■■■ 社寺名所
東福寺と塔頭

       東福寺 東山区本町十五丁目

             臨済宗東福寺派大本山で恵日山と号す
             摂政九条道家が円爾弁円を請じて開山と仰ぎ、鎌倉時代に創建した九条家の氏寺。
             寺名は「洪基を東大に亜ぎ、盛業を興福に取る」と道家の発願文にもある如く東大寺と興福寺の一字ずつをとったもの。
             旧仏教側との摩擦を避けるため、はじめは天台・真言・禅の三宗兼学とした。
             京都五山の第四位の地位を保つ。
             虎関師錬・夢巌祖応・岐陽方秀・桂庵玄樹・文子玄昌など多くの詩僧や学僧が輩出して五山文学に名を馳せた。
             東福寺の名をもっとも昂揚したのは画僧吉山明兆(兆殿司)であろう。
             足利将軍義持の褒美に「桜の木を切り落とす」ことを願ったのは明兆である。(桜の下で浮かれることは、仏教の修行の妨げになるからと)
             もっとも栄えたのは南北朝時代から室町時代であって、三聖寺以下三十六宇におよぶ塔頭子院は「東福寺の伽藍面」といわれる。

             ● 六波羅門 − 重文・鎌倉

             本柱の円柱が板蟇股をはさんだところに特色
             もと北条氏の六波羅政庁にあったものを移したもの。
             元弘三年(1333)の戦の折の矢疵のあとかたがところどころに残っている。

             ● 三門 − 国宝・室町

             応永年間(1394−1428)の再建で、禅宗寺院の三門中、もっとも古い。
             楼上に足利義持の筆になる「妙雲閣」としるした扁額をかかげる。
             内部仏壇上には釈迦三尊と十六羅漢像を安置する。

             ● 東司 − 重文・室町

             禅宗寺院便所の古い形式を伝える珍しい遺構である。

             ● 禅堂 − 重文・南北朝

             参禅の道場としては貞和三年(1347)に再建された本市現存中、最古最大の建物。
             扁額「選仏場」は、宗国径山寺の無準師範の筆といわれる。

             ● 浴室 − 重文・室町

             むし風呂で、京都最古の浴室建築。

             ● 成就宮 − 

             東福寺の鎮守社として石清水・賀茂・稲荷・春日・日吉の五社を祀るので、一に五社明神社ともいう。
             もとは法性寺の総社。

             十三重石塔 − 重文・南北朝

             高さ四・五メートル、花崗岩製。
             
             ● 仏殿 −

             昭和九年に再建されたもので、昭和時代の木像建築としては最大。
             天上の画龍は画家堂本印象が東西二十二メートル、南北十一メートルの天井板に描いたもので、龍の大きさは体長五十四メートル、胴回り六・二メートル。
             仏殿の巽(東南)の柱を日蓮柱といい、日蓮上人が他宗の迫害を受けたとき、東福寺の開山聖一国師の庇護を受けた報恩のために一材を寄せたことがあっ
             て、それより本堂再建の際には日蓮宗から寄進するならわしになっている。

             ● 銅鐘 − 重文・平安

             撞坐は約三分の二の高さにあり、蓮華文のすぐれた点から平安期鋳造のものと思われる。
             鐘に竜頭がない点に注意してみてください。(摩訶阿弥陀仏と韋駄天の話あり)

             ● 方丈庭園 −

             方丈の建物を中心にして東西南北の四庭からなり、釈迦成道の八相に因んで「八相の庭」とよばれる。
             南庭は、「枯山水の庭」、西庭は「井田市松の庭」、北庭は「市松の庭」、東庭は「北斗の庭」。

             ● 通天橋 −

             渓谷(洗玉澗)に架けられた橋。
             春屋妙葩が法堂より渓谷をへだてた祖堂へ通う衆僧の労苦を救うため、天授六年(1380)八月につくったとつたえ、入り口には扁額をかかげる。(諸説あり)

             因みに現在の橋は、伊勢湾台風(昭和三十四年、八月)によって倒壊したのを、昭和三十六年(1961)十一月に再造されたものである。
             * 市内で紅葉を見下ろすのはここくらいである。葉が三つに分かれて黄金色になるのが特徴で、宋国より将来したものである。現在約二千本。 *

