■■■ 僧侶

仏教が日本へ伝わったのは、『日本書紀』によれば552年(欽明十三)、『上宮聖徳法王帝説』などはさらに十四年早いという古説をとっている。
いずれにしても、百済王から日本朝廷へ仏教が公伝したのは、六世紀の中頃ということになる。

だが、民間にはもっと早くから流入していた。
司馬達等は522年(継体十六)の渡来人とされているが、大和の高市郡坂田原に草庵を営んで仏像を安置し、「帰依礼拝」していたと伝えられる。

六世紀に入ると渡来人は激増する。
欽明朝にその戸口を調査したところ、秦人だけで千五十六戸にのぼったという。
これは調査の対象になり得た階層の戸数だから、当時の人口からするとおびただしい数である。
彼らは母国の風俗習慣とともに信仰を持ち込んできたはずで、何パーセントかは仏像も携えていたのではないかと思われる。

日本人が彼らの拝仏をどうみていたかだが、自分たちが神を崇めるように、異国人もそれぞれの神をもっているのだと考えていたようだ。
これは百済王からの金銅の仏像を前にした時、天皇も臣・連らも同じ思いだった。
仏という名の「蕃神 あだしくにのかみ」として理解したのである。

百済王は釈迦如来の金銅仏一体と、仏堂を荘厳するための幡蓋(はたきぬがき)、経論若干を献じたが、同時に僧侶をおくってよこした形跡がない。
仏法の尊いことを礼拝した百済王の文を『書紀』は載せているが、これは「金光明最勝王経」からの引用らしく、『書紀』の編者の後補とみられている。
「祈り願ふこと情の依にして、乏しき所無し」などは、願えば何事も思いのままにかなうという意味にとれて、仏教にとってはずいぶん誤解を招きかねない。
言語上の垣はあっても僧侶付き添わせるのが、この場合順当だった。

もっとも、554年(欽明十五)に、百済は僧曇慧ら九人をおくり込んで、僧道深ら七人と交代させている。
これが来日の百済僧名の初見で、あるいはこの道深ら七人の僧が公伝とともに渡ってきたのではないかと思われるが、彼らがどこにいてどのような活動をしたのかはいっさいわかっていない。

 
>> 更新  次頁】 5名追加  2005.10.23現在 -72名分-

 
名僧 100人

 
■ 恵慈 えじ (?〜623?)  聖徳太子と強い絆で結ばれた仲

高麗の三論宗の学僧。
595年に来朝帰化して、聖徳太子の師となる。
596年、太子に従って伊予の道後へ行き、湯岡の碑文を残した。
恵聡とともに法興寺に住み、三宝の棟梁と呼ばれた。
聖徳太子の『三経義疏』の著述を助け、著が成と615年、本国へ持ち帰って流伝に努めた。
622年2月22日、49歳で太子が世を去ると悲嘆のあまり、翌年の太子の忌日に自分も死ぬと予告して、そのとおりに遷化したといわれる。

■ 善信尼 ぜんしんに (生没年不詳)  日本で最初の尼僧

六世紀末の人。
司馬達等の娘で日本最初の尼僧。
俗名嶋女(斯末売)。
高麗の還俗僧恵便について得度して、法名を善信尼と称した。
弟子の善蔵尼・恵善尼とともに蘇我馬子に属し、馬子の建立した寺の仏像供養に招かれたが、物部守屋らの排仏派のために、海石榴市で鞭打たれた。
のち百済に渡って、法を学び、帰国後は桜井寺(豊浦寺)に入って多くの尼僧たちを得度させた。

■ 鑑真 がんじん (688〜763)  元祖・日中友好のかけはし

唐代の高僧。
揚子江陽県出身。
揚州の大明寺で戒律を講じているとき、入唐僧の栄叡・普照の熱心な懇願を入れて来日を決意した。
五度もの渡航の失敗と挫折、失明するなど筆舌に尽くし難い苦難を克服して十二年目の753年、六度目の挑戦で一行ニ十四名とともにようやく日本の地を踏んだ。
この時六十六歳。
聖武天皇・孝謙天皇に授戒し、大僧都に任じられた。
759年唐招提寺を建立して763年没した。

■ 役小角 えんのおづね (生没年不詳)  天駆けるスーパーマン

『霊異記』などの伝承によれば、はじめ大和の葛城山で修行して呪術・仙術をマスターしたらしいが、大陸系の韓国連広足に讒訴されて699年、伊豆に流された。
その後も、空中を飛翔したり唐に現れたり時空を超越したはたらきを見せるなど、その生涯は謎に包まれている。
のちに修験道が発達してゆくにつれて、その祖として仰がれるようになり、役行者と呼ばれるようになった。

■ 道昭 どうしょう (629〜700)  法相宗と火葬

河内出身。
653年に入唐して玄奘に学び寵愛された。
帰国に際して大量の舎利経論と鐺子(鍋)を師から与えられたが、海上で暴風雨にあった時、鐺子を投じて危うく難を免れたという。
帰国後、元興寺に禅院を建てて住んだが、まもなく弟子を連れて諸国を巡り、井戸を掘り、橋を架けるなど社会事業に尽くした。
没後、遺体を火葬するように命じた。
日本における火葬の始まりとされる。

■ 玄肪 げんぼう (?〜746)  黒い噂にまみれて千余年

義淵の弟子。
716年に入唐して法相宗を学び、玄宗皇帝から紫衣を許された。
735年に帰国、聖武天皇の生母宮子皇太后の気鬱病を治し、皇太后、天皇の信頼を得て権勢を振るったが、藤原広嗣などが玄肪と吉備真備の排斥を要求して乱を起こした。
745年、大宰府観世音寺造営を口実に左遷、翌年同地で没した。
広嗣の怨霊に殺されたと噂された。

噂は『続日本紀』の漢文記事の誤読によるものと判明した。

*玄肪の肪は、日編です*

■ 行基 ぎょうき (668〜749)  古代日本のメシア

河内の人。
道昭の晩年弟子。
師の民間活動の影響を受け、諸国を巡っては道を造り橋を架け、灌漑用の池を掘り役民のための宿舎(布施屋)を建てた。
こうした社会福祉活動と一体化した布教活動は民衆から熱狂的な支持を受けた。
それを脅威とした律令国家から、いったんは弾圧されたが、結局、その巨大な力は大仏造営のために必要とされた。
745年大僧正に任じられたが、大仏完成前に没した。

『霊異記』には聖武天皇を助ける文殊菩薩の化身として描かれている。
行基の遺体は遺言によって平群郡生駒山で火葬にされ、骨は山上に埋められたとか。

■ 道鏡 どうきょう (?〜772)  愛されすぎた男

河内の弓削氏出身。
葛城山で修行して呪法に熟達、宮廷の内道場に看病禅師として出仕する。
761年、保良宮の孝謙上皇に宿曜秘法を施して病を治し、女帝の寵愛を一身に集めた。
763年に少僧都に任じられ、ついで大臣禅師、太政大臣禅師、法王とのぼりつめる。
女帝はさらに皇位を贈ろうと画策するが、和気清麻呂が持ち帰った宇佐八幡の神託で挫折、女帝死去の翌年下野薬師寺別当に左遷された。

■ 良弁 ろうべん (689〜773)  赤ん坊は金の翼に乗って

近江の百済、あるいは相模の漆部の一族。
義淵に師事して法相宗を学ぶ。
金鐘寺(伝承では金鷲寺)を建て、新羅僧の審祥を招いて華厳経の講義を開設、華厳宗を開いた。
743年頃から東大寺の建立に尽くし、少僧都、東大寺の初代別当、大僧都と出世する。
晩年には近江の石山寺造営を指揮した。
赤ん坊のときに金鷲にさらわれて、東大寺の大杉で義淵に救われた良弁杉の話は、『霊異記』などに見られる。

■ 勝道 しょうどう (735〜817)  霊場開拓に挑む不屈で頑強な意志

奈良時代から平安時代前期にかけての修験者。
嚴朝とも唱えた。
下野国芳賀で生まれ、道鏡が流された下野薬師寺で得度した。
日光山四本竜寺、のちの輪王寺を開創したあと男体山に登って修行、下山して湖畔に中禅寺を創建した。
記憶力を増すとされる秘儀、求聞持法を修めたことでも知られる。
807年の東国旱魃に際して行った請雨法の効験によって伝灯法師の位を授けられた。

■ 遍昭 へんじょう (816〜890)  貴公子の出家

平安前期の天台僧で、六歌仙の一人。
大納言良安岑世の八男で、桓武天皇には孫にあたる。
仁明天皇に仕えて蔵人頭となったが、天皇の死を契機に出家した。
円仁に天台教学を、円珍からは密教を学んだ。
山城花山に元慶寺を開創して座主となった。
このため花山僧正とも呼ばれた。
和歌の才があり、百人一首の歌人であるのは人の知るところ。
出自が高く、ために僧正に任ぜられた。

■ 最澄 さいちょう (767〜822)  生命をかけた闘い

日本天台宗の宗祖、比叡山延暦寺の開創としてつとに有名。
諡号は伝教大師。
近江坂本の生まれ、幼名を三津首広野といい、出自は渡来氏族と思われる。
東大寺で受戒のあと入唐、中国天台山で台密・禅などを学び、南都六宗に対して新しく天台法華宗を開いた。
戒壇院の比叡山建立を上奏し、その悲願は死後に実現した。
弟子にも恵まれ、義真や円仁を輩出。
著書『天台法華宗年分学生式(山家学生式)』は比叡山の聖典。
___

伝教大師最澄は礼をわきまえて沈着、激することのなかった人だった。
むしろ冷徹といってもよいかも知れない。
逆に空海は煮えたぎる性格を秘めていたのではなかろうか。
静と動、水と火のような対照的な気性の違いがあった。
最澄を思索家とするなら空海は実践家だった。

最澄は言っている。
「我、生まれてより以来、口に麁言なく、手に笞罰せず」と。
その最澄も、生涯に声を荒げるような事態が全くなかったわけではない。
817年(弘仁八)から始まった徳一との論争である。

徳一は奥州会津に住む法相宗の学僧で、恵美押勝(藤原仲麻呂)の九男と伝えるが、真偽は定かでない。
南都興福寺や東大寺で修行の後、奥州に移り住み、民衆教化に力があったという。
東国の化主とか菩薩とかと呼ばれて仰がれていた。
いわばカリスマ的な学僧だった。
死後も「全身壊せず」と伝えられている。

最澄が東国布教の旅をした時、その徳一が、「法華経」は人々を真実の教えに導くための方便に過ぎない権の教えであると批判しているのを知った。
これが発端となって、二人の論争は十年近くも続くことになる。
法相宗は南都六宗を代表する宗派であり、最澄にとってこれは南都旧仏教との生命をかけた闘いだった。

