名僧 100人

 
>> 更新 2005.10.23   5名の僧 蓮如 〜 雪舟等楊

■ 栄西 えいさい又はようさい (1141-1215) 布教のための涙ぐましい心遣い

臨済宗の祖。
天台密教葉上流を開く。
備中の吉備津神社の神官賀陽氏の出身という。
十一歳のとき吉備の安養寺の静心に師事。
十三歳で比叡山にのぼり、翌年落髪、具足戒を受けた。
二十八歳と四十七歳のときに入宋。
虚菴懐敝より禅宗嗣法の印可を授けられる。
1200年鎌倉寿福寺の住持となる。
二年後建仁寺を建立。
著書に『興禅護国論』『喫茶養生記』がある。
宋から茶種をもたらし、喫茶を始めたため茶祖と呼ばれる。

栄西は二度にわたる入宋で禅宗と茶 - 中世の文化を特徴づけるこの二つをわが国に持ち帰った。
茶種はのちに明恵上人高弁に与えられた。
明恵は京都の北、栂尾に茶園をつくりそこから茶の栽培が各地に広がった。

明恵は栄西の直弟子ではないが、茶種だけでなく栄西から大切な法衣をいただいたという話が『明恵上人伝記』に残されている。
この伝記の中に、「朝廷に参内する途中の栄西に出会ったとき、栄西は美しく盛装し、きらびやかな車に乗っていた。質素な墨染の衣に身を包み、修行に明け暮れする禅僧の姿からほど遠いものだった」と、読み方によっては、栄西の生き方に否定的な書き方をしている。
それだけではなく、栄西は法勝寺の九重塔を再建したことで法師・権僧正という高い位にのぼり、その上に自ら望んで大師号の宣下を受けたというのである。

生存中に大師号を受けることなど前例がなく、しかも後鳥羽上皇の叔父にあたる仁和寺の道法法親王に贈り物までして、宣下の力添えまでしてもらったという噂が流れ、藤原定家も憤慨し、そのことを日記に書き残しているほどだ。

だが修行時代を建仁寺で過ごし、のちに曹洞宗の祖となった道元は、『正法眼蔵随聞記』のなかで栄西の優しい人間性について記している。

まだ禅宗があまり認められず、そのために建仁寺の修行僧たちは明日の食料にも事欠くことが珍しくなく、絶食して日を過ごすこともたびたびあった。
そんなときに、信者の一人が栄西に絹一疋を献じたことがある。
栄西は喜び、人に持たせることもしないで懐に収め寺に帰ると、「これで寺の食事をまかなうように」と係りの僧に伝えた。
ところがそこへ、「食物を恵んでください」と貧しい人が寺にやって来た。
それを聞いた栄西は、もらってきたばかりの絹を与えてしまう。
「どうして与えてしまわれたのですか」
僧たちが問うと栄西は、
「あなたたちは、仏道を志して集まってきた人たちだ。絶食して餓死したとしても苦しいと思ってはならない。世俗の人たちが生活に事欠き、苦しんでいるのを助けることこそが、皆の優れた利益となるのだから」と論した。

仏の道に入った人間は人を救うためならば餓死してもいい、と言った栄西が、なぜ異常なまでに名誉を欲し、自己顕示欲をしめさねばならなかったのだろうか。

栄西の生きた時代は、平清盛の全盛期から源氏・北条氏と権力がめまぐるしく移り、そのたびにおびただしい敗者を生み出していった。
政治が安定しないから庶民の生活も苦しいまま放置される。
栄西は敗者、弱者を救うことこそが禅であると考えた。
禅を弘めることこそ衆生を救う道であり、自ら使命と定めていた。

当然、比叡山を筆頭とする旧仏教界からの非難、攻撃に対抗しなければならなかった。
比叡山側は栄西には禅を興すのに必要な資格や地位がたりないと批判する。
二度にわたる入宋という大変な修行を積み、理論的にも比叡山に勝っていると自負している栄西には我慢できない批判だった。
特に、社会的な地位などは宗教者に関係ない、とつっぱねたものの、禅を弘めるという使命が栄西にはある。
その一つの方法として権力者に近づき、支持者を増やす道を選んだのであろう。
そのためには地位も品格も備わった非難の余地のない僧にならねばと決意し、また服装や容姿、行いのすべてにわたって軽蔑や嘲笑を受けてはならないと考えたのだ。

乞食坊主といわれないよう服装一つにも気をつけ、涙ぐましい努力をしている。
身長が低かった栄西は、出仕に支障があるというので、修行をして四寸背を伸ばしたという話までのこっている。

鎌倉の地で死がせまったとき、「遁世聖を世間がいやしんでいるので、その風潮を改めるため、京で入滅する」と言って、栄西はわざわざ京に戻ったほどだ。

■ 円爾 えんに (1202-1280) 禅僧たちの鑑となった廉潔の人

駿河国藁科の生まれ。
十八歳で近江園城寺に入って得度、南都東大寺で受戒した。
上野長楽寺の釈円栄朝に参禅したのち1235年入宋、六年後に帰国して前関白九条道家の庇護で京都に東福寺を開く。
また大地震で被災した鎌倉建長寺を復興し、東大寺大勧進職も歴任する。
後嵯峨上皇はじめ皇室や有力武士の帰依を受け、聖一国師を贈られる。
臨済宗のなかの聖一派の墓となった。

虎関師錬が著した『元享釈書』全三十巻のうち、巻七はすべて円爾弁円に捧げられている。
これは同書の中でも異例の扱いといってよい。
また卍元師蛮の著書『本朝高僧伝』も円爾に割く紙数が多い。
渡来禅僧はともかく、円爾は栄西、道元らとともに大方の禅僧の崇敬を得た日本人臨済僧の一人であった。

円爾の履歴には視野の広さが感じとれる。
幼時より資性聡明をうたわれた円爾は、近江園城寺で得度したあと南都東大寺で受戒、若くして天台の顕蜜二教をはじめ儒学をも修めた。
のち禅門に入って入宋、明州に至って無準師範に参禅している。
師範門下ということでは蘭渓道隆・無学祖元の渡来僧と同門である。

円爾はこの師範を終生の師と崇めていたようで、帰朝後も書簡を交わしている。
また師範もこの異国の入宋僧に格別の思いをかけ、付法相承の文を自費の頂相とともに円爾に与えた。

京都東福寺に残る付法状は、「道に南北なく、これを弘める人あり。果たしてよく道を弘め・・・・・」の書き出しで、円爾に対する師範の期待がうかがえる内容である。
そうした師範の嘱望に応えた一つが東福寺の開創だろう。

東福寺は前関白九条道家がおよそ十年がかりで造営したもので、総国分寺東大寺と藤原氏の氏寺興福寺という南都二大寺の寺名をとりこんで1255年(建長七)に落慶をみた。
その開山に請われたのが円爾弁円であった。

『元享釈書』によると、円爾を道家に引き合わせたのは湛恵という大宰府観世音寺の僧である。
湛恵は機会があって道家に説法したことがあったが、その堂に入った所作や、智力に勝る弁法が道家に鮮やかな印象を与えた。
感嘆の極みの道家は湛恵に師僧の名を問うた。
答えて湛恵は「宋に渡って帰朝された円爾弁円という方で、わたしごとき者が到底及ばぬ偉大な方である」と述べたという。
こうした機縁で道家は円爾に参禅するようになった。

円爾の廉潔な人柄は道家を魅了した。
ために道家は円爾に僧正位を贈ろうと申し出たが、円爾は固辞して受けつけなかった。
それではというので、今度は日本国惣講師に任じようとしたが、これも円爾は辞退した。
しかたなく道家は「聖一和尚」の四字を贈ってようやく受け入れられたという。
聖一とは聖のなかの第一という意味だろう。
円爾の諡号を聖一国師というのはこれによる。
国師は天皇が帰依した高僧に贈られる「おくりな」だが、禅師より上位に置かれ、円爾を国師号の最初とするという。

円爾の名声は朝廷をはじめ武家社会、庶民にいたるまで高かったといわれる。
天皇では後嵯峨、亀山の二帝が円爾に就いて受戒、また北条時頼も受戒している。
鎌倉に赴いた円爾は寿福寺に住し、建長寺の蘭渓道隆の下で副寺を務めた。
年齢では円爾十一歳の年長だが道隆を深く敬して、きわめて円満な交友だった。

円爾が京都へ去るとき、道隆は感謝をこめた文に七言絶句を添えて贈っている。
そのなかで「兄また三千里を遠しとせずに来たり、相従ふこと七八歳のみ、予の心兄の心あに相照らさずか。この一両年庫司に入りて煩はし、始めより終わりに至る一亳もトウ曲(疑惑や不正)なく、所謂清中の清・・・・・」とその人格を称揚している。

