天を突く打起し

寺嶋廣文先生の打起しは
高くて美しかった。
正面打起しが、本多流の
緊張感のある射と鋭い矢飛びに
つながると力説していた。
1963年5月18日
東大五月祭の射礼
育徳堂で


 正面打起し論を整備しませんか

 本多利實翁が斜面打起しから正面打起しに変えた理由はどれですか。1、将軍吉宗以来、旗本は正面打起し射法を取っていたから 2、小笠原流の射礼を習いながら正面打起しのよさがわかったから 3、東京お江戸の流行になっていたから 4、左右のバランスを重視し体育的観点から 5、剛健典雅の射の基本と考えたから。
 1997年5月18日、第3回洗心洞・東大親善射会の懇親会で学生達にこんな宿題を出しました。今では当たり前のようになっている正面打起しを原点から考え直して本多流のよさを味わってもらおうとしたからです。たまたま、同年2月23日に開かれた本多利永宗家宅での弓書研究会で、正面打起し論が活発にかわされ、本来、本多流の醍醐味を味わうべきところに、意外にも、射術論の盲点があるなと感じてもいました。
 97年末に刊行された「本多利實弓道論集」(弓道資料集11巻・いなほ書房)で編者の筑波大・入江康平さんが、利實翁の正面打起しを論じているのにぶつかりました。流祖の口述記録をもとに検証していて興味深い論文です。本多一門以外からもこうした論文が出てくるのであれば、生弓会でもきちんと正面打起しの理論を確立しておかなくてはならないでしょう。かつて、同じ筑波大の稲垣源四郎さんが「本多流には教義がない」「野狐禅弓道の新興流派」などと本多流批判をしたことに、きちんと対応できなかった反省をこめて、射学確立の必要性を感じ、急いで筆を取りました。
 冒頭の設問は、択一式に慣れている若者には不向きな回答かも知れません。 から が流祖が言及している理由です。 は後世の指導者たちの理屈付けです。だからどれを取っても間違いではないのです。「いいかげんな設問をしやがって」と、お怒りになる方がいるかも知れません。「弓聖」ともいわれた翁の改革なんだから、明確な光り輝く理論があるのではないか、と期待するのももっともなのです。だが、各種の資料を当たると、「そんなことしかいってないの」と、間違いなく失望するでしょう。「時の流行につれて変わって参りますのは自然の勢い」(「弓道講義」)といった流行追随的な表現も出て来ます。正面打起しでも斜面打起しでも「的ヲ射ルトキニハ別ニ損得ハアリマセヌ」(「弓学講義」)などといわれては、本多流至上主義者にとっては「じいさん、そんなこといわないでよ」と、悲鳴をあげたくなるくらいなのです。
 本多宗家宅の弓書研究会で、私は「利實翁の説明は説明として、私たちは流祖の射術を分析し、言葉になっていない部分を組み立て直し、正面打起しの理論付けをする必要があるのではないですか」と指摘しました。そして、「総論としては、正面打起しは『剛健典雅な射』の大きな構成要素である、そのために流祖は改革を加えたのである、ということでよいのではないですか。構成要素の技術的中身は私たちが肉付けしていく必要があります」と提起しました。そうしないと、「正面打起しは利實の創意工夫でもなく、確固たる理由があったわけではない」(入江氏)という表面的な検証だけに終わってしまうでしょう。
 本多流の先達たちはどういう理解をしていたのでしょうか。碧海康温さんは「儀礼を貴び身體の左右均衡を主とする点より言えば、弓構を體の正面でなすことも亦当然である」(「弓道講座・本多流弓道」)と、豪快に当然論で言い放っています。村尾圭介さんになると「(正面打起しは)左手の関節をきめてかかるのではないから余程むつかしくなる」(「弓道」)と、印西派ご出身のせいか斜面への郷愁をにじませています。戸倉章さんは「座作進退等に礼儀作法を取り入れて優雅を加味された。射に於ける筋骨の働きの左右均衡を保ち弓を通じての体育向上の合理化と精神修養とを計られた」(「弓矢に生きる」)と解説し、わが剛健典雅論に近くなっています。
 この生っ白い剛健典雅論を震撼とさせるように、射術論で正面打起しの「ねばならない」を喝破したのが寺嶋廣文さんでした。まさに正面打起しの核心を突いていると思います。「本多流始祖射技解説」から引用します。
 「老師の弓射の本筋とする十五間的前での正面打起しは、弓射に左右均衡を得た構成美を見出して、烈しい離れ、烈しい弓返りと冴えた弦音に緊張の極致の世界を見出し、烈しい離れは必然的に早い矢飛びを招来し、的に最短距離の道をとると矢に中りのあるのは当然となる。これが正射の姿である。この正射の姿を求めるのが老師の希望であり、そして正面打起しに始まる弓射の道が、そこに到達する唯一の第一歩であると思い定めさせたのである」
 「弓に体重を乗せるには、正面打起しが最善の操作である」「弓返りによって弓自体の力にプラスXの力を与えるというのが、正射の姿の一面である。この弓返りは正面打起しから大三に移行する際、押手握りの中指の締まりを堅めることによって、烈しいものが出るということは体験が教える。老師はこれを見出し、取上げたのである」
 流祖は、正面打起しは斜面と違って「手ノ裏ハ中力マデニテコシラヘル」(「弓学講義」)と述べていますが、寺嶋さんはそれもきちんととらえて、大三で中指がきりりと締まって鋭い離れにつながっていく射法を、言葉にはなっていない流祖の思いを代弁して、端的に表現した、と私は思っています。私たちは、こうした射術を体得しながら、正面打起し論の肉付けをしていく必要があるのではないでしょうか。
 「寺嶋廣文さんてだあれ」。若い人からこんな声も聞こえてきそうです。流祖に直接に手ほどきを受けた人で、東京大学弓術部師範で生弓会顧問もしていました。生弓会のなかでは、残念ながら、その射法は異端児扱い、タブー視されてきたようです。「ああ、あの寺嶋流か」。生弓会幹部から無視するような声をなんどか聞きました。だが、寺嶋射法論を乗り越えなくては、本多流射術は残っていかないでしょう。この山を登らずに回り道して逃げてしまっては、日弓連射法と同じレベルにしか到達できないのではないでしょうか。「本多流始祖射技解説」は、76年に生弓会が発行したもので、編纂委員は、寺嶋さんのほか、亀岡武、藤田忠、柳原光春、伊藤〆夫、神麻良平、平山龍郎、羽賀浩一の諸先生方です。いわば、生弓会にとっては、最も権威ある「本多流バイブル」のはずなのです。97年9月に亡くなられた森岡正陽さんも、竹林派弓術書のポイントを分かりやすく解説しています。森岡さんはかつて京都の本多流研修会の講師に招かれたこともあり、弓書研究の第一人者でした。
 宗家宅の弓書研究会は、1996年4月21日にスタートし、順調に回を重ねています。屋代]三(じょうぞう)さんの「竹林射法大意」の読解も大詰めです。大いに射技論を戦わせて、本多流射学を作り上げていこうではありませんか。
 (1998年1月1日・生弓会「会報」121号から)
 注 「屋代]三」の]は金へんに丈



 本多利實翁が扇面に書かれた七道の墨跡
 東京・巣鴨の本多利永宗家宅で


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