最澄はこの時五十一歳、論争は彼が死ぬ822年まで事実上続く。
世にこれを「三一権実論争」と呼んでいる。

「法華経」の唱える仏一乗(乗は乗り物を表す)では、仏も衆生もみな一様に仏性を具えて同じ乗り物に乗っているから、等しく悟りを得て成仏できるとする。
対する法相宗の説は、人が生まれながらに具えている素質を五種に区別し、それによって成仏できるかできないかが決まるとする。
これを五性格別という。
五性の中でも悟りが得られるのは菩薩、縁覚、声聞の各定性を具えた者で、これを三乗といい、成仏できるかできないか、もしくは絶対に救われない不定性、無性がその下に置かれていた。

最澄はこうした三乗こそ権の教えであり、衆生を差別するものであると激しく反駁したのである。
これは仏法の真実、教化の方便(手段)をめぐる苛烈な闘いだった。
最澄は徳一に反論して『守護国界章』はじめ『顕戒論』『法華秀句』などを書き著した。

これらの著作は日本の仏教史上に不滅の光芒を放つものであり、最澄が心血を注いだ労作だった。
それだけに徳一への攻撃も手厳しく、仏法では最も罪が重い謗法者とか、悪法者、外道、善知織魔などと口をきわめて罵っている。
徳一も負けずに、愚夫、顛狂人、凡人臆説と非難して泥仕合の様相を呈したが、ことが仏法の根本に関わる事柄だけに、どちらも感情的にならざるを得なかった。

最澄の南都仏教との対決はこの徳一との論争がはじめてではない。
彼が悲願としたのは南都仏教からの完全独立であった。
当時、官許の僧となるには東大寺戒壇院で受戒しなければならなかった。
これは僧として立つには南都をその根本道場に仰がなければならないわけである。
入唐求法から帰朝して新しく天台法華宗を開いた最澄にとって、これは、とうてい受け入れられるものではなかったのである。
しかも、私に得度する私度僧は厳しく禁じられていた。
私度僧である空海とは、この点で異なっていた。

比叡山の大乗菩薩の戒壇院を建立すること、これが最澄の生涯の悲願だったのである。
徳一との論争も、一にこの点にあった。
最澄はこのため東大寺で受けた具足戒を放棄までしている。
そして著したのが、『天台法華宗年分学生式(山家学生式)』だった。
これは今も天台宗の聖典になっている。

「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす。故に古人のいはく、『径寸十枚、是れ国宝に非ず。一隅を照す、此れ即ち国宝なり』と。 ・・・道心あるの仏子を西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己に向へ、好事を他に与へ、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」

(『山家学生式』から)
■ 円仁 えんにん (794〜864) 在唐九年の結晶、波瀾の旅行記

天台宗第三世座主。
山門派の祖となる。
諡号は慈覚大師。
下野の人で、幼くして父を失ったため得度。
十五歳で比叡山にのぼり最澄に師事する。
比叡山の横川に籠って修行ののち入唐留学。
中国五台山巡礼を果たす。
在唐九年に及び、その間の日記『入唐求法巡礼行記』は特に名高い。
帰国後、横川に根本観音堂を建立。
また宮中の受戒師をたびたび務め、天台教学の皇室への浸透をはかった。

■ 円珍 えんちん (814〜891)  入唐の陰にパトロン右大臣の野望

諡号は智証大師。
天台寺門派の祖師。
讃岐の生まれで、母が空海の姪にあたる。
第五世天台座主となり、圓城寺を再興して延暦寺の別院とした。
幼児から聡明で聞え、十歳で漢書を読破したという。
比叡山で十二年の籠山行を終えて入唐、多くの教典類を請来して圓城寺唐院に納めた。
傑出した学識と人格とで、ニ十四年もの間、天台座主として指導力を発し、台密の確立に尽くした。

■ 円載 えんさい (?〜877)  破壊僧の心の深淵

大和の人という。
幼いときから最澄について学び、円仁と入唐留学。
天台山に入り、天台教義に関する疑問の解答を得る。
それは余人に託して持ち帰らせ、自身は唐にとどまる。
在唐は四十年に及び、その間には皇帝宣週宗の帰依も受け、朝野の尊崇を集めたといわれる。
青龍寺で円珍とともに胎蔵・金剛界両密の灌頂を受け、数千巻の教典、儒書を携えて帰朝途中、暴風のため難船、溺死した。

■ 空海 くうかい (774〜835) 終生のライバルの親交と決別

773年の生年説もある。
謚号は弘法大師、灌頂号は遍照金剛。
真言宗の開祖。
讃岐国多度の生まれで、幼名は佐伯真魚。
十五歳で上京し儒学、道教、仏教を学び、一沙門から求聞持法を伝授されて仏道精進を決意する。
最澄とともに入唐、恵果から灌頂を授けられ、インド伝来の密教を持ち帰る。
高野山に金剛峯寺を創建、東寺を密教の根本道場とする。
能筆家。
文化史上に大きな足跡を残した。
____

空海は伝教大師最澄と並ぶ平安仏教の創始者であり、三筆の一人に数えられる名筆家だった。
この二人はさまざまな意味で終生のライバルであり、水と油のほどに性格も異なっていた。
最澄が秀才だとすれば、空海は天才だった。
二人の間には睦まじい親交の時期もあり、そしてまた必然といえる決別もおとずれた。
この両者はお互いに相手を意識しつつ、それぞれ自分の信じる確固たる道を歩んで、日本仏教の重鎮となった。

空海と最澄の間にはかなりの数の往復書簡があったと思われる。
その中で今日に伝わるものに、空海の最澄あて書簡がある。
世に知られる国宝『風信帖』である。
これは空海の書の中でもっとも確実な真筆というので、内容より書簡としての価値が喧伝されてきた。

『風信帖』の書き出しが「風信雲書」で始まるのでつけられたもので、都合三通からなっている。
書かれた年代がいまだにはっきりしないが、811年(弘仁二)前後とされる。
もと比叡山延暦寺にあったが、現在は東寺(教王護国寺)の所蔵になっている。
これは後に双方で書簡の交換をしたが、最澄の空海あて書簡は信長の比叡山焼き討ちで焼失したという説もある。

ところで『風信帖』の文面だが、すべて最澄にあてた返書である。
お招きに従って比叡山へお尋ねしたいが、多忙をきわめているのでどうか当方へお越しくださり、ともに仏法の根本に関わる事柄を相談し合って新しい教えをひろめましょう、そんな内容である。

有名なわりに、『風信帖』の文面はあまり紹介される機会がない。
なかなかの名文なので、ここにその一部を掲げてみる。
「風信雲書、天より翔臨す。之を披き之を閲するに、雲霧を掲げたらむが如し、兼ねて止観の妙門を恵まれる。頂戴供養しておく攸を知らず。巳だ冷なり。伏して惟れば法体如何に。空海、推常なり。命に随つて彼の嶺に躋攀せむとも擬るも、限るに少願を以てし、東西することを能はず。今、我が金蘭及び室山と与に一処に集会して仏法の大事因縁を商量し、共に法撞を建てて仏の恩徳に報ぜむことを思ふ。望むらくは煩労を憚らず、此の院に降赴せられむことを。此れ望むところ望むところ。そうそう不具。釈空海状して上る 」 注)漢字のない部分はひらかなで書いています。
九月十一日
東嶺金蘭 法前 護空

ほかの二通のうちの一通は、最澄の『仁王経』借覧に対して、他人に貸したのがまだ戻っていないので、そのうち自身で持参いたしますという文面である。
日付は九月五日になっている。
余談だがこの最澄あて書簡はもと五通あったのが、一通は何者かに盗み去られ、もう一通は関白豊富秀次が東寺から持ち去ったという。

最澄より遅れて入唐求法から帰った空海は、その請来した典籍類が最澄をはるかにしのいでいた。
ために最澄は空海からそれらの貴重な仏典をしばしば借覧したばかりでなく、弟子として密教法儀の灌頂まで受けている。
書簡は交友をあかす貴重な証拠でもある。
しかし親密な関係もやがて破綻を招くことになる。
その一つが弟子泰範をめぐる確執である。

泰範はもと南都元興寺の僧だったが、縁あって最澄の弟子になっていた。
最澄は812年(弘仁三)高雄山寺(神護寺)で空海から金剛界灌頂を受け、翌年には泰範らの弟子にも受けさせた。
ところが、泰範はそのまま空海のもとにとどまって、最澄の度々の帰山命令にも従わなかった。
さらに空海が代筆して、「玉石の区別がつかぬほど愚か者でない」という絶縁状まで最澄に送りつけていた。
人間的魅力の違いか。

もう一つが、最澄の度重なる仏典借覧の申し出だった。
空海にしてみれば、苦労して唐で集めたかけがえのない財物である。
虫がよすぎると思って当たり前だろう。
弘仁四年の『理趣釈経』借覧依頼を毅然と断って、希代の名僧は袂を分ってしまった。
これには顕教と密教の理念の相違が根底にはあった。

空海はいう。
「秘密仏乗は唯わが誓ふ所なり。非法の伝授せる、これを盗法と名づく」と。

■ 守敏 しゅびん (生没年不詳) ・ 修円 しゅえん (771〜835) 空海の引き立て役

修円
大和の人。
法相の学僧で、最澄から灌頂を受けた。
弘仁年間興福寺の別当となり、平安初期の仏教界に空海と並び立った。
826年、天台座主を継ぐことになったが、延暦寺衆徒の反対で実現せず、晩年は室生寺に入って、835年入滅。
六十五歳。

「弘法に守敏」は好敵手という意味に使われる表現だが、そこには正負の違いがあって、負は正を妨害しながらもさらに引き立ててしまうという役割が、はじめから設定されている。

『古事談』には神泉苑での守敏との法力争いが、『今昔物語』には修円と空海の煮豆についての話がある。 

守敏と修円が同一人物かどうかははっきりしない。

■ 真如 しんにょ (生没年不詳) 志なかば、旅に死す

平城天皇の第三皇子。
俗名は高丘親王。
母は伊勢老人の女継子。
嵯峨天皇の皇太子となったが、薬子の変で廃され、のち東大寺に入って出家。
道詮に三論を、空海に密教を学ぶ。
東大寺大仏の仏頭落下(855年)で修理塔大寺大仏司検校に任じられたが、ことを終えると861年渡唐求法の旅に出発。
さらに渡天を企てて海路インドへ向かったまま、消息を絶った。
一説では虎に襲われたたのだともいう。
推定享年は67歳ともいう。

