下筋押しで本多流秘術の扉をあけませんか










筆者の会
2000年3月
東京大学・育徳堂で


 「押手の下筋で押せるようになれば、早い矢を飛ばすことができ、弓の世界が革命的に変わります」。99年5月15日、洗心洞稽古会と東京大学弓術部の懇親射会のあと開かれた懇親会で、お酒の勢いと仲間内の気安さも手伝って学生向けに演説をぶってしまいました。終わって帰る電車の中で、洗心洞の坂本武彦さんから「私が師匠(横山粂吉先生)に下筋を言われたのは7,8年経ってからですよ」といわれて、「学生の皆さんにはちと早すぎたかな」と一瞬思ったものの、やはり矢数3万本も引いたら新天地への挑戦をしてもらいたいな、と思い返し、改めて下筋押し推奨論を綴ることにしました。

《下筋使いは弓のウエーデルン》
 下筋が使えるようになると弓の世界が変わるというのは、入門篇から中級篇への転機だからです。スキーの心得のある人は、シュテム系統で滑っていてパラレルに進級したときのような大転換と思って下さい。シュテム系は足を斜めに広げ制動をかけながら滑るから、安定し確実であってもスピードは出ない。パラレルは足を揃えて滑り、制動は短く、ターンしながら加速させスピードを十分味わえる滑り方です。きれいなウエーデルンもパラレルでこそ可能です。野球でいえば、投げられたボールに対し、テニスのラケットで打つのと金属バットで打つのとの違い、その打球の差のようなものではないかと思います。
 下筋で受けるのはそれほど難しくはないのですが、かなりの勇気と矢数が必要です。まず頭の切り替え。押手の上筋で押して手の内は上押し、しかも肩を巻き込んで矢数をかけてきた人にとっては、急に下筋でやれといわれてもなかなか受け入れられないと思います。上筋押し・上押し型も固まってしまうと中りも得られるから、下筋押し・手の内中押し型に踏み切るのに逡巡するのもわからないではありません。しかし、下筋で受ければ押手がのび、押手主導の弓になります。本多流の秘術の扉を開けることになると思っていただいたらよいと思います。

《お皿を上に向けてまず下押しの稽古》
 どう下筋で受けるのか。大三に移るとき手の内を下押し型で受け、押手の肘の内側のお皿(肘窩)の部分を天井の方に向ける。上筋で受けるときは前腕骨の親指側にある橈骨(とうこつ)が上方に来ていますが、下筋で受ける場合は小指側の尺骨を内側にあげる気持ちでひねり、橈骨を外側に回り込ませて下げる。弓の力は肘の内側の尺骨側、内上顆で受ける。下筋で受けると手の内は中押し・下押しが楽にできるようになります。上筋できりきり受けている限りは、中押し・下押しはできにくいものです。お医者さんに聞くと、上筋、下筋は医学用語でなく、橈骨と周辺の筋肉、尺骨と周辺の筋肉をそれぞれ便宜的にいっているのではないかという話でした。
 稽古の過程では、大三で肘の皿を水平ぐらいに極端に保ち、手の内はまず下押しで頑張る。下押しを目の敵にする先生もいるようですが、下押しを知った上で批判しているのか、下筋を使う世界を知らないで批判しているのかは大違いです。下押しの感じが味わえたら、中押しに移り、肘の内側のお皿も斜めにして下筋の受け方の変化を味わい、いちばん弓の力を受けやすく押し易い角度を自分で探し当てることです。あとは、中押しの離れ、すなわち押手の「剛弱」で真っすぐ押し込み、拇指の根本・綿所で離れを決める。上筋はこの一瞬に使い切るのです。ここまで来れば、早い矢がびゅんびゅん出るはずです。ただ、大三で肩を上げて受けすぎ、会でつまらないようにし、脇の下から上腕の下側で押すことが大切です。
 上筋使いの上押しは、押手は突っ張るだけで伸びはなく、結局離れは横に振り込むか、下に切り下げるようになってしまう可能性が大です。その形で固めてしまえば、中りの安定性はあるかもしれませんが、大味の弓になって、弓は離れで斜めに倒れ「花形」には遠く、鋭い離れも出なくなってしまうでしょう。本多流の目指す剛健典雅な弓、中りと矢早を同時に求める弓にアタックするには、上筋一本槍をどうしても変える必要があります。