             ● 開山堂(常楽庵) −

             二階建ての楼閣風の落ちついた建物で、内部には開山聖一国師や一条実経の像を安置する。
             上層は伝衣閣といい、国師が将来した三国伝来の布袋像を安置する。
             屋上に閣のある開山堂は珍しい。

             ● 普門院 −

             開山国師の常住した方丈と伝える。
             障壁画七十四面(重文・桃山〜江戸)からなり、狩野山楽・雲谷等益・海北友松ら各派の画家になるものと思われる。

             ● 開山堂庭園 − 江戸

             池泉観賞式の庭園で、開山堂への参道をはさんで枯山水と池庭の二つに分かつ。
             枯山水は約百坪の平庭式とし、築山をつくらず、美しい市松式の砂紋上に鶴島・亀島を象った石組みを配して蓬莱山をあらわすのに対して、
             池庭はうしろの山手を築山風に作り、下部に細長い池をうがって石橋を架け、池中に亀島を作り、山畔の中央と北部に枯滝を設けている。

             本庭は延宝二年(1674)開山堂修理の際に作庭されたものとみられる。
             彼山水の庭はそれよりもやや古く、寛永期頃のものとみられ、智積陰や妙法陰御座の間の庭園等とともに
             禅院式と武家書院式とを巧みに折衷した江戸中期の代表的な名園である。

             ● 一条家八代墓

             開山堂の背後にあり。
             一条実経を中心に、右に家経・内経・経通・経嗣・兼良・冬良の墓、左に内実の墓が東西に南面して並ぶ。
             なおこの墓所とは別に開山堂の東の丘陵上にも一条家の墓がある。

             ● 愛染堂 − 重文・室町

             丹塗りの八角小円堂で、唐様を主とした鎌倉末期風の折衷建築とする優雅な建物である。
             広隆寺の桂宮院本堂とともに京都に現存する八角円堂の遺構のひとつである。
       
             ● 五輪石塔 − 鎌倉

             火輪の軒がやや薄いが、鎌倉時代の石塔である。
             もと北野天満宮にあったものと伝える。

             ● 月下門 ー 重文・鎌倉

             普門院の総門をいう。
             一条実経が常楽庵を建立したとき、亀山天皇が京都御所の月華門を下賜されたと伝える。
 

● 最勝金剛院

九条家一族の墓の管理と名刹の復活を兼ね、昭和四十六年秋、旧地に近い仏殿東方の地に再興された東福寺派の特別由緒寺院で、ここには九条兼実の廟をはじめ、九条家以下十一名の墓がその東方に有る。

因みに最勝金剛院は久安六年(1150)摂政藤原忠通の室宗子が法性寺の域内東方の地に建立した方性寺中最大の寺院で、その四至は「東は山科境、南は稲荷の還坂の南谷、西は鴨河原、北は貞信公の墓所山」を限りとする広大な地を占めていたといわれるが、建物の規模は想像するほどの大きなものではなかった。
のちに東福寺の末寺となり、室町時代の頃には衰亡するに至ったが、本尊丈六の阿弥陀像のみは東福寺本堂の背後に永く安置されていたと伝える。
また宗子は久寿ニ年(1155)九月十四日、法性寺殿において没し、遺骸は当院の近くに埋葬されたとみられるが、墓は未だ判明するにいたらない。

● 毘沙門谷

三ノ橋川渓谷一帯を称したものとおもわれる。
九条道家の山荘光明峰寺安置の毘沙門天像に因んで地名となったもので、寺の規模やその位置については明かにしないが、兼実廟に近い地であったと推定される。
この渓谷には多くの梅や紅葉の木があって、洛東の景勝地として知られた。
また付近の密厳院や梅ノ房・十輪院等ではしばしば歌会が催され、足利将軍義政も寛政五年(1464)二月と寛政七年(1466)二月に観梅に親しく訪れたことがある。