■ 聖宝 しょうぼう (832 − 909) 大胆不敵に人助け

讃岐の人。
光仁天皇の子といわれる。
16歳で真雅を師として出家。
三論・法相・華厳の諸宗を修め、のち大和の霊山を歩いて修験道を中興した。
醍醐山上に醍醐寺を開き、真言小野流の開祖とされる。
のち東・西岡寺の別当となり、僧正に累進して、益信とともに東寺に二人の僧正がある初例を示した。
晩年深草の善明寺に退いて、七十八歳で示寂。
1707年理源大師の称号を贈られた。

■ 宇多法皇 うだほうおう (879 − 931) 念願の仏門入り

定省親王。
光孝天皇のの第七皇子。
884年臣籍にくだり源姓を名乗ったが。、887年親王に復し皇位に即く。
藤原基経と”阿衝の紛議”を起こしたが、基経の没後菅原道真を起用して親政の実をあげた。
在位十一年、897年に譲位。
899年落飾して真言の法統を継ぎ、後半生は主として仁和寺に住んで、931年65歳で崩じた。

■ 寛朝 かんじょう (916? − 998) ただ者ではなっかた高僧の武勇伝

宇多天皇の皇孫で、父は教実親王、母は藤原時平の女。
十一歳で宇多法皇の室に入って剃髪。
三十三歳で寛空から灌頂を受けた。
その後、東寺三長者・西寺別当・東大寺別当などを歴任し、真言宗最初の大僧正位を受けた。
晩年は広沢池畔に遍照寺を建立して住んだので、真言広沢流の祖とされる。
998年示寂。
83歳。(94歳ともいわれる)

■ 良源 りょうげん (912 − 985) 伝説に彩られた高僧

第十八世天台座主。
謚号は慈恵大師。
ほかに元三大師、角大師、降魔大師などともいう。
近江の人で十二歳で比叡山にのぼり、天台顕密二教を学んだ。
なかなかの理論家、雄弁家だったようで、南都の僧と宗論を闘わすことしばしば、つねに論破したという。
座主に就くと荒廃していた堂舎を復興、また教学振興に努め天台中興の祖となった。
大僧正に累進、山麓坂本の弘法寺で死去。
源信はその弟子。

==
誕生についても、宇多天皇の皇子説や貧しい漁師の子などあり。
大原三千院に行けば会えます。
おみくじを考案した人。
興味のある人は、比叡山の元三大師御廟に。

■ 源信 げんしん (942 − 1017) その身は菩薩の化身

大和国当麻出身の天台僧。
恵心僧都、横川僧都という。
九歳で比叡山にのぼり、十三歳で得度受戒、良源を師に顕密二教を学ぶ。
若くして横川恵心院に隠遁して研鑚を積む。
著書『往生要集』は厭離穢土に始まり欣求浄土の地獄・極楽の諸相を描き、極楽往生するには念仏が必要なことを説いた。
鎌倉時代の浄土教信仰、民衆仏教に与えた影響は多大。
自らの念仏結社「二十五三昧講」で極楽往生を願った。

若くして横川に隠遁し名利を捨てた源信の思想は、法然や親鸞に受け継がれていく。

■ 永観 えいかん (1032 − 1111) 日に六万回の念仏

文章博士源国経の子。
禅林寺で出家して南都東大寺で具足戒を受け、三論・華厳・法相の諸宗を修めたが、三十歳で光明山寺へ入って念仏修行に勤めた。
東大寺別当を務めたあとは、禅林寺に帰住して中興、もっぱら念仏をひろめた。
1111年示寂。
八十歳。
浄土宗八祖の一人に数えらている。

紅葉で有名な左京区の永観堂禅林寺には、高さ七十七センチの本尊阿弥陀如来は有名。

■ 空也 くうや (903 − 972) 念仏行脚に励んだ市の聖

こうやともいう。
生地、出身は不詳。
十六歳頃優姿塞となり諸国を巡り、橋を架け、井戸を掘り、屍を回向して歩いた。
二十歳の頃尾張国分寺にて得度し、空也と名乗る。
播磨の峯合寺や四国湯島などで修行。
938年入洛し、市井で念仏を唱え、貧者や病者の救済活動を行う。
948年比叡山座主延昌により受戒、光勝の名を受ける。
洛東に西光寺(六波羅蜜寺)を建立。
当寺で六十九歳で入滅。

空也像は教科書などで有名。
六波羅蜜寺周辺は、平清盛とその一族の館が建っていたところで、鎌倉時代には幕府が六波羅探題を置いていたところ。
空也の頃は全くの荒地で、庶民の葬送の地とされていた。
ここから少し北に「六道の辻」とよぶ四辻があり、あの世とこの世を分けた所です。

この一帯は、とても面白い所ですから、修学旅行生はできるだけ歩いてほしいものです。
「幽霊子育て飴」を売っている店や、地獄絵図有名な寺、小野篁縁の寺(珍皇寺)、等など。

■ 良忍 りょうにん (1073 − 1132) しめされた極楽浄土への道

融通念仏宗の祖。
はじめの名は良仁。
尾張出身。
聖応大師。
比叡山の常行三昧堂の僧として不断念仏を唱えてきた。
下山して洛北大原に来迎院をつくり、阿弥陀如来像を安置した。
念仏の苦行を九年間続け、弥陀の示現を得て自他融通念仏の境地を開いた。
念仏を僧から在俗者に開放したのが良忍の功績とされる。
また天台声明を大成し、大原を魚山流声明の中心道場とした。

三千院石段手前を呂川沿いに東へ行くと来迎院があります。
ほとんど訪れる人もなく静かな院です。
その奥には、音無の滝もあります。

■ 覚猷 かくゆう (1053 − 1140) 一芸に秀でて名を残す

第四十七世天台座主、第三十四世圓城寺長吏。
大納言源隆国の九男に生まれる。
鳥羽上皇の信を得てその護持僧を務めたが、一方天台座主としての任はわずか三日で辞している。
晩年を京都鳥羽に過ごし、ために鳥羽僧正と呼ばれた。
また二十数年圓城寺に籠もって、図像の収集と研鑚に没頭したという。
画才があったと伝え、高山寺蔵の国法「鳥獣人物戯画巻」の作者に擬せられている。

■ 覚鑁 かくばん (1095 − 1143) うなぎのぼりに地位を極めた末路

父は肥前国藤津荘の伊佐兼元。
十歳の時父を失い、十三歳で仁和寺の僧に伴われて上洛。
奈良に遊学して法相・三論を学び、東大寺で受戒した。
二十歳で高野山に入り、その後顕密二教をきわめた。
鳥羽上皇の帰依を得て、山上に大伝法院、山下の根来に円明寺を建て、1134年金剛峯寺の座主となったが、宗徒の排斥にあって下山。
この寺がのちに新義真言宗の本山となる根来寺である。
円明寺に入って示寂した。
四十九歳。

■ 頼豪 らいごう (1002 − 1084) 怨霊、大鼠と化す

圓城寺実相坊の僧。
藤原式家の流れをくむ伊賀守有守の子。
顕密二教を学んで、修法の験をもって知られた。
白河天皇のために皇子誕生の修法をして効験を示したが、恩賞に圓城寺戒壇建立を望んで許されなかった。
そのため断食して、1084年八十三歳で没した。
死後大鼠となって延暦寺を荒らしたという伝説がある。

末社は今も日吉大社にあり、「鼠の祠」もある。
『太平記』を読まれるとよい。

■ 弁慶 べんけい (? − 1189) 失敗を笑いのめすユーモア

鎌倉初期の僧だが、出自は明らかではない。
『義経記』には中関白道隆の後胤で熊野別当弁しょうの嫡子と記す。
また、湛増か弁暁の子とする本もある。
母は二位大納言の姫という。
長じて比叡山で学び、のちに四国各地の寺々を巡拝し、播磨国書書写山でも修行を積んだ。
源義経との出会いなど伝説化された話しが多く、実在を疑う人もあるが、『吾妻鏡』にも義経の側近としての名が残る。
義経に殉じ、衣川の戦で死去したという。

弁慶の失敗やユーモアがなければ、逃避行に明け暮れた義経の世界は、救いのない憂鬱なものとなっていたであろう。

■ 文覚 もんがく (1139? − 1205?) 信念に生きた荒法師

遠藤左近将藍茂遠の子で俗名盛遠。
上西門院の北面の武士で、武者所にも参仕した。
十八歳で出家。
各地で修行したあと京都に戻り、1168年、神護寺の再興に着手。
1173年、後白河法皇に荘園寄進を直訴した折、逮捕され、伊豆に配流される。
五年後許されて帰京。
神護寺、東寺復興に尽力したが、1199年佐渡へ、1205年対馬に流され、配流先で没した。

■ 慈円 じえん (1155 − 1225) 歌詠みが唯一の癖

関白藤原忠道の子。
関白兼実の弟。
十一歳の時、覚快法親王の室に入り道快と称す。
十三歳の時に出家し得度。
二十七歳頃に名を慈円と改める。
三十八歳で権僧正に任じ、天台座主となる。
六十歳で座主を辞するまで四度座主を務める。
四十九歳で大僧正に任ず。
六十六歳頃に『愚管抄』を記す。
七十一歳で東坂本小島坊で入寂。
無動寺に葬り、西山善峰寺に分骨。
歌集『拾玉集』五冊がある。

■ 西行 さいぎょう (1118 - 1190) 自然体で生きる

藤原秀郷の流れをくむ武家の家に生まれる。
父は左衛門尉藤原康清、母は源清経の女。
俗名は佐藤義清。
徳大寺家に仕え、十八歳で鳥羽院の北面の武士を勤めて左衛門尉に任じられた。
二十三歳の時出家。
僧名は円位、西行と号した。
七十三歳で南河内弘川寺で没す。
『山家集』などを残す。

藤原定家、寂蓮の歌とともに、有名な三夕の歌の一つに数えられる

 心なき身にもあはれは知られけり
    鴫立つ沢の秋の夕暮れ
の作者西行は、妻と幼い子供を置き去りにし、
 
 惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは
    身を捨ててこそ身をも助けめ
の歌を残して、武士を辞め突然出家してしまう。
『西行物語』はその時の別れの光景を、袖にとりついてくるかわいい盛りの四歳の娘を「煩悩の絆よ」と、縁から下へ蹴り落とし、泣き悲しむ声を聞き入れず出家してしまったと書いている。

家を出た西行は京都の洛西、桜の名所として名高い勝持寺に向かい、そこで出家剃髪をした。

僧としてよりも歌人としての名が有名になっていく。
現在残っている和歌の数約二千首、『新古今和歌集』には慈円や藤原定家などをおさえ九十四首も選ばれていることからもわかる。

