的を体に引きつけよう
 
  2001年へのコーチ団報告にかえて
 (東大弓術部機関誌「繹志」44号)

伝統の東京大学・京都大学定期戦
(2001年11月18日、東京・本郷の東京大学育徳堂で)



 ◆◆勝負強さをもっと培おう
 京都大学との定期戦は男子が141対140という劇的な一本差勝ち。大落ちの主将花田智史君の留矢で勝負が決しました。この勝負強さがシーズン中、終始出ていたら、もう少しいい結果が出ていたのではないかと思います。リーグ戦男子1、2試合目は見事な逆転勝ちをしたものの、後が続きませんでした。女子もよく初立ちで素晴らしい出足を見せたりしましたが、一瞬の輝きに終わり、リーグ一部がいかに実力の世界であるかを思い知らされました。
 国公立戦は男女とも優勝し、女子個人では山口京子さんが優勝。全関東大会で山口さんが準優勝するなど、幸先よいスタートでした。神戸で開かれた全日本学生弓道選手権大会は、3年前に優勝したゲンのいい会場だけに期待を持ちましたが、男女とも振るわず予選落ちでした。
 大きな大会は広いアリーナで開かれますが、雰囲気に飲まれると、射位から的までの距離が長く感じられ、的が小さく見えるものです。的をいかに自分の体に引き付けるか、これが稽古の大きなポイントです。よく中る時は、的がすごく近くに来ています。そのコントロールができれば成功です。この心理状態と的の関係について、弓書をのぞくと「雪の目付け」「一分三界」「着己着界(ちゃっこちゃっかい)」「拳中」「中り拳(あたりこぶし)」「中の曲尺」「的介(まとだすき)」「心の目付け」「分の規(ぶんのかね)」などたくさんのキーワードがあります。的を自分の体に取り込んでしまう方法を一つでもつかんで下さい。
 2000年度の皆中賞は2件2人、加藤豊章君(都立大戦20射皆中=煙獅W日)と、山口京子さん(青山学院大戦12射皆中=4月俣)です。前年は5件2人、前々年は8件5人で、年々下降線をたどっているのは残念です。弓友会会計が困るほど皆中を出して下さい。なお、99年度の皆中賞について「繹志」43号に世話人会報告が出ていますが、間違いがありましたので再録します。受賞者は2人。富所修君が▽学連100射会で5回目の20射で皆中=5月4日▽国公立戦後半20射皆中(試合通算40射39中)=6月6日▽日大戦20射皆中=煙獅R日。西川行夫君が▽芝浦工大戦20射皆中=5月9日▽国立七大学戦前半3試合連続8射皆中=7月搏。

 ◆◆学生側の要望は「もっと口を出して」
 新世紀1年目の新体制とコーチ陣の意見交換が2000年12月4日に行われました。安部健太郎主将、石井浩一副将、牧野祐輔主務、山口京子女子責任者、北川篤子副務の新役員から要請があったのは、コーチ陣はもっと積極的に口を出し指導してほしいということでした。これまでと違って技術的に優秀な上級生も少なくなり学生同士の指導に頼っているとレベルアップが期待できないという理由からです。東大の伝統は、あまり口を出さないのが本筋で、「指導」なんて高ぶった言葉も使わない慣わしもあります。コーチの指導観もあると思いますが、学生側の要望にどうこたえるか考えてください。要は、弓を引きながらお互いにコミュニケーションを強めるようにすればよいのではないでしょうか。
 コーチ団の第1任務は小林静一師範の補佐。2000年11月25日に千葉県流山市のケアハウスに先生をお尋ねし約40分お話をしました。碧海康温さんら大先輩の思い出など若かりし頃の話が中心でしたが、元気な様子でした。弓術部のみなさんには「暖かくなったら、ぜひ本郷の道場に行きたい。学生諸君は矢数をかけること。私の学生時代は、大学に行くのか道場に行くのかわからないくらいだった。矢数をかけないといい弓は引けない。試合も日ごろの稽古の集積で決まる。みなさんによろしく」とのことでした。
 コーチ制度が1997年5月に発足して4年目になりますが、コーチの顔ぶれは次の15人のみなさんです。敬称略。○は幹事、◎は幹事代表。
 山中恒夫(ュ年卒業)、井出敦夫(セ年○)、那須弘平(ソ年○)、小林暉昌(タ年◎)、茎田実(チ年○)、坂井忠通(テ年○)、鈴木千輝(ヘ年・赤門弓友会世話人兼務)、横山明彦(ホ年○)、多々良茂(モ年)、吉岡泰(モ年)、川村大(ラ年○)、杉田敏(ロ年)、飯野雄一郎(ン年)、恒川敦宏(ン年・赤門弓友会世話人兼務)、米谷隆(゚年)