僧正位の辞退といい、このように円爾は人格清廉、また世俗の名刹にとらわれない純で無垢な人だったと思われる。
あとに続く禅僧たちが円爾を鑑としたのも故なしとしない。

しかしその人格だけがいかに優れていても、それほどまでに禅僧たちをひきつけ、慕われることはなかったであろう。
やはり僧としての学殖が備わっていなくてはならない。

そこで考えられるのは、円爾が開山となった東福寺である。
円爾は履歴にみるように、禅を修めるまえに天台教学と密教を学んでいた。
この学殖の豊かさは禅に滋味を加えた。
このため東福寺をそのはじめ、天台・真言・禅の三宗兼学の道場として円爾は法脈を継ぐとともに、開基九条道家の遺志を生かしてもいた。
円爾の徳を慕い、転宗する寺院もまた少なからずあったという。

■ 蘭渓道隆 らんけいどうりゅう (1213-1278) 二人の記念碑的事業

南宋西蜀フウ江生まれの渡来僧。
無準師範らに参禅して1246年来朝、京都泉涌寺来迎院の住持となる。
鎌倉にくだり、1253年執権北条時頼の帰依を受けて建長寺を開く。
京都へ戻って建仁寺に入り後嵯峨上皇に臨済禅を説くが、讒言によって甲斐に流される。
最晩年の1278年再び建長寺に入り、円覚寺建立の寺地選定をした。

蘭渓道隆が少年期の北条時宗に与えた法語がある。
「左馬禅門に示す」というのがそれで、書き出しはおおよそ次のようなものである。
「道もとより遠きにあらずとも、往くに窮する人あり。ただ人これひとたび往く事前に能はざるを憂ふのみ。倦まず、時来たり縁熱せは、道に不通の理あるなく、心に不明の時あるなし。道すでに通達して、心また明白。」

ことが成就する是非は、信じて怠らない不断の信念に加え、また時機と機縁を明察する気構えが肝要であることを説いたのであろう。

臨済宗を日本に伝えたのはいうまでもなく栄西であり、その法脈は新興の武家政権と相携えて勢力を得、鎌倉・京都の禅林五山を支配した。
と同時に臨済禅の興隆に大きな力を発揮したのが中国・宋からの渡来僧たちであった。
その渡来禅僧の嚆矢がこの蘭渓道隆だった。

道隆は1246年(寛元四)、商船に便乗して大宰府に着している。
日本への渡航は来年の素志であったといい、着地日本に正しい禅風を確立すべく意気軒昂と来日した道隆は、三十四歳という人生の充実期にあった。
時宗の父である北条時頼が、ちょうど二十歳で鎌倉幕府執権職に就いた年である。

若年にして執権となった時頼は幼時から崇仏心が篤く、長じて格別の関心をもつにいたる。
執権がそういうことであれば、傘下の鎌倉武士団が禅に無関心でおられるはずがない。
禅は鎌倉幕府のいわばステイタスシンボルのような存在となった。
栄西や道元がさきがけとなって禅風を興したあとへ、道隆はまことにタイミングのよい時機に来日したわけである。

九州から京都にのぼった道隆は時頼の招きで鎌倉にくだり、時頼の帰依を受けて臨済禅の布教確立に努める。
厳しい規則と座禅を重視した道隆の禅は、若く感受性の強い時頼の人間形成にも大いなる影響を与えたにちがいない。

臨済禅師はその言行録である『臨済録』で、「およそ仏法者たるものは正しい見地をつかむことが肝要」と述べている。
政務にもこれは当てはまる。
この正しい見地を得るため、時頼は法体をなして諸国を行脚したという。
謡曲『鉢の本』は多分に伝説的であるとはいえ、そうした時頼像を物語るエピソードであろう。

名執権とうたわれた時頼はわずか三十六歳で没したので、道隆と時頼の関係は、きわめて親密であっても十数年にしかならない。
その二人の記念碑的事業が1253年(建長五)十一月、鎌倉に創建された巨福山建長興国禅寺である。
これが日本における禅寺名の最初とされ、開基時頼は道隆を開山第一世に迎えた。

『吾妻鏡』はこのときのもようを「建長寺の供養なり、丈六の地蔵菩薩を以って中尊となし、また同像千体を安置す。相州(時頼)殊に精誠を凝らさし給ふ。導師は宋朝の僧道隆禅師。また一日の内に五部の大乗経を写し供養せらる。この作善の旨趣は上は皇帝の萬歳、将軍家及び重臣の千秋、天下の太平を祈る」と書きとめている。

禅宗は本来が不立文字を旨としているだけに法輪集のような文献はきわめて少なく、名僧・高僧の場合は、公案や語録といった体裁で思想が伝え残される。
道隆の場合も『大覚禅師語録』三巻がある。

このなかで道隆は時頼のことを、「本寺(建長寺)大檀那(時頼)仁を行ひて己に尽くし、忠心国を輔け、本来身は菩薩の地に登り、人間の世に貴官の身としては表はれ、大権を持ちて大柄を掌り、済世の念海の深きに以って、養民の心山の固めの如く・・・・・」と口をきわめて褒めそやし、また「在家の菩薩」とも呼んで、余念のない傾倒ぶりである。
禅寺として記念すべき建長寺の開山に迎えられたのがよほど嬉しく、また名誉に感じたのであろう。
時頼も「大師の恩徳を思い、和尚指示の一句を胸中に、心々念々これに提撕さる」と述べている。

最初に掲げた時頼の遺子時宗へ与えた法語にも、道隆の時頼への謝恩の気持ちがこもり、時宗の精神的後見の自覚のもとに、執権となるべき帝王学を時宗に授けたとみられなくもない。

■ 無学祖元 むがくそげん (1226-1286) 元の来寇・壊滅を予言

南宋の明州慶元府生まれの渡来僧。
無準師範に学んだのち、執権北条時宗の招きで1279年蘭渓道隆の死の翌年に来朝、鎌倉建長寺に入った。
三年後に円覚寺を開創して建長・円覚両寺を管轄する。
祖元の禅は老婆禅と呼ばれ臨済宗の発展に大きく貢献した。
鎌倉武士の尊敬を集め、とくに北条時宗の帰依が篤かった。
仏光国師と呼ばれ、彼の法系、仏光派は鎌倉禅宗界で栄えた。

蘭渓道隆に次いで渡来した宋僧が無学祖元である。
祖元の来日は執権北条時宗の招致による。
そのわけは道隆が没し建長寺住持が空席となったためで、時宗は1278年(弘安元)暮れに自身したためた書信を道隆の弟子に与え宋に赴かせている。
時は南宋の最末期で、元王朝の大陸制覇と朝鮮半島支配が確立する時期であった。

この大陸での政情の激変はたちまち日本に津波のように押し寄せ、あげて幕府を震撼させる緊張の数年が打ち続いていた。
いわゆる蒙古襲来に端を発した大騒擾の時代である。
祖元の来日は翌1279年だが、この年に南宋は滅亡しているから、彼はなかば亡命者のような体で来日した、という見方もできよう。

その南宋時代に祖元の豪胆ぶりを伝える話がのこっている。
祖元が山西省雁山の能仁寺に元軍の難を避けていたときのこと、元兵が攻めて来て人々が逃げ去ったあとに祖元一人が泰然自若、堂の裏に端座していた。
捕われ、いままさに元兵が彼の首をはねようとすると、祖元は突如、偈を唱え始めた。
臨刀偈といわれるものだ。
 乾坤、孤キョウを卓つるに地なし
 喜び得たり、人空にして法もまた空なるを
 珍重す、大三元尺の剣
 電光影裏、春風を斬る
キョウとは竹の杖のこと。
この偈を開いた元兵はいたく感服し、礼をして立ち去ったといわれる。
祖元の大悟の心境が死地に臨んで表明されたのが臨刀偈である。
妙に落ち着いた禅僧の吐く気迫の偈に、元兵は意味を解し得たとしても、なんだか薄気味悪くも感じたであろう。

博多に着いた祖元は二ヵ月後の八月に鎌倉建長寺に入り、北条時宗の弟子の礼をもって迎えられた。
父の時頼が蘭渓道隆に師事したのと同様、父子ともに熱烈な禅の新奉者だった。

ところで祖元は時宗に招かれる以前にも、日本への渡航を希望したことがあった。
武将の身で栄華を捨て、法服を着て禅門に参じた執権北条時頼の話を聞いたからだそうだ。
時宗の招聘に応じて来日したのはまさに宿命といえた。

