小林静一師範が語る弓の世界
大きく引いて矢数をかけよう



東京大学弓術部師範
1913年9月、静岡県生まれ
旧制水戸高、東大卒業



 小林静一師範(昭和13年卒)が、ご高齢のため道場にお見えになる回数が減り、先生の貴重な体験を聞くのも難しくなってきました。そこで、インタビューして、先生の弓の世界を語ってもらいました。平成9年11月29日、12月6日の2日にわたって千葉県松戸市の自宅でお話を聞きしました。死線を彷徨った日中戦争の従軍体験談などは圧巻です。水戸高時代からの親友・後藤田正晴さんの談話もつけました。

 《うれしかった対京大戦の164中》
 小林暉昌 東大弓術部師範をなさっていて一番うれしかったことは。
 小林静一師範 平成4年の京大戦で164中、的中率8割2分という快記録を出したこと。京都から試合結果の連絡を受けて、思わず池上平治君(昭和15年卒)へ喜びの電話をした。それを「繹志」36号に彼が書いています。19中3人、18、17中各二人と、何といっても、選手の顔触れがよかった。リーグ戦一部で負けて、入れ替え戦で早稲田を破ったあとだった。
 暉昌 師範になられたいきさつは。
 師範 本多利生宗家がお仕事の関係で上海に転勤され、藤田忠師範が病がちであったので、指導員体制ができ、その一員になりました。まもなく師範就任要請があった。「ともかくやってくれ。適当でいい」といわれ、引き受けました。一緒に学生と遊ぶような気持だった。本当は、駒場の方の専任になろうかとも思った。手をとって教えなければならないのは駒場の学生に多いと思ったから。駒場に新しい道場(浩然堂)ができたころは週一度くらい通ったことがありますが、松戸の自宅からはあまりにも遠いので、一時的に終わってしまいました。
 暉昌 指導方針とか、哲学は何かありましたか。
 師範 特別、ありませんでしたね。敢えていえば、学生は試合が多いから勝たねばならぬ。射法についてやかましく言い過ぎると、弓が萎縮して引けなくなる。中ったらこれを助長して、気楽な気持ちで伸び伸び引けるようにしてやる。それが中心だった。中てようと思うと堅くなる。あまり中てようと思うなよ、ともいってきました。
 暉昌 「あな嬉し喜ばし戦勝ちぬ」とか「立てよいざ、我らが選手」など、よく学生に寮歌を歌って励ましたようですが。
 師範 あれは、水戸高校の応援歌、剣道部の。弓道部のは、あいにくありませんでした。
 暉昌 最近の学生の弓についてどう評価しますか。
 師範 明るくていい。勝手を肩の方に引き付けて引くのは、離れが出にくくなって、中たらない。学生は高いところで引いて、肩と 手の間が空いていた方がよい。大きく引いて、手首で引くくらいであってよい。それに応じて押し手の方が負けないようにする。押し手の親指と人差し指の間の皮がねじれるくらいに押して、タコができるくらいにやる。そんな気持ちでやったらよい。何といっても弓の最大の秘訣は、左右の釣り合い。大三をとったら、初動は左手からいく。押し手の皮がねじれるくらいに押して、弓が背中の方に飛ぶくらいのつもりで引いたらよい。やれといっても、なかなかできませんけれど。
 暉昌 本多流についてどう思いますか。
 師範 敢えて言えば、本多流は堅いなと思います。堅苦しいというか、引き緊る感じが強く、いわば窮屈な射になり易い。もっと伸びやかさがほしい。引き付けが早いのではないか。もっと大きく引いた方がいい。学生時代の3年や4年で完成するわけはないですよ。OBになっても、本多流の中で引いていれば、自然に身についてくる。私は生弓会とも縁がないし、我こそは本多流という気もない。基本には、中学時代に習った小笠原流の鱸重康範士(明治29年卒)の射があるし、本多流としては、大内義一さんよりは高木]さんの影響を強く受けている。そんなわけで、自分では「本多流もどき」「本多流まがい」といっている。
 暉昌 学生に特にいいたいことはありますか。
 師範 矢数をかけろ、といいたい。粗末に引いたのではだめ。しっかり引き取って、矢数をかける。後は、トレーニング・アンド・トレーニング。訓練の積み重ねだ。軍隊でも同じで、馬に乗ろうとすると「鞍数をかけろ」という。身体で覚えることが基本だ。
 暉昌 弓術書は稽古の参考になるのですか。
 師範 昔も弓術書を部として勉強するということはなかったですね。ただよく読んでいると、あゝこのことかと分かって来るときがある。「本書」の「始中終法度の事」などよく読むといい。法度とは「きまり」「おきて」のことをいう。「一に中り、意趣は七道に之あり」とあって、七道をきちんと学ばなければいけない。「占懸合の事」も心得ておくこと。要は反省して一射一射大事に引こうということです。

