弓を背中に飛ばしませんか

本多流の手の内の秘密を追って


弓が背中を走る

東大弓術部師範の寺嶋廣文先生はよく弓を飛ばした。弓手手の内を完成させる稽古の過程で推奨していた。
1964年4月
鎌倉市の旧市営弓道場で


 本多流の正面打起しをやると、離れが鋭くなって、弓が背中の方に飛んでいくんだってーーこんなことをいうと、「そんなばかな。風が吹くと桶屋がもうかる、の類いではないか」という激しい非難が返ってくるでしょう。でも、この名言(迷言?)、本多流って何だ、を考えるよい材料になりそうです。お行儀のよい弓の世界を飛び越えて、弓を、ギュワンと背中に飛ばす、荒事の世界をちょっぴりでも味わってみませんか。
 生弓会『会報』121号に「正面打起し論を整備しませんか」の呼びかけをしましたところ、いろいろ反応があったようで、あわてながらも書いた甲斐があったかと、ほっとしています。全日本弓道連盟の鴨川乃武幸会長からも、これを書いたのはどんな男かという問い合わせが生弓会理事の寒川泰壽さんにあったようです。「この山(寺嶋廣文・元東京大学弓術部師範の射法論)を登らずに回り道して逃げてしまっては、日弓連射法と同じレベルにしか到達できないでしょう」の拙い表現に不快な思いをされたのではないかと推察し、冷や汗をかいています。
 今回は、さらに冷や汗をかきながら、本多流正面打起し論の続編を書いて、前回の導入部から、もう少し本多流の正面打起しの核心に迫ってみたいと思います。前回の拙文は、筑波大の入江康平教授が『本多利實弓道論集』(いなほ書房)で「正面打起しは利實の創意工夫から発したものではなく、技法上の確固たる理由があったわけではない」と結論づけていることに対し、表面的な検証に終わっているのではないかと指摘したものです。入江さんや早稲田大、筑波大
の師範だった故稲垣源四郎先生が、よく本多流の批判をしていますが、日置流印西派や小笠原流の射法では、なかなか理解できない正面打起しの世界を紹介するのも拙文の狙いです。

 《利實流祖の逝去年月日を間違えないで》
 本論に入る前に、第一に入江論文の単純な間違いについて指摘しておきます。『本多利實弓道論集』と銘打っているため、生弓会会員も年表付のこの書物を引用する事があるかと思います。流祖が逝去された日が「大正6年10月16日」になっていますが、「大正6年10月13日」が正解です。流祖の墓碑(東京・戸山の清源寺)に銘記されているところです。「享年83歳」も「82歳」、いまふうの満年齢でいえば「81歳」です。いずれも生弓会理事長だった関屋龍吉さんの「老師と生弓会の思いで」(東京大学弓術部機関誌『繹志』18号、寺嶋廣文主著『本多流始祖射技解説』に転載)をそのまま引用した誤りです。日置流竹林派の家元の権限を東京大学弓術部に預ける話も「大正4年」ではなく「大正5年」です。覚書の表現は、「本多流」ではなく「日置流竹林派」となっているのが見落とせないポイントです。当時はまだ公式に本多流の呼称は使っていませんでした。櫻井保之助『阿波研造・大いなる射の道の教』も同じ関屋さんの文章を引用しているため誤りを誘っています。このように歴史的事実の間違いがどんどん広がるので、「日付ぐらいのこと」とは言いながらあえて指摘しました。この辺の話は東京大学弓術部百周年記念誌『鳴弦百年』に、資料豊富に構成していますので、興味ある方はお読みください。
 入江論文の第二の疑問は、流祖は正面打起ししかしていなかったように決めつけていますが、果たしてそうだったのでしょうか。まず、宇野哲人・元東大名誉教授が流祖の斜面打起しに言及していることを「何かの記憶違い」といって簡単に片付けていますが、細かい年月の記憶は別にして、記憶違いする事柄なのでしょうか。『弓道』昭和40年1、2月号の対談発言は、91歳の高齢とはいえ具体的です。単なる弓愛好家なら思い違いもあるでしょうが、宇野哲人さん(全日本弓道連盟範士)は肥後道雪派師範の丈九郎さん(武徳会範士)の4男で、父親から7、8歳のころから手ほどきを受けた流派にこだわりをもった人です。本多利實翁が斜面打起しから正面打起しに変わったことに衝撃をもって受け止めていたと思います。最初から流祖が正面一辺倒でやっていれば、いつから変わったかの印象など残っていなかったのではないでしょうか。哲人さんの息子さんである宇野精一・東大名誉教授に平成8年12月に私がインタビューし、流祖が斜面から正面打起しに変えた時の話をきいたことがあります。理由やいきさつは分からないといっていましたが、流祖が変えた年月については「明治33年頃までに変えた」と父親の哲人さんがいっていたことを強調されていました。