元の災禍を避けて日本にきた祖元だったが、その祖元を追いかけるように元は日本を襲った。
1274年(文永十一)の文永の役に次ぐ弘安の役がそれだ。
祖元来日の二年後、1281年五月にそれは起きた。

そのひと月前、時宗が祖元を訪ねると、彼は「英煩悩」(煩い悩むなかれ)の三文字を書いて時宗に与えた。
不審に感じた時宗がその意味を問いただすと、戦のために博多は騒がしくなる。
しかし不日にして静まるから心を悩まさないように、と祖元は論したという。
果たして祖元の言ったとおり元の来寇があった。
だが、元・高麗の軍は閏七月、大風雨にあって散退し、祖元の予言はみごと的中したのだった。

祖元がなぜ元来寇の霊感を得たのか。
これには「鎖口訣」という有名な逸話が伝えられている。
それは彼がまら雁山にいて修行していたとき、観音が現れ出て日月の妙字をしめした。
不思議に感じた祖元は籤で占ってみたが、やはりまた日月の二字を得た。
この瑞験に祖元は香を焼いて、言語に絶した仏の妙理を感じて鎖口の訣を書きとめ床に就いた。
その夜、夢枕に人が立って、百万の賊が攻めてくるが天が必ず助けてくれるであろうと祖元に語った。
夢中の祖元はなぜそう言えるのかと問うたが、他日、自身の眼で確かめよと言って消えたという。
目覚めた祖元は前夜つくった鎖口の訣に、「箭擲空鳴、風行塵起」(矢空しくなげうって鳴り、風行きて塵起こる)の八文字を書き加えた。

さて日本に来た祖元は弘安の役の前年、時宗の訪問を受けて法語を請われた。
そのとき祖元はこの鎖口の訣をしたためて、すでに時宗にしめしていた。
元寇去ったあとは時宗は、どうして元の来寇や、大風雨が国難を救うのを知っていたのか、と祖元に問うた。
祖元は笑って、昨年お教えしたではないか、と答えたということだ。

時宗が祖元のために円覚寺を創建したのは、弘安の役の翌年のことである。

■ 一山一寧 いっさんいちねい (1247-1317) 幽閉の憂き目を救った人徳

南宋の台州臨海県に生まれた臨済宗の渡来僧。
1299年、元の成宗国書を携え博多に来着。
十月鎌倉で国書を呈上した。
しかし幕府の嫌疑を受けて伊豆修善寺に軟禁される。
執権北条貞時は彼の知徳に接し、建長寺に招く。
以後、円覚寺、浄智寺、南禅寺に転住した。
博学で朱子学にも造詣深く、また書に巧であった。
門下から多くの五山文学者が輩出した。
一山国師を贈られた。

一山一寧が北条時頼と、
その孫貞時に贈った偈がある。
一寧が来日したとき、時頼はすでに鬼籍に入っていたから、もとより面識はない。
道徳を偲んで追贈の偈である。
一方の貞時は一軍が接した、時の鎌倉幕府執権だった。
貞時への偈は、彼が没したときに贈られたものだ。

   最明寺(時頼)
 英明の盛徳を以って皇猷(天子の道)を大いに助け、菩提の大心を以って仏法を興隆す。
 世間出世の間、一一とも超越し、霊機密運して、たえて窮りたるなし。千古の恩光は塵刹を照らす

   最勝園寺(貞時)
 英明の天に生まれし東国の主、四十年間民の父母たり。威恵兼行すること六十州、功成りて仏陀に従いて還向して去る。

この二つの偈を比べると、格調においてもまた内容においても、時頼への偈がはるかにまさっている。
貞時へのものは、お追従の域を出るものではなかった。

ところで南宋の末期、国難を避けて多くの禅僧が日本をめざした。
その一人に西カン子曇がいた。
宋の台州の人で1271年(文永八)に来日、七十八年(弘安元)まで滞在した。
このときには円爾弁円、蘭渓道隆に篤く遇されている。

再度やって来たのは二十一年後の1299年(正安元)で、同郷の一山一寧をともなってきた。
子曇は執権北条貞時に師礼をもって迎えられ、円覚寺・建長寺に歴住して没している。

さてその一寧だが、彼の来日は多少こみいっていた。
元は世祖(フビライ)のときに二度にわたって日本侵攻に失敗していたが、あとに立った成宗はまだ先帝の遺志を継ぐかまえであった。
そこで、日本を帰順服属させるには戦闘もさることながら、彼地では禅僧をたいへん尊んでいると聞いて、有徳の僧の派遣で事の成就をはかろうとしたのである。
『本朝高僧伝』や『一山国師語録』の行記は、有道の僧の派遣で勧誘し、日本を「附庸」国とすると表現している。
要は元の属国とする意図であった。

衆議の結果、選ばれたのが一寧だった。
ために成宗は一寧に妙慈弘済大師の号を贈り、金蘭の衣を授け、たまたま明州に来ていた日本商船に乗せて送り出した。
それが一寧の自発的な意思によったかどうか不明だが、とにかく彼は元皇帝の国使として来日した。

元使来朝の報はすぐ鎌倉に届いた。
この前後、元寇再来の噂がしきりにあったようで、幕府は緊張していた。
執権北条貞時は元使一寧の真意を疑い、伊豆の修善寺に幽閉した。
幽閉ですんだのは一寧にとっては幸運だった。
なぜなら、幕府はこれまでことごとく元使は斬ってきたからである。
彼が僧の身分だったのが幸いしたし、多くの渡来禅僧の実績が彼を救ったともいえる。

修善寺での一寧は『本朝高僧伝』によると、「寧、昼夜禅を誦じ、悠然として道を楽しむ」とある。
さらに続けて、ある人が貞時に、「寧公は彼国の望士たり、有道の士は万物に心なし。かつ、それ沙門は福田なり。元国に在らば元の福なり、我が邦に在らば我の福なり」と説いたので、貞時は一寧の幽閉を解き、鎌倉近くの寓居に移した。
このとき貞時を諫言したのは、ひょっとしたら貞時・一寧ともによく知る子曇だったかも知れない。

一寧は時の人だった。
また人物がよほどすぐれていたのだろう。
いまだ彼が寓居で不自由な暮らしをしていると聞いた緇素(僧と俗人)は、ここに至って一寧の謦咳に接しようと押しかけ、随喜して仰ぎ見て拝礼した。
人の列は山内の寓居から門外にまであふれ、まさに門前市をなすばかりだったという。
貞時もようやく一寧への疑念を解き、徳を認めて帰依し、大火で荒廃したままの建長寺を復興して住持に据えた。

一寧は筆もよくし、自賛も多く残した。
その一つ、「眼は耽々として鼓槌に似て、頭は兀々として木杓の如し。既にこれ禅無く、道なし。何用にて海を逾え漢を超えたるか。良き哉、真正人の為なり」

人生の波乱を超えた人の達観の一つがこれだったかも知れない。

■ 虎関師錬 こかんしれん (1278-1346) 「外国かぶれ」の叱責が著述の発端

京都生まれの臨済僧。
十歳で比叡山にのぼり受戒、三聖寺の東山湛照。
南禅寺の規庵祖円に学び、1293年鎌倉にくだって円覚寺に入る。
帰京して儒学を菅原在輔に学び、また仁和寺などで密教も修め、一山一寧の感化も受けて当代一流の学僧として聞こえる。
1322年には日本最初の仏教史書『元享釈書』を完成、五山文学の先駆者となる。
晩年は東福寺に退隠。
本覚国師。

虎関師錬が知られているのは、まず何といってもその著『元享釈書』(1322.元享二年成立)によってだろう。
同書三十巻は師錬の労作になる最初の日本仏教書で、厳密な史料批判を加えると必ずしも万般整っているわけではないとされるが、今日も有用性が失われない貴重な文献である。
もしこれがなければ、のちに続く卍元師蛮の『本朝高僧伝』七十五巻(1702年)も成立していなかっただろう。

そういう次第であるから、『元享釈書』には師錬の事蹟は一行も記されていない。
『本朝高僧伝』にはかなり詳しく紹介されている。
師錬はほかにも『十禅支録』『済北集』『仏語心論』などをのこした学究肌の禅僧だった。

京都生まれの師錬は藤原氏の末流で、母は源氏の出であったらしい。
幼時から読書を好み、また作文も得意だったようで、文殊童子とはやされた。
その反面、俊才少年にありがちな身体が弱く、母は育てるのに苦労したともいう。
十歳で剃髪して比叡山で受戒したというから、病弱の利発な少年の出家は、おそらく両親の希望によったのだろう。