● 偃月橋 − 重文・桃山

本坊より塔頭竜吟・即宗両院に至る三ノ橋川の渓谷に架かる木造橋廊をいい、下流の通天・臥雲両橋とともに東福寺の三名橋の一に数えられている。
 

竜吟庵
 
もと東福寺の第三世住持無関普門(大明国師)の住居址で、その塔所のあるところとして、また多くの古文化財を有する点に於、他の山内塔頭とやや趣きを異としている。

大明国師は諱を普門、字を無関といい、建暦ニ年(1212)信濃国(長野県)に生まれた。
はじめ長楽寺の栄朝に学び、次いで上京して、聖一国師のもとに参禅すること五年、建長三年(1251)入宋し、在宋十二年ののち帰朝し、再び聖一国師に従い、その法を嗣いだ。
弘安四年(1281)一条実経の招きに応じて東福寺の第三世住持となり、また正応四年(1291)亀山上皇の南禅寺創建に当たって開山として招かれたが、病を得て東福寺に帰山し、同年十二月十二日、年八十で寂した。
『大明国師行状記』によれば、遺骸は庫裡の背後「恵日山竜吟ノ岡」の山麓にて火葬に付し、遺骨は銅製骨蔵器に納め、石櫃に入れて埋葬されたという。
その後、元享三年(1323)に後醍醐天皇より大明国師の諡号を賜った。

  方丈 − 国宝・室町

現存最古の方丈建築である。
足利義満の筆になる「竜吟庵」としるした堅額を掲げる。
奥の仏間の境の板壁には国師の画像を掲げる。
書院造りに寝殿造り風の名残を多分に加えているのが、この建物の特長である。
おそらく亀山上皇の思召しにより、皇居内の建物を賜って移したのか、あるいは宮廷関係の技術者の手によって建てられたものであろう。

  開山堂

方丈の背後にある。
扁額「霊光」・「勅諡大明国師」は足利義満の筆によるもので、「准三宮」・「道右」および「天山」という印刻がみられる。
堂内に安置する大明国師坐像(重文・鎌倉)胎内には、入宋した折り、将来した多数の納入品(重文・鎌倉)を蔵している。
像を安置した壇下は半地下壕とし、その中に国師の墓石とする石造無縫塔(鎌倉)および国師の遺骨を納めた銅製骨蔵器(重文・鎌倉)や巨大な石櫃(重文・鎌倉)が安置されている。

  庭園

方丈を囲んで東西南の三ヶ所からなり、いずれも枯山水の庭としている。

西庭
竜が海中から黒雲を得て昇天する姿を石組みによって構成されたもので、青石による竜頭を中央に置き、白砂と黒砂は雲紋、竹垣は稲妻をあらわしているのが目を引く。

東庭
庫裡とのあいだの狭い地割のなかに赤砂を敷き、中央に長石を臥せ、その前後に白黒のニ石を配置している。
これは国師が幼少の頃、熱病にかかって山中に捨てられた時、二頭の犬が国師の身を狼の襲撃から守ったという故事にもとづいてつくられたものという。

三庭とも重森三玲の作庭に係る。

方丈の東に接する庫裡(重文・桃山)は、禅宗寺院に多くみられる豪放さはないが、木割がこまかく、全体に優美な建物で、表門(重文)とともに桃山時代の建造である。
 

即宗院
 
嘉慶元年(1387)九州薩摩の島津氏久が、剛中玄柔(東福寺第五十四世住持)を開山として建立した島津家の菩提寺で、氏久の法名「齢岳立久即宗院」を採って寺名とした。
はじめ山内成就院の南にあったが、永禄十二年(1569)に火災にかかり、現在の地に移ったのは慶長十八年(1613)頃といわれ、島津義久の施入によるとつたえる。
慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦には薩摩兵士の屯営となり、寺の背後の山頂に砲列を敷き、淀より進撃する幕軍に向かって砲撃を加えた。
山頂にはこのときに戦死した薩摩藩士の名を記した石碑五基および西郷隆盛の筆になる「東征戦亡之碑」が建っている。

  庭園

もとの庭園は、東福寺中第一とほめたたえられる名園であったが、明治以降、寺運の衰微によって久しく荒廃していたのを、昭和五十二年に至って発掘調査が行われた。
その結果、室町時代後期の池庭であることが判明し、池を中心とした廻遊式庭園に修理復元された。

