大きく深いものを持っていると、思いたい。洗心洞の射の深さとあの味。文章に書くのは、恥を残すだけだね。
 小林 私たち生徒にとってみれば、先生の言葉や文章に残ったものが、弓を理解する大きな手掛かりになると思うんです。
 横山 知ってもらうことはいいことなんんです。しかし教えることは難しい。ウソのことや正しくないことをいわないこと。弓を教える人は、ガイド役だから、威張ってはだめ。いろいろな癖や病気の直し方を知らなければ案内できないし。山登りのガイドと同じだ。高木先生と本多利生宗家の連名で奥伝の印可をいただいたが、免状の文面は「案内者」として認定しているですね。
 小林 案内者としての先生の記録を残さなければいけないと思いますが。
 横山 いや私は、死んだら何も残らずに消えて行くのが一番いいと思っているのですよ。いまは満80歳になったら弓をやめてしまうことも考えている。あの人は「死んだから弓をやめた」といわれたくはないからなあ。日本の芸道は終わりがあることを知らしめなければいけないんだ。芸はこれで終わりということをはっきりみせて、後は自分勝手に弓を引く。そうすれば、自分の本当の弓が生まれるんではないか。

 ◇◆伝統の弦取りを残そう
 小林 もっと本多流の案内役をやっていただかないと。本多流の弦取りは独特の教え方なんですか。
 横山 弦取りというのは、相手の弓を生かすことであって、自分の弓を押し付けたらだめなんです。高木先生はその辺が非常にうまかった。弦取りは本多流の伝統だ。しかし、最近は取れる人がいなくなってきた。なかなか、相手の弓を生かすということは難しいからですね。弦を取るのは初心のときと最後のとき、すなわち「弓はこれでもういいや」と思ったときの2回でいい。初めは本当の弓とはこう引くんだと体で教える。最後というのは、本人が迷ってやめようかと思っているときに、やめさせないために弦をとってやる。弓はこうやって引くのかと気付かせれば成功だ。本多流はなんといっても弦取りを覚えなければいけない。本多利永・若宗家には弦を取ってご案内しているが、多分、弦取りを覚えられると思う。
 小林 先生はどんな弓、射を目指しているのですか。
 横山 まず「日本の弓」であること。それから、芸道としての流派の弓。最近はスポーツの弓は引いても、芸道の弓は引いてくれませんからね。どれだけ正確にいえるかどうか分からないが、私の弓のイメージを言葉でいくつかいえば、まず「命弓」。命の弓。命をかけた弓。いまは遊びの弓が多いけど。「現己(げんこ)の弓」。己を現す弓。弓を引くのは自分。自分がなければ弓は引けない。「中無射」。中りのない射。的中を狙う弓ではない。的はあっても無くてもいい。的は無限に開かれた的である。「己を無・空にする射」。弓を引くのは自分だが、結果的には自分ではない。神武天皇以来の弓なんだから歴史の中で、自分は一点の針の穴にすぎず、威張ったり、うぬぼれたりしてはいけないよ、ということですよ。
 小林 流派の弓、本多流は残って行くんでしょうか。
 横山 一門の人がよほど頑張らないと、なくなってしまう心配がありますね。本多家の弓といのは残るでしょう。体配にしてもそうだし、本多宗家が引く弓が本多流ということでいいんじゃないか。私も本物の弓がどんなものか、全力を挙げて宗家にご案内しようと思う。
 小林 最近は、生弓会が弓界の中で独自性をあまり発揮していないのでは。悪くいえば、日弓連の弓に押されてしまっているのでは。
 横山 生弓会の弓が本多流から遠ざかっていかないようにと願っている。弓は「射術」「射学」「射技」「射心」「射品」「射姿」の六要素が必要だ。いま本多宗家の家で弓書研究をしているが、「射学」を考えていない人が多いよね。「学」のないところに「品」はないと、わたしは思います。 
 小林 本多流は大学のようなところで純粋培養する手もあるんではないですか。
 横山 それでもいいんですよ。本多流東大派で。俺たちは本多流洗心洞派の弓だから。本多流の原型を残したいと思うが難しい。俺の息子に本当の弓を教えられないもの。日本の芸事は親子で伝えるのはなかなできない。
 小林 本多流は親子の伝承というより高弟が中継ぎしてますね。
 横山 だからお弟子が必要なんです。高弟が教えて行かなければならない。いまはなかな教え方を教えるひとはいなくなったからね。
 小林 本多流らしい弓引きというのはどんな方がいたのですか。
 横山 うまいなあと思ったのは、小山晋一郎さんのおやじさんの梧楼さんだね。碧海康温さんもすばらしかった。それに荻原喜代次さん、大牧谷治さん、村上喜三次さん。戸倉章さんはうまかったが技巧の射だった。亀岡武さんも技術の方だった。確かに技術は大事なんだが、そこを超えたところに本多流があると思う。