師錬は本覚国師の諡号のほかに、海蔵和尚とも呼ばれた。
彼の行歴を記した『海蔵和尚紀年録』や『本朝高僧伝』によると1299年(正安元)、ちょうど一山一寧が来朝した年に元への渡航を企図したが、母の強い反対にあって断念している。
二十歳を過ぎたばかりの頃だ。
志がかなえられなかったためか、その後十五年ほどは各地を巡錫して研鑽の日々を過ごしている。
『元享釈書』を完成させるのは壮年期に入ってからである。

さてその『元享釈書』だが、師錬がこれを執筆したについては、一寧の存在が大きかった。
『本朝高僧伝』は、鎌倉建長寺での一寧と師錬の対話を紹介して、「公の博弁は異域の事については明解であって喜ぶべきことだ。しかしながら、本邦の事に至っては頗る応答に渋るところがあるがなぜか」と、一寧が厳しく師錬を詰問した。
これに対し師錬は返す言葉もなく、非常に恥じ入ったという。
これがきっかけで師錬は国史や雑記を博捜して、七百年に及ぶ日本仏教の事蹟を書き著したという。

一寧の叱責は「おまえは外国かぶれで、自分の国をおろそかにしている」という指摘だった。
当時の禅風のおおむねが師錬と同じように、眼は中国に向いていた。
日本禅宗界の指導的立場にいるのが渡来僧では、これも仕方なかったかも知れない。
だが一寧の気持ちからすると、師錬のような故国を軽んじる風は我慢できなかったのではないか。
何故なら、一寧は生国である宋が元に滅ぼされ、本来なら彼には敵であるべき元の国使となって来日し、さらにまた異境の日本に暮らすという、いわば故国なき二重の亡命者だったからだ。
生国へのつのる想いの深さは、筆舌に尽くしがたかったのではないか。
一寧の言葉は師錬の胸に鋭く突き刺さった。

この二人の出会いは師錬の巡錫時代だった。
1307年(徳治二年)、彼は建長寺に一寧をおとなっている。
また1313年(正和二)には一寧が後宇多法皇の勅で南禅寺に入った。
このとき師錬は洛西嵯峨にこもっていたが、おそらく再開を果たし、師弟の礼をとったものと思われる。

一寧と師錬は法脈お上では厳密な師弟関係ではなかった。
しかし五山文学の系譜では、明らかに二人は師弟関係にあったといえる。
『元享釈書』はその結実の一つだ。

『元享釈書』は推古天皇以来の歴代高僧と渡来僧の列伝を記した「伝」、仏教通史的な「資治表」、仏教文化史の「志」の三部構成で、編纂には『史記』などの手法をとり入れたとされる。
脱稿するとすぐ後醍醐天皇に献納し、『大蔵経』中に採用してもらうよう上奏したが、この師錬の願いは生前には実現しなかった。
また開板も完結の四十二年後で、のちに版木が消失するという憂き目にもあっている。

師錬は「性、健にして順、温にして厳。人に対して言少なし。若し語、支那扶桑の先言往行に及べば、即ち便々日を終る」と評された。

■ 開山慧玄 かんざんえげん (1277-1360) 天生の風癲、清貧の日々

信濃の名族高梨高家の二男に生まれ、幼くして鎌倉建長寺で出家する。
京都大徳寺の峰妙超のもとで学び、1328年、美濃伊深山にこもって難行苦行のすえ、開山の号を授けられる。
花園上皇の帰依が篤く、1337年、花園離宮を臨済宗妙心寺とするとき招かれて開山となる。
弟子の教育には厳格さをもってしたといい、開山の法系は臨済禅の主流を占めた。
無相大師。

開山慧玄の諡号は無相大師であるが、これは示寂後五百四十九年を経た1909年(明治42)、明治天皇から追贈されたものだ。
この一事からして、慧玄はよほど風変わりな禅僧だったと想像されよう。

慧玄は信濃の高梨氏の出である。
高梨氏は信濃国中野に居城をもった戦国武将の一人で、清和源氏の流れをくむ名族だった。
そうした出目からか、たいへん血の気の多いまた破天荒な人柄で、一方では肝がすわり、終生清貧を貫いた禅僧の一典型でもあった。

彼の師は宗峰妙超だが、まず入門の動機が変わっている。
鎌倉建長寺の蘭渓道隆五十回忌法要が営まれたのに慧玄も列席、読誦した。
このときはまだ慧眼と称していた。

その席で同列の僧に「近ごろ、日本の禅林では誰が活手段の宗師だろうか」と慧玄が問いかけた。
問われた僧は「京都の大燈国師妙超は悪辣の聞こえが高い。人を殺しても瞬き一つしない」と答えた。
というのは、ある僧が妙超を訪ねてきて、挨拶をしたときに懐から小刀がこぼれ落ちた。
怒った妙超は従者を呼び、山門の外で撲殺せよ命じ、必ず仏法の敵となるだろうと言ったという。

この話を伝え聞いた慧玄は欣然として、「これこそ我が師にたる真の知識なり」と言って即刻京都の大徳寺に赴き、入門を請うた。
妙超も相等の人物だったのである。
このとき慧玄は「如何なるか、是れ宗門向上の事」と問いかけたのに対し、妙超は「関」と答えた。
「関」という文字は、たとえば関所という語に見られるとおり、「閉」と「通」の両方に通じる。
これは禅問答の一典型だ。
関山慧玄と改めたのは妙超の見解によるが、慧玄の禅修業は、この「関」の意を明らかにすることだったといってよい。

妙超は花園法皇の深い帰依を受けていた。
ために法皇は花園御所を寄進し、妙超のために禅刹を開く意向だった。
しかし妙超はすでに病い篤く、「正法山妙心禅寺」の山号寺名を撰したあと、後事を慧玄に託して示寂した。

妙超示寂の前後、慧玄は師のもとにいなかった。
美濃の山中で修行していたのである。
このとき死の床の妙超が法皇に述べた言葉が、またふるっている。
「我が法門中で道を継げる者は慧玄ただ一人しかいません。しかしながらあの男は天生の風癲、居を定めることすら致しません。一所不在の男です。私の死後、勅使を差し向けて居所を探索し、開山にお据えになるがよろしかろう」
この弟子にしてこの師ありで、おおらかというか、恬淡この上ない。

こんな弟子であるから妙超も、新しい妙心寺が大徳寺と肩を並べるほどの偉観を誇るとは、いささかも期待していなかった。
「寺は大徳寺へ譲り、宗は妙心寺に譲る」と述べたともいわれる。
外聞や名利にとらわれない、慧玄の厳しい禅門追及の姿勢を見抜いていたのである。
こうしたことがあって慧玄は渋々ながら妙心寺の開山となった。
1337年(建武4)のことだ。

開山慧玄の生活は清貧に徹していた。
「正法山六祖伝」には「師天然胸次豁達、世緑の粘著を嫌ふ、在世の際禅誦規式に拘らず、殿堂の荘厳に音無し、道具餝らず、藤に綰ねて以て袈裟の環を作すに至る、室に長物無し、只両朝の宸奎有つて篋に満つるのみ」とある。
無一物の身辺であふれているのは、南北両朝の天皇の宸翰だけであったという。

またこんな逸話もある。
慧玄の部屋は雨漏りがひどく、雨のたびに座る場所がなくなるほどであった。
ある雨の日、童子が笊を雨漏りの場所にあてたのを見て慧玄はたいへん感心し、別の童子が桶をあてがうと激怒したという。
さらに別の日、信州から一族の一人が訪ねてきた。
あまりの雨漏りのひどさに修復を申し出ると、慧玄は「何の魂胆があってのことか、今後いっさい来るべからず」と追い出してしまった。

晩年、慧玄の身辺に仕えた弟子は授翁宗弼一人だった。
示寂のとき、慧玄は装束を着け笠を頂いて宗弼を呼び出し、ともに携えて庫裡前の井戸に至り、大樹にもたれて今後の始末を指示し、泊然と西帰したという。

■ 無窓疎石 むそうそせき (1275-1351) 今生の名利、後生の名利

伊勢国生まれ。
はじめ天台教学、真言密教を修めたが臨済宗に転じ、京都建仁寺の無隠円範、鎌倉の高峰顕日に学ぶ。
1325年、後醍醐天皇の帰依を受け南禅寺に入る。
1339年足利尊氏が京都に天竜寺を建立すると開山に迎えられる。
その著書『夢中問答集』は足利直義に参禅の要諦を説いたもの。
七代の天皇からそれぞれ国師号を贈られ、作庭にも偉才をみせた。