歌人としての名が上るのを、心から苦々しく思ってる男がいた。
神護寺や東寺の再建に奔走する荒法師文覚だ。
神護寺の法華会に姿をみせた西行は、「はや日も暮れたので一晩泊めていただきたい」という。
文覚は丁寧な口調で部屋に招き入れると、丁重にもてなし、翌朝の食事まで饗した。
驚いた弟子達は「日頃の言葉にもあいませんが」と問うと、文覚は「いやはや物のわからない者どもだ。あれが文覚に打たれる者の顔つきか。この文覚を打とうという者といえるだろう」と語った。

その他、遊女とも歌を交わす幅を持っていた人物である。

■ 寂蓮 じゃくれん (1139 - 1202) 身のほどをわきまえて得た名誉

歌人僧。
醍醐寺の阿ジャ梨俊海の子。
叔父の藤原俊成の養子になり藤原定長の名で中務少輔を務めた。
後鳥羽上皇によって『新古今和歌集』の撰者の一人に指名されたが、完成前に没した。

養父の俊成と後妻との間に男子が生まれた。
俊成四十九歳のときである。
厄介者扱いされるだけと感じた寂蓮の頭をかすめたのは西行法師のこと。
世俗のすべてをなげうち、歌心にひかれるままに放浪する西行 − 自分もまたあのように生きられるだろうかと、あこがれる気持ちもあった。
とにもかくにも寂連は出家してしまった。
彼は完全に僧の世界に埋没したわけではない、いわゆる沙弥と呼ばれる身分だった。
これ以後に彼が詠む歌には作者として「沙弥寂蓮」と書かれるのが普通になった。
世間は寂連のことを半僧半俗の沙弥として処遇した。

「中途半端といわれようと、気にかけまい。わが能力そのままに生きるほかに道はないのだ」
半僧半俗の沙弥になってみると、思いのほかに行動の自由があるのに気づいた。

前にもまして権門勢家に出入りして歌の相手を務める日々が続いた。
「寂連は権力者に媚びるという者もあろう、言わせておけばいい」の姿勢をつらぬく。

寂連は後鳥羽上皇に接近をはかり、ついに正治二年(1200)の熊野行幸に随行するという栄誉をつかんだ。

熊野随行が功績となり、翌年、勅撰和歌集の編者の一人に選ばれる結果となった。
歌人として最高の名誉に輝いたのである。

■ 俊ジョウ(草冠にイ乃) しゅんじょう (1166 − 1227) 戒律復興にささげた一生

京都の泉涌寺の開山で勅諡号は月輪大師。
字は我禅、号は不可棄。
鎌倉初期における八宗兼学僧の代表的存在とされる。
大宰府の観世音寺で受戒し、庇護の筒岳に正法寺を開いた。
渡宋して戒律や禅・天台・浄土を学んだ。
帰国後に京都の仙遊寺を中興して泉涌寺と改め、天台・禅・真言・律の兼学道場とした。
後鳥羽上皇・北条政子・北条泰時らの帰依を受けた。

入宋の目的とは、日本の仏教界で衰えて久しい僧侶の戒律を復興することだった。

僧になったのは四歳の時である。
苦行を続けるうち、僧侶の世界が堕落の極みに落ち込んでいる現実を知ったのである。
「これで僧侶といえるのか。そもそも僧侶とは何であるか?」
口では難しい仏教用語を並べたてるものの、その生活ぶりときたら自堕落以外の何ものでもない僧侶の、何と多いことか。
「僧侶とは戒律を守ることに始まり、戒律を守ることで終わる、そのほかにはない」
そう悟ったのが二十七歳の時で、悟ったその時に絹の僧衣を脱ぎ麻に着替えた。
以来、絹の僧衣を身につけることはない。

奈良に行き、京都に行き、大乗小乗さまざまの戒律を探ってみたけれど、満足に教えてくれる僧には一人も出会わなかった。
故郷の肥後に戻り、筒岳に戒律復興のための正法寺を建立した。
しかし、自身がない。

宋の寺院にはきびしい戒律の伝統が残っているはずだ、是非とも宋に渡らねばと機会をさがして、ついに入宋した。

四明での修行も終わり帰国の準備をしている時に、宗印講師が華亭県の超果寺で健在だと知った。

宗印講師は当代きっての名僧だが、その人が天台山からさほど遠くない華亭におられるのも何かの縁であろう。
帰国は延期して宗印講師の教えを請う、そう決心して華亭に行った。

宋滞在は十三年の長期に及んだ。
帰国したのは建暦元年(1211)。

一度故郷に戻り、まもなく上京した。
京都における戒律復興運動の拠点をどこに置くか、適当な敷地を探していると、故郷の領主の宇都宮信房が洛東の南のあたりの仙遊寺を寄進してくれることになった。
空海が開いた法輪寺の跡だというが、詳しいことは分からない。

彼が定めた「清衆規式」は鎌倉時代後期の禅宗寺院で制定される寺中清規の先駆になったとされる。

泉涌寺は皇族の菩提所として篤い帰依を受け、「御寺 みてら」と呼ばれるようになった。
中でも四条天皇は、自分が俊ジョウの生まれ変わりだと信じて疑わなかったという話がある。

■ 明恵 みょうえ (1173 - 1232) あるべき様を大切に

華厳宗の中興の祖。
京都の高山寺の開祖。
諱は高弁。
母の生家の紀伊湯浅氏の援助により、東大寺で華厳を学んだ。
後鳥羽上皇から京都栂尾山を拝領して高山寺を創建して華厳興隆のための道場とした。
旧仏教復興の立場を鮮明にし、「摧邪輪」で専修念仏を攻撃した。
栄西が宋から伝来した茶の種を栂尾に植えたのが日本における茶栽培の創始となったといわれる。

「アルベキヨウワ − 人間は誰でももの七つの字を大切にもっていなくてはならない」
明恵はいつもこう語っていたと『栂尾明恵上人遺訓』に書いている。
「僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様を大切にする。帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様を。あるべき様に背くのはすべて悪いことだ」

どんな時にも「僧とは何か、どうすればいいのか?」と、それだけを考えつめて瞬間瞬間を生きていた。
それが明恵だった。
明恵には、自分が僧であるのは天命に従っていることだという思いが強かった。
二歳の時、乳母に抱かれて行った清水寺に参詣したときの話。
四歳の時、父親が戯れに烏帽子をかぶせて、言った「良い男じゃ。御所勤めに出そう」
法師になろうと思っているのに御所に出されては困ると考え、焼け火箸で顔を焼こうとした話。
生母が亡くなり、養母が見た夢を聞いた高雄の文覚上人が「唐の玄奘三蔵法師にも同じ話がある。稀有なことよ。この子を弟子にもらい受けたいものじゃ」と言った。
こうして明恵は僧になった。
養母が夢を見たのが七歳の時、文覚の弟子になったのが九歳の時である。

ところで、本当の僧、良い僧とは何であるかについて、明恵自身はこう語っている。
「尊い物事を追うのは止めよ、ただ仏の本意を知ろうとすればよろしいのだ」

■ 叡尊 えいぞん (1201 − 1290) 財物を拒んだ教え

律宗西大寺の中興の祖。
後伏見天皇から興正菩薩の号を贈られた。
大和箕田郡出身。
醍醐寺や高野山で学び、西大寺に移って律学の復興にあたった。
蒙古軍来襲に際して山城の男山八幡宮で祈祷し神風を吹かせたといわれる。
各所で貧民救済の運動を展開し、また殺生禁断をめさして六万人もの人に菩薩戒をさずけ、全国千三百か所に殺生禁断の地を設けたという。

「一切経は喉から手が出るほどに欲しいが、わたしの関東下向が条件じゃと言われては受け取るわけにはまいらぬ」
叡尊のきっぱりとした拒絶に、見阿という僧は狼狽の色をかくせない。

弘長元年(1261)十月、奈良の西大寺に鎌倉から北条実時の使者の見阿が訪れ、叡尊に面会を求めた。
北条実時の用向きとは、一蔵の一切経と武蔵金沢の称名寺とを寄進するから是非とも叡尊に関東に下向していただきたいと、というもの。
これより十年ほど前に叡尊の弟子にあたる忍性が関東に赴き、律宗を弘める活動を展開していた。
僧の戒律を守ることを格別に重要視するのが律宗である。
忍性の次に入宋僧の定瞬も関東にくだって北条氏に接近し、叡尊の律復興運動の姿勢について大いに宣伝したものらしい。

律はおとろえ、専修念仏が盛大をきわめていた。
念仏を唱える者はとかく横のつながりを強固にしようという傾向があり、それは支配階層の武士に危機感をいだかせた。
北条実時もそうした不安をいだいていて、叡尊の高い評価を耳にするやいなや、すかさず使者を派遣してきたわけだ。
一切経と一宇の寺との提供を条件として。
「律を厳格にして念仏の盛隆を押さえようというのじゃろうが、惜しいことには、律の本来を理解しておらんわ」
僧の戒律の第一は、仏の教えを説く対象を選ばないところにある。
財物提供を条件にして仏法を説くのは、戒律の第一からして破ることになってしまう。
使者は突っ返された二枚の寄進状をもってすごすごと鎌倉に戻っていった。
十一月になって北条実時から、「一切経の寄進は関東下向の如何にかかわらない」との書状が届き、そのとおりに一切経が到着した。
一切経のあとを追うように定瞬がやてきて、関東で律を説くことの重要性、前執権の北条時頼も叡尊の下向を熱心に望んでいることを伝えた。
「我が運を三宝にお任せしよう。よろしい、関東に下向して律を説きましょう」
叡尊は六十二歳になっていた。

叡尊の関東下向のことが広まると、大和の諸寺院の僧尼をはじめとして受戒をのぞむ者が西大寺に集まってきた。
年が明けた正月、寄進された一切経の開題の儀式が行われた時、僧尼二百人と在家信徒数千人が集まり、出家と在家あわせて八十人あまりが菩薩戒を受けた。

鎌倉に着いた叡尊は大歓迎を受けた。
北条実時がやって来て、称名寺を宿所に使ってほしいと申しでた。
称名寺では念仏が唱えられていたが、叡尊上人の宿所とするために念仏を停止させた、とも言った。
「称名寺には広大な領地が付属していると聞いております。そのような資緑のある寺に住むのはわたくしの本意に背きます。また、わたくしが住むからとの理由で念仏を停止させたのも合点がいきません」
叡尊はこういって称名寺を拒否した。

