京都 五山十古刹
 

南禅寺】-【天竜寺】【相国寺】【建仁寺】【東福寺】【万寿寺

等持寺・臨川寺・真如寺・安国寺・宝幢
・普門寺・広覚寺・妙光寺・大徳寺・龍翔寺


 
禅宗(臨済宗)の寺格を表す言葉で、(十刹)の上位に当たり、五山十刹と併称される。

南宋の末期、行在所のあった臨安府を中心に、径山・霊隠・天童・浄慈・育王という五箇所の名刹を選んで、国作の長久を祝するために勅によって輪番で高僧を住持としたのによる。

大慧宗杲に帰依した史弥遠の献策である。

日本では鎌倉より室町時代にかけて、幕府と公家の氏寺五か所を選ぶ、同じ趣旨の献策があり、長建寺・円覚寺・寿福時・浄智寺・浄妙寺のいわゆる鎌倉五山が定められた。

その後、夢窓疎石とその一門の発展に伴って、数次の寺刹選定、寺格の変更を経て、京都を中心とする五山制度が定着した。

南禅寺を五山の上位に置き、天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山という。

五山は天下僧録司の出仕する蔭涼軒制と共に幕府の文教や寺格統制に関して、学術センターとしての機能を高め、「五山文学」や五山版の成果を生む。

十刹(甲刹)の制はこの時期以後のもので、公武出身の有力尼僧の住院を尼寺五山とすることもあった。

五山の選定は、インドの祇園精舎その他、仏陀が長く駐留した天竺五山にならうともいうが、事実はむしろ中国五山の根拠をインド仏教史に求めたに過ぎず、臨安を中心とする漢族文明の強化を望んで、人の五体や五臓のそれをモデルとする風水思想の成果のようである。「今夕大光明寺に大施餓鬼あり。是れ人民死亡の追善のためなり。五山以下寺々に施餓鬼ありと云々」―看聞御記―

またこの時定められた京十刹は、等持寺・臨川寺・真如寺・安国寺・宝幢寺・普門寺・広覚寺・妙光寺・大徳寺・龍翔寺。
なお、五山十刹の下に諸山が置かれた。

等持寺【images.google】 臨川寺images.google】 真如寺images.google】 安国寺images.google】 宝幢【images.google】 普門寺【images.google】 広覚寺【images.google】
妙光寺【images.google】 大徳寺images.google】 龍翔寺images.google

【京都尼五山】

京都にある五つの尼寺。
景愛寺・檀林寺・護念寺・恵林寺・通玄寺の総称。

「尼寺五山」も鎌倉と京都に設けられた。
「尼五山」は、そのままの寺名で臨済の尼寺として残っている寺はない。

このうち、尼五山の筆頭とされた景愛寺は、応仁の乱より前に戦乱により破壊され、再建されませんでした。
が、本尊などは宝慈院に移され、法脈は、景愛寺の支院ともいうべき宝鏡寺と大聖寺に受け継がれている。

通玄寺は、元々三条東洞院辺りにありましたが、応仁の乱で荒廃し、寺内に建てられた曇華院と合併。
明治になって移転した嵯峨の地で、曇華院として法灯を灯し続けている。

浄土宗護念寺は、かつての尼五山が衰退後、改宗して復興されたらしい。


 
南禅寺 images.google
瑞龍山と号する臨済宗南禅寺派の大本山で、正しくは太平興国南禅々寺という。

はじめこの地は三井寺の別院最勝光院があったが、年久しく荒廃するにおよんだ。
鎌倉時代の文永元年(1264)亀山天皇はこの地の風光を愛され、御母大宮院の御所として離宮禅林寺殿を造営され、弘安十年(1287)にはさらに一宇を造営された。
 

前者を下ノ御所、後者を上ノ御所と称し、今の修学院離宮のごとく、上宮と下宮に二宮に分かれていたとつたえる。そして上ノ御所には持仏堂として南禅院の名が付けられた。正応二年(1289)院政の座から降りられた亀山上皇は側近の諫言も聞き入れず、突如、南禅院にて出家落飾し、法皇となられた。これは鎌倉幕府の皇位継承への干渉、大覚寺統と持明院統の対立などに対する憤懣の現れであったと想像されるが、また、翌年の伏見天皇暗殺未遂事件への連座を疑われたこともあって、一層俗事を避けざるを得ない事情があったからにもよろう。その後は東福寺の無関普門(大明国師)に帰依し、きびしい禅僧生活を過されるにいたった。

初代開山となった普門は、しかしこの時すでに八十歳の高齢に達し、まもなく東福寺にもどって遷化するに至った。よって法皇は二世として規庵祖円(南院国師)を選任された。祖円は普門の意志を承けて伽藍造営にこころをくだき、法皇もまた祖円とともに御自ら土をはこばれたという。
着工より十五年の歳月を要し、ここにわが国最初の天皇を大檀越とする禅宗寺院が生まれた。
それ故に南禅寺はのちに「五山之上」という地位を得るに至った。

当寺が最も栄えたのは南北朝時代であった。
十万坪の境内に七堂伽藍と塔頭子院数十ケ寺を擁する大寺となったが、度重なる失火・兵火によって焼亡し、再起不能に近い打撃を蒙った。それより久しく寺運は衰退したが、天正十九年(1591)豊臣秀吉によって新しい寺領が交付され、慶長十八年(1613)に徳川家康による三百石の加増を得て、ようやく復興の基盤がなった。
明治維新後縮小し、現在は四万五千坪余である。

総門

もとはインクラインの上に架かる南禅寺橋のところにあったが、明治十八年(1886)琵琶湖疎水工事のため粟田口町鳥居口町にある。
道の半ばには瓢亭・丹後屋などの腰掛茶屋があったが、今は瓢亭だけである。
上田秋成の墓が西福寺にある。
頼山陽は「人に遇うて南禅寺を問うことをやめよ、一帯青松、路迷わず」とよんだ道である。

勅使門】重文・桃山

桧皮葺の四脚門で、慶長造営の内裏の日ノ御門であったが、寛永十八年(1641)明正天皇より賜ったとつたえ建築細部に慶長頃の様式をあらわしている。
同系の門に大徳寺勅使門がある。

三門】重文・江戸

寛永五年(1628)藤堂高虎が大阪の陣に戦死した部下将兵の菩提を弔うために寄進したとつたえる。下層を天下竜門といい、上層を五鳳楼という。上層内部には聖観音像を中心として左右に十六羅漢像および徳川家康・藤堂高虎・金地院崇伝の像を安置する。

この三門は歌舞伎の「楼門五三桐」により、天下の盗賊石川五右衛門が棲んでいたということで有名になった。
春の夕暮れ時、彼は勾欄を前に座し、太い煙管をくゆらせながら
   
  「絶景かな絶景かな。春の眺めは価千金とは小さなたとえ。己の目からは一目万両。はてうららかな眺めじゃな〜」とうそぶいた。

ただし、五右衛門死後三十年ほどしてから建てられたものである。

巨大な石灯籠は、茶人佐久間勝之が寄進したもので、大きさでは日本一である。

法堂】明治

もとの法堂は焼失し、今のは明治四十二年(1909)の再建である。
内部は床瓦敷とし、正面須弥檀上に本尊釈迦如来と左右に脇侍の文殊菩薩・普賢菩薩像を安置する。天井の画龍は、近世の画家今尾景年の筆になる雄渾な蟠龍図を描く。

方丈】国宝・桃山

大方丈は慶長十六年(1611)京都御所にあった女院御所の御対面御殿を賜ったものと伝える。内部の間取りは禅宗寺院の方丈と同じく六室からなり、中央の仏間には聖観音立像(重文・藤原)を安置し、左右の六室には狩野派の画家の筆になる極彩色の障壁画二十四面(重文・桃山)がある。

小方丈は伏見城の遺構を徳川氏が寄進したとか、寛永頃の増築とかいわれるが、明らかでない。
内部は「虎の間」とよばれる三室からなり、竹林に群虎を主題とした四十面にのぼる金碧障壁画(重文・江戸)が描かれている。なかでも三の間の「水呑みの虎図」は名高い。筆者は狩野探幽と伝える。