  自然居士墓

即宗院より境外地にあって、民家に接する一叢の樹木の下にある五輪石塔(江戸)がそれとつたえる。
寺伝によれば、自然居士は和泉国(大阪府)の生まれ、大明国師の弟子となり、主として竜吟庵にて修行をつんだが、のちに東山の雲居寺の住僧となった。
晩年には再び東福寺にもどり、この地に庵をむすんで閑居していたとつたえる。

  採薪亭址 さいしんてい

寛政八年(1796)即宗院の竜河長老が自然居士を偲び、その旧地に一宇の草庵を建てた。
建物は方三間、二階建、階上に「雲居」の額を掲げ、階下を「採薪亭」と名付け、もっぱら茶室として利用された。
清水寺の勤王僧、月照上人が
  さそふ風吹くにまかせて出づるなり 宿も定めぬ雲の身なれば
  時しらで隠れ棲む身ぞ哀れなる 不如帰さへ待てど来鳴かず
とうたtったのは、安政四年(1857)東福寺の霊雲院より採薪亭に移り住み、ここで五十日間、玉体安穏王政復古を祈ったときの歌といわれ、西郷隆盛もまたここに来って密かに討幕の謀議をこらしたとつたえる。
建物は明治の中頃になくなり、今は「採薪亭址」としるした石碑があるにすぎない。


万寿寺 (五山十刹
 

退耕庵
 
一に小町寺ともいう。
性海霊見が貞和二年(1346)に創建した東福寺の塔頭の一つであるが、応仁の乱に罹災し、慶長四年(1599)当庵十一世住持安国寺恵瓊によって再興された。
現在の書院は旧本堂といわれ、堂内の一部を利用してつくられた四畳半台目の茶室「昨夢軒」は、豊臣秀吉の没後、石田三成や小早川秀秋・宇喜田秀家および恵瓊が会合し、関ケ原の戦いの謀議をおこなったとつたえ、事あるときの用心に忍び天井や伏侍の間が設けられている。
また鳥羽伏見の戦に東福寺は長州藩士の屯所になったが、そのときの戦死者のうち四十八名が当庵に葬られた。
それよりその菩提所となっている。

  庭園(江戸)

南北ニ庭からなり、南庭は美しい杉苔におおわれた枯山水とし、北庭は池泉観賞式の庭となっている。
慶長再興時の作庭と思われるが、久しく荒廃していたのを昭和四十七年に至って修復された。

  小町玉章地蔵

像高二メートル余りの塑像で、右手に錫杖、左手に宝珠をもち、石造り蓮華座上に坐している。
もと東山渋谷越にあった小町寺の旧像を、明治八年(1875)当庵に移したものである。
脇壇に薬師瑠璃光如来坐像(藤原)および十一面観音坐像を安置する。
 

海蔵寺
 
鎌倉末期の仏教史家であり、また五山文学の先駆者として知られる虎関師錬の退隠所であるが、今は老人ホーム(洛東園)となっている。
近世初頭、当院は近衛家の香華院となり、近衛前久(竜山公)・信尹(三貘院)の墓もあったが、後水尾天皇第二皇女昭子内親王が近衛尚嗣の室となり、薨後当院に葬られたため、墓は宮内庁の管理するところとなり、近衛家一族の墓は大徳寺へ移された。
おそらく虎関和尚の墓もこのとき整理されてしまったものであろう。
墓のないのは惜しいが、幸いその画像と著書『元享釈書』三十冊および『楞伽禅寺私記』一巻(いずれも重文・南北朝)は、現在京都国立博物館に寄託保存されている。
勝林院
 
俗に「東福寺の毘沙門天」とよばれ、本堂に毘沙門天立像(藤原)を安置する。
この像は九条道家の光明峰寺建立以前のものといわれ、その後、久しく東福寺仏殿の天井内にひそかに安置されていたが、江戸時代に海蔵院の独秀令岱和尚によって発見され、勝林院の本尊として祀られるに至った。
他に大日如来坐像(鎌倉)・聖観音立像(鎌倉)・不動明王立像(鎌倉)等があり、いずれも東福寺建立以前、この付近にあった廃寺の遺仏を移したものと伝える。
栗棘庵 りつきょくあん
 