 《引き取りが深かった鱸範士の射》
 暉昌 先生の生い立ちにさかのぼりたいのですが、弓を引き始めたのいつからですか。
 師範 浜松一中のときからです。本当はそれまで小学校でやっていたサッカーを続けたかった。私は、大正2年9月13日に軍人(大尉)の小林敏・のぶ、の長男として生まれました。母親が厳格で、「授業が終わったらすぐ帰れ」とうるさかった。しかし、放課後一時間は何かの運動部の練習に参加していないと上級生から睨まれるので、浜松一中では体力的に楽な弓を選んだ。中学2年の時に掛川中学との試合で20射13中を出した。「こいつは使える」と認められるようになり、自分でも弓に傾倒していった。当時は日置流雪荷派の鈴木源蔵先生(弁護士)に教えを受けた。鱸重康範士が静岡地検の検事正で赴任されたのを機会に、鈴木先生が弟子を引き連れて入門し小笠原流になった。やがて小笠原流の紫紐允許を得て、武徳会の3段になった。中学を卒業したばかりとしては優秀の方だった。鱸先生は東大の先輩で、鈴木先生の道場で射を見せていただいたが、強い弓を引いておられた。震動がすごかった。引き取りが深くて会が長いが、引き収めてからガタガタの震えがはじまって大きくなり、やがて、海の波がおさまるように静まって、離れになる。四つがけで、射形は本多利實老先生の写真に似ておられた。
 暉昌 水戸高校時代は弓で勇名をはせましたね。本多利時先生の「学校弓道の現況」(「弓道講座」)には「優良射士に就いて」の項に「私の目撃した人で未だに印象深く残っている射士」として「小林静一氏(明治神宮大会個人入賞)」をあげています。
 師範 明治神宮大会というのは今の国体で、2年の時に、団体で準優勝、個人で最優秀賞をもらった。大会はたしか1年おきだった。インタハイは東大と京都の両方があって、私は東大の方だけ。京都の方が派手だった。決勝戦で静岡高校と対戦し、大後(おち)を引いて止め矢が的枠をはたいて外れ、負けた思い出がある。活躍したようにいわれているが、個人賞はよくもらったものの、優勝には縁がありませんでした。当時は、武徳会が盛んになってきて射形を評価するようになった。だから、先生について勉強した人が認められるようになった。中たりでは、滝川巌君(昭和14年卒・山口高)の方が上だった。
 暉昌 副総理もした後藤田正晴さんの「私の履歴書」にも、弓の名手として小林さんの名が出てきますね。
 師範 文乙のクラスが同じで、一緒に入って一緒に卒業したから。種田孝一・元ダイキン工業取締役会長も仲間で、彼はサッカーでベルリンの五輪大会にも行った。後藤田君は陸上競技部。他の人があまりやらないところを選んだ。やり投げもやるし、ジャンプもやる。二高との対抗戦など大きな試合では、頭数をそろえるため出場選手のいない種目があると「後藤田やれ」といわれて、何でもこなしていた。戦後、自衛隊に入ったのも、彼の助言でした。
 暉昌 当時の弓の稽古の雰囲気は。
 師範 大内義平さんが体育の教官だった。父親の義一さんは時々こられる程度だった。義平さんは本多流とはいってなかった。先輩では、ソロモンといわれた沢田総門さん(昭和10年卒)がよく中り、弓を背中の方に落としてトントンと走らせていた。一高の浜口博さん(昭和12年卒)も弓が飛び出して背中に飛んで行った。試合で弓がクルクルと回って背中に飛んでいくのは粋だなと思う一方、よく中てるので、小憎らしく思ったものです。弓を落とすのをみっともないとか、戒めるべきことだとか、そんな空気はなかった。当時は武徳会の弓が主流になり斜面が少なくなってきていた。社会人の世界では「武徳会にあらずば弓にあらず」の感じだったが、高校や高専では「武徳会なにするものぞ」の反発があった。稽古は1日40射くらい。20射のノルマを終わらせて、はいこれで終わり、という人も多かった。