洛西天竜寺の無窓疎石が、おりふし入京する道筋に妙心寺があった。あるとき門前にいたって、疎石は関山慧玄を訪ねる気になった。
おりよく在庵していた慧玄は破れ衣を走り出迎え、二人は快く歓談した。
さて慧玄は疎石をもてなそうとしたが、赤貧でなにもない。
そこで破れ硯箱からわずかばかりの小銭を取り出し、小僧に焼餅を買いに走らせて何とかもてなすことができた。
疎石もまた慧玄の深い志に感じ、その焼餅をありがたく賞味したという。

この逸話は慧玄のつくろわない人柄をしめすものだが、およそこの両人ほど対極的な立場の禅僧は、この時代にいなかったのではないか。
年齢は疎石のほうが二歳年長だった。

疎石は宇多天皇十五世の孫といい、名望家の出である。
この点では慧玄も名族高梨家に生まれているから、さほど遜色はない。
禅知識でもじゅうぶんに太刀打ちできたはずである。
しかし幅広い知力、創造性と実行力、芸術的素質、それに政治的手腕では、慧玄がとても立ち向かえる対手ではなかった。
禅宗歴代の高僧の中でも疎石は並外れた傑物で、禅林きっての実力者だったといってよい。

かつて花園法皇は慧玄の師、宗峰妙超に対し、疎石を批判する言葉をもらしたことがあった。
後醍醐天皇の宮で講じた疎石の問答が、禅宗の教綱をただ述べただけの平凡なものであったこと、また後醍醐天皇のみならず鎌倉の足利尊氏、直義兄弟の帰依を受けていることなどをあげて、こうした警戒すべき人物を宗門の長老にしておいては禅宗は滅びてしまう、と嘆いたという。
疎石の華々しい活動は世俗に走りすぎる印象を与えていたのかも知れない。
これには当時の臨済禅が、妙超派と疎石派で対立していたことも考慮に入れなければならない。

しかし一方では、弟子の春屋妙葩が著した『無夢国師年譜』によると、疎石は敏弁智察、柔順温和で、天生の徳は慈雲法雨に似て人びとを感服させたとある。
また生涯に疎石に就いて得度した僧尼四千余名、弟子の札をとるもの一千人、法嗣五十余人を数えたというから、信望の篤さだけでは片づけられない、人をひきつける何かがあったのだろう。

疎石の行歴をみると、彼はたびたび貴顕の招きを病と称して断ったり、どこかへ身を隠して遁れている、
果たして彼は名利に無関心だったのだろうか。
たとえば後醍醐天皇の勅による南禅寺への入寺も最初は拝辞しているし、足利尊氏にいたっては建長寺への歴住を二度までも断られている。
反面、二階堂貞藤の求めに応じ甲斐恵林寺の開山になっている。
疎石が開山となった寺はほかにも多い。
名利の上では、開山と名刹の歴住のどちらをとるか。
凡人はそういうことを考えがちだが、果たしてどうか。

それはともかく、疎石は南禅寺の歴住を二度まで務め、尊氏兄弟の要請で天竜寺の開山となった。
前者は後醍醐天皇の勅により、後者は天皇の菩提冥福のためである。

疎石には『夢中問答』のよく知られた著書がある。
残忍酷薄と評される足利直義に与えた啓蒙の書だが、このなかで疎石は「」現世での名利の追求を否定する見解をしめしている。

こうみると、疎石が好んで自ら名利を得ようとしたのでなく、対手のほうから疎石に近づいてきて、結果的に疎石に名利を与えてしまったわけで、彼には他人をひきつけて放さない磁力のようなものが備わっていたのだろう。

尊氏は仁山、直義は古山の号を疎石から受けていた。
この三人が手を携えて行った事業に安国寺利生塔がある。
全国六十六か国に一国一寺一塔の建立を発願、戦乱の死者の霊を鎮魂するものであった。
主導者は疎石だとされる。
後生の名利を願う祈りがこめられていた。

■ 春屋妙葩 しゅんおくみょうは (1311-1388) 心は疎石 身は義満に

甲斐国の生まれ。
1326年伯父の無夢疎石について受具する。
鎌倉浄智寺などに歴住のあと上京、焼失した天竜寺を再建、南禅寺山門建立に際して旧仏教の比叡山延暦寺と争うが破却の憂き目にあい、丹後に隠棲する。
ために管領細川頼之と反目。
足利義満が京都に相国寺を創建するや、師疎石を開山に自身は二世となる。
五山十刹を刊行した。

妙葩は無夢疎石の弟子中で絶海中津と並ぶ高弟だった。
疎石との最初の出会いは三歳、母の膝に抱かれてだったという。
疎石と妙葩が伯父・甥の関係だったからだ。
『本朝高僧伝』などによれば疎石の父方が源氏、母が平氏で、妙葩はその逆になっている。
二人の年齢差が三十六歳だから、おそらく妙葩の母は疎石の妹だったろう。
十七歳で上京して疎石に就いて得度した。
春屋の号は疎石から授けられた。
このとき疎石は号に添えて次のような偈を贈った。

 百花もと是一枝の花
 遂に見る衆芳(多くの美しい花)我家に連なるを
 驀地(ただちに)門を開けば和気出る
 韶光(春の光)此より河沙に遍し

妙葩は疎石の在命中、影がかたちに寄り添う如く師に近従し、寺務を補佐した。
天竜寺開創にあたってはその起綱となったが、彼の行歴をみていくと、寺院の創建や再建に関わることが多かった。
なかでも天竜寺は二度罹災していて、いずれも妙葩が再建している。
最初は1358年(正平13・延文3)正月に焼失、翌年三月には上棟祭にこぎつけた。
次は1367年(正平22・貞治6)に再び被災したが、このとき妙葩は住持の席にあった。
両度とも復興の勧進に奔走したことであろう。

この二度の罹災と同じ年、妙葩は強力な支持者の帰依を受けた。
室町幕府三代将軍となる足利義満である。
義満はこのときまだ十歳、童形で天竜寺に赴きはじめて妙葩とまみえた。
ついで1372年(文中元・応安5)には臨川寺に参禅し、無夢疎石の墓所を拝してのち受具、号天山、法名道義を唱えた。
十五歳の義満はすでに室町将軍に就いていた。
この臨川寺は現在天竜寺の塔頭だが、後醍醐天皇が疎石を開山に創建した由緒ある寺で、疎石がこよなく好んだ隠棲所でもあった。
ここも一度火災にあったのを妙葩が復興していた。
天竜寺にしてもこの臨川寺にしても、妙葩は師疎石追慕の篤い想いで寝食を忘れて復興に取り組んだ。

妙葩と義満は、疎石と尊氏以上に親密な関係をもった。
1379年(天授5・康暦元)十月、義満は全国禅寺の人事行政を統括する最高位者として、僧録司の制を設け、初代僧録に妙葩を任命した。
同じ年の六月、彼れは南禅寺住持となっており、また南禅寺はこれより少し後、五山の上におかれる禅寺最高の格付けがなされるので、妙葩は禅僧中で並ぶ者がいない栄達を遂げたのだった。

義満に初対面した年から僧録となるまで十年余りがたっている。
この間、妙葩は南禅寺山門造営の難航と三井寺・延暦寺衆徒による山門破却に憤って丹後に隠棲していた。
義満は諸軍とはいってもまだ若年であり、管領細川頼之が補佐して政務を執っていた時期である。

妙葩は南禅寺山門の一件で、この頼之と折り合いが悪かった。
頼之の執政に格別落度があったわけではないが、何しろ時代の風向きが悪かった。
政治的にはまだ南北朝の対立が続き、仏教界は新旧仏教の対立が深刻だった。
いわゆる南都北嶺の旧仏教は禅宗を「達磨宗」と侮蔑的に呼んでいた。
頼之はこの宗派対立を緩和しようと旧仏教に対して懐柔策をとった。
それが禅宗からは弱腰と映り、頼之もまた南禅寺山門の破却を未然に防ぐことができなかったのである。
頼之は管領を辞して領国讃岐へ隠棲した。
丹後から上京した妙葩が僧録に就いた年であった。
義満が将軍として表舞台に立つのはこれ以降である。

義満の妙葩への信望の篤さはさまざまなかたちで表されたが、その総仕上げともいうべきなのが1383年(弘和3・永徳3)の相国寺創建だった。
寺名を撰したのは妙葩で、義満の将軍職、すなわち太宰相に依っていた。
義満は自ら土を運んで造営にうちこみ、妙葩を開山に据えた。
自身は二世となった。
このあたりに師を想う心と処世の妙がうかがえる。
妙葩は精神世界では疎石に、現実世界では義満に伍した、きわめて平衡感覚に富んだ傑人だった。