 《現存する流祖の斜面打起しの写真》
 「私ナドハ幼少ヨリ前デヤル方ヲシマシタカラ前デヤル方ガ勝手ガヨイ故コノ方ヲヤッテ居リマスガ……」(『弓學講義』)といった表現をみて、入江さんは、流祖が正面打起ししかしていなかったとの判断したのでしょうが、少し早合点ではないかと思えるのです。まず、本多利永宗家宅には、流祖の斜面打起しの写真が残っています。竹林派射法の見本を示すため特別に撮ったのかなと詮索することもできますが、日常的な射型写真の感じです。また、生弓会師範代の千葉栄祐さんの話では、栃木県の長老で直接流祖に弓を習った人で「私は本多利實翁から斜面打起ししか教えてもらわなかった」といって斜面の弓を引き続けていた人がおられたということです。これらの話を総合すると、流祖は、斜面も引いておられたと見た方が妥当ではないかと思います。日置流竹林派の家元とあれば、斜面の射礼も必要でしたし、斜面打起し派の人を説得するためにも、斜面打起しを心得ていたのではないでしょうか。両方をやりながら、正面打起しのよさを確認していったのではないか、と私なりに推測しています。確かなのは、流祖が日置流竹林派の道統のなかで正面打起しを位置づけて射法改革に取り入れたということでしょう。
 私は、いつから正面になったのかといった考証学的な興味は持ち合わせてはいません。むしろ、本多流はなぜ正面打起しでなければならないのかというところに関心を集中させたいのです。総論的には、前号掲載の正面打起し論に書きましたように、正面打起しは剛健典雅な弓をひくためであり、寺嶋廣文さんのいう「烈しい離れ、烈しい弓返りと冴えた弦音に、緊張の極致の世界を見出した弓射の道」につながるといっていいでしょう。問題はそこをつなぐ核心は何かです。それは、やはり正面打起し、すなわち弓構えから始まる押手手の内、とりわけ中指の動きが、決定的な動きを果たしているのではないかと思います。