 《開放的雰囲気の東大道場》
 暉昌 東大の弓はどうでしたか。
 師範 昭和10年に入学し、ちょうど新しい今の道場ができた。新しい建物に引かれて入部した人もいた。私も図書館へ行こうとして、途中に立ち寄って入部。それ以来、図書館に足を運ぶどころではなくなった。みんな高校でやってきた射法で引いて、流派にもこだわらず、開放的だった。射形もばらばらで、斜面打起しの人もいた。皆うるさいことはいわず、弓を楽しんでいる雰囲気だった。池上君はよく口を出していたが、他人の射はわれ関せず、の人が多かった。「分付帳(ぶつけちょう)」という記録簿に、例えば中り七分とか八分とかいって、中りの記録をつけていたが、あまり試合のためのチーム練習をすることもなかった。特別だったのは京都大学戦、早稲田大学戦くらいでした。
 当時の師範は大内義一さん、本多利時さん。大内さんから「酒を飲みにこい」といわれて、自宅に行ったことがある。弓はあまり引かれず、古い武道、管矢、打根、忍び矢などの術を見せてもらいました。本多利時さんは身体が小さかったが、立派な射を引かれていました。碧海康温さん、高木 さんも道場によくみえられ、碧海さんはあまり引かれなかったが、いろいろ解説をしていただいた。高木さんはよく中り、尺二の的ではほとんど外さなかった。射もきれいだった。かなり振動はあったが、 手のおさまりが見事で、弛まないでばっと離れるのがすごかった。冴えていました。高木さんは、武徳会教士の免状を碧海さんに見せて「こんなものをくれたけれど、どうしましょうか」と、師範席の前で相談しているのをちょうど目撃したことがあります。碧海さんは「くれたものなら、もらっておけ」といってました。昔から、東大は武徳会や日弓連に関心を示していなかった一例。段級審査を取る人もいなかった。