方丈庭園】名・江戸

枯山水庭園で、小堀遠州作とつたえるが、様式上よりみると遠州在世当時よりは少し時代が下がるものと考えられる。
龍安寺の石庭とともに禅院式枯山水の典型とされる。

南禅院

法堂の南、上段の地にある。

法皇はうちつづく鎌倉幕府の処置にこころよからず思し召され、生応二年(1289)九月七日、突然ここで落飾され、嘉元三年(1305)九月十五日嵯峨の亀山殿において崩じられるまで、ここを住居とされた。

方丈の西と南に展開する庭園(史名・鎌倉)は、天竜寺庭園とともに京都における鎌倉時代庭園の双璧をなすもので、様式は池泉廻遊式観賞庭園として作られている。
やや荒廃しているが、山畔を利用して上下二段構えとし、東北隅に瀧石組をつくり、曹源池とよばれる大小二つの池をうがち、東池に鶴亀二島を、南池に蓬莱神仙の四島を配し、その中間に石橋を架けている。

天授庵

延元四年(1339)南禅寺第十五世、虎関師練が開山大明国師(無関普門)の墓所としてひらいたのを、慶長七年(1602)細川幽斎によって再興された塔頭で、細川家の菩提所となった。

方丈の襖絵は長谷川等伯六十四歳の時に描いたものといわれ、水墨による「商山四皓図」八面、淡彩による「禅機図」十六面・「松鶴図」八面、計三十二面(重文・桃山)は等伯晩年の作とはいいながら、筆力は極めて旺盛である。

庭園は方丈の東に刈り込みと白砂で構成された枯山水の庭園(明治)と、書院の南部に大きな池を中心とした池泉廻遊式庭園(南北朝)の二つから成っている。池は東西二区の分かれ、中央部で細く結ばれ、局部的に州浜形の出島などが残っている。明治三十七・八年頃、当時の住職が自ら意匠監督し、改修をおこなったために、原形を大いに失ったが、以前幽斎好みの茶室のあった址には新たに松関席が設けられ、露路庭も作られて、明るい庭園となっている。

境内墓地には、細川幽斎・梁川星巌夫妻・横井小楠夫妻・歌人渡忠秋・医師新宮凉庭等、多くの名士の墓がある。

真乗院

永享八年(1436)応仁の乱の首謀者、山名持豊(宗全)が香林宗簡(一三九世)の塔所としてひらいた塔頭で、境内墓地には宗全の墓がある。

金地院

室町時代の応永年間(1394−1428)、足利義持が大業徳基(六八世)を開山として創建した塔頭の一つで、はじめ葛野郡北山(北山)にあったが、慶長十年(1605)以心崇伝によって移建再興された。崇伝は徳川家康に信任され、天下僧録司に任ぜられ、宗教界の行政・人事を左右し、明治に至るまで当院住持がその職に補せられた。従って当院の勢力は重く、代々の僧録司はみな当院から出る例となった。

唐門(桃山)は表門を入った左にある。明智門といい、天正年間(1573−92)明智光秀が母の菩提のために建立したと伝え、もと大徳寺のあったものを移建したものである。

また方丈(重文・桃山)は寛永初年に伏見城の遺構を移したものとつたえる桃山風の豪壮な建物で、十一間七間、単層、入母屋造り、こけら葺き賭している。内部は上之間上段には床、棚、付書院、帖台構を備えた書院造りとし、各室ともに狩野尚信筆とつたえる。「松梅図」・「仙人図」・「群鶴図」なその華麗な装飾画によって満たされている。二条城二の丸御殿や知恩院方丈画と一脈相通じるものがあり、江戸初期の障壁画としては代表的な作例とされている。

庭園(特名・江戸)は方丈の南にあって、東西に長い平庭の一面に白砂を敷き、右に鶴島、左に亀島をあらわした枯山水とし、二島のあいだの長方形の平石は、この庭をへだてて南上段の地にある東照宮を遥拝するための遥拝石として配置したものとつたえる。寺伝によれば、本庭は寛永九年(1632)小堀遠州の作庭とつたえるが、実際は遠州が以心崇伝の依嘱をうけ、庭師賢庭が作庭に当たったというのが定説となっている。古来「鶴亀の庭」とよばれ、東山の数ある庭園の筆頭におかれている。

八窓席茶室(重文・江戸)は方丈北側の小書院に付設された遠州好みの三畳台目の茶席で、窓が八つあったので八窓席とよばれ、曼殊院のものとともに名高い。現在、六窓しかないのは明治に修繕したとき、二つの窓を取り除いたからである。屋根はこけら葺、中柱に小壁をつけて下地窓をつけ、勝手窓を大きくとって席を明るくし、にじり口に外縁を設けたりする珍しい手法をいくつか用いている。この茶室につづく小書院の襖絵「老松図」六面と「猿猴捉月図」四面は、長谷川等伯中期の作といわれ、桃山時代の水墨画の代表作といわれている。

方丈の開山堂には以心崇伝の墓があり、堂後の墓地には近代の画家浅井忠の墓がある。

聴松院

もと聴松庵と称し、清拙正澄(一四世)の墓所であるが、室町末期の享禄二年(1529)細川満元が再興して今の名にあらためた。
『雍州府志』第八によれば、足利義教や義晴は当院に止宿して要害の地としたことがあり、足利義輝の侍童松井佐渡守は当院の檀越となった。織田信長や蒲生氏郷も来寓したこともあり、今の書院は藤堂高虎の建立とつたえる。

書院前庭は大きな池をうがち、周囲に石組みを配した幽邃な地泉廻遊式庭園とし、池畔には菅神霊夢の松と称する名松があったが、今は枯死してしまった。『都林泉名所図会』にも紹介された名園であったが、今は池畔に湯豆腐屋が店を出している。

余談

湯豆腐

江戸時代の頃から南禅寺の名物として知られた。
丹後屋と称し、もとは瓢亭とならんで旧参道の中程にあったが、その後、口丹・中丹・奥丹の三店に分かれた。今は、聴松院の境内に店を構える奥丹だけが残っている。もとからここにあったのではなく、明治時代の頃に寺から借地したという。


 
天竜寺 【images.google】【images.google
当寺は吉野の行宮で憤死された後醍醐天皇の冥福と南北朝の戦に犠牲となった人々の霊を慰めるため、足利尊氏が夢窓国師を請じて建立した臨済宗天竜寺派の大本山で、正しくは霊亀山天竜資聖禅寺と号する。

はじめこの地は嵯峨天皇皇后橋嘉智子が旧嵯峨院の別館を捨てて禅刹とされた壇林寺があったが、平安中期の一条天皇頃には荒廃するに至った。
その後、鎌倉時代の建長七年(1255)に至って後嵯峨上皇によって仙洞亀山殿が造営された。
一に嵯峨殿ともいい、その規模は『古今著門集』巻八によれば、今の天竜寺を中心とし、北は野宮神社、南は大堰川畔におよぶ広大な地域を占め、自然の風光をそのまま離宮内にとり入れたものであった。

『増鏡』第六、おりゐる雲の巻に
 嵯峨の亀山の麓、大井川の北の岸に当たりて、ゆゆしき院をぞ造らせ給へる。
 小倉の山の梢、戸無瀬の滝もさながら御垣の内に見えて、わざとつくろはぬ前栽も、おのずから情けを加へたる所から、いみじき絵師といふとも筆も及び難し云々。

とあるごとく、磯石ばかりが僅かに残っていた壇林寺の旧地を整地し、権大納言西園寺実雄の指揮によって造営工事が進められた。

離宮内には亀山殿をはじめ、その北に北殿御所・寿量院・薬草院および浄金剛院や法華堂等があり、東南には芹川殿・川端殿等が建ちならび、その壮観さは鳥羽上皇の鳥羽離宮(城南離宮)に匹敵するほどであった。
歌人藤原為家は、
 亀の尾の山の岩根の宮造り動きなき世のためしなるべし (家集)
とその竣工を祝した。
嵐山もこの仙洞の庭内とし、吉野山から桜を移植して花見の御遊をされたり、また庭の池水は大堰川から水車で汲み上げられたことが、『徒然草』五一段に見える。
次いで亀山上皇も亀山殿に移られ、ここを仙洞とされた。
 音にきく蓬が島の跡とめて亀の尾山にわれ家寄せり (亀山院御集)
とは、亀山上皇のこのときの述懐である。
その後、いわゆる大覚寺統の仙洞となり、後宇多・伏見・後伏見・後二条各天皇が御幸された。
とくに後醍醐天皇は幼少の頃、亀山殿で修学された有縁の地でもあったから、その頃すでに荒廃していた亀山殿を改め、禅刹としたのが天竜寺の起こりである。

