本多流とは











 本多利實翁の会

 華族会館での七道の写真が
 本多流の原点を探る
 重要な資料になっている
 (明治36年ころ撮影)


本多流の核心

 ◇◇本筋でない観念的弓道論
 フランス弓道界の指導者ミッシェル・マルタンさんが「パリっ子侍放浪記」で日本での修業を綴っています。東京大学の弓道場に3回通ったがすぐ止めてしまったと。理由は、T先生に「弓道はスポーツだから」「呼吸は関係ないよ」といわれ、オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」を読んで弓はスポーツではなく哲学と思っていたので幻滅したのだそうです。
 T先生というのは、東京大学弓術部の師範、寺嶋廣文さんです。寺嶋さんも当時いっていました。「最近は外国人の方が精神弓道を求めてきてね。ヘリゲルの影響だよ。弓は精神じゃ引けない。そんなに精神の弓を引きたいのなら禅寺へ行きなさいといってやってんだよ」。寺嶋さんは外交官だったので、外国人の弟子入りの打診がよくありましたが、精神弓道はさっさとお断りしていたというのです。
 この話を冒頭もってきたのは、外国人が来たら日本精神を力説して哲学的な弓道論、禅であったり神道であったり儒教であったり、そんな精神弓道を説いて大歓迎なのが、日本弓道の通り相場なのですが、本多流は違うことをまずいっておきたいからです。日置流の一部からは、本多流は観念論的弓道、野狐禅弓道といった批判も出ていますが、これは阿波研造さんの大射道教や大平善蔵さんの射覚院弓道などのイメージが焼き付いているからかもしれません。だが、本多流の本流はむしろ観念的弓道論を排除してきたといってよいでしょう。
 「俺は弓は教えるが道は教えない。道は個人的に求めなさい」。寺嶋さんとともに本多流を支えてきた東大弓術部師範・戸倉章さんもそう公言してはばかりませんでした。私は高校時代に弓の神秘性にあこがれて弓を握り、「弓の核心は無念無想の射」と思いこんでいただけに、大学に行ってガツンとやられた感じがしたのを思い出します。本多流は心の動きや息合いを大事にしており、精神的要素を否定するわけではありませんが、射技から離れた精神論に傾けば本体の弓射がおろそかになるので心せよ、というのが本多流主流の考えではないかと思います。

 ◇◇利實翁七道の写真が原点に
 本多流って何ですか、の本論に入ります。本多流の研究・親睦組織「生弓会」の人たちからもこんな質問が出てくる時代です。それだけ射術に特性がなくなったのか、人によって理解が違ってきたのか、様々な指摘ができると思います。高木](たすく)元全日本弓道連盟副会長(元学生弓道連盟会長・元東京大学弓術部師範)が全日本弓道連盟の射法制定委員になって射法を制定した際、本多流射法がかなり取り入れられました。そのため、「今の全弓連射法が本多流さ」と割り切った発言もよく聞きます。確かに正面打起し、大三をとる射法は本多流ですが、射の目指すものが違っているのではないでしょうか。射法観の違いが決定的なのです。
 本多流の目指すものは「剛健典雅」な射です。流祖本多利實翁のいう「射は剛健典雅を旨とし精神の修養と肉体の錬磨とを以て目的とす」そのものです。東京大学弓術部の綱領にもなっています。これは単なる言葉ではなく、利實翁の射、具体的には華族会館で撮られた七道の写真に現れた射を一体にしたものです。あの射影は、明らかに全日本弓道連盟の推奨射型や日置流の射型とは歴然として異なっているでしょう。そしてあの射品です。「弓聖」とよく呼ばれますが、「なるほど」と思う人は多いでしょう。異論はないのではないでしょうか。
 櫻井保之助さんの「阿波研造・大いなる射の道の教」には、阿波さんが利實翁の七道の写真を弟子に「大したもんでねえか」といって見せるひとこまが描写されています。「今の先生とどちらが上か」と問われて、阿波さんは「とても及ばぬ。一生かかって足元に届くかどうか」と答えたといいます。本多流の射の特徴が集約的に現れているのがあの七道の写真であることを物語っています。生弓会顧問の今城保さんもあの写真を毎日のように眺め、射の参考にしているそうです。83歳のご高齢ですが、的前矢数50万本をさらに更新されています。このように、本多流研究者は、あの七道の写真を本多流の原点と思っている人は多いようです。
 七道の写真は、東京大学の育徳堂に掲げてあり、会津で撮ったという褌姿の写真と合わせて、強力なメッセージを送っています。会での中押し、見事な勝手のアーチ、離れでの冴え、無駄のない小離れ、真っすぐ立った弓……、射術的にも全弓連の弓との違いがはっきりしています。射の目的意識も、鋭い早い矢を飛ばすことに力点が置かれます。一般的にいえば、正射必中、飛中貫。問題はその中身です。

