■■■ 八坂神社

古くから「祇園さん」とよばれ、疫病除けの神として市民の崇敬を集める本市有数の大社。
当社はもと祇園感神院、祇園寺、祇園天神社等と称し、その創祀の状況や年代については諸説多くあって、必ずしも一定しない。
一説に斎明天皇二年(656)八月、わが国に来朝した高麗の調進副使伊利之使主(八坂氏祖)が朝鮮の牛頭山(曾戸茂梨)に祀る牛頭天皇(素戔鳴尊)の神霊を移し、子孫代々当社の祠官として奉仕したのが起こりだといわれる。
あるいは吉備真備が唐土より帰朝の際、牛頭天皇を播磨国広峰に祀ったのを、貞観十八年(876)常住寺の僧円如が八坂郷観慶寺に移したのが起こりだともいわれる。
おそらくこの地の先住民から農耕守護神または産土神等として崇敬されていた「八坂神」が、地主神(伽藍神)として観慶寺内に勧請されたのが起こりであろう。
観慶寺は一に祇園寺とも称し、薬師仏を本尊とし、奈良興福寺に属した。
境内には薬師堂と天神堂がならび建ち、神社と寺院の二つの性格を併存していた。
たまたま元慶元年(877)都下に疫病が流行したとき、当社に祈願して屏息したのでその神威に感じた摂政右大臣藤原基経は、己が邸宅を寄進して精舎としたことから感神院とよばれ、その行為があたかも須達長者が釈迦のために建立した祇園精舎に似ているとて祇園寺とよび、天神堂を祇園社とよばれるに至った。
祭神を牛頭天王としたのは、祇園精舎の守護神が牛頭天王によるからである。
牛頭天王は疫病を支配する神とされ、素戔鳴尊を本地と考えられていたから、その後は次第に疫病消除の神社として朝野の崇敬を得るに至った。
観慶寺は承平五年(935)定額寺に列した。
次いで、天慶五年(942)には天慶の乱平定の報賽として官の奉幣をうけ、天禄元年(970)には祇園御霊会が盛大におこなわれた。
天延二年(974)には従来の南都興福寺の支配を脱して延暦寺の別院となり、祇園社は日吉社の末社となった。
ために南都北嶺の争いにまきこまれてたびたび災害をうけ、また叡山の僧都が日吉の神輿を奉じて朝廷へ強訴する基地ともなり、祇園神人(犬神人)
らの活動と相まって史上に有名となった。
延喜の式外社であるが、二十二社のうちに列せられ、延久四年(1072)後三条天皇の行幸以来、歴朝の行幸・御幸は極めて多く、市民の崇敬も浅からぬものがあった。
江戸時代の頃は薬師堂や多宝塔をはじめ多くの僧坊がその周辺にあったが、明治の神仏分離によって仏教色を一掃し、八坂神社と社名を改めた。
もとは官幣大社であったが、昭和二十年(1945)の敗戦後はかかる社格を廃し、宗教法人となった。
しかし市民の信仰はいささかも衰えることなく、現在に及んでいる。

【本殿】(重文・江戸)

正面に向拝を設けているのが変わっている。
承応三年(1654)徳川家綱が紫宸殿を模造して再建したものであるが、蟇股や手挟等に桃山風の華麗な彫りものがみられる。
そのはじめは昭宣公藤原基経が邸宅を寄進したのによるとつたえ、その様式が伝わったものであろう。
世に祇園造りと称する神社建築の一様式となっている。
祭神は、身舎中央の間に素戔鳴尊、東の間に奇稲田姫命、西の間に八王子神を祀る。

社伝によれば、本殿床下はもと池があって、今はセメントで蒲鉾型に覆われているという。
一説に床下は竜穴があって、その深さ五十丈(約151.5メートル)におよんでなおそこを知らぬといわれ、神泉苑と東寺の灌頂院の善女竜王の井戸に通じるともつたえる。