律が復活することで専修念仏がおとろえる、そうでなくてはならないからだ。

■ 忍性 にんしょう (1217-1303) 宿願をかけた出家

律宗の僧
叡尊の弟子
鎌倉極楽寺の開山
大和出身

忍性が僧になるに至ったエピソードは涙なしには読めない。

彼は伴貞行の子として大和の屏風里に生まれた。
十一歳の時から信貴山参詣に連れて行かれ、文殊菩薩の信仰をたたき込まれた。
以来忍性は文殊菩薩と離れることがない。

両親、とくに母親は一日も早い忍性の出家姿を見たいと熱望していたが、それが実現しないうちに病床に伏す日々になった。
「息子よ、せめて姿だけでも・・・・・」
忍性はその場で髪を剃り、法衣を着て僧形の身を母に見せて満足させたという。

母を失ったのが十六歳で、翌年に東大寺の戒壇院で受戒したが、出家したわけではない。

熱心な信仰生活が西大寺の叡尊の知るところとなって出家を勧められたが、「宿願を果たさないうちは」という理由で、その場で出家を断った。

忍性の宿願とは、母の十三回忌を迎えるまでに七幅の文殊菩薩像をつくって大和の七宿に安置し、文殊の宝号を唱える功徳によって母の解脱を因したい、というものであった。

身体障害や身分による差別ゆえに虐げられている人々を収容する寺院附属の宿舎が、大和には七つあった。
奈良時代の傑物僧の行基が各所につくったという布施屋の系譜をひくものであろう。

そして、社会福祉事業に献身した行基は文殊の化身だという説があって、弱者救済を願う僧侶は文殊を守護神とする者が多かった。
忍性もその一人だったのである。

「ご立派な宿願ではありますが、あなたが一日も早く出家されることの功徳もまた広大無辺でありますぞ」
叡尊の重ねての勧めにも。忍性は首を縦にふらなかった。

だが、翌年ふたたび叡尊に謁した時、忍性は言った。
「まず一幅の文殊像が完成しました。額安寺の西の宿に安置して供養をいたし、それを以て宿願を果たしたことにしたいと存じます。いかがでしょうか。」

叡尊は一も二もなく賛成した。

額安寺の西の宿では叡尊が導師となって文殊菩薩像の開眼供養が行われ、それから間もなく忍性は出家したのである。
亡き母の解脱を確信しての出家にちがいない。
忍性は二十四歳であった。

忍性の活動はもっぱら関東で展開される。
師の叡尊の手足となり、鎌倉に律宗の一大拠点をつくるのが課題であった。

だがその鎌倉には日蓮が活躍していて、既成宗派を激しく攻撃している。

日蓮は「念仏は無間地獄の業、禅は天魔の所為、真言は亡国の悪法」と糾弾し、忍性が関東に弘めようとしている律宗は「国賊の妄説」だというのだ。

1271年(文永八)の関東は旱魃におそわれ、忍性は多くの僧の先頭に立って降雨の祈祷をした。
だが、満願が近づいても一滴の雨も降らない。
「真言の奥義をきわめ、慈悲第一とうたわれる忍性上人が数百人の衆徒を率いての祈祷も効果がないとはな。早くこちらに来て、雨降らす法と仏になる道を学んだらどうじゃ!」

日蓮の暴言に怒りをおさえかねた忍性が幕府に訴え、それが原因となって日蓮の生涯のクライマックスたる竜ノ口の法難がもちあがったといわれる。

これは日蓮宗側の資料によることで、日蓮の非難に対する忍性の反撃がどういうものであったのか、いや、反撃したのかどうかさえ、実ははっきりしていないのである。

忍性の律回復の運動が、あの強気の日蓮さえ悩ませるものだったのは間違いない。

■ 皇円 こうえん (?-1169?) 弥勒に会う日まで大蛇に転生

平安末期の天台宗の僧。
三河国藤原重兼の子で、肥後阿闍梨ともいわれる。

比叡山東塔の功徳院に住む肥後の阿闍梨皇円は、当時、叡山随一の碩学として知られていた。
皇円を慕って諸国から多くの弟子が集まってきた。
若き日の法然もその一人である。
その皇円が長い間思いつめたことをいよいよ実行に移すことになった。
発願して大蛇に生まれ変わろうというのである。
「私はたまたま人間に生まれてはいるが、今は末法の世、弥勒菩薩出世の世に会うためには、何としても命を永く保たねばならない。命の最も長い蛇になって、ひたすら弥勒菩薩をお待ちしたいものである」

師の壮大な志を知って感激した弟子たちは、大願を果たすのにふさわしい池を求めて八方に走った。
法然も諸国を歩いて池を探すうちに、遠江国笠原荘に、三方を緑の山に囲まれた美しい池 - 桜ケ池を発見した。
小鳥のさえずりだけの閑寂な別天地であった。
「ここだ」と確信した法然は、急ぎ皇円に知らせた。

さっそく桜カケ池にやって来た阿闍梨皇円は準備万端整えた上、池のほとりで断食しながらひたすら祈った。
やがて大願成就、命終わる日がきた。
それを悟った皇円は、てのひらにひとすくいの池の水を入れた。

時は流れた。
今は浄土宗の開祖となった法然が、師に会いたくなって、はるばる桜ケ池までやってきた。
法然が一心に祈ると、池の中から皇円が現れ、法然の頼みを聞いて見事な大蛇の姿を見せた。
かつての師弟が半日あまり語らったあと、大蛇の皇円が打ち明けた。
「大蛇に転生できたのはありがたいが、蛇には蛇の苦しみがあってのう。実は四万八千の鱗に四万八千の小虫が棲みつき、昼夜に三度、私の肉を喰らうのじゃ。そのため私は日夜苦しんでいる」

それを聞いた法然が、手にした数珠で大蛇の頭から尾までを、ゆっくり三回撫でたところ、四万八千の鱗はぜんぶ剥げ落ち、小虫もことごとく死んでしまった。
池を立ち去るにあたって、法然はお櫃につめた赤飯を、桜ケ池に奉納した。
以来、法然は秋の彼岸の中日には、かかさずお櫃に入れた赤飯を桜ケ池に供えたという。

この「桜ケ池のお櫃納め」は今も受け継がれている。
毎年、静岡県小笠郡浜岡町佐倉の池宮神社の春の例祭に、村の若者たちがお櫃に入れた赤飯を桜ケ池の中ほどまで運んで水底に沈めると、数日後に空になったお櫃が浮き上がるという。
大蛇になった阿闍梨皇円が食べたというわけだ。

阿闍梨皇円は大蛇でなく滝と化したのだというような伝説もあるが、以上が静岡県の名勝佐倉ケ池にまつわる皇円伝説である。
地元では「遠州七不思議」の一つに数えている。
禁魚区なので、今は巨大な鯉が棲んでいるとか。

ともかく皇円は『扶桑略記』という立派な書を編纂した天台の碩学であるが、1169年(嘉応元)頃、神秘的な最期をとげたらしい。
もっとも、平安末期から鎌倉初期にかけて、僧侶のこうした自殺行為は珍しいものではなかった。
極楽往生を願って縊死・絶食・焼身・入水・埋身・切腹などで自殺する聖はあとを絶たなかった。
なかでも焼身と入水が、確実に極楽往生できるというので人気があった。

ところで地元の「桜ケ池伝説」には法然も登場、重要な役割を果たしているが、『法然上人絵伝』に伝えるところでは、実は、皇円の住生の次第を伝え聞いた法然は、「弥勒菩薩に会うべく、縁もない畜生に転生しようとすることは、浄土の法門を知らないからだ。池に住まれるとは、げにも痛ましきかぎりである」と、痛烈な批判をしている。
このことは師弟とはいいながら、苦行主義の皇円と、念仏専一を唱える法然の根本的な相違を表していて興味深い。

■ 法然 ほうねん (1133-1212) ただ、もっぱら念仏すべし

美作の武士の出身
浄土宗の開祖

極楽往生するためには、専修念仏 - 弥陀の本願を信じて、ただひたすら南無阿弥陀仏を唱えよという法然の教えは、すべての人間に救済の道を開くものだった。

こうした宗教改革ともいうべき法然の厳しい主張は、当然、旧仏教 - 延暦寺や興福寺側の反発と弾圧を招いた。
法然は「仏法の怨敵」と論難された上、四国への配流の身となった。
1207年(建永二)春三月、七十五歳のの時のことである。
この「建永の法難」では、末弟子の親鸞も越後に流された。

京都の鳥羽から船に乗った法然は、摂津の経ケ島を経て播磨の高砂にたち寄った。

高砂の浦に上った法然を「一目拝みたいものよ」と、近隣の老若男女がぞくぞくと集まってきては、熱心に説法に耳を傾けた。
彼らの多くが、既成の宗教では、生きても地獄、死んでも極楽とは無縁とされた下層の庶民だった。

高砂には法然ゆかりの地として十輪寺がある。

次に播磨の室津にたち寄った。
室津は遊女で名高い湊町。
法然の乗った船に、小船で漕ぎ寄せた遊女が問いかけた。
「わらわは苦界に身を沈め、春をひさいで生きます身、いかにして後生を助かるべきや」
法然は
「ほかに生きる道があれば、勇気を出してやめなさい。しかし、それがままならぬものなら、ひたすら念仏を唱えるがよい。阿弥陀仏は罪深い者こそ、救いたまうものなり」

もともと遊女は体を売る娼婦である。
娼婦が蔑まれるのは、昔も今も変りない。
親兄弟や子供を養うため、生きるためのよんどころない最後の手段であっても。

従来の仏教では、女は汚れたもの、女が成仏するためにはいったん男に生まれ変わらなければならないという「変成男子の法」が信じられていた。
まして遊女のような稼業の女は仏の救いの圏外にあった。

法然はそうした女性の宿命を深く憐れんだ。
「卑しい稼業をただちにやめてしまえ」とも「尼になって後世を願え」とも言わなかった。
「ただ、そのままにして、もぱら念仏すべし」という法然の美しい言葉は、室津の遊女たちに深い衝撃を与えたのだろう。
法然と名もない遊女の邂逅は、やがて「友君伝説」に凝縮されて室津の古刹浄運寺に語り伝えられてゆく。

こうした法然の教えは、若い親鸞にも大きな影響を与えた。
当時、親鸞は性欲、妻帯の問題で悩んでいた。
僧侶にとって女犯の罪は、この世の破戒僧となるだけでなく、来世では地獄に堕ちる行為とされていたからだ。

苦しんで苦しんだあげくに法然の門をたたいた親鸞は、「この世を生きるには、念仏が唱えやすいように生きればいいのです。聖のままでは唱えられないなら妻を娶って唱えなさい。妻がいては気が散って妨げになるなら、独身のままで唱えなさい」という法然の言葉に、大いなる救いの道を悟ったのだった。