天竜寺は暦応二年(1339)まず光厳院の院宣があり、翌三年より五年の歳月を経て康永三年(1344)に至ってほぼ寺観を整えた。
翌貞和元年(1345)後醍醐天皇七周忌法要と天竜寺開堂供養が、足利尊氏・直義参会のもとに盛大に行われた。
また多くの荘園寺領が寄せられ、天竜寺船の運上を以って堂舎造立の資に充てられるなど、その後の造営にもっとも意がそそがれた。

往時は境域も広大な地を占め、塔頭子院も百五十ケ寺を擁し、室町時代には京都五山の第一位となったが、その後の兵火に罹災すること八回におよんだ。
とくに元治元年(1864)長州藩兵が京都を犯したとき、天竜寺は長州兵の屯営となったため、幕軍の攻撃するところとなり、兵火を浴びて一山焼亡した。
さらに明治初年の廃仏毀釈によって寺運はさらに衰微し、その後は久しく荒廃にゆだねられていたが、近年観光ブームの波に乗って整備されるに至った。
しかし、三門・仏殿等、禅寺寺院としての主要な建物は、未だ再建には至らない。
伽藍は東を正面とし、東西一直線上に建ちならび、その南北に塔頭八ケ寺を配置する。

【勅使門】(桃山)

総門を入ったところに東面する。
切妻造り、桧皮葺、もと伏見城の遺構と伝え、当寺最古の建築で、細部にわたって桃山様式を表現している。

【法堂】(江戸)

放生池をへだてて、勅使門の西にある。
旧選場(座禅堂)を移して法堂としたもので、内部中央須弥壇上には本尊釈迦如来三尊像、左右脇壇上には夢窓国師と足利尊氏像を安置する。
天井には明治の画家鈴木松年筆の雄渾な雲竜図が描かれている。
*最近、改修されたはずです*

【硯石碑】

画家鈴木松年が法堂の天井画を描くときにあたって用いたという巨大な硯石で、高さ約ニ・六メートルもある。

【大方丈】(明治)

明治三十二年の再建で、当寺最大の建物である。
内部中央に釈迦如来坐像(重文・藤原)を安置し、襖絵は画家若狭物外の筆になる闊達な竜の図が描かれている。

【多宝殿】

昭和九年、紫宸殿を模して再建したといわれる。
内部には後醍醐天皇像および歴代天皇の尊牌を安置する。

【庭園】(史名・鎌倉)

亀山と嵐山を巧みにとり入れた池泉廻遊式庭園で、夢窓国師の作庭といわれるが、仙洞亀山殿の旧苑池を利用し、北宗山水画式の庭園様式にあらためたものであろう。

曹源池を中心にして、池の前庭は州浜形の汀や島をつくり、白砂と松の緑がきわ立ち、大和絵さながらの味をみせている。
池の彼方にはまた亀山の山脚を利用してつくられた滝組があり、その前に自然石の橋をかけ、池中には中島や多くの岩島を配している。

本庭は鎌倉時代作庭としては、本市における代表的な名園で、天竜寺で見るべきところはここだけである。

なお塔頭妙智院は、雲居庵(廃寺)・真乗院(廃寺)とともにその庭園は『都林泉名勝図会』にも紹介される名庭であったが、惜しくも今は破却され、庭にあった名石「獅子巌」も他所に移されたとつたえる。

【四辻善成墓】

松巌寺(塔頭)の旧墓地内にある。

四辻善成は順徳天皇の孫兼雅王を父とし、従一位、左大臣となった南北朝時代の人である。
貞治年間(1362〜8)将軍足利義詮の命で源氏物語の注釈書『河海抄』ニ〇巻を著わした。
古典文学の研究者であり、また歌人としても知られる。
晩年出家して常勝と号し、この地に松巌寺を創建し、応永九年(1402)九月三日、七十四歳で没した。

松巌寺はのちに天竜寺仏殿の北に移ったが、墓だけが残った。
付近には松巌寺の開山晦谷和尚や曇華院開山智泉禅師等の墓がある。


 
相国寺 【images.google

主な塔頭 【光源院】【林光院】【大光明寺】【慈照院】【延寿堂墓地】【法然水】

京都御所の西北、相国寺門前町にある。
正しくは相国承天禅寺といい、臨済宗相国寺派の大本山で、万年山と号する。

足利三代将軍義満が、己が邸宅室町殿に隣接する地を選び、十ヶ年の歳月を費やし、明徳三年(1392)に竣工した禅寺修行のための寺で、本尊釈迦三尊を安置し、夢想国師を追請開山とし、春屋妙葩を二世住持とした。
義満は南禅寺を五山の上とし、相国寺を五山の第二位に列した。
また中国の制にならって禅宗寺院を統制し、僧侶の出所進退を管理するために僧録司を置き、妙葩をこの職に任じ、寺内に鹿苑院を建てて住持せしめた。

それより五山中の行政的枢軸として特別な権威をふるったが、また僧侶の中から横川景三や詩文にすぐれた多くの禅僧を輩出し、室町時代の禅宗文化を昂揚したことは、わが国文化史上、大きな功績がある。

相国寺は竣工後、まもなく応永元年(1394)九月二十四日の失火によって炎上した。
直ちに再建に着手され、同六年(1399)には高さ360尺(約109メートル)におよぶ七重大塔を造立した。
この塔は、岡崎の法勝寺の塔にもまさるといわれ、落慶供養には千人の僧侶が招かれ、青蓮院門主尊道法親王が導師となり、御節会に準じて盛大に行われた。
瑞渓周鳳は

    ノ
 七級浮図洛北東、登臨縹測歩二晴空一、相輪一半斜陽影、人語鈴声涌二晩風一。(翰林五鳳集)

と塔上よりの壮大な景観をたたえた。

しかし、その後の応仁の乱に東西両軍必争の地となり、堂宇はことごとく兵火にかかって焼失した。
それより百数十年のあいだ、足利氏の衰微と相俟って荒廃するに至ったが、天正十二年(1584)西笑承兌(九十二世)が住持となるにおよんで復興の気運みなぎり、豊臣秀吉は寺領として千三百余石を施入し、秀頼は法堂を再建、徳川氏もまた三門を寄進した。
とくに後水尾上皇は旧殿を下賜し、方丈・宝塔・開山堂を再興されたので、ようやく旧観に復するに至った。
しかるに天明の大火にふたたび類焼の厄にあい、法堂をのこして他はすべて烏有に帰した。
爾来、年を遂うて再建につとめつつある。
面積は約三万五千坪、伽藍は南を正面とし、南北一直線上に建ちならび、その左右に塔頭十二ケ院が配置されている。

【勅使門】 (桃山)

総門の西に建つ。
木鼻や蟇股等に桃山時代の建築様式がみられる。
一に御幸門または勅使門ともいい、普段は閉じられ、一般の出入りは総門(薬医門)を以て利用されている。

【天界橋】

勅使門の北、功徳池にかかる橋をいう。
京都御所との境界線の形をなしているので、この名がある。
足利管領細川晴元と三好長慶の天文の乱は、この石橋からはじまったので、一に「石橋の戦」ともいわれ、いまでも合戦当時の旧石材を用いている。

【法堂】 (重文・桃山)

「無畏堂」といい、仏殿を兼ねる。
慶長十年(1605)豊臣秀頼による再建である。

内部はすべて瓦敷とし、中央須弥壇上には本尊釈迦如来像、脇侍に阿難・迦葉両尊者の像を安置し、東壇には足利義満像を安置する。
また天井の蟠竜図(桃山)は、狩野永徳の息光信筆といわれ、雄渾な筆致は晩年の作品にふさわしい威容をみせている。

因みにこの建物は天明の大火に免れた山内最古の建物で、切妻形の化粧屋根裏、両妻唐破風の珍しい玄関廊とともに、桃山時代禅宗仏堂の貴重な遺構となっている。

【方丈】 (江戸)

文化四年(1807)の再建である。
内部は六室に分かれ、縁側の杉戸絵とともに原在中や玉リン・土佐光則等の画家による見事な襖絵によって飾られている。
また前庭は白川砂を敷いて枯山水の庭とし、方丈背後の庭は深い谷間の深山幽谷の景をなしている。