■ 道元 どうげん (1200-1253) 日常の体験にまさる文字はなし

曹洞宗の祖。
父は内大臣源通親、母は藤原基房の娘伊子。
幼くして父母と死別し、十四歳のとき天台座主公円に就いて剃髪、受戒。
二十四歳で入宋し、三年後如浄により嗣書を相承。
帰国後建仁寺に入る。
やがて深草に閑居。
三十四歳のとき観音導利院(のちの興聖寺)を建立。
九年後越前吉峰寺に入り、翌年大仏寺(のちの永平寺)を建てて移る。
病重くなり、永平寺を懐奘に譲り上洛。
高辻西洞院の覚念の邸で没した。

比叡山延暦寺で出家した後、名刹といわれる場所を訪ねては修行を重ね、師を求め続ける道元だったが、出会う僧たちの仏道への意識の低さ、そして功名を求めるだけの姿勢にはただ失望を繰り返すだけだった。

そうしていうるちに、
「宋や印度の高僧こそが自分の捜し求めている本当の師だ。日本で大師と呼ばれるような高僧もそれに比べれば土瓦のようなものだ」
と確信するようになり、入宋できる機会がくるのを待ち望むようになった。

道元が二十四歳になった春、憧れの地に向かう好機がやってきた。
日宋貿易の商船に便乗することを許された。

宋に着いた道元は、すぐに高僧を捜し求めることはしなかった。
考えあってのことだろう。
しばらくの間、船中に留まっていた。
そのとき、偶然に宋の禅宗寺院の五山の一つに入る阿育王山で、寺の食事を司る典座職の老僧が船にやって来た。
僧は端午の節句に出す料理の材料椎茸を買い求めるため、はるばる二十キロの道を歩いて来たところだった。
道元は、
「お会いできたのも、仏道修行の好結縁がと思います。この船にとどまっていただき、語り明かしていただけないものでしょうか」
「いえいえ、椎茸を買えば、すぐに戻らねばなりません」
と言って、道元の申し出を承知しない。
「貴僧は相当お年を召しておられるようだが、静かに座禅をし、書物などを見て修行に励まれたらよいでしょうに、わずらわしい典座職などにもっぱら勤めておられるのは、何かよい功徳でもあるのでしょうか」

道元は阿育王山ほどの名刹なら典座は幾人もいるだろう、なぜそこまで職務を果たそうとするのか、理解できなかったのだ。

典座は、
「若い人よ、あなたはまだ修行の道、弁道がどのようなものか、また文字とは何のためにあるのか知得しておられないかも知れない」
「文字とは何ですか、弁道とはどういうことでしょうか」
それを聞くと、静かな口調で、
「まだ了得していないのなら、いつの日か阿育王山に来なさい。禅の真髄を理解することができるかも知れません」
と言い残し、老僧は夕闇のなかを急ぎ足で去っていった。

のちの道元が天童山で修行に入って間もない頃、老僧は若い異国の修行僧のことが印象に残っていたのだろう。
わざわざ会いに来てくれた。
道元はさっそく、持ち続けてる疑問を繰り返した。
すると
「文字というのは端的に言えば記号のようなもので、ほかに子細はないものです。目の前に存在しているすべてが、弁道の対象なのです」
という返事だった。

経典や語録をあさり、文字を通して悟りを求め続けてきた道元には、眼のさめる言葉だった。

道元は、この老典座こそ私が正法に開眼するきっかけを与えてくれた大恩人、と生涯忘れることがなかった。
また高僧といわれる人からだけでなく、老典座のように清貧のなかで苦労をいとわず修行にうちこむ僧たちからも学ぶことが多かった。

日常の生活を修行ととらえ、文字からではなく座禅を中心にした行を中心に据えた道元の考え方はこれらの体験から生まれた。

もう一つ道元の生き方を決めたものは、仏法上の正師天童山住持の如浄との出会いだった。
峻厳な教えで知られる如浄は、道元を法嗣と認め、次のような言葉をおくった。
「国王や大臣近づかず、深山幽谷に居て、一人でもいいから弟子を育て、我が宗を断絶させないでほしい」

帰国した道元は、都を離れた雪国に永平寺を建て、弟子の育成にあたった。
また日常生活の全般にわたって厳格な規則を定めたが、七百四十余年を経たいまも脈々と生き続けている。

■ 阿仏尼 あぶつに (? - 1283) ママゴン五百キロの旅

鎌倉中期の歌人で『続古今集』以下勅撰集に多数入集。
平度繁の娘。
はじめ安嘉門院に仕え安嘉門院四条と呼ばれた。
のち、歌の名家藤原為家(定家の子)の後妻となる。
夫没後、遺言を無視した異腹の長子為家と阿仏尼の実子為相との間に所領争いが起こり、わが子のために京都から鎌倉まで旅する。
このときの旅日記が『十六夜日記』。
幕府への訴訟は未決のまま鎌倉で没した。
そのほかに『転寝の記』『夜の鶴』などの著作がある。

鎌倉時代に書かれた『十六夜日記』は、当時の旅事情を知る上できわめて貴重な旅行記である。
日記には京都から鎌倉までの旅の次第が、女性らしい繊細な観察眼を通してこと細かに記されている。
この『十六夜日記』を綴ったのがほかならぬ阿仏尼であった。

京都と鎌倉はほぼ百二十里、つまり五百キロちかい。
ほかの街道に比べて比較的整備された東海道であったが、悪路もあった。
当時、馬を使った早駆けで五日から七日を要したが、歩くとなれば、ふつう十五日前後はかかった。

阿仏尼が京都を出立したのは1279年(弘安二)の十月十六日、鎌倉に到着したのが同月二十九日だから所要日数は十四日、六十歳を越える女性としてはかなりの健脚である。

女の身で、阿仏尼はなぜこんな危険な旅を敢行したのだろうか。
じつはこの長旅は、腹を痛めたわが子に夫の遺産を相続させたいという一念から思い立ったものであった。
いうなら母性愛に発した長旅なのだ。

これには少し入り組んだ事情がある。

阿仏尼の夫為家は藤原北家御子左家の六代目だった。
御子左家という呼び名は、醍醐天皇の御子で左大臣に任じられた兼明親王の広大な邸を、藤原道長の第四子の長家が買い取って住んだことに由来する。
その後、長家の家系は御子左家と呼ばれるようになった。

この御子左家からは代々すぐれた歌人が輩出したが、なかでも有名なのが藤原俊成(四代)と定家(五代)である。
とりわけ定家は和歌の世界の輝けるスーパースターだ。
阿仏尼の夫の為家は、この定家の息子なのである。

為家には正室が二人いた。
一人は鎌倉幕府の有力御家人の宇都宮頼綱の娘で、この東女との間に長男為氏と次男為教が生まれた。
そしてもう一人の正室が若い日の阿仏尼で、この頃、宮中の安嘉門院に仕え、四条と呼ばれていた。

当時、歌人として知られていた四条は、情熱的な女性でもあった。
さる殿上人と熱烈な恋に落ち娘までもうけたのだが、やがてその恋を失い投身自殺をはかる。
幸い未遂に終わったけれど、苦悩の果てに家出してさまよい歩き、一時は尼寺に身を寄せたこともある。

その四条が為家と結ばれたのは、こうした苦い人生を体験したのちのことだった。
このとき、為家にはすでに正室のほかに側室もあり、それぞれに子供もいたのだが、才色兼備の京女四条を熱愛するようになった。
この四条との間に為相が誕生したとき、為家はすでに六十七歳の高齢、異腹の長男為氏も四十二歳になっていた。

ここから話はややこしくなる。

為家は、年をとってから生まれた為相がよほどかわいかったのか、あるいは熱愛する四条にせがまれたのか、長男の為氏に与える約束の所領の細川荘を、改めて為相に譲りなおすという遺言状を二回もしたためたのである。

その翌年の1275年(建治元)、為家は没したが、長子の為氏は遺言を無視して、さっさと細川荘を押さえてしまった。
おさまらないのが四条 - 剃髪した阿仏尼である。
十二、三歳の少年の為相に代って、朝廷や京都の六波羅に訴えでたが、裁定は為氏に有利だった。

そこで、阿仏尼は、幕府に直訴を決意した。
こうして息子かわいさから鎌倉行きを敢行、その結果、かの『十六夜日記』が生まれたことは先に述べたとおりである。

もっとも肝心の訴訟のほうはすんなりとはいかなかった。
裁定を待って鎌倉に七年も住むハメになった阿仏尼は、判決を聞かないうちに旅寓に没した。
為氏も為相も鎌倉にくだり、次の代まで争いは持ち越されたが、紆余曲折のすえ、最終的には為相側が勝訴した。