 ◆◆米寿祝で小林先生訪問
 小林静一師範は大正2年(1913)9月13日生まれで、米寿を迎えられました。お祝いの射会、懇親会を開く話が、先生に教えを受けた若手OBから出て、恒川敦宏さんが中心になってプランを作り上げました。当初は先生がご遠慮されていましたが、ご家族は前向きでした。コーチ陣だけで話を進めてもいけないので、2000年3月20日、千葉・笹川合宿の帰りに多々良、恒川さんと流山市のケアハウスに向かい、本荘大紀弓友会代表世話人と落ち合いました。小林先生をお見舞いし、いろいろご注文をお聞きしたうえ、米寿の行事をやることを確認しました。4月29日の百射会を祝射会に切り替えて、通知も徹底させました。ところが、4月18日夜、先生の長男・真人さんから「妹と相談した結果、父親の老いた姿を、公の場にさらしたくない」との電話がありました。特に体調が悪くなったとかいうのではなく、迷惑をかけてはいけないというご配慮のようでした。これで急遽中止となりました。
 お祝い金も集まり、記念品の](ゆがけ=蝶の虫へんを弓へんに)袋もできあがっていましたので、5月28日、流山のケアハウスを有志が訪問しお祝いをしました。サンルームで乾杯し昼食をとりながら歓談し、先生もたいへん喜ばれていました。訪問したのは、藤元薫弓術部長、本荘、川田晃、恒川、学生委員の金子敏哉の皆さんと私の6人で、真人さんも同席しました。

 ◆◆宗家師範就任で本多流追求宣言
 本多利永宗家が2000年5月27日に弓術部の宗家師範に就任され、12月23日に祝射会、祝賀会が育徳堂、本郷・学士会館でにぎやかに開かれました。利永宗家は2001年1月2日の世紀初めの射初めに出席され、巻藁射礼の演武を披露しました。稽古初めも行われ、指導第一号を受けた高井久就君は「大きく引くように注意されました。宗家ともなると雰囲気が違いますね」とたいへん感激していました。
 宗家師範については、藤元部長から就任要請の伝達役を頼まれました。99年5月15日の洗心洞・東大親善射会が終わって、学士会館で懇親会が開かれていたとき、「近く正式決定がありますから」と宗家にお伝えしました。2週間後の赤門弓友会総会で正式決定するのだろうと思っていましたら、何の決定もなし。その後、宗家にお会いしたとき、部長から何か連絡ありましたかとお尋ねするといつも否定の返事。勇み足の伝達だったかと思っていましたら、2000年5月の弓友会総会で発表、了承が取られました。
 この総会で本多流と弓術部の関係を藤元さんに聞きましたら、弓術部は本多流を追求していくことを明言されました。念のためこの見解についてOB、現役に異論があるか確認しましたが、異議は何も出ず、事実上、本多流追求宣言が出された格好になりました。弓術部は本多流をバックボーンにしながらも他流共存路線が基本と思ってきた私にとっては思い切った宣言になったなと感じました。わたしたちの世代では最も本多流をクールに見ていた藤元さんの発言だけに意外性もありました。部長退任を控えて私たちへの強力なメッセージなのかなとありがたく受け止めました。利永宗家が宗家師範に就任されたのをきっかけに、本多流追求宣言が出たのはいいことです。本多流を盛り上げるのにOBのみなさまのご協力をお願いします。
 藤元さんは2001年春に退官されますが、宗家師範の依嘱は最後の大仕事だったのではないかと思います。16年間、研究活動で忙しい中、部長として弓術部のお世話を頂き、ありがとうございました。