【庫裡】 (江戸)

天明の大火後の再建であるが、禅宗寺院特有の切妻造り、本瓦葺の典型的な建物で、妻を正面とし、正面左寄りに唐破風に桟唐戸をつけ、仏堂風としているのは、内部に韋駄天を祀っているからである。
また入り口の土間には大きな竈を設け、複雑に組まれた天井の巨材を通してはるか上方に煙出しを設けている。

【開山堂】 (江戸)

文化四年(1807)恭礼門院の旧殿を賜い、仏堂として造立したもので、礼堂と祠堂からなり、開山夢想国師の像を安置する。

礼堂はもとの御殿の面影をとどめて奥床しい。
内部もまたそれにふさわしく、円山応挙一派の筆になる襖絵がある。

[庭園] (江戸・昭和)

長方形に広く、切石でふち取った平坦地に白砂を敷き、庭石を配石した禅院式枯山水の平庭であるが、背後に築山を設け、その間を水が流れるようになっているのが、変わっている。
この流れは上賀茂から南流する御用水を採り入れたもので、寺ではこれを「竜淵水」と称し、開山堂を出てからの水路を「碧玉溝」という。
ともに相国寺十境の一に数えられている。
従って本庭は古い形式による築山と流れの「山水の庭」と、切石で縁取った新しい「枯山水の平庭」とが一つに同居したものであって、新旧二態を巧に結びつけ、格調高い庭園としている点が注目させられる。

その他、境内には後水尾天皇の歯髪塚をはじめ、宝塔(経蔵)・僧堂(選仏場)・鐘楼および「宗旦狐」を祀った鎮守宗旦稲荷社がある。

【観音懺法会】

毎年六月十七日に行われる当寺の重要な年中行事の一つである。
観音の慈悲によっておのれの罪業を懺悔しようという儀式で、当日は方丈の明兆筆の「白衣観音像」を本尊とし、脇侍に伊藤若冲筆の「文殊・普賢像」の二幅が掛けられる。
この二幅は、若冲が明和二年(1765)に弟の死を契機とし、「動物綏絵」三十幅とともに、永代供養として当寺い寄進したとつたえる相国寺屈指の什宝である。

【光源院】

相国寺二十八世元容周頌の塔所で、はじめ広徳軒と号した。
永禄八年(1565)足利十三代将軍の塔所となり、その院号に因んで今の名に改めた。
什宝に絹本著色『妙葩和尚像』一幅(重文・明)を蔵する。
また院内墓地には池田輝政の母(善応院)、同家臣荒尾但馬守および相国寺の画僧維明周奎の墓がある。

【林光院】

足利義嗣(義満二男)の塔所として、応永二十四年(1417)西ノ京に創建された。
応仁の乱後、二条等持寺に移り、秀吉の時に現在の地に移ったとつたえる。
境内の鶯宿梅は一に「軒の紅梅」ともいい、京都名水の一に数えられている。

『大鏡』によれば、村上天皇の御代、清涼殿の前の梅の木が枯れてしまい、これにかわるべき梅の木をさがし求めたところ、西ノ京のさる家にあることを聞き、早速それを移植された。
翌朝、天皇がご覧になると、梅の木の枝に一枚の短冊がついていて、それにやさしい女文字で
 
 勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はば如何答えむ

としるされていたので、天皇は深く感動され、歌のあるじをただされたところ、それは紀貫之の娘であったという。
その家はのちに林光院となり、寺の移転とともに梅の木も移植された。
その間、梅はいくどか枯死したが、そのつどひこばえが成長し、今につたえている。

【大光明寺】

文和年間(1352-56)後伏見天皇々后広義門院が、伏見桃山の指月の地に創建された皇室の御願寺であるが、文禄年間(1592-96)豊臣秀吉の伏見築城に際し、相国寺内に移った。
旧伏見宮家の菩提所として客殿にはその位牌を安置し、方丈には本尊普賢菩薩坐像(南北朝)を安置する。
当寺はもと足利九代将軍義尚の塔所常徳院を合併したので、墓地には義尚の塔がある。

なお什宝に絹本著色『羅漢像』一幅(重文・鎌倉)等を有する。

【慈照院】

相国寺第十三世在中中淹の塔所で、はじめ大徳院と称した。
延徳二年(1490)足利八代将軍義政の塔所となり、その法号をとtって慈照院と改めた。
現在の書院は寛永九年(1632)、ときの住職?叔顕タクが桂宮と親しかった関係から、桂宮家の御学問所を賜ったといわれ、また茶室は千宗旦が智忠親王のために創設した四畳半台目の席で、俗に宗旦好みの席といわれる。
席内には持仏堂があり、利休の像を安置する。
この像は、当時、世間体をはばかり、公然と利休を祀れなかったため、機に応じて布袋の首と挿げ替えられる仕掛けになっているのが珍しい。

なお什宝には絹本著色『二十八部衆像』二幅(重文・鎌倉)ほか三点を有し、院内墓地には八条宮智仁・智忠親王以下、桂宮家および広幡家累代の墓がある。

【延寿堂墓地】

ここには藤原定家・足利義政・伊藤若冲および藤原頼長等、歴史上著名な人の墓が多い。
いずれも境内各塔頭より昭和初期頃移したもので、新しい墓としては蛤御門の戦に斃れた長州藩士の戦死者塔や前京大総長小西重遠博士の墓がある。

なお境内東門を出た道路の北側には、江戸初期の儒者藤原惺窩の墓や薩摩藩士六十一人を埋葬した「殉国群英之碑」としるした顕彰碑等がある。

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■ 法然水

相国寺の北、相国寺北門前仲ノ町にある。
「法然水」ときざんだ石の井桁があるだけで、水はない。

ここは賀茂神社の神宮寺の旧地といわれ、境内にはもと清澄な池水があった。
法然上人はつねに賀茂明神を崇敬し、この神宮寺に住んで、しばしば賀茂社参詣した。この池水はそのときの閼伽井に用いるために汲んだとつたえる。

神宮寺は一に「賀茂の河原院」とも称したが、相国寺にあたって一条油小路に移転し、さらに知恩寺とあらため、左京区百万遍の地に落ち着いたが、池水のみは旧地に残った。
のちに相国寺の塔頭松鴎軒の有となったが、明治五年(1872)軒が廃寺となったため、その遺蹟を顕彰するために井戸枠を設けたという。


 
建仁寺 images.google
東山と号する臨済宗建仁寺派の大本山で、栄西禅師の開創したわが国最初の禅刹として知られる。
栄西はわが国へはじめて茶の実を移植し、また『喫茶養生記』を著した鎌倉時代初期の人で、早くより仏門に入り、天台を究め、二回も宋国にわたって禅を学んだ。

建久二年(1191)に帰国し、九州で教義弘通につとめたが、叡山の衆徒に圧迫をうけ、『興禅護国論』を著わして、禅宗の末法性・国家性を強調し、天台僧徒に対処した。

正治元年(1199)、鎌倉に下がって寿福寺を建立し、鎌倉武士の信仰を得たが、将軍源頼家もまたふかく禅師に帰依し、建仁二年(1202)東山綾小路の河原の地に一宇を建立して、開山とした。
造営にあたっては佐々木定綱・畠山重忠等がその工を助け、三年の歳月を費やし、元久二年(1205)に竣工した。
これが当寺の起こりである。

往時の寺域は、今の四条通から南は松原通まで、西は大和大路通から東は東大路にわたる凡そ方四百メートルにおよぶ広大な地を占め、その中に宋の百丈山にならって多くの堂塔が建立された。
土御門天皇は勅願寺とされ、年号によって建仁寺の号を下賜された。

はじめ延暦寺との顧慮して、叡山の末寺という形で止観院・真言院のニ院をおき、天台・真言・禅三宗一致の寺として、妥協をはかったが、大覚禅師(蘭渓道隆)のときに至って、禅宗のみの寺にあらためた。
爾来、武家の信仰をあつめ、室町時代に足利義満が五山制度を設けるや、当寺はその三位となったが、中世の兵乱にしばしば兵火の厄にあった。
天正年間(1573〜92)、豊臣秀吉の信任を得た東福寺退耕庵の恵瓊によって復興されたが、仏殿は未だ再建に至らない。