この所領争いのために御子左家は三つの家に分裂、長男の為氏が二条家、次男の為教が京極家、そして三男の為相が冷泉家を立てることになった。
兄弟喧嘩から生まれたこの三家は、いずれも和歌の家として世に名高い。

■ 吉田兼好 よしだけんこう (1283?- 1352?) 日本版のシラノかモンテーニュか

南北朝時代の歌人にして随筆家。
吉田社祠官卜部兼顕の子。
はじめ後宇多上皇の北面に侍して六位蔵人・左兵衛佐となるが、のち、隠遁して小野荘、横川などに住んだ。
建武内乱前後の消息は明らかでないが、北朝の光厳院に仕え、二条派の歌人として活躍、鎌倉末期以降の勅撰集にも入集、家集『兼好法師集』もある。
また『古今集』などの古典研究も成果をあげた。
かの著名な随筆『徒然草』は1330〜36年頃に成立したらしい。

兼好法師の逸話のなかで最も面白いのが、有名な「艶書代作」の一件であろう。
あろうことか、歴史上、悪役の代表のように憎まれている高師直に金で雇われ、その邪恋をかなえるために恋文の代作をしたというのだ。

当時、南朝の後醍醐天皇は吉野に没し、京都は北朝方が制していた。
その都で足利尊氏の執事として飛ぶ鳥を落とす勢いの高師直は、それまでも貴族の女をとっかえ引っかえわがものにしていたが、ふとしたことから絶世の美女塩冶判官高貞の奥方に横恋慕してしまった。

さっそく高価な贈り物を贈ってあの手この手で口説くのだが、奥方のガードが固くまったく相手にしてもらえない。
そこで贈物でなびかぬならば、女心にじかに訴えようと作戦を変更、兼好法師に恋文の代作を頼んだのである。

このとき兼好法師は六十七、八歳、だいぶん前に『徒然草』を書きあげ、『家集』も出して文章家、歌人、能筆家として名高かった。
その兼好法師は師直に招かれていそいそ参上、さっそく香をたきしめた紅色の薄葉に、美しい文字で美しい文を書きつづった。

ところが塩冶判官の奥方は、せっかくの文を開いて見ようともせず、庭にポイと投げ捨ててしまった。
がっかりした師直は「イヤイヤ、物ノ用ニ立タヌモノハ手書ナリケリ。今日ヨリソノ兼好法師、コレヘヨスベカラズ」とやつあたり、兼好に出入り禁止を申し渡した。
「手書」とは書家のことである。

このとき、もしも兼好法師の代作した恋文が奥方の心をとらえ、師直になびくというような成行きになっていたら、日本版のシラノ・ド・ベルジュラックとして、兼好の文章力をたたえる逸話となったであろうが、堅物の奥様であいにくなことだった。

以上の「艶書代作」の一件は『太平記』の二十一巻に載っている話である。この逸話で兼好法師はだいぶん損をしている。
好色家師直の邪恋 - 結局、かなわぬ恋の恨みから師直は夫の塩冶判官を殺し、奥方も自決に追い込んだ −−− の手伝いをしたというのでは、『徒然草』の著者の品位を傷つけるというわけである。

江戸時代以来、今に至るまで、『徒然草』の文学性を高く評価する人々は、あれは『太平記』の作者の冗談だと一笑に付したり、いや同名異人だとかばったり、あるいは南朝に忠義を尽すために兼好法師が足利内部の乱れをもくろんでわざと代作したしたのだといううがった珍説を唱えたりしている。

ことの真偽はともかく、この頃、兼好が有職の知識をかわれて、師直のもとに出入りしていたのは事実である。
時には歌の代作などもしていたらしいから、座興で恋文の代作くらいはしたかも知れない。
いまとなれば、かの恋文の内容が伝えられていないのが残念である。

というのは若い日の兼好法師は女にもてたらしいし、女の魅力についても相当な通である。
たとえば『徒然草』のなかでは、「世の人の心をまどはす事、色欲にしかず」ともっともらしく色欲を戒めてはいるが、一方、久米の仙人の堕落の原因となった女の脛についての描写「誠に、手足、はだへなどのきよらに肥えあぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし」など、朴念仁には書けない文章をものしている。

要するに、「艶書代作」の件が事実であったとしても、兼好法師は少しも恥じる必要はないのである。
むしろ、隠遁しながら完全な隠遁者になり得なかったところに兼好法師のおもしろさがあるのだから、遁世はしても俗世と断ち切れぬ妄執に悩み、その苦悩の果てに鋭い批判精神に貫かれた新しい形式の随筆文学『徒然草』が生まれたといえよう。

評論家の小林秀雄は兼好法師の批評家魂を激賞して「彼はモンテエニュがやったことをやったのである。モンテエニュが生まれる二百年も前に。モンテエニュより遥かに鋭敏に簡明に正確に」と述べている。

■ 円観 えんかん (1281 - 1356) 戦乱に翻弄された後半生

近江坂本生まれの天台僧。
比叡山延暦寺西塔の道超について得度する。
後醍醐天皇の帰依を受けて京都法勝寺、元応寺に歴任する。
天皇の倒幕に参画して、1331年、中宮懐妊を名目にした加持祈祷で、北条氏呪詛の修法を行う。
これが露見、ために陸奥に流された。
建武中興で帰京して法勝寺に再住、後醍醐天皇の勅で鎌倉に宝戒寺を創建、南北朝五天皇の戒師を務めた。

南北朝の争乱は、後醍醐天皇による鎌倉幕府並びに北条氏打倒に端を発した。
冒頭いきなり登場するのが円観と、後で取り上げる文観の二人の高僧である。
ともに天皇の寵をこうむる祈祷僧であった。

1327年(嘉暦二)の春頃から後醍醐天皇が中宮の懐妊祈祷と称して、各地の高僧に修法を行わせていた。
その次第を『太平記』に述べている。

倒幕の企てはこれよりまえ、天皇の側近である参議日野資朝と蔵人日野俊基によって進められ、幕府に露見した正中の変(1324年)があった。
このたびの加持祈祷の本意も幕府側は探知して、1330年(元徳二)五月、円観と文観、それに浄土寺の忠円の三人を捕え、鎌倉に護送して取り調べた。
文観は拷問の苦しさに耐えかねて幕府調状を認め、臆病な忠円は拷問怖さからすべてを白状してしまった。

円観を拷問にかける前日、執権北条高時は不思議な夢を見た。
それは比叡山麓坂本にある日吉山王の猿が、円観を護って二、三千匹も群がっている夢だった。
夜明けて高時に使者が来て、「今朝、円観を仕置きにかけようと出向いたが、障子に映る座禅を組む姿が不動明王であった」と報告してきた。
この奇特で円観の拷問は沙汰止みとなった。
三人の僧のなかでも天台僧円観は、もともと別格の扱いを受けていたようだ。
鎌倉護送のときも、幕府は円観だけに弟子三人の随従を許可していた。

三人の僧に対する幕府の処置は、文観を硫黄島、忠円を越後国に配流とし、円観は遠流一等を減じて結城宗広預けとした。
『太平記』はこのくだりを「結城上野入道ニ預ケラレケレバ、奥州ヘ具足シ奉リ、長途ノ旅ニサスラヒ給フ。左遷遠流トイハヌバカリ也」と同情的に記す。
自由はかなり認められていただろうが、事実上は配流と同じ厳しい沙汰だった。

これが翌1331年(元弘元)五月に起きた元弘の変の序幕であった。
忠円らの自白によって、幕府は後醍醐天皇らによる倒幕計画のほぼ全容をつかむ。
天皇は笠置山に逃れ、日野俊基は首謀者として捕われた。
北条高時は光厳天皇を擁立して北朝を立て、ここに南北朝時代が始まる。

1332年(元弘ニ)、後醍醐天皇は隠岐へ配流の身となり、正中の変で佐渡に流されていた日野資朝は殺害された。
局面はめまぐるしく展開し、翌三年になると天皇が隠岐を脱出、足利尊氏、新田義貞が幕府を攻略して高時は自害、鎌倉幕府は滅んだ。
1334年(建武元)、天皇親政の建武中興が始まり、南北朝の乱の序章は閉じられる。

話を円観に戻す。
陸奥に流浪の身となっていた円観は南朝方の優勢で1333年都に還り、法勝寺に再び入って、翌1334年頃東大寺大勧進職に就いた。
ところで捕われの身となる前の円観を『太平記』は手放しで褒め、このような有智高行の徳僧でも災いを逃れ得のないのは前世の宿業か、と結論している。