【西門】(重文・室町)

四条通に西面する丹塗りの楼門。
屋根小屋根と横材が外部まで突き出て、駕籠のにない棒にみえるので、一に駕籠門ともよばれる。
左右の翼廊は古式を模して近年造られたものであるが、L型になっているのは平等院鳳凰堂に似たところがあり、その構成は平安時代の絵巻物をみるような優美さがある。

【疫神社】

蘇民将来社ともいい、境内摂社の一つである。
祭神は蘇民将来を祀り、疫病を祓う神として崇められている。
『釈日本紀』に引く『備後国風土記』によれば
素戔鳴尊(武塔神)が南海に旅行されたとき、行き暮れて一夜の宿を求められたところ、富たる兄巨旦将来はこれを拒み、貧しき弟蘇民将来はこころよく 尊を迎え入れ、粟飯で饗応した。
尊はたいへんよろこばれ「近く悪疫が流行するだろうが、そのとき蘇民将来之子孫也としるした茅の輪をつくり、腰に下げれば悪疫をのがれる」と仰せになった。
果たして悪疫が流行し、巨旦一家は全滅したが、蘇民一家は無事であったという。
この故事により、毎年一月十九日には社前の石鳥居に茅の輪を掛け、これをくぐるものは悪疫から免れるといい、参詣者には粟飯が授与される。

【蛭子社】(重文・江戸)

一に「北向き蛭子」ともよばれ、事代主神を祀る末社の一つである。
純粋の祇園造りで、基経寄進の本殿も現在の如き入母屋造り形式ではなく、蛭子社のごとき流造りであったとみられる。

【忠盛灯籠】

平忠盛がある雨の夜、白河法皇のお伴をして祇園女御のもとへ赴くとき、蓑を着た社僧の姿が灯籠の灯に映じて鬼のようにみえたのを、忠盛の沈勇によってその正体をみとめ、法皇の御感を得たという『平家物語』のエピソードに因んでこの名が生じた。
灯籠は鎌倉中期の古作であるが、寄せ集め品である。

【奇緑氷人石】

高さ一メートル余、四角形の石柱の表面に「奇緑氷人石」、左側面に「おしゆる方」、右側面に「たづぬる方」、裏面に「天保十年(1839)」としるされている。
一に月下氷人石ともいい、迷子の告知板である。
むかしは人の出さかる神社仏閣の境内に建て、迷子の行方をさがし求めた。
本市現存三石中の一である。 *他の二つは、誓願寺、北野天満宮*

【石鳥居】(重文・江戸)

南門の前にある。
正保三年(1646)の建造。
高さ九・五メートルの明神鳥居で、額は有栖川宮熾仁親王の筆。
現存するわが国石鳥居中、もっとも大きいものといわれる。

【絵馬舎】

ここには池大雅筆「蘭亭雅会図」をはじめ、海北友竹、西川祐信など、近世画家の筆になる多くの絵馬を掲げている。

【白朮祭】

当社の年中行事の一で、毎年正月元旦未明の寅の刻に行われる。
新年の第一火を神前に供え、この浄火と若水で調理した神饌を元日の暁に供えるのであるが、浄火はこれよりさきの十二月二十八日古式によって新火を切り出し、三十一日夜八時から釣灯籠に火を移し、白朮木と削掛を入れて燃やす。
この中に白朮を入れてたくから白朮祭という。
白朮は漢方の薬草で、火に投じると臭い匂いが強く、疫神を除き祓うといわれる。
この浄火によって元日の雑煮を炊くとその年は厄病にかからないといわれ、この火をうけるべく、多くの参詣人が火縄(吉兆縄)をもって社殿に集まる。
これを白朮詣とよぶ。

 おもしろき白朮詣の人なだれ火縄振り振りゆけば楽しも − 吉井 勇
 をけら火にけむたき四条通りかな − 柳 冠子

【祇園祭り】

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