伽藍は南を正面として南北一直線に並び、その左右には多くの塔頭子院が甍をつらね、禅苑中の名刹たる面影を今なおとどめている。

【勅使門】(重文 鎌倉)

純然たる禅宗様(唐様)のすこぶる垢抜けのした門である。
俗に「矢ノ根門」とも「矢立門」ともいわれ、柱や扉に矢痕があって、もと平重盛(一説に平教盛)の六波羅の館門を移したものとつたえる。
屋根はもと桟瓦葺であったが、昭和二十八年の解体修理の際、こけら葺きに復元され、今は防災上、銅板葺になっている。

【三門】(江戸)

「望闕楼」と号す。
大正十二年(1923)静岡県浜松の安寧寺より移したものとつたえる。
楼上内部には観音像および十六羅漢像を安置する。

【法堂】(江戸)

仏殿兼用で「拈華堂」という。
この建物は、これまで延享年間(1744〜8)の建立とされていたが、明和二年(1765)の上棟札が発見された。

内部は床瓦敷とし、正面須弥檀上に本尊釈迦如来坐像と脇侍迦葉・阿難両尊者立像等を安置する。
その前に置かれた前卓は、羽目に華麗な彫刻がほどこされた中国風の机で、天井から吊り下げた天蓋や灯籠等とともに須弥檀のまわりを荘厳化するにひときわ役立っている。

【方丈】(重文 室町)

慶長四年(1599)安芸国・安国寺から移建したものとつたえる。

禅宗方丈の遺構としては古く、内部中央の室中之間の小組格天井などには、その当時の建築手法をとどめているが、移建の際に手をくわえているので、柱などは桃山風になっている。
この建物は外まわりはすべて腰高障子とし、正面中央の両脇以外には壁面がないため、昭和九年(1934)の室戸台風に倒壊し、同十五年(1940)に復旧された。

なお内部の襖絵は台風の災害にあうまでは、海北友松の筆になる豪放な水墨山水画がはめられていたが、現在は軸物に改装され、京都国立博物館に寄託されている。
それに代って橋本関雪晩年の筆になる淡彩墨画「生生流転」の襖絵がはめられている。

方丈前庭は白砂に巨岩を配し、前面の法堂を借景とした枯山水の様式で、大らかな味があり、中国の百丈山の名をとって「大雄苑」と称される。

【七重石塔】(桃山)

もとは十三重塔で、塔身に織田有楽斎が天正十年(1582)六月二日、本能寺でたおれた兄信長の追善供養のため、その月のうちに建てて供養塔とした旨の銘がある。
因みにこの塔は、徳川の治世下には開山塔の溝の底に隠してあったものを、明治三十一年になってここに移したとつたえる。

【東陽坊茶席】(桃山)

二畳台目の席で、にじりを入った左手に台目床を設け、右に中柱を立てて二重棚を吊り、壁には下地窓や竹で出来た大小さまざまな窓を設け、変化に富んだ天井と明暗とによって、一種のはなやかさと落ち着きをみせている。

この茶席は天正十五年(1587)十月一日、北野で設けた大茶会に東陽坊長盛の好みによってつくられた副席とつたえ、のちに当寺に移されたもので、一部改造したところもあるが、よく北野の茶会の気分をあらわしている。
因みに東陽坊長盛とは、真如堂東陽坊の僧で、茶を好み、利休門下の逸足だったとつたえる。

【安国寺恵瓊墓】

恵瓊は安芸国の人で、はじめ東福寺の僧となったが、のちに安国寺の竺雲に教えをうけ、安国寺を兼帯した。
毛利輝元に信任され、信長・秀吉時代には僧出身の政略家として活躍した。
関ケ原の戦いには毛利勢とともに西軍に加わったが敗れ、慶長四年(1599)十月一日、三条河原において処刑された。
一説に五条橋上にて腰輿のなかで切腹したともいわれる。
いずれにしろ六十余年の数奇な運命を辿った彼が、自ら再建に努力した建仁寺の方丈の裏で静かに葬られていることは、せめてもの慰めであろう。

【鐘楼】

銅鐘(鎌倉)は、もと源融の河原院の遺物といわれ、開山栄西在世のとき、鴨川の七条の下流釜ケ淵に沈んでいたものを引き揚げ、当寺にうつしたといわれるが、鐘はそれよりも新しく、鎌倉時代の鋳造になるもので、草の間に独鈷文様を鋳出した優品である。

この鐘を一に「陀羅尼の鐘」といわれるのは、修行僧が寝につく亥の刻すぎ、観音慈救陀羅尼を一万遍となえながら、鐘をついたところからこの名が生まれたとつたえる。

【四つ頭茶会】

毎年四月二十日、建仁寺本坊にて催される開山栄西禅師誕生忌の茶会をいう。
会席の正面には絶海中津賛の栄西画像を本尊とする三幅対を掲げ、影前の卓上には香炉・華瓶・燭台の三具足を飾り、四人の正客にそれぞれ八人宛の相伴客がついて着座する。

点茶には抹茶と菓子を盛った天目台付茶碗が配給され、四人の年若い供給僧が湯瓶を提げて、正客から順次に湯を注ぎ、茶を点てる法がとられる。

利休茶道のような簡素な作法ではなく、禅宗寺院古来の茶礼に基づき、多くの人々によって行われるところに特色がある。
なお当日は一般茶道愛好者にも公開される。

<その他の主なるもの>

当寺の塔頭子院は、その盛んなるときは五十三宇の多きにおよんだが、明治維新の際に廃寺統合が行われ、現在は十五宇にすぎない。

【両足院】

建仁寺第三十五世、徳見竜山(真源大照禅師)を追請開山とするが、実際は南北朝貞和年間(1345〜50)に法嗣文林によって開創された塔頭である。
天文二十一年(1552)の兵火に一山とともに焼亡し、天正の頃に復興したとつたえるが、現在の諸建物はいずれも近時の建築にかかり、とくに檀越白木屋大村家の庇護によるところが大きい。

書院の襖絵は長谷川等伯の筆とつたえる「松に童子図」(桃山)で、簡単な筆致の中にも初期的な特徴があり、等伯画研究の好資料とされている。

また庭園(江戸)は薮内紹智の指導によって作られたとつたえ、約三百坪の庭は方丈南に展開する枯山水庭と東北にわたる池泉廻遊式の庭に分れる。
両庭ともたびたびの改造によってはじめの姿とはずいぶん変っているが、南庭の三尊石組や現在一石だけ孤立している立石に、やや古調が感じられる。
また北東部池庭は山畔の下部に細長い曲折のある池をつくり、岩島を配し、上部山畔に多数の刈込みと石組みを配する観賞式庭園で、江戸中期に多くつくられた書院庭園に属する。

なお池の北側には織田有楽斎の「如庵」写しの茶室「暦の席」(水月亭)があり、二帖半台目の席で、明治末の建立である。
またそれに隣って大村梅軒好みの新しい茶室がある。

【饅頭屋始祖林家墓】

わが国ではじめて饅頭をつくったといわれる林浄因は、中国の人であるが、徳見竜山禅師にふかく帰依し、暦応四年(1341)禅師の帰国に従って来朝し、奈良に住して、饅頭をつくって家業としていた。
あるとき宮中に献上し、天皇の嘉賞を得たが、浄因の孤独なのをあわれみ給い、宮女をめあわされた。
間もなく男二人女二人の子供が生まれたが、延文三年(1358)竜山禅師の死去により、翌年妻子を残し、飄然として帰国してしまった。
あとに残った妻子は家業を継いだが、浄因の子惟天盛祐は禅僧となり、京都に来住したことから、林家は南北ニ家にわかれた。

惟天の孫、林宗二は室町時代の明応年間(1492〜1501)、五山の僧徒と交遊して古今の文事をきわめ、世に饅頭屋本といわれる『節用集』をはじめ、『源氏物語林逸抄』五十四巻等を著わし、学界に多大の裨益を残した。

また浄因の孫、紹袢は三河国設楽郡塩瀬村に移住したので、この一族は塩瀬を名乗った。
天正年間(1573〜92)、林宗味は中京区烏丸三条下がるに住し、饅頭をつくる傍ら茶巾をつくって販売したので、そのところを饅頭屋町と称した。
それより子孫代々、久しくその町にあったが、寛政十年(1798)浄空に至って断絶した。