永仁ニ年(1294)東福寺第四世住持、白雲慧暁(仏照禅師)が開創した塔頭の一で、はじめ西陣白雲村にあったが、応仁の乱後、東福寺に移されたとつたえる。

  清巌正徹墓

正徹は東福寺の書記役を務めた室町前期の代表的な歌僧で、当庵の裏に一室を構え、「松月」と号した。
一時山科に謫居する身となったが、間もなく東福寺に戻り、長禄ニ年(1458)この地に於て没したとつたえる。
 

善慧院
 
当院は大永年間(1521〜28)彭叔守仙が営んだ退隠所であるが、故あって明治四年(1871)に明暗寺(普化宗)を継いだことから一に明暗寺とも称する。
明暗寺とは虚無僧の始祖と仰ぐ虚竹禅師朗庵を開山とする虚無僧縁の寺であり、これに因んで今では尺八根本道場と仰がれ、毎年秋には尺八を愛好する人が全国から集まり、盛んな献奏大会をおこなうならわしになっている。
大機院
 
応永二十七年(1420)関白九条満家(満教)が創建し、天文十五年(1546)関白九条稙通によって重修された山内塔頭の一で、現在の建物は慶長の火災後、天保二年(1645)左大臣九条道房が旧殿を寄せて再興したものである。

  後京極摂政良経墓

墓石は高さ約二メートルの石造宝篋印塔(鎌倉)であるが、笠石と基礎に鎌倉風の装飾文様があるのが特に注目される。
この墓石は、もと東山鳥辺野の実報寺門前にあって、古くから良経の墓といわれていた。
鳥石葛辰は明和ニ年(1765)春、その墓域の荒れたさまをみて嘆き
  きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷き一人かも寝む
という良経の代表的な歌をしのんで墓前に石碑を建立したが、近年墓石とともに当院に移された。
因みに九条良経は忠通の孫、兼実の二男として生まれ、二十七歳で家督を継ぎ、左大臣・摂政を経て太政大臣になったが、元久三年(1206)三月七日急死した。
享年三十歳であった。
生まれつき和歌に勝れ、勅撰和歌集に入る歌だけでも実に三百十九首を数える当代屈指の歌人であった。
藤原定家は九条家の家司であり、二十五歳のときから良経に仕え、主従のあいだはきわめて親密であったという。

  法性寺殿藤原忠通墓

良経の墓の傍にある。
摂政忠通は長寛ニ年(1164)二月十九日、法性寺殿に於六十八歳で没し、法性寺山に埋葬されたが、昭和二十五年市立日吉ケ丘高校の建設に当たって当院に移された。
墓石が新しい石造宝篋印塔であるのは、供養塔として近世に造立されたからである。

  九条稙通墓

桃山時代屈指の有職古典学者で、母方の祖父三条西実隆から『源氏物語』の秘伝をうけ、数年かかって『源氏物語孟津抄』三十巻を著わした。
文才にも恵まれ、その著『嵯峨記』は天正元年(1573)の冬、洛西嵯峨方面を探訪した紀行文である。
文禄ニ年(1593)三月五日没。年八十八。
 

同聚院
 
一に五大堂ともいう。
僧文渓元作がその師琴江令薫(東福寺第百二十九住持)を推して開山として創建した山内塔頭の一である。
本堂に安置する不動明王像(重文・藤原)は高さニ・六メートル。
寛弘三年(1006)藤原道長が旧法性寺中に建立した五大堂の中尊とつたえ、他の四明王は散逸したにも拘らず、本尊のみが残ったのは、一に火除けの像として古来崇敬されたからであろう。
一に「ジュウマン不動」と称せられる。

  モルガン雪墓

小五輪石塔の表面に「秋月院妙澄大師」ときざむ。
モルガン雪(本名加藤雪)は明治十四年京都寺町の刀剣商の三人姉妹の末っ子として生まれ、小学校を出ると間もなく祇園の芸妓となり、胡弓の名手とうたわれた。
アメリカの富豪ジョージ・デニソン・モルガンに落籍され、一躍米富豪の夫人となり、世人の注目をあつめた。
しかし、アメリカの排日法によって帰化を阻まれ、フランスに渡ってパリに定住したが、第一次世界大戦中にモルガンに死別し、永い孤独生活を過ごした。
昭和十三年春、母国を慕って帰国し、晩年は紫野大徳寺の門前町の小家に住み、ひたすらキリスト教の一信者として余生を過ごした。
昭和三十八年五月十八日没。年八十一。
 