《大家も悩んだ重要ポイントの表現》
 くどくどしい説明になりました。普通の弓の指導書にはこんなことまで書いていません。ほとんどが入門止まりになっているからです。よくわかっている先生でも、説明するのが面倒になるのかもしれません。本多流草創期の重鎮・碧海康温先生は「本多流弓道」で「中力は本多流に於ては、弓を引取る上の最も根本的な、しかも最も微妙な規矩であって、決して文字によって正確に表現するということは不可能という外はないのである。誠に説明は冗漫で、愚にもつかぬことになる」といっています。碧海さんのような偉い人でもこんな調子なら、私の拙い表現は許してもらえるのかなと妙に心強くなります。
 碧海さんも引き取りのところでかなり具体的な押手の説明をしています。「左手全体に力を籠めて充分に伸ばし、肘を回して、尺骨と橈骨が上下の位置になる様に、前腕をひねり出す気持ちで押し、肩はしっかりと落としたまま、弓を幾分前に伏せる様な気持ちで、左手の拇指の根本でしっかり押して全身全力をもって押すのである」。私の理解では、橈骨は親指につながる骨、尺骨は小指から肘先につながる骨と思っていますので、「尺骨と橈骨が上下の位置に」というのは理解に苦しむところです。しかし「尺骨を内側に引き上げる気持ちでひねり、橈骨を外側に引き下げ、前腕をひねり出す気持ちで……」と解釈すれば、まさに私のいっていることと同じです。いずれにしても、肘の受け方を極めて重視していることはわかると思います。








筆者の離れ
2000年3月
東大育徳堂で


 《お皿にお米4、5粒をのせろ》
 踏み込んで説明しているのは東大弓術部師範だった寺嶋廣文先生です。「本多流始祖射技解説」で「老師の写真を検討して欲しい。打起しから大三への移行は水平でなく押手は上から下への動きである。これが為中指下側を利かす握りが出てくる。大事なことは押手の肘の使い方である。押手の方は手首を曲げると同時に肘部を持ち上げる。修練が必要ではあるが若い射者なら大きな苦労はない。持ち上げた肘の内側に米粒4、5粒をのせろという下世話口もあり、方法としてよい思い付きである。要は上筋を利かさず弓を押す中押を肘部で受けろということである。この動きは絶対必要だから指導者に十分な助言を求めて欲しい」と述べ、「絶対」という言葉まで使って重要さを強調しています。
 ただ、私は「肘部を持ち上げる」という表現は「前腕を平らになるように弓を受ける、すなわち尺骨側を内側に上げる気持ちでひねり、肘の内側のお皿をやや水平になるようにする」とした方がよいように思います。寺嶋さんは、腕を伸ばすと肘が内側に曲がり込む猿腕であるため「持ち上げる」という表現を使っているのではないかと思いますが、肩まであげて受けてしまうような誤解を受けるのではないかと思います。
 肘のお皿の角度について寺嶋さんは「肘部を完全に平らにするのは行き過ぎ。これでは離れのとき左前腕上筋を引き出すことは出来ぬ、そこは加減というものがあり各人各様、よい箇所を見いだすことが大事」と離れに結びついた下筋論を強調しています。
 学生らと稽古をしていて感じるのは、試合のことも考えなければならず、下筋押しへの転換期の判断が結構難しいことです。また、あまり極端な猿腕の人には転換を勧めるのをためらってしまいます。しかし、「本多流始祖射技解説」にふんだんに使われている寺嶋さんの写真を見れば、かなりの猿腕の人でもマスターは可能と自信を持てるのではないかと思います。学生のみなさんは試合、試合で追いまくられて、自らの射術の展開を考える暇が無いのが実情でしょう。それでも壁にぶつかったとき、下筋使いに挑戦してはいかがでしょうか。