この墓は林家(塩瀬家)累代の塋域で、久しく無縁墓となっていたのを、饅頭屋町の有志の人々が菩提を弔うために建立し、併せて同町在住諸家を合祀し、「合塔」としたものである。

【三輪執斎墓】

江戸中期の陽明学者。

山崎闇斎門下の佐藤直方に学んだが、中頃より陽明学に転じ、江戸に「明倫堂」を設けた。
学業のかたわら、和歌を能くした。
晩年病を得て帰京し、寛保四年(1744)一月二十五日、七十六歳で没した。
この墓は生前につくられたもので、碑陰に銘がきざまれている。

 − 先塋の後ろに予が終の住所を営みけるに、幸ひに杉の二本ありけるも −
 * 碑銘は風化により剥落。老杉二本は現在はない *

その他、付近には沢村自三(執斎父)墓や桃山時代に安南貿易を行って巨富をつかんだ末次平蔵父子の墓、白木屋の祖大村可全墓、茶道薮内家五世竹心父子墓、変わったところでは寛政の力士、鬼面山谷五郎などの墓がある。

【開山堂(護国院)】

開山栄西禅師(千光国師)の塔所で、古くは興禅護国寺と称した。
現在は山内寺院住職の一年ずつの輪番寺院となっている。

楼門(江戸)は、明治二十年(1887)洛西鳴滝の妙光寺から移したものと伝える。
門内中央に建つ開山塔(明治)は、礼堂と相の間、祠堂からなる一般型であるが、明治十七年(1884)に建てられただけに、建築細部にわたって精確につくられ、明治期の代表作とされている。

内部中央奥まったところには国師の像および左に国師塔碑、右に当時の檀那開基源頼家の像を安置する。

また開山塔から廊下を経て北につづく客殿は、明治十年(1877)妙心寺玉竜院から移したもので、襖絵は加藤文麗筆の「竜虎図」、原在中筆の「松鶴図」・「白梅群禽図」から成り、東西の杉戸には「孔雀図」・「滝図」等が描かれている。

【楽神廟】

備中国吉備津神社の第三神、楽御前を祀る。
かつて開山栄西禅師の母が、この神に祈って栄西を生んだという霊験談にもとづいて勧請されたものである。

【霊洞院】

建仁寺第二十六世、慈照高山(広済禅師)を追請開山する塔頭の一つであるが、実際は高山の法嗣海雲の開創になるもので、天文二十一年(1552)の兵火に本山とともに焼失し、同二十三年希三宗燦禅師によって再興された。
現在は専門道場(僧堂)となっている。

庭園(名勝 江戸)は書院の南から東へ矩形にひろがる池泉廻遊式の庭で、約八百平方メートルを占めている。
寛政十一年(1799)刊行の『都林泉名所図会』巻一に掲げる図と現状は殆ど変わりなく、土橋が明治年間に石橋に変わったのみである。
池中の中島は亀島として用いられ、その石組みは大体よく保存されている。
また石組の向こうに高さ約五尺の堂々たる青石を立てて蓬莱石とし、護岸石として併用する手法も勝れている。
なおその横には変った織部風の寄せ灯籠があり、また近年十重石造層塔が対岸に立てられた。
簡素な中に建築ともによく調和した優雅な庭である。

なお寺宝に海北友松の筆になる六曲一双「琴棋書画図」(重文 桃山)と伏見天皇宸翰「読漢書詩」一幅(重文 鎌倉)を有する。

【禅居庵】

元弘三年(1333)小笠原信濃守貞宗が建立し、青拙正澄(大鑑禅師)を開祖とする塔頭の一で、書院の襖絵「松竹梅図」十二面(重文 鎌倉)は、海北友松が紙本地に水墨を以て雄渾に描いた代表的な作品である。

本堂の摩利支天堂(室町)は唐様仏殿で、京都には数少ない中世の禅宗様仏殿としては、貴重な遺構とされている。

また堂内に安置する摩利支天像は、日月の光を神格化したもので、その姿は天女形をわらわし、足下に猪を踏んでいる。
これを信仰すれば、一切の災難をのぞき、身をかくす術を得ると信じられ、古来、武士の守護神としてあがめられた。
現在は付近の宮川町や祇園花街のお参りが多い。

【久昌院】

慶長十三年(1608)、奥平美作守信昌が三江紹益を開山として創建した奥平家の菩提寺で、寺のたたずまいにもどことなく大名風がみられるのもこれがためであろう。

奥平信昌は初め定昌と称した。
天正三年(1575)長篠の戦に城を死守し、よく武田勢の大軍を撃退した。
その功により、織田信長より一字を与えられ、信昌と改めたという。
本堂上間には、若き日の信昌の武勲をたたえた浮田一惠の描いた「長篠合戦図」がある。

また書院の奥につづく茶室は三畳台目二畳の席で、俗に遠州別好ノ席といわれ、天井と間取りの具合と入り口とが複雑にできていて、甚だ変化に富んでいる。
奥平家代々の大名が墓参に来訪の際、御茶で接待するために、このような大規模な設備を必要としたのであろう。

なお本堂前の庭園は中央に広々とした大きな池を設け、山内の法堂と東山を借景にして池泉観賞式とした豁達な庭園である。
また墓地はその南にあって、奥平信昌夫妻の霊屋をはじめ雪村友梅や赤松則村の墓がある。

【堆雲軒】

正平元年(1346)霊洞院の正中西堂禅師が創建した塔頭の一で、はじめは同院歴代住職の退隠所であったが、天文年間に焼亡し、延宝八年(1680)実伝慈篤禅師によって再興された。
同禅師は宇治製茶業の旧家、上林春松の子である関係上、近年五条坂の陶工達によって「急須塚」が建てられた。
境内にはまた多くの椿があり、人目をそばだてている。

【正伝永源院】

永源庵と正伝院を合併した境外塔頭の一である。

永源庵は正平年間(1346〜70)、無涯禅師を開山とし、細川頼春の菩提寺として東山清水坂辺に創建されたが、応永五年(1398)現在の地に移ったと伝える。
頼春の子頼有は無涯禅師と師檀の縁をむすんでより、細川家より当庵へ出家住職するものが多かった。
今も境外墓地には細川頼春・頼有父子墓および頼長以下一族の墓がある。
因みに福島正則は当庵にしばし住したとつたえ、同墓地にはその墓がある。

また正伝院は鎌倉時代の文永年間(1264〜75)、宋国より来朝した建仁寺第十二世、紹仁義翁(普覚禅師)が、晩年建仁寺内に創建した寺であるが、天文以来荒廃していたのを、元和四年(1618)織田有楽斎によって再興された。
有楽斎は織田信長の弟で、兄とはまったくその性格を意とし、千利休に師事し、大坂冬の陣後は正伝院に隠棲し、茶道三昧の生活を送った。
元和七年(1621)十二月十三日、年七十五で没した。
没後、当院に葬られた。
その墓はもと祇園町南側の民家の裏に久しくあったが、昭和三十七年(1962)秋、その一族の墓とともに当院内に移転改葬された。

往時の正伝院には優美な庭園と典雅な茶亭があったことは『都林泉名所図会』巻一にも紹介され、世に有名であるが、惜しくも明治維新の際に境内地を没収され、茶室如庵などの建物は他所に移築され、明治六年(1873)永源院に合併されるに至った。

現在の庭園は池泉本位とした書院式平庭で、中央に大きな島をつくり、これを囲って池を穿ち、石橋を架している。
有楽斎当時のものではないが、その清楚閑雅さはよく旧態を偲ばせるに足るものがある。

【常光院】

慶長九年(1604)木下家定が三江紹益に帰依し、堂宇を再興した境外塔頭の一つである。

家定は北政所の兄で、秀吉に仕え、姫路城に封ぜられた。
慶長五年(1600)関ケ原の戦いには北政所を守護すると称して参加しなかった。
のちに入道して二位法印に叙せられ、慶長十三年(1609)八月二十日、六十六歳で没した。
家定の子に木下勝俊(長嘯子)・利房(高台寺円徳院開基)がある。