霊雲院
 
もと不二庵と号し、枯山水の庭園と細川候遺愛石のある寺として、古くから知られている塔頭である。
寛永年間(1624〜44)当院の住持湘雪守ゲンは、肥後熊本の藩主細川忠利・光尚父子の帰依をうけ、寺産五百石の申し出をうけたが、和尚はこれを堅く拝辞し、「禄よりむしろ庭上の貴石を賜りたい」と請い、光尚より賜ったのが今も書院前庭にある遺愛石とつたえる名石である。
古来無双の名石とたたえられ、かつては林羅山や石川丈山・冷泉為景・芝山持豊等、多くの文人・歌人が詠じ、歌を賦し、あるいは文を寄せたものであった。

遺愛石
高さ三尺。横四尺余りの青味をおびた小石。
表面に小松が数本生え、それを四角い石の須弥台の上に設けた四角の石槽(石船)中に据える。
これは須弥山上の九山八海石をかたどったものといわれるが、また藤原時代からおこなわれる鉢山の一形式ともみられる。

因みに書院庭園は久しく荒廃していたが、近年修復され、遺愛石を囲んで庭上一面に白砂の大砂紋を描き「九山八海の庭」と称されている。
また書院の西から茶室観月亭に至る庭を「臥雲の庭」といい、白砂と石を巧みに組み合わせた枯山水の庭とし、渓谷を流れる水をかたどっている。
 

天得院
 
正平年中(1346〜70)無夢一清が開創した塔頭である。
無夢和尚は求道得道のために元国に渡り、帰国後、東福寺第三十世住持となった。
その墓は書院背後の墓地にある。
また桃山時代には方向寺の鐘銘を撰文したことで知られる文英清韓長老の住庵であったが、鐘銘文の一件で物議をかもし、当院は破毀されたが、明治初年、山内の塔頭本成寺を合併して再興された。
書院前庭(桃山)はやや荒廃しているが、東西にのびた矩形の地割に石組みを配し、美しい苔によって一面に覆われた枯山水の庭としている。
なお門内に「石のしたしさよしぐれけり」と記した俳人井泉水の句碑がある。
芬陀院(雪舟寺)
 
元享年間(1321〜4)関白一条経通が定山祖禅を請うて開山とし、亡父内経の菩提を弔うために創建した一条家の菩提寺である。
現在の建物は、宝暦五年(1755)の火災後、桃園天皇女御恭礼門院(一条兼香女)の旧殿を賜って再建したとつたえる。

  庭園

面積は百二十坪、中央に亀島、左に鶴島を配し、ツツジやサザンカの刈込みを配した蓬莱池庭式の枯山水庭園で、室町時代の特徴とする北宗絵画の形式を多分に採り入れている。
寺伝によれば雪舟の作庭と伝え、これに因んで一に雪舟寺ともよばれる。
久しく荒廃していたが、昭和十四年修理復元され、併せて書院東部の一隅に小石による鶴亀の枯山水庭園をつくって面目を一新した。
茶席図南亭は一条昭良(恵観公)好みの茶室といわれ、露地には昭良愛好の曲玉の手水鉢と扇屋形石灯籠を置く。

また開山堂には定山祖禅の木像とその墓があり、後小松天皇勅諡の「普応円融禅師」としるした扁額を掲げる。
 

荘厳院
 
文永年間(1264〜75)南山士雲によって創建された山内塔頭の一で、むかしは林泉の美を以って知られたが、惜しくも今は荒廃している。
* 『都林泉名勝図絵』に紹介されている「双鵝石」・「獅子石」と称する奇岩は現存しないが、それと思わせる石がある *

南山士雲墓は竹薮の生い茂る方丈背後の奥深い墓地の北にある。
泉涌寺の開山塔の中国風なのに対し、これは純日本風の無縫塔である。
付近には江戸後期の儒医吉益東洞・南涯父子墓および中西深斎・鷹山父子墓や兵学家の柏淵石門の墓等がある。
 