 ◆◆OBの研究発表で研修会盛り上げ
 本多流の研究・親睦組織である「生弓会」の中央研修会が2000年8月12、13両日、東京・綾瀬の東京武道館、足立区勤労福祉会館で開かれましたが、研究発表会では東大コーチ陣が議論を盛り上げました。
 研究発表で、多々良茂さんは本多流成立と正面打起しについて、流祖の著作や各種の証言から推論を試みました。鈴木千輝さんは「弓射への力学的アプローチ」と題して、弓射を力学的に把握する方法論を提起。山中恒夫さんは、進行係を務めるとともに、スピードガンによる矢のスピード測定と袴の腰板の曲尺について分析しました。最後に私が「本多流はIT革命時代に生き残れるか」と題して、インターネットと弓道について問題提起しました。「インターネットの活用で、地域、段級の差、男女を飛び越した交流が広がり、射術の知識も豊富になる。今後はバーチャル弓道場、インターネット弓術書図書館、インターネットによる射技研修会、印可審査なども予想される。流派、射術の合理性が問われ、権威主義、カリスマ性、ピラミッド型秩序が壊される恐れもある。射法の論理性を高め、弓の実質的魅力が必要になる」と指摘しました。
 意見交換では井出敦夫、坂井忠通、飯野雄一郎さんらにも加わっていただき、論議を深めることができました。
 この研修会については、全日本弓道連盟の機関誌「弓道」の編集委員になった北海道大学OBの渡辺晴美さんから「流派弓道も重視したいので投稿しませんか」の呼びかけがありました。早速「インターネット時代にあなたの弓道は生き残れますか」と、刺激的な見出しで原稿を送りました。ところが、「インターネットといっただけで連盟幹部はアレルギーを起こす」とかでボツ。東大の白馬合宿にパソコンを持ち込んで書き直し原稿を送りました。それが「弓道」十一月号に載った「『弦取り』稽古で弦道、肘の収まりを探求||本多流・中央研修会から」の記事です。
 「弓道」には「読者の声」欄が復活したのをきっかけに何本か投稿していますが、今のところこの記事を含めて3勝3敗。批判的な意見や連盟にとって都合の悪い質問はボツになってしまうようです。



東大合宿

2001年3月18日
千葉県東庄町笹川の
土善旅館弓道場で

 ◆◆東大の弓をもっと語りかけよう
 生弓会の「赤門支部」を結成し2001年1月12日付で届けました。メンバーは宇野精一、村上義令、碧海純一、山中恒夫、井出敦夫、坂井忠通、鈴木千輝、多々良茂、川村大、飯野雄一郎、恒川敦宏、丸田晋一、鈴木昇司、島田周、中井誠一郎の皆さんと私の計十五人です。支部長は長老の山中さんにお願いしました。赤門支部チームの初陣は1月28日に明治神宮・至誠館第二道場で開かれた生弓会初射会。1本差の準優勝でした。
 東大OBの生弓会会員はこれまで生弓会行事には余り参加していませんでした。最近は若手の行事参加も目立ち、チームを組んで参加し始めています。射礼を習ったり、射会で実力を試すのもよいのではないかと思います。新たに参加希望がありましたらご連絡下さい。今もなお、生弓会や本多流・本多宗家と関わりを強めることや外部との交流を強めることに、消極、反対意見もありますが、皆さんはいかがお考えですか。私は、余裕があればあえて他流試合も辞さず、技も理論も競い合うのがよいと思っています。

 ◆◆東大鳴弦を洗心弓友射会で披露
 東大の鳴弦が学外でも演じられるようになりました。2001年2月11日の本多流・洗心弓友射会の20回記念大会に招かれました。嶋田洋さんが指導役・介添えで、洗心洞稽古会の多々良茂さんのほか、高山裕、園田賢作、飯野雄一郎、恒川敦宏、片江正晃、上永明宏のOBの皆さんが演武しました。高校生は初めて見る人が多く感激し、また鳴弦を知っている人も東大方式の勇壮さに鳴弦を見直したようです。これまでは外に出て個人的な鳴弦の披露はあってもこれだけの規模での演武は初めてです。矢師の石津嚴雄さんが誉めて下さった東大鳴弦も外に誇れるものに成長したものと思います。
 洗心洞は東大弓術部師範で全日本学生弓道連盟会長、全日本弓道連盟副会長だった高木](たすく‖非かんむりに木)先生の道場です。その稽古会のみなさんが毎年、2月11日に「弓を楽しむ」をテーマに高校生を中心に射会を開いています。この20回大会には五百人が集まりました。本多利永宗家の巻藁射礼で開幕し、色的の競射、紅白的トーナメント、射割り、三つ的、ストラックアウトなどで弓を楽しみました。人気がなお高まりそうですが、参加人数が多くなりすぎて運営も難しくなってくるようです。