 《貫通銃創で逆に命拾い》
 暉昌 日中戦争に従軍されたときは、間一髪で危機を脱する事ができたと聞いていますが。
 師範 運というのは、ほんとうにふしぎなものですね。あれは昭和16年9月、中国中部の長沙付近で第1次長沙作戦を展開中のときだった。第3師団歩兵18連隊第7中隊の小隊長(少尉)として最前線にいた。兵が機関銃をやたらとパラパラ撃っているので、「狙いをつけなければ仕方ないではないか」といって、6倍の双眼鏡で中国軍側をみていた。そうしたら、左肩の首のすぐわきを打ち抜かれて、身体がねじれるように、引き倒された。貫通銃創。それで後送されることになった。これが正午頃のできごとでした。その夕方、激しい撃ち合いがあり、私の小隊約30人のうち生き残ったのがわずか6人だった。そのまま戦闘に加わっていたり、後送が2、3時間遅れたりしていたら、恐らく私も生き残っていなかったのですよ。
 輸送隊のトラックに運ばれてまず漢口に。ここから揚子江を病院船で南京に運ばれる予定だったが、軍医から「あまり重い病人ばかり運ぶのも気が重い。頭数合わせになってほしい」といわれて、上海に運ばれた。ここで、太平洋戦争の開戦を迎えた。今度は開戦で病院の収容能力を確保するため「動かせる病人は動かす」方針で、行き先もわからないまま船に乗せられた。着いたところが、宇品だった。原隊が豊橋の18連隊なので名古屋に送られ、そこで召集解除となりました。
 戦地の状況は悲惨でした。痛い痛いとわめく兵士のそばをみると別の兵士が死んでおり、その身体を貫通して跳ね返った弾が、そのわめいている兵士にあたっていたのだ。腹をやられた兵士が「止血してくれ」と、わめくが手の施しようがない。出血多量で「目が見えない」といっているうちに「あわあわ」となって、五分もしないで死んでしまった。前線には、戦局を知らせる情報らしい情報はほとんど来ない。いざとなると、逃げるか、進むしかない。そして人の命がなくなっていく。戦場ってこんなものなのです。
 暉昌 召集解除で、戦争のかかわりは終わったのですか。
 師範 また召集されました。大学を卒業したのは昭和13年で、南満州鉄道(満鉄)に入り、撫順の炭鉱で労務担当として、約半年働いて、まず召集を受けた。召集解除後はまた満鉄で働いていたが、今度は鉄道隊として召集された。鉄道のことなど、何も知らないのに。ハルピンの鉄道第二連隊に入ったら1週間もしないうちに部隊移動になった。南方へ行くといううわさだった。船がないので汽車で釜山まで行った。ここでも船がなく1週間とめおかれ、そのうちどこでもよいから動かせということになった。そして、着いたのが博多。「内地でよかったなあ」とみんなで喜んだ。米軍の空襲が激しくなり、橋や鉄道の復旧作業をやっていた。そして8月15日の終戦。「これで助かったか、生命は大丈夫だな」とだけ思った。感慨は後から、じわじわやってくるもの。このときも運はどこに転がっているかわからないもんだ、と思いました。
 暉昌 自衛隊では弓を引かれたのですか。
 師範 復員後に肥料配給公団などに務めたりしましたが、昭和28年に入隊し、陸上自衛隊の松戸駐屯地に二佐で配属になりました。倉庫に巻藁があるのを見つけて練習を始めたら、私も、私も、と集まってきた。中に大工あがりの隊員がいて上屋をつくり、砂も九十九里の海岸から運んで手作りの道場をつくった。34年に弓道部ができて部長におさまったが、部員は5、6人で、消長があった。36年に日弓連の5段・錬士になった。大学、とりわけ本多流では、段級は子供だまし、という雰囲気だったが、自衛隊の中で教えるにあたっては、すぐ称号・段位に話が行くので取ることにしました。道場はやがて、別の施設をつくるというので、私が長期出張している間に取り壊されてしまった。この間、松戸市弓道連盟の副会長もしました。自衛隊は、西部方面総監部総務課長(一佐)で定年になった。その後、鍼灸師の資格を取り、松戸で開業しました。十年程前から開店休業状態。平成9年12月4日に廃業届けを出したばかりのところです。

 《親分のような存在感》
 後藤田正晴・元副総理の話 小林静一君とは席順も隣り合わせで仲が良かった。旧制高校の仲間は生涯続く友人が多く、剣道一筋の変人や左翼のニヒリストなど多彩だったが、小林君は弓道の達人で全人格的に立派な人です。仲間で悪くいうような人はいないもの。存在感があって、親分の風格がありました。満鉄に行って戦争に巻き込まれ、大戦の犠牲者のひとりでもあります。今後も弓道の後継者育成に腕を振るってほしいと思います。
   (平成10年1月15日=「繹志」41号から)

米寿を祝う

お祝いの掛け袋を贈呈し歓談
前列左から、本荘大紀前赤門弓友会代表世話人、小林静一師範、藤元薫東大弓術部長、小林暉昌、後列左から金子敏哉弓友会委員、川田晃代表世話人、恒川敦宏コーチ
千葉県流山市で
2000年5月28日


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