木下家定夫妻の墓は常光院より西数歩、小松町の民家に取り囲まれた一画内にある。
家定の実父母杉原道松・吉子(朝日局)の墓は現在明らかにしない。

なお大津坂本城で戦死した森可成(森蘭丸父)の子孫とつたえる美作の森氏一族の墓がある。
* 大きな五輪石塔を森蘭丸墓とつたえるも、不詳 *

【大中院】

興国三年(1342)建仁寺第二十七世、東海竺源(法光安威禅師)が創建した境外塔頭の一つである。
応仁の乱後荒廃し、承応四年(1655)雪窓霊玉によって再興された。
現在の建物は文化年間(1804〜18)、景和・全室両僧によって再建されたもので、書院には海北友松筆「彩山水画」と水墨「鷺図」がある。
他に寺宝として絹本著色「闡提正具像」一幅(重文 鎌倉)を有する。
 


 
東福寺 images.google
臨済宗東福寺派大本山で恵日山と号す 
摂政九条道家が円爾弁円を請じて開山と仰ぎ、鎌倉時代に創建した九条家の氏寺。 
寺名は「洪基を東大に亜ぎ、盛業を興福に取る」と道家の発願文にもある如く東大寺と興福寺の一字ずつをとったもの。 
旧仏教側との摩擦を避けるため、はじめは天台・真言・禅の三宗兼学とした。 
京都五山の第四位の地位を保つ。 
虎関師錬・夢巌祖応・岐陽方秀・桂庵玄樹・文子玄昌など多くの詩僧や学僧が輩出して五山文学に名を馳せた。 
東福寺の名をもっとも昂揚したのは画僧吉山明兆(兆殿司)であろう。 
足利将軍義持の褒美に「桜の木を切り落とす」ことを願ったのは明兆である。(桜の下で浮かれることは、仏教の修行の妨げになるからと) 
もっとも栄えたのは南北朝時代から室町時代であって、三聖寺以下三十六宇におよぶ塔頭子院は「東福寺の伽藍面」といわれる。 

● 六波羅門 - 重文・鎌倉 

本柱の円柱が板蟇股をはさんだところに特色 
もと北条氏の六波羅政庁にあったものを移したもの。 
元弘三年(1333)の戦の折の矢疵のあとかたがところどころに残っている。 

● 三門 - 国宝・室町 

応永年間(1394?1428)の再建で、禅宗寺院の三門中、もっとも古い。 
楼上に足利義持の筆になる「妙雲閣」としるした扁額をかかげる。 
内部仏壇上には釈迦三尊と十六羅漢像を安置する。 

● 東司 - 重文・室町 

禅宗寺院便所の古い形式を伝える珍しい遺構である。 

● 禅堂 - 重文・南北朝 

参禅の道場としては貞和三年(1347)に再建された本市現存中、最古最大の建物。 
扁額「選仏場」は、宗国径山寺の無準師範の筆といわれる。 

● 浴室 - 重文・室町 

むし風呂で、京都最古の浴室建築。 

● 成就宮 -  

東福寺の鎮守社として石清水・賀茂・稲荷・春日・日吉の五社を祀るので、一に五社明神社ともいう。 
もとは法性寺の総社。 

十三重石塔 - 重文・南北朝 

高さ四・五メートル、花崗岩製。 
             
● 仏殿 -

昭和九年に再建されたもので、昭和時代の木像建築としては最大。 
天上の画龍は画家堂本印象が東西二十二メートル、南北十一メートルの天井板に描いたもので、龍の大きさは体長五十四メートル、胴回り六・二メートル。 
仏殿の巽(東南)の柱を日蓮柱といい、日蓮上人が他宗の迫害を受けたとき、東福寺の開山聖一国師の庇護を受けた報恩のために一材を寄せたことがあっ て、それより本堂再建の際には日蓮宗から寄進するならわしになっている。 

● 銅鐘 - 重文・平安 

撞坐は約三分の二の高さにあり、蓮華文のすぐれた点から平安期鋳造のものと思われる。 
鐘に竜頭がない点に注意してみてください。(摩訶阿弥陀仏と韋駄天の話あり) 

● 方丈庭園 - 

方丈の建物を中心にして東西南北の四庭からなり、釈迦成道の八相に因んで「八相の庭」とよばれる。 
南庭は、「枯山水の庭」、西庭は「井田市松の庭」、北庭は「市松の庭」、東庭は「北斗の庭」。 

● 通天橋 -

渓谷(洗玉澗)に架けられた橋。 
春屋妙葩が法堂より渓谷をへだてた祖堂へ通う衆僧の労苦を救うため、天授六年(1380)八月につくったとつたえ、入り口には扁額をかかげる。(諸説あり) 

因みに現在の橋は、伊勢湾台風(昭和三十四年、八月)によって倒壊したのを、昭和三十六年(1961)十一月に再造されたものである。 
* 市内で紅葉を見下ろすのはここくらいである。葉が三つに分かれて黄金色になるのが特徴で、宋国より将来したものである。現在約二千本。 * 

● 開山堂(常楽庵) - 

二階建ての楼閣風の落ちついた建物で、内部には開山聖一国師や一条実経の像を安置する。 
上層は伝衣閣といい、国師が将来した三国伝来の布袋像を安置する。 
屋上に閣のある開山堂は珍しい。 

● 普門院 -

開山国師の常住した方丈と伝える。 
障壁画七十四面(重文・桃山?江戸)からなり、狩野山楽・雲谷等益・海北友松ら各派の画家になるものと思われる。 

● 開山堂庭園 - 江戸 

池泉観賞式の庭園で、開山堂への参道をはさんで枯山水と池庭の二つに分かつ。 
枯山水は約百坪の平庭式とし、築山をつくらず、美しい市松式の砂紋上に鶴島・亀島を象った石組みを配して蓬莱山をあらわすのに対して、 
池庭はうしろの山手を築山風に作り、下部に細長い池をうがって石橋を架け、池中に亀島を作り、山畔の中央と北部に枯滝を設けている。 

本庭は延宝二年(1674)開山堂修理の際に作庭されたものとみられる。 
彼山水の庭はそれよりもやや古く、寛永期頃のものとみられ、智積陰や妙法陰御座の間の庭園等とともに 
禅院式と武家書院式とを巧みに折衷した江戸中期の代表的な名園である。 

● 一条家八代墓 

開山堂の背後にあり。 
一条実経を中心に、右に家経・内経・経通・経嗣・兼良・冬良の墓、左に内実の墓が東西に南面して並ぶ。 
なおこの墓所とは別に開山堂の東の丘陵上にも一条家の墓がある。 

● 愛染堂 - 重文・室町 

丹塗りの八角小円堂で、唐様を主とした鎌倉末期風の折衷建築とする優雅な建物である。 
広隆寺の桂宮院本堂とともに京都に現存する八角円堂の遺構のひとつである。 
        
● 五輪石塔 - 鎌倉

火輪の軒がやや薄いが、鎌倉時代の石塔である。 
もと北野天満宮にあったものと伝える。 

● 月下門 - 重文・鎌倉 

普門院の総門をいう。 
一条実経が常楽庵を建立したとき、亀山天皇が京都御所の月華門を下賜されたと伝える。 
 

● 最勝金剛院

九条家一族の墓の管理と名刹の復活を兼ね、昭和四十六年秋、旧地に近い仏殿東方の地に再興された東福寺派の特別由緒寺院で、ここには九条兼実の廟をはじめ、九条家以下十一名の墓がその東方に有る。 

因みに最勝金剛院は久安六年(1150)摂政藤原忠通の室宗子が法性寺の域内東方の地に建立した方性寺中最大の寺院で、その四至は「東は山科境、南は稲荷の還坂の南谷、西は鴨河原、北は貞信公の墓所山」を限りとする広大な地を占めていたといわれるが、建物の規模は想像するほどの大きなものではなかった。 
のちに東福寺の末寺となり、室町時代の頃には衰亡するに至ったが、本尊丈六の阿弥陀像のみは東福寺本堂の背後に永く安置されていたと伝える。 
また宗子は久寿ニ年(1155)九月十四日、法性寺殿において没し、遺骸は当院の近くに埋葬されたとみられるが、墓は未だ判明するにいたらない。 

● 毘沙門谷 

三ノ橋川渓谷一帯を称したものとおもわれる。 
九条道家の山荘光明峰寺安置の毘沙門天像に因んで地名となったもので、寺の規模やその位置については明かにしないが、兼実廟に近い地であったと推定される。 
この渓谷には多くの梅や紅葉の木があって、洛東の景勝地として知られた。 
また付近の密厳院や梅ノ房・十輪院等ではしばしば歌会が催され、足利将軍義政も寛政五年(1464)二月と寛政七年(1466)二月に観梅に親しく訪れたことがある。 