 ◆◆池田拓郎さん、ありがとうございました
 根本松彦さんに続いて、池田拓郎さんが2000年1月25日に心不全で亡くなられ、コーチ陣の有力な指導者を失うことになり、本当に残念でした。ご冥福をお祈りします。コーチになられて茨城県守谷町から遠路はるばる駒場や本郷の道場までお出で頂き、頭が下がるばかりです。コーチ総会にもお出で願い貴重な意見を聞かせていただきました。99年5月の総会欠席の連絡では「東京から帰宅途中、松戸駅で脈が指先に感じられなくなり行き倒れになるかと思いました。夜の会合はいっさい出るのをやめます」と書かれていました。
 池田さんは大内義一、義平両先生に指導を受けられた内容を整理して「大玄射法大意」を99年5月に著し、本多流弓道の伝承に意欲を燃やしていました。私のところにも、自らのビデオ映像を送ってこられ、本多流射法の本筋如何との問いかけもありました。著書でいっていますように「今が一番うまく引けている」と自信を持っていたのだと思います。射型写真もふんだんに載せています。感想を再度求められて、「本多利實翁のお弟子さんでも射法がいろいろ違いますが、どれがよい悪いというより、流祖の七道の写真が原点ではありませんか。あの鋭い無駄のない離れが本筋だと思います」と返事をしました。池田さんの大きな離れを遠回しに批判し、ご機嫌を損じられたかなと思いましたが、そんなことには余りこだわってはいなかったようです。思い出すのは97年12月19日付の指導法に関するお手紙です。
 「ごく現役に近い先輩ならばともかく、学生と五十も齢の違う私どもが出ていくとき若い年代のコーチのようにしてはいけません。抑々教えると教わるとは人間関係であり、学生がこの人のいうことならきいてみようと思うようにならない限り教えてはいけません。況や教えてやろうなど論外であります。教わりたければこっちが行くスケジュールにあわせろなど以ての外であります。
 抑々教えるには階等があります。何もいわず何も匡さないを最上とします。弓をとる前に一言以て之を導くは上、弦に逆らわず無理なく之を導くは中、体に手をふれて矯正するは下、肘に手をかけてあげさせ肩を手で抑え終始多弁に説明を加うるなど下の下であります。阿波(研造)先生は殆ど教えなかったようだし大玄(大内義平)先生は畳の間から見ているだけでした。私はよく大玄先生から叱られました。おまえは教えたがる……。私どものような老人が出ていって教えてはいけません。みかねて一寸口添えするのがせいぜいです。
 暴言あらば多謝。今後とも顔を出すときには学生と気持ちよく引きたいと思っています。たとい一言もいわなくとも」
 人柄をあらわすように丁寧に毛筆で書かれていました。「コーチ日誌に綴り込んでみなさんに読んでもらおうと思っています」と電話しましたら、「大騒ぎするような中身ではありません」といわれてしまいました。
 私は2000年3月にホームページ「朝嵐||弓道・本多流を求めて」を開設しました。それをきっかけに、東京・下井草の大内道場「不忘館」で池田さんの指導を受けた丹羽民夫さんと情報交換するようになり、池田さんの稽古ぶりや弓に対する考え方などを知りました。もっと早くわかったら池田さんとも突っ込んだ弓射論を交わせたのにと悔やまれるところです。
 丹羽さんの話によりますと、池田さんから「もう長くないから葬式用の写真を撮ってくれ」と頼まれ、冗談だと思っていたら「早く撮れ」と怒られたそうです。99年暮れには友人へいろいろな物を送るよう依頼し、「死期を悟ったのかしら。縁起でもない」と思っていたそうです。通夜・葬式用のBGMテープも自ら編集、用意し「頑固ジジイらしいカッコイイ最期だった」とのことです。池田さんが亡くなられたのと符節をあわせるように、2000年6月18日、大内道場は60年余りの歴史を閉じました。この道場は東大弓術部師範だった大内義一先生の開いた道場として有名でした。
 池田さんは「大玄射法大意」のあとがきに「技に関する限り、人は誰でも、根の利鈍を問わず、七十三まではうまくなれる」と断言しています。私は2000年に2万2千本の的前矢数をかけましたが、矢数をかければかけるほど下手になるなと実感した一年でした。池田さんの診断が本当かどうか、今年ももう少しがんばってみようかと思っています。