■ 蓮生 れんせい・れんじょう (1141-1208) 坂東武者の面影残す念仏者

武蔵国の御家人で熊谷次郎直実。

蓮生とは、勇猛で知られた坂東武者、かの熊谷次郎直実の法名である。
一の谷の合戦で、我が子小次郎と同じ年の平敦盛を討ち取ったことが契機となって、殺傷を仕事とする武士の生き方に無常を感じ、それから十年後に出家を決意した。
この時、直実は五十三歳。

初め法然の弟子の澄憲のもとを訪ねた直実は、その場で自分の刀を研ぎ始めた。
驚いて理由を問いただす澄憲に、直実は次のように答えた。
「極楽往生に生まれ変るのに、もし、切腹する必要があるなら、すぐにでも腹を切るつもりである。だから刀を研いでいるのだ」

これはとても手に負えないと思った澄憲は、すぐに直実を師の法然のもとにおくり届けた。
「どうすれば極楽に行けるのでしょうか」という直実の必死の訴えを黙って聞き終わった法然は、こともなげに言った。
「ただ、念仏だにも申せば往生はするぞ」
この一言は直実の肺腑をえぐった。
坂東に並ぶ者なしとうたわれた剛の者が、さめざめと言うには、「多くの人を殺傷した罪深い私のことですから、手足を切り取るとか、一命を捨てることでしか、後世が助かる道はないだろうと覚悟していました。ところが御上人は、ただ、ひたすら念仏を申せば往生できると、やすやすと仰せられる。あまりの嬉しさに泣いてしまいました」

こうして坂東武者の熊谷直実は、法然の最も忠実な弟子の一人となり、蓮生と名乗った。
以来、蓮生は法然が行くところ、影の形に従うようにどこにでもついて行った。
法然が関白九条兼実の屋敷に呼ばれた時もお供をしたが、法然は奥座敷に通されたのに、蓮生は沓脱ぎのあたりに控えさせられた。

まもなく奥から法然の法話の声が切れ切れに聞こえてくる。
身を乗り出すが聞き取れないのに苛立った蓮生は、大声で聞こえよがしにどなった。
「極楽にはこんな差別はあるまいに。上人のお声が聞こえないぞ」
あまりの大声に閉口した関白兼実は、蓮生に端近まで上ることを許したところ、つかつかと上りこんできた蓮生は、関白には一言のお礼も挨拶もなしに、熱心に法然の法話に聞き入った。
時の権力者の関白すら眼中になく、ただただ法然を敬慕する蓮生だった。

また、1186年(文治二)秋、法然の法名を一挙に高めた「大原問答」の席にお供したのも蓮生だった。
「大原問答」は、京都大原の勝林院で、他宗の錚々たる学僧を相手に行われた公開の討論会である。
三百人の聴衆が連座する中、法然と他宗の碩学の問いに厳しい議論が交わされた。
当時の雰囲気は、法然の無上の師と仰ぐ蓮生にも楽観を許さぬものがあった。
万が一にも師が論戦に敗れた時には法敵を討ち果たそうと、蓮生は鉈を隠し持っていた。

だが、法然の水際だった弁論は、他宗の碩学たちを魅了した。
一昼夜ぶっ通しの議論が終わったあと、三日三晩、大衆も参加した不断念仏を唱える声が、静かな大原の里にこだました。

このなごやかな光景をみた蓮生は、もう鉈はいるまいと思い藪の中に投げ込んだ。
三千院の門前に並ぶ茶店の傍らに「熊谷直実鉈捨ての藪」と刻まれた碑が建っている。

月日が流れ、蓮生は鎌倉へ戻ることになった。
ところが、なんと京都から鎌倉まで、蓮生は後ろ向きに馬に乗り通したという。
なぜなら阿弥陀仏のいる西方浄土に、背を向けることができなかったのである。
その折に詠んだ歌
 浄土にも剛のものとや沙汰すらん
  西にむかひてうしろみせねば

こうしたいくつかの逸話から、蓮生は確かにひたむきな専修念仏者にちがいないけれど、どこか出家する前のいかにも坂東武士らしい剛直、素朴な面影がうかがえておもしろい。

1207年(承元元)八月、蓮生は自分は翌年の二月八日に往生するだろうと予言した。
当日、大勢の見物人が集まったところ「今日はやめた。きたる九月四日には必ず」と言い、言葉どおり四日夜半、紫雲たなびく中、大往生した。

■ 重源 じゅうげん (1121-1206) 東大寺再建の裏にうずまく欲望

東大寺の大仏や伽藍を再建した僧。
紀氏出身で俗名は刑部左衛門重定。
醍醐寺で真言宗を学び、俊乗坊重源と名乗る。
宋に三度も渡ったといわれるが、確証はない。

「聖武天皇がご建立なされた東大寺です、いいかげんな者に再建事業を任せるわけにはまいりませぬからな」
九条兼実を相手に長広告をふるっているのは勧進職として東大寺の再建事業を担当している重源上人である。
「よろしいですか、彼の国の寺院建築というものはですな・・・・・」
「九条様にも、ぜひ一度は彼の国にお渡りいただきたいものです。百聞は一見にしかず。まさに諺にいうとおりです」
重源がしきりに口にする「彼の国」とは宋のことで、重源は遠い宋の国に三度も渡ったというのである。

僧ならば誰でも一度は中国に渡って見聞と学識を広め、「入宋僧」という名誉にかがやきたいと念願している。
その一度の入宋さえ容易なことではないのに重源は三度も行ったというのだから大変なものだ。

重源は今、東大寺再建事業の進捗状況を九条兼実に報告に来ているところだ。

聖武天皇が全力をかたむけて建立した東大寺は平重衡によって焼き討ちされてしまった。
1180年(治承四)のことである。

平家を圧倒して政権を掌握しつつあった源頼朝は、宗教政策の第一歩として東大寺を再建することにした。
再建事業の総責任者、すなわち東大寺勧進職に任命されたのが重源だ。

新しい支配者の源氏と朝廷、いわば国家の全力を投入する大規模なプロジェクトである。
その勧進職ともなれば僧としての名誉はこれに過ぎるものはない。

カネと名誉がからまり、激烈な競争が展開されたにちがいない。
結果としては、あんまり有名ではない重源が任命された。
重源の背後には頼朝の信頼あつい醍醐寺の勝賢僧正がいたとされるが、それにしてもこの人選は仏教界を驚かせたであろう。

重源の経歴ははっきりしていないが、高野聖の一人であったのは確からしいから、経歴のはっきりしないのも当然である。
一所不在が高野聖の義務であるからだ。

ただし重源の場合には「宋に三度も渡った」という評判があって、ほかの高野聖との存在感の相違を示していた。

彼は一生を高野聖で終わることに満足していなかったようだ。
いつかは、と思っているうちに東大寺の焼亡という大事件に遭遇した。

重源は東大寺の焼け跡を見物したあと、「この再建事業は自分が任命される」との霊感に打たれ、それとなく用意をしているところに勅使がやって来たと人に語ったことがある。
霊感に打たれたのも事実だろうが、あらゆるコネクションを駆使して勧進職を手に入れようとしたこともまた事実であったはずだ。
もちろん彼には、「世は変る」という強い確信があったにちがいない。
その確信は、ほかならぬ東大寺の焼亡の跡を自分の目で見た時に得たにちがいない。

平重衡の東大寺焼き討ちはただ乱暴にみえるだけが取り柄で、決して積極作戦ではなく、源氏に圧倒されて苦しい戦況における消極作戦だった。

「平家は敗れる、世は変るぞ!」
西へ西へと減亡の道をたどっているその時、重源は東大寺勧進職の重職へと近づいていった。

今、重源の長広告に閉口しつつ感心している九条兼実もまた、平家の時代には栄進の道を閉ざされていた人である。
政権獲得の可能性が海とも山ともわからぬうちから源氏に肩入れしていたためだ。
「ご安心くだされ、東大寺は聖武天皇御建立の時の姿のまま、いや、それ以上にみごとなものになります。何しろ、三度も彼の国に渡って寺院建築の何たるかをじっくり見てきたこの重源が勧進職を務めているのですから」

どうやら、重源の三度の入宋は事実ではないようだが、東大寺はみごとに再建された。
これは事実である。

■ 親鸞 しんらん (1173-1262) 普通の人間として・・・・・

浄土真宗の祖
諡号は見真大師
日野有範の子といわれる

親鸞は京都六角堂に籠り、ひたすら祈っていた。
「仏よ、われに道を示したまえ」
親鸞は二十九歳である。

幼い頃に比叡山にのぼり、九歳の時に受戒して僧となった。
それから二十年がすぎているが、親鸞の迷いは増すばかりであった。
「仏とは何か」
「いかにすれば浄土往生が可能なのか?」
疑問に答えてくれるものは、ついに比叡山では発見できなかった。

山をおり、今はこうして六角堂に籠って明けても暮れてもただひたすらに祈っている。
「道を示したまえ」
その頃、六角堂や清水寺での参籠祈念の風習は盛大になっていたが、どちらかといえば庶民のものであって、親鸞のように二十年間も比叡山で専門の仏教修行をつんだ者にはふさわしいとはいえない。

しかし親鸞は、そのように悠長にかまえてはいられない。
生死を分けるほどの煩悶を解決するために、百日の参籠祈念をしていた。

満願まであと五日という夜、親鸞は霊感を得た。
聖徳太子の化身が現れ、「行者宿報設女犯、云々」の偈を告げたのである。

この偈は「我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽」と続くもので、およそ次のような意味だという。
「仏道修行の者が前世の宿因によって妻帯する時、我(仏)が玉女となって妻となり、一生その者の身を守り、臨終に際しては極楽に導くであろう」
つまりこの偈のテーマは女性である。
性欲である。

仏道に入った者は女性に接してはならないという、きびしい掟があった。
違反すれば僧の身分を奪われてしまう。
現実には女性と接する僧はたくさんあり、それが仏教の腐敗衰退につながる。

親鸞はそういう表裏の行動がとれない。
純粋なのである。
純粋だからこそ悩みになやみ、百日の願をかけて参籠し、いまこの偈を得たのである。

自分が性欲を断ち切れないのは前世の宿因なのだ。
しかし仏は、そういう自分にさえ「玉女と化身として妻となり、守ってあげよう」とおしゃったのだ。

自分は性欲を否定できない。
ならばこそ性欲を肯定する。
普通の人間として生きる中で浄土への道をさぐればいいのだ - そう思った時、親鸞の頭には、「ひたすら念仏を唱えよ」という専修念仏の教えを説いている法然房源空上人のことが浮かんでいた。
「吉水の源空上人、私の師はあの方のほかにはありえない!」