正覚庵(筆寺)
 
正応三年(1290)東福寺第五世住持、山叟慧雲の開創した山内塔頭の一で、はじめ現在の地より西南、字正覚にあったのに因んで寺名とした。

  筆塚

文化年間(1804〜18)廃筆の労を謝するため、塚を築き、筆供養をおこなったのが起こりと伝え、今も毎年十一月ニ十四日には筆供養が盛大におこなわれる。

  茅舎句碑

書院前庭にある、俳人川端茅舎の句碑
 

光明院 古寺巡礼
 
 

永明院 ようめいいん
 

光明院の南に接する。
弘安二年(1279)東福寺の第六世住持、蔵山順空(円鑑禅師)の開創に係る。
これよりさき、冷泉家ゆかりの浄如禅尼は歌聖藤原俊成の菩提を弔うため、蔵山順空を開山とし、九条家の月見殿を寄進して堂宇とした。
また付近の山林十三町歩を寄進し、永代追弔の資に供したという。
むかしは花の名所とたたえられ、春秋花見時には多くの文人墨客の杖を引くところであったが、惜しくも今は昔日の盛観はない。
しかし、絹本著色「円鑑禅師像」(明兆筆)一幅(重文・室町)をはじめ多くの什宝を蔵する。
南明院
 
永明院の南に接する。
もとは永明院の寺域であったが、応永二十一年(1414)足利将軍義持が業仲明紹(東福寺第百十一世住持)のために建立した山内塔頭の一で、画僧明兆は当院の第二世住持であった。
天正十六年(1588)徳川家康の室駿河御前は、母の病気見舞の為に上洛し、聚楽第に逗留中、病を得て同十八年(1590)一月十四日に没した。
遺骸は当院に埋葬されたから、家康・秀忠・家光は上洛毎に墓参したとつたえる。
今も境内墓地にはその墓があり、本堂には徳川氏歴代の位牌を安置する。
藤原俊成墓
 
南明院より一渓をへだてて南の南明院山とよぶ小丘上にある。
業仲禅師の墓を中央にし、その左側大小二個の五輪石塔のうち、大きい方が俊成の墓、小さい方が浄如尼の墓と伝える。

俊成は平安末期から鎌倉初期の歌壇の重鎮として活躍した著名な歌人であるが、元久元年(1204)十一月三十日、九十歳の高齢で法性寺内に於て没した。
遺骸は亡妻の墓所の傍に埋葬された。
その墓ははじめ山の下壇の地にあったが、弘安ニ年(1279)浄如尼によって現在の所に改葬したとつたえる。

* 藤原親忠女。美福門院に乳母として仕え、「加賀」と称し、のち八条女院に仕えて「五条局」と称した *
 

吉山明兆(兆殿司)墓
 
藤原俊成墓の右。
一個の自然石を以って墓石とする。無銘。

明兆は正平七年(1352)淡路国津名郡物部村の大神家に生まれた。
幼にして東福寺の大道一以に師事し、終始殿司の職にあったので、世に兆殿司とよばれた。
生来画を好み、多くの仏画・肖像画を描いた。
彼が用いた絵具は、神感を得て稲荷山より掘り出した世にも絶妙なものといわれ、その色どりは世の絵師も知らない色が多かったという。
その採掘したところを絵具谷と称した。
江戸時代の儒者黒川道祐は、稲荷山から北の東福寺の裏山には古来古墳が多いことを指摘し、明兆の用いた絵具中、わけても朱色のすぐれているのは、これらの古墳の石棺中に塗られた朱を応用したものだろうと評している。
因みに明兆は永享三年(1431)八月二十六日、八十歳で寂し、遺骸は南明院山に埋葬された。

* 東福寺の裏山。一ノ橋川の上流の山間渓谷地に当たる *

以上、東福寺関係。
紅葉シーズン(十一月中旬〜下旬)は訪れる人も多く、ゆっくりと参拝したい人はこの時期を避けたほうが良いと思います。
三門の公開期間があります。階段が急ではありますが、出来るだけ拝観されることを希望致します。
 
 
 

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