 《押手の中指が本多流の秘技》
 押手の中指について流祖は「弓を取るには唯中指一本で事は弁ずる」「中指は手の内にとりては其一指で働く極大切な指」(『弓道講義』)といっていますが、その働きについてはあまり細かく触れていません。この辺が口伝の世界とダブってくるのかなと思います。流祖の華族会館で写した七道の写真は有名ですが、あの会の写真の手の内は完成型といわれています。押手は中指で弓をきっちり握って薬指、小指はふんわりとして、卵中の手の内になっています。問題はそのあと、どういう離れになるかです。この七道の写真の離れは、指の動きがよく見えないのですが、会津で撮った褌の裸形の離れを見ると、中指が見事に抜け薬指小指で弓を握っているのがよく分かります。この中指の動きこそ本多流の離れの重要な要素です。褌姿の写真は東大道場に飾ってあります。武市義雄『射道芸術の探修』(春秋社)に「聖真の神映 弓聖・本多利實翁」の説明で褌姿の写真が載っていますが、会の写真だけなのは残念です。
 流祖の弓返りがすごくて、弓返りがなかったといわれたのは、この中指の動きなしには語れません。綿所で押し込み、中指が抜け卵中をつぶし薬指中指で弓を握り、弓は真っすぐに立つ。弓返りが烈しいため、弦は押手の外側を打って内側に戻ってくるため、弓返りしなかったように見えるという訳です。本多流の烈しい離れは、もちろん押手だけではなく、勝手のアーチ、親指の跳ね上げなどを中心に身体全体がかかわってきますが、このさいは押手に論点を集中しておきます。
 日置流印西派ではとても味わえない世界だというのも、この辺で分かってくると思います。印西派の弓を特徴的に表現すれば「紅葉重ねの手の内で弓を握り、角見の離れで上押しをかけ、離れたあとは弓は前に倒れる。勝手は小さく収めた棒状の勝手になり、 ほどきできちきちと親指をずらして離れる。両腕を振り込むので大離れになりがち」。本多流の弓は「中指一本で弓を握り、綿所で押し切って中押しの離れをする。弓は真っすぐに立つ。勝手はアーチ型になって収まり、勝手は親指を跳ね上げて一気に離す。両手の内で決めるため離れは小離れになる」。かなり、かなり対照的なのです。元は同じ日置流でもこうも違っているのです。こうした技術的な積み重ねでそれぞれの流派の射術ができているのです。
 斜面打起しは引き取りも直線的で小さくなるのに対し、本多流の正面打起しでは、高く大きな引き取りになり、射のスケールが違って来ます。押手手の内も、斜面打起しの流派は弓構えから弓の力を虎口で受けそのまま離れで角見で押し切ることになりますが、本多流の手の内は打起しから大三に移るに従って中指がレンチのようにきりきりと締まって、離れの準備ができてくるのです。斜面打起しで本多流のような指の効かせ方をやろうとしてもできません。