● 偃月橋 - 重文・桃山 

本坊より塔頭竜吟・即宗両院に至る三ノ橋川の渓谷に架かる木造橋廊をいい、下流の通天・臥雲両橋とともに東福寺の三名橋の一に数えられている。 
 

 竜吟庵 

もと東福寺の第三世住持無関普門(大明国師)の住居址で、その塔所のあるところとして、また多くの古文化財を有する点に於、他の山内塔頭とやや趣きを異としている。 
大明国師は諱を普門、字を無関といい、建暦ニ年(1212)信濃国(長野県)に生まれた。 
はじめ長楽寺の栄朝に学び、次いで上京して、聖一国師のもとに参禅すること五年、建長三年(1251)入宋し、在宋十二年ののち帰朝し、再び聖一国師に従い、その法を嗣いだ。 
弘安四年(1281)一条実経の招きに応じて東福寺の第三世住持となり、また正応四年(1291)亀山上皇の南禅寺創建に当たって開山として招かれたが、病を得て東福寺に帰山し、同年十二月十二日、年八十で寂した。 
『大明国師行状記』によれば、遺骸は庫裡の背後「恵日山竜吟ノ岡」の山麓にて火葬に付し、遺骨は銅製骨蔵器に納め、石櫃に入れて埋葬されたという。 
その後、元享三年(1323)に後醍醐天皇より大明国師の諡号を賜った。 

  方丈 - 国宝・室町 

現存最古の方丈建築である。 
足利義満の筆になる「竜吟庵」としるした堅額を掲げる。 
奥の仏間の境の板壁には国師の画像を掲げる。 
書院造りに寝殿造り風の名残を多分に加えているのが、この建物の特長である。 
おそらく亀山上皇の思召しにより、皇居内の建物を賜って移したのか、あるいは宮廷関係の技術者の手によって建てられたものであろう。 

  開山堂 

方丈の背後にある。 
扁額「霊光」・「勅諡大明国師」は足利義満の筆によるもので、「准三宮」・「道右」および「天山」という印刻がみられる。 
堂内に安置する大明国師坐像(重文・鎌倉)胎内には、入宋した折り、将来した多数の納入品(重文・鎌倉)を蔵している。 
像を安置した壇下は半地下壕とし、その中に国師の墓石とする石造無縫塔(鎌倉)および国師の遺骨を納めた銅製骨蔵器(重文・鎌倉)や巨大な石櫃(重文・鎌倉)が安置されている。 

  庭園 

方丈を囲んで東西南の三ヶ所からなり、いずれも枯山水の庭としている。 

西庭 
竜が海中から黒雲を得て昇天する姿を石組みによって構成されたもので、青石による竜頭を中央に置き、白砂と黒砂は雲紋、竹垣は稲妻をあらわしているのが目を引く。 

東庭 
庫裡とのあいだの狭い地割のなかに赤砂を敷き、中央に長石を臥せ、その前後に白黒のニ石を配置している。 
これは国師が幼少の頃、熱病にかかって山中に捨てられた時、二頭の犬が国師の身を狼の襲撃から守ったという故事にもとづいてつくられたものという。 

三庭とも重森三玲の作庭に係る。 

方丈の東に接する庫裡(重文・桃山)は、禅宗寺院に多くみられる豪放さはないが、木割がこまかく、全体に優美な建物で、表門(重文)とともに桃山時代の建造である。 
 

 即宗院 

嘉慶元年(1387)九州薩摩の島津氏久が、剛中玄柔(東福寺第五十四世住持)を開山として建立した島津家の菩提寺で、氏久の法名「齢岳立久即宗院」を採って寺名とした。 
はじめ山内成就院の南にあったが、永禄十二年(1569)に火災にかかり、現在の地に移ったのは慶長十八年(1613)頃といわれ、島津義久の施入によるとつたえる。 
慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦には薩摩兵士の屯営となり、寺の背後の山頂に砲列を敷き、淀より進撃する幕軍に向かって砲撃を加えた。 
山頂にはこのときに戦死した薩摩藩士の名を記した石碑五基および西郷隆盛の筆になる「東征戦亡之碑」が建っている。

  庭園 

もとの庭園は、東福寺中第一とほめたたえられる名園であったが、明治以降、寺運の衰微によって久しく荒廃していたのを、昭和五十二年に至って発掘調査が行われた。 
その結果、室町時代後期の池庭であることが判明し、池を中心とした廻遊式庭園に修理復元された。 

  自然居士墓 

即宗院より境外地にあって、民家に接する一叢の樹木の下にある五輪石塔(江戸)がそれとつたえる。 
寺伝によれば、自然居士は和泉国(大阪府)の生まれ、大明国師の弟子となり、主として竜吟庵にて修行をつんだが、のちに東山の雲居寺の住僧となった。 
晩年には再び東福寺にもどり、この地に庵をむすんで閑居していたとつたえる。 

  採薪亭址 さいしんてい 

寛政八年(1796)即宗院の竜河長老が自然居士を偲び、その旧地に一宇の草庵を建てた。
建物は方三間、二階建、階上に「雲居」の額を掲げ、階下を「採薪亭」と名付け、もっぱら茶室として利用された。 
清水寺の勤王僧、月照上人が 
  さそふ風吹くにまかせて出づるなり 宿も定めぬ雲の身なれば 
  時しらで隠れ棲む身ぞ哀れなる 不如帰さへ待てど来鳴かず 
とうたtったのは、安政四年(1857)東福寺の霊雲院より採薪亭に移り住み、ここで五十日間、玉体安穏王政復古を祈ったときの歌といわれ、西郷隆盛もまたここに来って密かに討幕の謀議をこらしたとつたえる。 
建物は明治の中頃になくなり、今は「採薪亭址」としるした石碑があるにすぎない。
 


 
万寿寺 【images.google】
当寺は白河上皇が皇女郁芳門院内親王の菩提を弔うため、永長元年(1096)下京区万寿寺通高倉にあった六条内裏の中に建立された六条御堂を起こりとする。
その後、鎌倉時代の正嘉年中(1257〜9)十地上人覚空とその弟子慈一房湛照(宝覚禅師)によって、浄土教を修する寺となったが、両僧が東福寺の聖一国師の道風をきき、親しくその教えを受けるにおよんで浄土教を捨てて禅宗となし、名も万寿禅寺と改め、弘長元年(1261)開堂の儀をおこなったとつたえる。
往時の規模については明らかにし難い。
境内には多くの糸桜があったことだけは知られるが、庭園については不明である。
爾来、旧地にあること百七十四年、永享六年(1434)二月十四日の市中大火に罹災し、寺運は次第に衰微するに至った。
たまたま東福寺の塔頭三聖寺が開山湛照と同じくすることから、天正年間(1573〜92)現在の地に移った。
それより万寿・三聖ニ寺が両立して寺観を誇ったが、明治維新に当たって三聖寺は廃寺となり、万寿寺のみが残った。
そのとき境内の愛染堂(重文・室町)は東福寺本坊境内に移され、仏殿安置の本尊阿弥陀坐像(重文・藤原)やニ天門安置の金剛力士ニ体(重文・藤原)は京都国立博物館に寄託されている

【鐘楼】(重文・室町)

寺の入口に南面して建つ。
和様と唐様を折衷した禅宗様の建築で、下層中央の間を通路とし、門を兼ねている。
一に「鐘楼門」ともいい、室町中期以前のものとしては注目される。

【仁王門】(重文・桃山)

門前の九条通をへだてて南へ100メートル、東福寺の北門を入った北側に建っている。

悪七兵衛景清女墓

方丈前庭の西南隅にある。
法名「無量心院玄海大姉」に因んで一に無量心院塚ともいう。
古来この地は景清の屋敷址とつたえ、景清の没後、地を東福寺に寄進し、亡父の菩提を弔ったとつたえる。
一説に十地上人(覚空)の墓ともいわれ、万寿寺の移転とともに旧地より移したものともつたえる。

藤原実頼墓

今はそのところを失って明らかにしないが、門前九条通りより東福寺境内に入る参道の東側の地と推定される。

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