 ◇◇烈しい離れ烈しい弓返り冴えた弦音を
 「飛中貫をモットーとする本多流においては体重を如何にしてより多く弓にのせ、より烈しい離れによってより早い矢を飛ばすかが射の中心になる」
 「老師の弓射の本筋とする十五間的前での正面打起しの弓射に左右均衡を得た構成美を見出し、烈しい離れ烈しい弓返りと冴えた弦音に緊張の極致の世界を見出し、烈しい離れは必然的に早い矢飛びを招来し的に最短距離の道をとると矢に中りのあるのは当然となる。これが正射の姿である」
 これは寺嶋廣文さんの「本多流始祖射技解説」の一節です。「正射」といっても、抽象的な「正射」とは全く違うでしょう。寺嶋さんは、直接本多利實翁から手ほどきを受けた方で、鋭い感性で本多流を世間並みの射とどう違うかを解析してみせました。ご本人は「『解体新書』の腑分けだ」とライフワークにしていました。その成果が「本多流始祖射技解説」です。発刊された1972年当時の生弓会師範、顧問が編集委員に名をつらねており、最新版の本多流バイブルでもあるのです。生弓会の中には「高等技術過ぎる」とか「寺嶋さんの体形にあわせた弓でしかない」といった批判がありますが、これを乗り越えていかないと、本多流の弓に近づけないのではないかと思っています。

 ◇◇流祖は「本多竹林」と記す
 本多流といえば日置流竹林派が源流。室町時代末期の竹林坊如成を開祖に石堂為貞に継がれ、尾州系では長屋六左衛門、星野勘左衛門ら、紀州系では瓦林成直、吉見順正、和佐大八郎ら、素晴らしい後継者や堂射の名手を輩出しています。江戸竹林派は星野系の渡辺寛が開き内藤正伝と続き、この流れが本多利實翁に引き継がれています。本多流はよく尾州竹林派といわれますが、流祖が重視していた伝書は紀州系のものが多く、「尾州」を強調するよりは江戸竹林派といった方がよいのではないかと思います。後ろに掲載しています弓術書座談会での森岡正陽さんの発言を参考にして下さい。本多利實翁は大正6年(1917)に亡くなられていますが、その前後から「本多流」という言葉が使われ、流祖自身は「本多竹林」という名を日記に記しています。没後に翁の射を慕う人が「本多流」の名を定着させたといってよいと思います。射術としては正面打起し、大三をとり、極めて合理性を大事にする弓です。背景には、歩射系で堂射を得意にした流派の伝統があり、決してお稽古ごとの弓に流れてはいけないということでしょう。
 以下掲載する私の拙文は、本多流のあるべき姿を追い求める試論でもあります。今後の稽古や意見交換で、さらに練り上げられればよいと思っています。
                              (2000年3月24日)
 「高木]」の ] は非かんむりに木







本多利實翁の離れ


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