1986年10月17日、蕨市体育館弓道場で



 《本多流は精神弓道を主流としていない》
 入江論文の第三の疑問点は、本多流が精神弓道論が主流をなしているかのような受けとめ方をしている点です。阿波研造さんの「一射絶命」や大平善蔵さんの「大尖光法」を例に「概して観念的弓道論の傾向がみられる」と捉えている点です。だが、本多流は精神弓道論はとってはいません。この拙文で技術論をしつこく展開しているのも、合理的な弓を引こうと本多一門が努力していることを強調したいがためです。利實流祖の著述を見ても「無念無想では放されますまい」(『弓道講義』)といって、無念無想の離れは初心者の離れくらいにしか見ていない表現すらあるのです。
 高木](たすく)先生(元全日本弓道連盟副会長)が「弓術の修業は『習慣は第二の天性なり』と云う言葉の通り、全く習慣の集積なのですから、平常の稽古を大切にしなければいけません。一本一本の矢を大事に稽古に励む事は勿論ですが、その座作、進退も慎重に、典雅に、正直にさらりと行わなければいけません」(『弓道』昭和28年12月号掲載「本多流」)と書いていますように、本多流は合理的な弓術論がむしろ主流をなしているのです。歴代の宗家がそうですし、寺嶋、戸倉章先生も、決して精神論など持ち出しませんでした。『本多流始祖射技解説』や『弓矢に生きる』のそれぞれの書物を見ても明らかです。ちなみに、生弓会70周年記念に行った本多利生宗家の「本多流の射手たち」の講演で、観念的弓道が主流のような説明は全くありませんでした。稲垣さんも入江さんと同じ誤解をして、本多流が「野狐禅弓道」と決めつけていますが、本多流の主流を知らずに、大射道教や射覚院弓道に目を奪われ過ぎていたのではないでしょうか。流派の伝統を墨守しようという稲垣さんの主張は、私たちも大いに賛成です。ただ、流派の本筋を見誤らないほうがいいのではないかと思います。安易に禅弓道や儒教弓道に走れば、射の基本である射技が消えてしまいます。禅の思想によりかかった故に滅んだ武道の流派があるのも歴史の教えるところです。
 この論の趣旨は、稲垣さんや入江さんに反論するためのものではありません。要は伝統の射技をどう残すかの試論です。話を元に戻せば、中指を効かせた本多流の中押しの離れは、体重を矢に乗せた形になり、さらに弓を鞭のように使うため超特急の弓返りを伴います。そのため弓がつかみ切れずに、手の内から飛び出し、押手の外側を弦がうって、弓が背中を走りだします。『本多流始祖射技解説』の136、137頁に寺嶋さんが弓を背中に走らせている貴重な写真が2葉あります。東大道場と鎌倉の旧市営道場で両方とも私がタイミンングよく撮ったもので、よい参考になります。寺嶋さんは練習の過程として弓を飛ばすことを推奨していました。流祖も弓の落ちる第一の原因として「別段何も異状なく、善く冴えて、はずみのあるとき」(『弓道講義』)をあげており、健全な落弓、誇るべき落弓があることを教えています。
 阿波研造さん、大平善蔵さんら一門の投弓術も有名です。しかし、投弓術は奇行の類いに見られがちで、今でも誤解を呼んでいます。門外漢であればなおさらそう思えるのでしょう。おもしろいので武道研究家の甲野善紀さんが養老孟司・元東大教授と対談した『古武術の発見』(光文社・カッパサイエンス)のなかで阿波研造さんの弓に触れている部分がありますので、奇行視される例として引用します。
 「阿波研造という人は、のちに大射道教という、弓術を核にした一種の宗教みたいなものをつくります。で、そこの人たちは、阿波範士自身の的中にこだわったことに対するものすごい嫌悪感みたいなものをみんな引きずっていて、むしろ当たらないほうがいいという気持ちをもっていたようです。とにかく道場の床が傷だらけ。なぜかというと、弓を握っていないので、矢といっしょにに弓も飛んでゆく。もちろん矢も、どこへ飛んで行くかわからない。それを平然とした態度で行い、弓を拾って帰る。初めてそれを見た人は、その異様な光景に、みんなド肝を抜かれたというんですね」

 《阿波研造も教えてもらえなかった?秘技》
 外部の人が面白おかしく伝えるのはそれでいいのですが、弓を引いている人でも、なぜ弓を飛ばすのか、なぜ弓が飛び出て行くのかが理解できない人が多いのは残念です。本多流の烈しい離れを出すための稽古の過程であり、弓を放り出しているのではないことが、なかなか分かってもらえません。まず、押手の中指を効かせることを覚え、次第に薬指・小指が離れで締まるようになれば、弓が飛ぶのも収まってくるはずです。弓が飛ぶことも、それが収まることも、別に大騒ぎすることではないのですが、へんに神秘的になったり涙の稽古物語にする必要もないのです。
 『阿波研造・大いなる射の道の教』では、吉田能安さんが、大射道教は投弓術と酷評されているのをみて、日夜苦しみながら稽古して、「左手は開くものではない。握り締めるときに放れが出るのでなければならない」と悟る。阿波さんにその工夫の結果を報告すると「こんご大射道教はこれでやる。考えてみれば本多(利實)先生の(押手の)指はこうして生きていた」といって頭を下げたという。それ以後、投弓術のことばは影をひそめたーーと綴っています。少しドラマチックに書きすぎているかなと思われるのですが、重要なのは離れは手の内を締めるものと指摘していることです。それに阿波さんですら、利實翁から手の内の指の動きまで細かく教えてもらっていなかったのではないかと思われる点です。これらの点からも、この手の内は、口伝による本多流の秘技だったこと裏付けているのではないかと思います。