長年の煩悶が解決した以上はふたたび比叡山に戻るのが常道だろうが、親鸞はもう比叡山に戻ろうとはしなかった。

比叡山での修行は、庶民の上に立って仰々しく法を説く高僧の地位を約束してくれる。
しかし、普通の人間として浄土への道を進もうと決意した親鸞には、そんな地位には何の魅力も感じられないのだ。

吉水は今の知恩院の地である。
その吉水の法然のところへまたまた百日の間、通い続けて、ついに親鸞は悟りをひらいた。

ところで親鸞の言葉として有名なものに、『歎異抄』に出てくる「弟子一人も持たず候」がある。

これは親鸞が教団の組織化には賛意をもたなかったこと、従って門人を門人としてあつかわず、「同朋」「同行」という言葉にしめされるように同等にあつかった姿勢を強調する時に使われることが多いようだ。

強烈な印象なしには読めない言葉だが、この言葉を次のように連結して詠みたい衝動に駆られる。
「親鸞は妻も子も持ち候。されど弟子一人も持たず候」

■ 恵信尼 えしんに (1182-1268?) 信じるということ

浄土真宗の祖親鸞の妻。
越後の豪族三善氏の出身といわれ、親鸞の越後流罪前に京都で結ばれたとみられる。
二人が観音の夢告を信じて結婚したという話は有名。
信蓮房をはじめ小黒女房・覚信尼などを産んだ。
娘の覚信尼にあてた「恵信尼消息」十通がある。

親鸞が亡くなった時、恵信尼は故郷の越後にいて死に目にあうことはできなかった。
ますます年老いていくので、京都に残る末娘の覚信尼を訪れることさえ不可能になっている。

「父上がはじめて悟りをおひらきになった時の様子をご存知でしょうか。御存知なら、どうか教えてください」

覚信尼から依頼の手紙がきた時、恵信尼は感動にふるえた。
亡き夫の悟りの瞬間のことを知っているのは自分だけなのだ。
夫は、その大事なことを自分にしか話さなかった。
そこに込められているのは自分に対する夫の信頼なのだ。
信頼の結果を娘に伝えてやるとは、何と喜ばしいことか。
「法然にだまされる結果になってもかまわない、そう決心して親鸞聖人は法然様に信仰をお預けになったのです」

■ 覚信尼 かくしんに (1224-1283) 自らの役目を果たす

浄土真宗の大谷廟堂(のちの本願寺)の創立者。
日野広嗣との間に覚恵と光玉を、広嗣と死別後、小野宮禅念との間に唯善を産んだ。
禅念所有の敷地に親鸞の墓を改装し、禅念の没後にこの敷地を寄進して門弟共有の廟堂とした。
これが本願寺に発展するが、親鸞自身は教団組織化には反対意見をもっていたから、真宗の実質的創始者は覚信尼だといえる。

「お父上からの形見のお手紙です」
封をした手紙を渡され、悲しいながらも懐かしく読んだあと、覚信尼は今さらのように我が身の生活力のないことを痛感した。
父親鸞の手紙の日付は弘長二年(1262)十一月十二日となっていて、亡くなる十七日前に書かれたと知れる。
封の中にはまず、自分宛の短い手紙が入っていた。
「これを常陸の方々に見せなさい。今までと変わることなく、お前の世話をしてくれるはずです」
東国の信徒のうち、常陸の信徒はとくに覚信尼を親切にあつかってくれる。
兄弟姉妹のすべてが母の恵信尼に同行して越後に戻ったのに、末っ子の覚信尼ただ一人が京都に残っていた。
それに同情してくれたわけだろう。
実際のところ、もし常陸の信徒の援助がなければ、二人の子を抱えて若くもない自分はどうして暮らしていけるのか、見当もつかないのである。
「覚信尼様には亡きご聖人の墓守をしていただきましょう」
常陸の信徒を中心に、下総や下野の信徒は覚信尼と子を援助すると約束してくれた。
彼女は父親鸞の墓をしっかりと守ることで信徒の援助にこたえる。

暮らしのめどがたった今、改めて父のことを考える余裕がでてきた。
手がかりは越後の母からきた書状である。
母の恵信尼は八十二歳になっていたが、覚信尼が親鸞の死を知らせるとすぐに書状を送ってきてくれた。
文章も筆跡も少しも老いを感じさせないのに、ひとまず安心したものだ。
妻として四十年もの間をともにすごした恵信尼のほかには知らぬ数々のことが、娘の覚信尼の前に明らかになってきた。
「父上のお墓はもちろんだが、この母上のお手紙も大切に守らなくてはいけない」
父親鸞の娘というだけでなくて、父のたくさんの弟子のために果たさなければならない役目がある。
覚信尼には少しずつ自分の立場というものの重要性、あるいは難しさといったものが理解されてきた。

しばらくして彼女は小野宮禅念と再婚した。
親鸞の墓は鳥辺山の北の麓の大谷にあった。
石塔のまわりに柵をめぐらせただけの、ありふれた墓である。
大谷のすこし西にある吉水に小野宮禅念の屋敷があって、覚信尼は二人の連れ子とともにここに移り住んで禅念と暮らした。
のちに唯善と呼ばれる、彼女にとっては三人目の子を産んだのもここだ。

亡き親鸞に対する門弟たちの敬慕の念はいやましに高まってくる。
それとともに、親鸞の墓を粗末だと思う雰囲気が強くなり、墓に近い禅念の宅地に熱い視線が寄せられるようになったのである。
父の墓が改装されて立派になるのはうれしいが、改装の場所として注目されているのは夫の所有地なのだ。
「禅念様に申しわけない」
それと察したのか、病床に伏した禅念は「我が所有地は覚信尼に譲る」という遺言状をしたためてくれた。
血のつながる唯善をさしおいての贈与である。
しかも禅念は「唯善が成長のあかつきに唯善に譲るか否かを判断すればよい」とまで書きつけてくれた。

覚信尼は夫から譲られた土地を門弟一同に提供し、そこに親鸞の墓が改装されて大谷廟堂となった。

これが本願寺のはじまりである。

■ 覚如 かくにょ (1270-1351) 下手に出て地位獲得

浄土真宗本願寺三世。
親鸞の曾孫にあたる。
なは宗昭で別号は毫摂。
比叡山や三井寺に学び、親鸞の子善鸞から真宗の教義を授けられた。
父覚恵の大谷廟堂留守居職を奪った唯善と争って勝利し、大谷廟堂を本願寺と称した。
真宗の法門は法然・親鸞・如信を経て自分に伝えられているという、いわゆる「三代伝持の血脈」を主張し、教団の統一化に成功した。

浄土真宗は本願寺によって指導される組織的な教団でなければならない。
覚如はこれを唯一最大の課題として自分に負わせた。
開祖の親鸞は1262年(弘長二)に没し、その八年後には曾孫の覚如は生まれた。
そして覚如が三歳の時に京都の大谷に親鸞の廟堂がつくられた。
廟堂の敷地は親鸞の娘、覚如には祖母にあたる覚信尼の所有であったが、廟堂そのものの維持運営は門弟たちの共有のものとされていた。
つまり親鸞の遺族は門弟一族の援助によって生活し、遺族の代表者が「廟堂沙汰人」の立場で管理するという暗黙の約束になっていたようだ。
といって、廟堂や敷地が沙汰人の意のままに処分できないのもまた暗黙の約束になっていたらしい。
つまり沙汰人の立場は門弟たちの総意に拘束されることになっていた。

最初の沙汰人になったのが覚如の父の覚恵である。
覚恵は大谷に住んで廟堂を守っていたが、異父弟の唯善が廟堂の権利を主張したことから血みどろの内紛が起こる。
激しい争いのうちに覚恵は亡くなり、覚如は叔父唯善との対決というマイナスの遺産を受け継ぎ、二年あまりの年月を費やして勝つのである。
勝つには勝ったものの。覚如の立場は安泰ではない。
唯善との争いでは門弟の支持を得て勝利をおさめたが、それが覚如の立場を弱める結果になっている。

覚如は門弟にあてて長文の書状を書いた。
書き出しの一節をとって「懇望状」と呼ばれるこの書状はきわめて低い姿勢につらぬかれているが、その裏には親鸞の遺族の地位を高めたいという意思がふくまれていた。
親鸞の遺族だからといって門弟に対する優越性があるわけではない − 覚如はその原則を自ら明言した。

それと関係して重要なのは、覚如が御影堂の留守職になる権利については何も言わないことだ。
自分が留守職になるのは当然の権利だと覚如は思っていたにちがいない。
権利について何か言うと、かえって門弟の間に疑問が生まれて不利になると考えていたのだろう。
言わないことによって自分の権利を自動的に承認させてしまう。

ともかく覚如の御影堂留守職は実現した。
父の覚恵の代までは「沙汰人」という役職名であったものを、覚如は「留守職」という新しい名前に変えて自分の力と才覚で獲得したわけだ。

これから覚如は教団組織化を目指して地方遊説の旅にのぼる。

■ 一遍 いっぺん (1239-1289) 捨てることがモットー

時宗の祖。
比叡山をはじめ各所で仏教を学び、熊野参詣で他力念仏が唯一真正の浄土への道であるとの確信を得て智真から一遍に改名した。
各地を修行して念仏を説き、二百五十万人もの人に結縁したといわれる。
踊りつつ念仏を唱えるように教えたので「念仏踊り」の名がついた。
二祖の他阿真教の代から各所に道場がつくられて組織化した。

空也上人は「市の聖」と呼ばれ、その空也上人を尊敬し、あこがれた一遍は「捨て聖」と呼ばれた。
「捨てる」ということをモットーにして、激しく「捨てる」生涯をおくtったからだ。

ひたすら「南無阿弥陀」と唱えるだけで浄土往生できるという専修念仏の考え方は、一遍が生まれたころにはかなり広まっていた。
そのうちに、どのように念仏を唱えるのが正しいのかという疑問が生まれてきた。
ある人が空也上人に尋ねた - どのように念仏を唱えるのが正しいのでしょうか?
「捨ててこそ」
空也上人はそう答えただけで、あとは何も言わなかった。

一遍は空也の「捨ててこそ」のエピソードを聞いて、「これだ!」と自らの魂に刻みつけたのである。
捨てる、何もかも捨てに捨てる。
言葉は容易だが、実際となればこれほど困難なものはない。
それでも一遍はただ「捨ててこそ」のモットーを貫き、門人に教えて倦むことがなかった。
門人に語った言葉のうちに、次の一説がある。
「念仏の行者は知恵も愚痴も捨て、善悪の境界も捨て、貴賎高下の道理も捨て、地獄を恐れる心も捨て、極楽を願う心も捨て、また諸宗の悟りも捨て、一切の事を捨てて唱える念仏こそが阿弥陀の本願にかなうのです」

