三、正手時代〜現在

 1926年(大正15年)8月10日  伊藤禅月、松尾寺へ入寺する。松尾寺第13世住職を継承する。29歳であった。その後、清武村村長の娘、岩切カナと結婚する。
 1928年(昭和3年)4月 参道を開鑿(かいさく)する。参道は現在の清武小学校に至る、ガードの所まで切り開いた。その入り口に建っていた門標が現在納骨堂の後側にある、一本の記念塔である。参道には桜の木が植えられ、桜の花の季節にはさながら花のトンネルとなった。まだ桜の木はまだ一部残っている。しかし、寿命と防犯灯設置のために、枝を切ったために、ほとんど枯れてしまっている。同年10月、松尾寺墓地の塀が建立される。場所は現在の納骨堂付近であった。新町から移転してきたものと考えられる。しかし後記するように、中野時代の松尾寺関係者の墓地はそのままにしてあったと考えられる。正手の松尾寺墓地には大きな実がなる渋柿の木があった。また湿地帯でもあり、クロトンボが生息していた。
●周順 昭和8年4月9日  諦道坊守ナヤ 77歳 
 ナヤは第11世の坊守であるが、第12世諦壽が早く亡くなったこともあって、正手移転後、住職不在の松尾寺を第12世坊守メイと切り盛りしていたと考えられる。
 1933年(昭和8年)七月 この頃松尾寺では農繁期の子どもを預かる託児所をしている。写真には第5回とある。毎年1回開かれているので、第一回は1928年(昭和3年)に始まったと考えられる。禅月入寺後のことである。

 1937年(昭和12年)7月7日、廬溝橋で日中両軍が衝突し、ここに日中戦争が始まる。戦死者が清武に帰ってきての村葬についての会議録が以下である。昭和12年10月25日の会議録であり、宮崎郡清武村役場の罫紙に記載されている。駅に出迎え、学校で村葬が勤まった。
一、 遺骨送迎ニ関スル件
 駅ホーム及駅前ニ拝所ヲ設備スルコト。神職住職ハ其職ニ応ジ出迎ノコト。
一、駅前整列ハ葬儀式場係ニテ整理スルコト。
一、村葬ハ十一月五日午前十時清武校ニテ之ヲ行フコト。

・1938年(昭和13年)1月10日 移転記念碑が完成したと考えられる。碑文参考。
・1939年(昭和14年)10月16日 清武川大洪水。
『歴史散歩 きよたけ』第4集清武川の氾濫特集号(清武町安井息軒顕彰会編集 1998年9月23日発行)には禅月・カナ夫婦が松尾寺に居住していた時に起こった清武川の大洪水の際の様子が証言されている。
清武駅前に住んでいた春田(旧姓山口)ミサヲさんは、日豊線の線路沿いに松尾寺まで逃げたという。その時の証言です。インタビュー形式になっている。
「Q線路を渡り終わってどこに逃げましたか。A 私達は、二つ目のガードを渡って松尾寺に通じる道路に出ました。その坂道も大雨のために大きな穴ができ、やっとの思いでお寺に着きました。お寺の御堂には避難された人達がたくさん居ましたので、私達は、住職の方がおられる奥の座敷に案内してもらいました。お寺では、住職の方をはじめ皆さんの着物をすべて出していただき、ずぶ濡れの私達に貸してもらいました。しかし、怖さと寒さで一晩中震えていました。あの時のお寺の皆さんのご親切は今でも忘れることはできません。夜半には雨も風も止み、皮肉なことに空いっぱい星まで出ていました。」
あるいは「…自家の流出を憂いつつ西新町区民は倉皇として、或いは正手松尾寺や其の他に、或いは村役場に或いは清武駅に或いは高所を求めて安全と思わるる要所に或いは堅固なる大家屋等に避難する者陸続として絶えず。…」( 「大洪水の記録」蛯原為雪 歴史散歩清武 前掲書18p)という証言も残っている。

 この頃は伊藤禅月(当時42歳)・カナ(当時38歳)夫妻とメイ坊守(当時63歳)も健在であったと考えられるので、3人を中心に精一杯の活動をしておられたと推測される。第12世住職が新町から松尾寺を移転したいという理由の一つが「水害のおそれ」があるということであった。その考えが功を奏したわけである。(移転記念碑文参照)

 1944年(昭和19年)9月   禅月、再度の応召で都城へ入隊。47歳。
《13世》禅月 寶華院釈禅月 昭和20月7月15日死去。48歳
松尾寺墓地(現納骨堂敷地内)にある碑の碑文。
「師は台湾別院勤務より大正十五年八月十日養子として当山住職継承 爾来内に愛山護法 門徒の尊信を受け 外に在郷軍人分会長 方面委員等の要職としてその居暇なき時に
恰も太平洋戦争に当り 昭和十九年九月再度の応召 都城満州を経て東方フィリピンに転戦しやりしが 全地 ロンボック街道於いて戦死す 時に陸軍中尉にして 在職弐拾年也 七回忌に当り 茲に追悼し略記す 合掌」

●智玄 昭和20年10月19日 諦壽坊守 69歳(メイ)
メイは諦壽亡き後、22年間、第二次大戦終結まで存命であった。「お寺にお参りすると、お婆さんがおられて、お仏飯をお醤油で焼いてくださった。それが大変美味しかった」という証言が数々ある。これはメイの役割であったのだろう。禅月・カナ夫妻とともに、松尾寺の運営に関わった。
●順蓮 昭和20年11月26日 伊藤カナ 44歳 禅月坊守
 この年、禅月、メイ、カナと松尾寺は三名の住職・坊守を亡くしてしまった。ご門徒の落胆も大きかったであろう。直ぐさま、総代役員による住職探しが始まった。直ぐには来てもらえないので、現在の真光寺(宮崎市)の住職ご夫妻、加久藤徳応寺の前々住職夫妻方に留守を頼んでいた。その後、宗久寺より黒木護が入寺した。

《14世》護城  昭和46年8月9日 49歳
13世禅月が昭和20年7月15日に戦争で死去したために、12世諦壽の娘の子どもで国富宗久寺の後継予定者であった護(まもる・法名 護城)が松尾寺に入寺した。なお、宗久寺は異母弟の誠(法名誠恵)が後を継いだ。護の龍谷大学の学資は宗久寺のご門徒が出したので、誠の学資は松尾寺のご門徒が負担した。
 
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