 《道場の制約で大技を滅ぼすな》
 この手の内は、押手の綿所で弓を押しきり、同時に中指を効かせて抜く、薬指・小指は同時に締めるーーこういう動きになります。中指を抜いて、薬指・小指を締めるというのは、正反対の動きで、最初はなかなか難しいのです。矢数を一万本くらかける気持ちでやれば、指の分離はできるのではないでしょうか。薬指・小指の締めが効かない間は、弓が飛ぶといってよいでしょう。この弓の飛び方も、背中を走るようでなければ合格点はあげられません。手の内を開いてしまうだけでは、弓は矢道の方に飛んでいってしまうだけです。射位より 側に落ちるのは「下の下」と寺嶋さんはよくいわれました。
 こんなことを書くと、「おまえさんの投弓術はどうなんだい」といわれそうです。学生との合宿では「弓を飛ばすのを見せてください」と迫られて冷や汗をかいたりしています。最近は「すぼむ」離れになって、弓を飛ばしにくい病に陥っているだけに、逃げ腰になります。この拙論をあえて書くのは、我が身に対して「初心忘るべからず」をつきつけようとの気持ちもあるのです。それでも平成10年11月15日の本多利永宗家の教士受任祝射会のとき、巻藁を引いたら一本目で弓が後ろに飛び、久しぶりの快感を味わいました。広島の今城保・生弓会顧問が見ておられ「弓が飛んだね。森岡正陽さん(弓書研究の権威で生弓会員・平成九年逝去)は勢いよく背中に弓を飛ばしたもんだよ」。中途半端な飛び方を反省すると同時に、こんなところをぴしっと見ている人がいるのだと思うとうれしくなってしまいました。
 弓が背中に飛ぶような弓。弦音の激しい鋭い矢。流祖のいう「朝嵐」「森々飄々」の味わいは、ここを通り抜けないと出て来ないのではと、思っています。ただ、弓が飛び出れば、床を傷つけるので、うるさい先生のいる道場ではすぐ怒られてしまうでしょう。裸足で踏ん張れる道場が望ましいのですが、裸足厳禁の道場がほとんど。それらを考えると、弓を飛ばせる条件がそろっている道場はなかなかありません。弓の技を磨くより、ツルツルの床磨きが大事なお稽古事優先の道場ばかりになってしまえば、滅んでしまう秘技なのかも知れません。今のうちに挑戦してみてはいかがですか。

 《流祖の著述をもとに本多流論議をしよう》
 この原稿をまとめていましたら、生弓会顧問の平山龍郎さんからお電話をいただきました。「第一生命の宮坂利明さんは東大の弓術部だったのか」との問い合わせです。私はおふた方とも面識はありませんが、寺嶋さんから、2人とも本多流の本格的な弓引き、と教えられていました。2度の電話のやり取りの中で、「いまは、昔の本多流を引く人はいなくなった」といったことばの中に、なお流祖の本多流を追い求めている人がいるのだと感慨を覚えました。そして、本多流の教義的な文献には流祖の『弓矢の手引き』(弓道保存教授及演説主意)をいれた方がよいという助言も得ました。本多利永宗家宅の弓書研究会も定着して来ましたが、教義的文献を何にするかの議論をしていってもよいのではないかと思います。
 弓書研究も、現在は流祖が書かれた未公刊の『射法正規』の読解をやっていますが、いろいろ収穫も多く、射技研究に大いに役立っています。この拙文に「綿所」ということばが出てきますが、これは『射法正規』の離れの項に出てきたものです。「弓手の方にては左の大指の俗に云綿所といふ大指の根本の柔らかなる所にて、弓を押突、右の大指をはね上げながら放すなり」とあります。極めて明快です。本多流とは何か、流祖の著述をもとに原点の議論に取り組みたいと思います。
                  (平成10年12月14日・生弓会「会報」122号)
 注 「高木]」の]は非かんむりに木


筆者の会と離れ(2000年3月5日、東京・綾瀬の東京武道館で)

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