一遍は伊予の豪族河野氏の一族であった。
四国ばかりか九州にもその名を知られる河野氏であれば、富にも栄誉にも欠くことはない。
美しい妾が二人いたが、彼女たちも喧嘩などはしない、まことに楽しい生活に明け暮れていた。
ところがある日のこと、二人の妾が枕を並べて昼寝をしていると両方の髪が小さな蛇になり、互いに激しく食いあいを始めた。
一遍はとっさに刀を抜いて切り分けたが、この事件をきっかけにして、「執心・愛念・嫉妬」の恐ろしさを悟り、それを振り払うために仏教の修行の旅に出る。

捨てても捨てても人間の煩悩は追いかけてくる。
法燈国師円明に参禅した時、一遍は次の歌を詠んだ。

 問うなれば 仏も我もなかりけり
   南無阿弥陀仏の声ばかりして

しかし国師は満足しない
そこで一遍は次のように修正した。
 
 問うなれば 仏も我もなかりけり
   南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ

国師はこれでひとまず満足した。
前の歌では阿弥陀の声を聞いている「我」というものが残っている。
その「我」を捨てきらなければ駄目なのである。

熊野参詣の途中、一人の僧に出会った一遍は「南無阿弥陀仏」と記した札を渡して念仏を勧めた。
僧は「まだ信心が起こらないから」との理由で札を受け取らなかったが、それを一遍は無理に勧めて札を受け取らせた。
この時にはまだ、「自分の勧めによって念仏を唱えさせる」という奢りが捨てられていなかったのである。
その奢りは熊野参詣によって捨てられた。
ひたすら祈願する一遍の前に長い頭巾をかぶった白髭の山伏が現れた。
これぞ熊野権現と思った一遍が伏し拝むと、山伏が告げた。
「すべての衆生の往生は阿弥陀が悟りをひらかれた時に決定しているのです。信と不信、浄と不浄の区別を捨てて、すべての人に念仏の札を配りなさい」
こうして一遍は悟りをひらき、「捨て聖」に生まれ変わったのである。

■ 日蓮 にちれん (1222-1282) 受難連続の生涯

日蓮宗の祖。
立正大師。
安房国長狭郡東条の生まれ。
十六歳で出家。
法華経が唯一真正な経典であるとの確信を得て蓮長から日蓮に改名した。
『立正安国論』で国土人民ともに法華経に帰さなければ亡国に及ぶと予言。
蒙古来襲で予言は実証されるが佐渡に流罪された。
流謫三年で甲斐の身延山に隠棲し、著述と門下の養成に集中。
武蔵池上で六人の弟子を定めて没した。

法華経を唯一真正の経典として認めない社会の厚い壁にぶつかったのも受難だが、落命寸前の受難もあった。
だが、そのたびに命を拾い、法華経弘通の激しい行動を展開して六十一歳まで生きた。

日蓮が「日本第一の法華経の行者」と自覚したのは1264年(文永元)十一月、下総の小松原で領主の東条景信に襲撃されたあとのことだった。
前の年にあしかけ三年間の流罪から釈放された日蓮は故郷に老婆を訪ね、その帰途を襲われた。
弟子の鏡忍房は戦死し、乗観房と長英房は負傷した。
急を聞いて駆けつけてくれた工藤吉隆と二人の下僕も死んだ。
しかし日蓮は頭と左手に傷を受けただけで、命は助かったのである。
それから一ヵ月後、南条兵衛七郎にあてて事件の報告をしているのだが、この書簡に「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」という宣言が出てくる。
日蓮自身、まず「どういうわけであったか、殺されずに今日まで生きている」と書いて、不思議に思ったことを告白してはいる。
ふつうの人ならば「これも神のお加護」というくらいのところだが、日蓮はちがう。
「法華経こそ、の信心がいよいよ高まってきたのです」
これが日蓮の解釈だ。

しかし、ただ危険に出会うだけでは法華経の証拠にはならない。
法華経とは何の関係もない危険が世の中にはあふれている。
そこで、法華経の行者であるか否かは何を基準に判断したらよいのかという問題が起こってくる。
日蓮は、自己を客観視するという姿勢を判断の基準にした。

1271年(文永八)九月十二日、日蓮は鎌倉郊外の竜ノ口の刑場に引き出され、頸を切られることになった。
ところが、処刑寸前に突発事件が起こって処刑は中止され、かわりに佐渡へ流罪された。

「日蓮という者は九月十二日に頸を切られた。佐渡へ渡るのは日蓮の魂魄である」
自分は殺されてしまったのだという認識が自己を客観視する姿勢を可能にしたのである。

■ 日朗 にちろう (1243-1320) 忍耐のすえにとどいた吉報

日蓮宗の僧。
筑後房と号した。
下総国猿島郡、印東有国の子。
早くから日蓮の側近に侍し、滝ノ口の法難の時に右肘を折られた。
佐渡に流された日蓮を八度も訪れて慰め、「至孝第一」と称される。
妙本寺と本門寺をあわせて司ったことがあり、下総平賀に本土寺を創建した。
日像・日輪・日善・日伝・日範・日印・日澄・日行・朗慶の九弟子は朗門九鳳と呼ばれる。

「来年には必ず会える」
師の言葉を信じてひたすら耐えるだけの日々が続いている。
鎌倉の土牢に押し込められているのは日朗ほか四人の日蓮の弟子である。
師の日蓮は遠く北海の佐渡に流されていて、この冬の厳寒にはさぞお悩みのはず、それを思えば鎌倉の冬などは物の数にもたりない。
日朗の肘がずきずき痛む。
かつて伊豆の伊東に流される師に随行したいと希望して容れられず、なおも強要したために幕吏の怒りをかって右肘を折られた跡だ。

佐渡に行かれる直前、師の日蓮は日朗ほか四人に懇切な手紙を書きおくってくれた。
これが生き別れとなるかも知れぬと案じられての手紙であった。
短い手紙ではあったが、その短い中に師の聖人はご自分のことにほんのわずかだけ触れられ、残りは五人の弟子の身の上のことを案じる温かさにあふれていた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
互いに励ましあって苦境に耐える様子が、五人を土牢にあずかる責任者の宿屋入道最信に伝えられる。
「彼らの師の日蓮の申すことは、正しいのではあるまいか。そうでなければ五人の者がこれほど晴々とした日々をおくれるはずがない」
自分では気づかぬうちに宿屋入道は法華経の信者になっていたのである。
1272年(文永九)二月、幕府執権北条時宗の兄の時輔が、「謀反のことあり」として誅殺される事件が起こった。
いわゆる二月騒動の発端である。

日蓮の予告どおりに二月騒動が起こったことに不気味な思いがして、幕府は日朗など五人の入牢を解いたのである。
すぐさま日朗は佐渡に走った。
佐渡に走った日朗は日朗に面会して鎌倉の情勢について報告し、こまごまと指導を受けた。

日蓮の釈放が決定されたのは1274年(文永十一)二月のことだが、赦免状をとどける幕吏とともに日朗はまたまた佐渡に飛んでいった。

■ 日像 にちぞう (1269-1342) 敵陣への突入

日蓮宗の僧。
日朗門下九鳳の一人。
四条門流の祖。
下総国葛飾郡平賀の出身。
日朗の門に入り、日蓮から伝法の許可を得て上京、京都布教の先鞭をつけた。
延暦寺の讒訴のため三度も院宣によって追放されるが、1321年に法華経弘通の勅許を得て今小路に妙顕寺を建立した。
のち四条櫛笥に移って繁栄するので四条門流という。
日像の法は大覚妙実に付された。

日像は京都に初めて日蓮宗を伝えた人である。

いよいよ京都へ出発するにあたtって日像が自信にあふれていたかというと、そうではなかったようだ。
古い仏教に凝り固まっている都に、法華経こそ唯一真正な経典なりという新しい立場をもち込むのが容易な業であるはずがない。

十月の末から日像は鎌倉に近い由比ケ浜に出て、海水に身をひたしたまま自我偈を百遍ずつ唱えて心身をきたえていた。
百日の満願の日のこと、日像が海に向かって大きく「南無妙法蓮華経」と字を書くと、文字がはっきりと海面に浮かび上がり。波につれてうねうねと漂った。
それ以来、日像はこの文字を「波ゆりの題目」と呼んで、曼荼羅はすべて「波ゆりの題目」の字で書くようになった。

京都に住んでいる人は法華経を唯一真正の経典とみない「傍法者」である。
京都に入るのは敵陣への突入と同じことだ。
日像は無事に入京できるだろうか?
日像は男山の岩清水八幡宮に着き、社前で一夜を明かした。
この男山は京都の南の出入りを扼する重要な地点だから、日像はまず岩清水八幡に無事入京を祈ったわけだ。
日像が祈念の一夜を過ごしている時、八幡社の神官の夢の中に八幡大神が現れ、神意を伝えた。
「大事なお客がお着きになられた。早くお迎えせよ」
不思議な思いにかられつつ神官が社前に行ってみると、日像が座っている。
「あなたはどなたでしょうか。どんな法をおもちになっておっれるのですか?」
「関東の日像ともうす僧。至妙の法を都に弘めるためにやってまいった」
自信あふれる態度に、この僧こそ八幡大神の夢告で知らされた客に相違ないと神官は思った。
「師の妙法は八幡大神が尊ぶところです。王城で弘通なされれば大いなる利益があがりましょう」
神官はそう言って日像を案内して京都におくった。
1294年(永仁二)四月のことで、日像は二十五歳であった。
寺々の前、辻々で日像は説教を始めた。
比叡山延暦寺をはじめとする旧宗派は、日像の説教が民衆の興味を刺激したとみると、こぞって攻撃をかけてきた。
妨害者は、朝廷という権威を楯にして日像を攻撃してくる。
そんなことは承知の上だから、日像は屈しない。
なおも説教を続けていると、妨害運動が功を奏して日像を京都から追放せよとの院宣が出た。
1307年(徳治二)のことで、これを最初にして実に三度にわたって日像は京都追放の処分を受けるのである。

最初の追放の時、日像は、追放されたのを好機に西国方面へ布教しようとして西国街道をくだり始めた。
京都郊外、鶏冠井の向日明神の前を通り過ぎる時、白い二羽の鳩がおりてきて日像の衣の裾に食いつき、放そうとしない。
「何かあるにちがいない」
鳥居の下にたたずんでいると、白髪の老人が現れた。
「師と語りたいと思います。しばらくこの地にお留まりくだされ」
これがきっかけになり、京都から追放された時には郊外に留まって布教の拠点をつくるという日像の布教スタイルが生まれていった。
 
 

◆ 以上、五十名。 五十一名から百名までは、次ページより(作成中)◆

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名僧 100人
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