 ◆◆最後まで闘志燃やしたメル友・斎藤正彦さん
 京都大学OBでありながら東大弓術部の応援団でもあった斎藤正彦さんが2000年10月15日にがんで亡くなられました。がっくりしました。弓の指導ばかりでなく、個人的には私が竹入義勝元公明党委員長の回顧録を朝日新聞紙上に書いて公明党・創価学会から総反撃を食らったとき、すぐさま激励を頂いたり、自民党の政治資金規制に対するだらしなさを追及する記事を連続して書くと、後押しの声援を送って頂いたり、仲間内よりよく記事を読んでもらい、感謝するばかりでした。82歳でパソコンに取り組み、私の最長老のメル友。郵便あり、FAXありと情報手段も多彩でした。本多利永宗家宅の本多流勉強会にも顔を出されたり、弓友達の交友を深めるため全国行脚もしていたようです。東京電力時代に本多流を会得していただけに東大、本多流にも好感と関心を持たれていたのではないかと思います。
 99年7月11日、国立七大学OB戦が東大の育徳堂で開かれましたが、斎藤さんのお声掛かりで、茎田実、町田進さんらがお膳立てし、多くの人の念願が叶いました。懇親会ではアンチ全日本弓道連盟の集いとして盛り上がりましたが、斎藤さんは上機嫌でした。この集まりの会長に斎藤さんを推す声が圧倒的でしたが、斎藤さんは東大で引き受けてほしいと固辞し、会長選任は決まらないまま終わってしまいました。斎藤さんが元気でいれば、恐らく二〇〇〇年も七大学OB戦が開かれていたでしょう。斎藤さんは東京からふるさとの弘前に転居しましたが、99年の東大・京大の定期戦ではOB戦に参加され、その場で借りた他人の弓矢、](ゆがけ‖蝶の虫へんを弓に)で四射皆中をして「さすが名手斎藤」と周囲をうならせました。斎藤さんは東大道場で弓を引くのを何よりの楽しみにしていました。というのは旧制弘前高校時代、インターハイで活躍した舞台が東大道場だったからです。佐藤治美編「回顧旧制高校弓道部」に、若いときの斎藤さんの活躍ぶりが写真付きで記録されています。
 2000年に入って、音信が途絶えました。8月1日付で頂いたはがきはショッキングでした。
 「繹志四十三号拝受いたしました。それが弘前大学病院ベッドでした。書きたいこと、読めば読む程に浮かんできますが、今はとりあえずお礼感謝の気持ちをのべさせていただきます。病名大腸がんでしたが骨に転移を発見、急死だけは抗がん剤注入でまぬがれおちついています。今日、大学(弘前)弓道部の紅白戦があり医師の了解、付き添いをしてもらって一時間ほど射業を見てきました。坂本武彦先生の射の本筋のオサマリ、井出さんの筋肉トレーニングのこと、小林さん、川島先生(京大師範)の射のこと、六月にお会いして爪揃えのしめ方を学んできたばかりでした。骨法が本多流の頂点であることを知ろうと思っていましたが、どうなりますか。東大から成績のメールその都度いただき感謝しています。悪筆ご了承下さい。お騒がせしました」
 神戸で開かれた全日本学生弓道選手権大会で、斎藤さんが指導している弘前大の行射中の写真を撮って送りました。斎藤さんは全日本弓道連盟の機関誌「弓道」の編集方針が精神主義に偏していると批判し続けていましたが、「弓道」の編集者が変わったことなどもお知らせしました。先ほど触れましたように新しい編集者は北海道大学OBの渡辺晴美さんで、7大学OB戦にも参加し懇親会を盛り上げてもらったひとりでした。斎藤さんはその後、3通のはがきを筆の乱れを懸命に抑えながら書いていただきました。渡辺さんへの支援を願う一方、全弓連の偏った精神主義には「日本の体育界の負の部分を見る気がする」と闘う意欲を見せていました。弘前大の試合写真には「元気が出ました。あと一山の頑張りです。死んでいられません」。死の床に横たわりながら、弓をなお追求する姿勢には、大きな感銘を受けました。ご冥福をお祈りします。(2001年2月15日)

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