 ◇◆点数的で弓を楽しもう
 小林 実業団弓道連盟は創設当初からのかかわりですか。
 横山 もう45年にもなる。東芝の重役の世話で実業団を作って、始めは関東の集まりだった。3年ぐらいして昭和電工の安西正夫社長の世話で盛大な大会が開けるようになった。当時からずっと世話人をやっている。実業団の会長をやった樋口実さんや弁護士の梶谷丈夫さんにはいろいろお世話になった。
 小林 実業団の色的は先生の発案とか。
 横山 あれは私の考え。中心に中たるほど点数が高いという当然の考え方ですよ。中心をキリキリと狙う稽古にもなるでしょう。それに弓を楽しんでもらおうという考えだ。古い弓書を読むと、昔も点数制度があったことがわかり、それも参考にした。ゴロがいいから7・5・3でつけていた。だれかが、中心は10点がいいといいだしたが、私はどこまでも7・5・3にこだわった。ところがいつの間にか10点になってしまった。私は10という数字が好きではない。10は終わりの数字だからね。
 小林 1996年の洗心弓友射会で、先生は8寸的で金的の10点を落として優勝されましたね。
 横山 そうそう、そんなこともあった。あの射会では、みんな楽しんでやっている。いつも霞的ばかりでは変化がない。思い切って楽しむのもいいことだ。
 小林 書庫にはたくさんの弓書がありますが、一番大事なのは。
 横山 やはり「日置流竹林派弓術書」(明治41年・東大弓術部刊)だね。本多利實流祖のコメントも入っているから。「本書」「中学集」「目安」のほか、「自他射学師弟問答」「射知要法」「射法輯要」など、本多流の源流である竹林派の基本的文献が入っています。利實流祖口述の「弓道講義」も読みやすい。一度は目を通しておいていいのではないですか。ただ、こうした本も簡単に手に入らなくなりました。古本屋にも弓書がほとんど出なくなった。
 小林 本を読むと弓の上達に役にたつのですか。
 横山 初心者は読んでも意味ないでしょうね。しかし年季をへた人なら参考になる。昔の人がどんなことを考えていたのかが分かるし、知識も豊富になる。自分の経験しないことが、古人の体験という形で示されてくる。その中から新しいものを、見つけるべきです。ひとつかふたつはいいことが書いてありますよ。例えば、「弓術書」に書いてある「雪の目付」。中心を狙う必要性を訴えている。雪片の降るのは目に見えるんですよ。的の中心を狙い、周辺を度外視すること。意識が集中すれば、的がどんどん大きくなってくる。矢が的から外れるとは思えなくなってくるんです。
 小林 洗心洞の新年射会のときには、日置流竹林派の「本書」一巻の前文を読み上げる習わしはいいですね。
 横山 もう10数年になりますか。高木先生もよく読まれていた部分ですよ。先生の真似をしているだけ。私たちも新年にもう一度ふりかえって考えようということ。「昵懇の弟子なりと雖も愚にして違法に驚き心深く無きものには相伝ふべからざるもの也」。流派を勉強する人にとっては味わうべき言葉がいっぱいあります。高木先生がいつも読んでいたのは「日置流竹林派弓術書」だった。それをもとに指導していただいた。

 ◇◆高木家のご協力に深く感謝
 小林 人生80年で感じることは。
 横山 ひとの巡り会いというのがいかに大事か。本多利時宗家やん、高木先生に出会っていなければ、ここまで弓に踏み込んではいなかったでしょう。それに弓をやる場が与えられたということですね。中学、東京電力、洗心洞と。洗心洞では高木泰先生をはじめ皆さんに大変お世話になり感謝の言葉もないくらいです。本多家では戦時中に利生宗家が疎開していたし、生弓会の基本財産である生弓斎文庫は高木家に保管されて戦火を逃れたわけだから。いまでも道場を使わせていただき本当に感謝しています。
 (「調和乃射姿・洗心洞と横山粂吉先生」から)

 ◇  ◇  ◇

 編集後記(「調和乃射姿」)
 ワサビは効かせずに
 洗心洞の人達と顔を合わせると「洗心洞の記録をまとめろ」「横山先生の弓を文字にしたら」としつっこく言い続けた手前、手伝えと言われて、逃げる訳には行かなくなりました。お陰で、横山先生にインタビューで肉薄でき、語録をまとめることができ、光栄でした。対談は4月3、11、15日の3日間、横山先生のご自宅で計約7時間にわたりました。弓界の現状にかなり手厳しい批判がありましたが、まとめはマイルドにしています。他流派に関する発言もありましたが、省略しました。奥様の冨子さん(昭和16年4月27日に結婚、平成3年4月7日に68歳で逝去)やご家族の話も聞きましたが、横山家から「弓の話だけにしてほしい」との要望があり、全部削っています。先生の人間性を出したかったのですが、フォーマルな装いになってしまいました。世の中、「自分史」を競ってつくっている中で、横山家はだいぶ慎み深いようです。語録は、時間がなくて、ビデオで記録したものだけになってしまいました。このまとめを見て、俺に連絡してくれればもっと中身の濃い語録がつくれたのにと思っている人も多いと思いますが、次の機会に資料を生かしてください。先生は平成8年2月の洗心弓友射会で、いきなり8寸的の金的を射抜くなど元気いっぱい。あのパワーで私たちなまけものの尻をたたき続けてください。(小林 暉昌)
 注 「高木]」の]は非かんむりに木


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