 《本多流には近的にも堂射の血が流れている》
 「会報」の前122号で「弓を背中に飛ばしませんか」という本多流の手の内論を掲載してもらい、いろいろな反応があり勉強になりました。99年の洗心洞・東大の懇親射会では、広島からおいでになった生弓会顧問の今城保先生に、和弓の力学的考察、押手手の内の働きなどの解説をしていただきましたが、私の手の内論にも言及されたのには恐縮しました。今城さんからは押手ばかりでなく、馬手の三品(肘力、次骨、上重ね)など豊富な解説があり、射術論戦に花を添えていただきました。
 私の本多流手の内論は、印西派からあがった本多流批判への反論の意味もあったわけですが、その当事者の筑波大の入江康平教授とは99年2月から5月にかけて6回ほど書簡で弓射論を交わしました。本多利實翁の逝去の日の誤りなど率直にお詫び頂き、さわやかな応答でした。竹林派もよく研究されていて、近的に堂射の射法が混じり込んでいないかとの指摘がありました。流祖から直接指導を受けられた寺嶋さんのいう流祖の射法は取り掛けが大筋違いであることなど堂射系の要素を取り入れていたとみられることから、私はその指摘を認めるとともに、逆に本多利實翁の射は近的に堂射の手法を取り入れて、早い鋭い矢の出る豪快な射を近的道場の中で実現しようとしたのではないか、と持論を強調しました。入江さんは、今後日本の伝統の射法として堂射の保存と研究に力を入れたいといっていました。私は、洗心洞・山本実さんの40キロ超の弓を念頭に、「堂射はなんといっても竹林派。本多一門にも強弓引きがたくさんいますから実験にぜひ加えて下さい」と要請しました。

《振り込み、切り下げは印西派にあらず》
 いろいろ考えさせられたのは京都大学の師範で印西派摂津系初代宗家の川島正晃先生のご指摘でした。99年11月の京都大・東京大戦の際、拙文を読んでいただきましたところ、素早い反応を見せ、開会式で「稲垣源四郎さん(元早稲田大総監督)らが本多流批判をやってるらしいが、それぞれの流派はそれぞれのよりどころを持っており他流批判は間違いである」と挨拶。ここまではよかったのですが、試合中にじっくり拙文を読まれたあと「この文も他流批判やな。しかも印西派の理解が間違っとる」。いちばん気に障られたのが、印西派は大離れになりがち、という表現。自ら学生の弓を取って巻藁前で素手による離れの見本をみせていただきました。一寸、四寸,八寸、一文字。「大離れは初心者の離れや。振り込んだり切り下げたりするのは稲垣さんたちの弓で印西派ではない。角見で押すとは教えていない。一文字の離れで弓を飛ばせばすごい勢いで弓が後ろを走り、余りにも危ないのでやらないことにしている」。早稲田大学の弓が印西派というイメージで綴った文章でしたので、これまた冷や汗ものでした。それでも、本多流の稽古法と似たところがいくつもあることを知り意を強くしました。

《印西派の牙城・早稲田がオープン路線》
 私の高校の先輩で稲垣さんのお弟子さんだった井上一也さんが、私の拙文を早稲田大弓道部のOB会に持ち込んだところ、かなりの議論を呼んだそうです。資料の一つとして残してくれるとか。それより気掛かりは、早稲田が印西派にこだわらないオープン路線になる話です。東京都大学弓道連盟はこれで印西派は法政大が代表することになりそうですが、流派存続の大きな足掛かりが消えるのは誠に残念です。
 99年夏、生弓会員ではないと思われる弓人が拙文を読んで資料を送って欲しいと要請してきました。送ろうと思いましたらなんと手紙に差出人の名前なし。仕方なく全日本弓道連盟機関誌「弓道」の「読者の矢箱」欄に、「水戸中央局」の消印を手がかりに「差出人やーい」を出してもらいました。差出人は見つかりませんでしたが、「その会報がほしい」の引き合いが7件あり、生弓会外にもネットワークを広げることが出来ました。恐る恐る書いた文章も、いろいろな面で発展があるなと驚いています。
     (1999年12月20日・生弓会「会報」123号)

本多流の技を競う

洗心洞稽古会と東大弓術部の親善射会
大前から坂本武彦さん、斎藤秀一さん、山本實さん
東大育徳堂で
2000年5月13日


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