円観の生涯はその前半で僧として栄達を遂げ、後半生は南北朝の戦乱に翻弄された感がする。
建武中興以降、尊氏と直義の不和が生じ、南北講和の気運が起きたとき、円観は北朝の使者となって両朝の間を往復した。
円観の真意がどこにあったか推し量れないが、先帝後醍醐の恩を忘れたふるまいと、南朝方の対応はたいへん冷淡だったという。
ふたたび戦端が開かれた最中、円観は失意のなかで卒している。

■ 文観 もんかん (1278 - 1357) 乱世のカリスマ的怪僧

小野僧正、弘真とも呼ばれた真言僧。
播磨一乗寺で天台学を学び、南都で法相・三論宗を習得したのち京都醍醐寺報恩院の道順から灌頂を受ける。
後醍醐天皇の帰依篤く、円観と同様に幕府討滅の調状を祈願し、やはり元弘の乱で硫黄島に流された。
建武新政で帰京、東寺長者・大僧正に累進した。
南北朝の乱で南朝につき、後村上天皇に随従して河内金剛寺の行宮で死去。
のちの邪法、立川流の大成者。

円観とともに後醍醐天皇に信任された文観だが、だいたいにおいて南朝加担の筆致で書き綴った『太平記』の作者も、もの文観の記述に関しては冷淡というか、戸惑いが感じられる。

まず紹介の文からして、何の感情もこもらず、愛想のかけらもない。
「文観僧正ト申スハ元ハ播磨国法華寺ノ住侶タリシガ、壮年ノコロヨリ醍醐寺ノ長者、醍醐ノ大阿闍梨タリシカバ、東寺ノ長者、醍醐ノ座主ニ補セラレテ四種三密ノ棟梁タリ」と、たったこれだけである。
円観の徳はたたえても、文観にそのようなコメントはない。

どうも文観は呪法をよくする怪僧だったようだ。
元弘の変で硫黄島に流されたこと自体が、見方によっては異様にうつる。
後醍醐天皇の寵臣で鎌倉幕府転覆の首謀者だった日野資朝でさえ、正中の変では佐渡島配流である。
幕府は文観が漂わす妖しい雰囲気を怖れ、この処置に及んだのではないか。

『続伝燈広録』に載る文観伝によると、彼は念願かなって後醍醐天皇に拝謁したとき、「秘密神通ヲ説キテ呪術ノ奇妙ヲ彰ハス。此ニ於イテ天皇偏ニ之ニ帰スルコト傍ニ人無キガ如」きありさまだったという。
文観は天皇に印可を授け、秘法伝授の印信(書付け)と百あまりの秘訣(奥義)、それに三十余通の印璽を献じた。
印信は八葉中の一枚が男女合体の図であった。

文観はこの席で天皇に「理趣釈経にも男女ニ根が交会すれば、煩悩を去って成仏できるとあります」と述べ、淫欲のなかに仏道があり、男女交合こそが即身成仏の道だと説いた。
天皇は文観の弁舌に眩惑陶酔して、彼を醍醐寺座主、天王寺別当に任じた。
文観の名声はとみに高まって、金銀財宝は蔵にみちあふれんばかりであったという。
元弘の変で硫黄島に流されるのはこののちで、建武中興で帰洛した文観は東寺一長者、大僧正へと累進していく。

文観が宗旨としていたのは立川流と呼ばれる、のちには真言密教の邪宗として弾圧された宗派である。
しかし立川流は文観の創案になるのではない。
彼は天王寺別当真慶の秘伝書を書写し、伊豆に流されていた仁寛の奥義を伝承し、立川流を系統立てた人物である。
「自ヲ書籍千余巻ヲ撰スル」というから、ただ者ではない。
おもに真言密教ではもともと歓喜天の信仰があった。
象頭人身の男女が抱合するヒンズー教の流れを汲む秘仏で、決して見てはならないものとされている。
立川流はこれとは直接の関係はないのだろうが、男女の秘儀を信仰の根本においた宗旨は現実臭く、やはり生々しい。

乱世というのはさまざまな怪異現象が跋扈し、人身を撹乱する。
また間隙をついて権勢欲の強いカリスマ的人物が暗躍もする。
文観も多分にそうした性格の人物だったとみて間違いない。

『太平記』に文観の傲りを伝える描写がある。

『続伝燈広録』にも、文観が天子の婿と称して前後を厳しく兵で固めた輿に乗り、華やかに着飾らせた大勢の命婦(みこ)を引きつれて、栄耀栄華に溺れているさまを批判をこめて描く。
京都の諸門跡も首をすくめていたそうだ。
いずれにしても、常人の目からみれば臭気ふんぷんとして淫らな、権勢の権化と化した俗物的怪人だったろう。

文観が東寺一長者になった1335年(建武ニ)、高野山金剛峯寺の衆徒は挙げて彼に反発し、文観一味の入山を厳しく拒絶した。
しかし彼は蚊が刺したほどにも感じなかったらしい。
後醍醐天皇あるかぎりは、彼文観は不滅だったのである。

■ 光厳法皇 こうごんほうおう (1313 - 1364) 正真正銘の出家

九十七代天皇。
北朝の第一代とされることもあるが、異論も強い。
後伏見天皇の第一皇子で、母は藤原寧子。
名は量仁といい、法名は勝光智、禅号は無範和尚。
後醍醐天皇の皇太子となり天皇が衣笠に潜幸した1331年に践詐したが鎌倉幕府の倒壊によって退位し、太上天皇。
南北朝対立期に大和の賀名生で出家した。
帰京後は丹波山国の常照皇寺を開いた。

天皇が退位すると太上天皇(略して上皇)といい、上皇が出家すると法皇と呼ぶことになっていた。

法皇になった例はたくさんあるが、たいていは形だけのもので、法衣の下から前にもまして強い権力をふるったものだ。

この光厳天皇は形だけではなく本格的に出家して、普通の禅僧と変わらない日常をおくった。
政治には一歩も近づかなかったのはもちろんである。

不幸という字を絵にかいたような前半生であった。

後伏見天皇の第一皇子として生まれ、持明院・大覚寺両統迭立の約束に従って後醍醐天皇の皇太子になった。

ここまではよかったのだが、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の計画を立てて失敗し、衣笠山に潜幸してから不幸がやって来た。
幕府は、天皇が不在になった京都に新しい天皇が必要だとして量仁皇太子を強引に践詐させたのである。
天皇になったのが不幸だというのではなく、天皇になった事情と経過が不幸だった。

践詐の手続きや形式が完全であったのかどうか、ここは意見の分かれるところだが、それとは別に光厳天皇は繊細な神経の持ち主であって、果たして自分が正当な天子の座についたのかどうか、強い疑惑の念にとらわれたにちがいないのである。

後醍醐天皇は、武士の権力を排して天皇中心の政府に戻そうという強い抱負をもっていた。
その意見と抱負には自分も大賛成であるのに、いまやその後醍醐天皇を敵にまわして天皇になってしまった - これでいいのか?

幕府は後醍醐天皇を隠岐に追放し、政局は安定に向かうとみえたが、後醍醐は隠岐を脱出し、これに応じた武士の反抗で幕府はあっけなく倒れてしまった。

光厳は退位させられて上皇になった。

「これで、よいのじゃろう。あとは尊治さん(後醍醐)にまかせればよい」

それがうまくいかない。

足利尊氏が反乱を起こし、後醍醐天皇の新しい政府をぶっつぶしてしまったのだ。
光厳上皇は尊氏にかつがれ、光明天皇践詐の儀式を行った。
「こうしなければ皇統が絶えてしまう」
朝廷は南北に分裂し、尊氏は幕府を興したが、こうなるのは読んでいた。

南朝を指導する後醍醐に恨みはなく、むしろ同情の念すら湧いてくる。

南朝が優勢になり、捕虜となって大和の賀名生で幽閉されたときにも恨みはなかった。
南朝を恨むよりは、「やるだけのことは、やった。あとは好きなように生きてみたい、ホトケに近づく道を歩きながら・・・・・」

1354年(正平九)八月、西大寺の元耀上人を戒師として上皇は出家し、法名を勝光智という法皇になった。

これを聞いた公卿の一人は、「南朝方をあざむく策略ではないか」と不審に思ったそうだが、不審も無理はない。
法皇になれば何かと身辺の自由がふえるというのが従来の出家の理由だったからだ。

京都では法皇の皇子の弥仁親王が後光厳天皇になっているから、世俗のことにわずらわされる心配はなくなっていた。

出家してまもなく法皇は河内の金剛寺に移った。
禅衣をさずけられ、いよいよ本格的な禅僧としての暮らしに入った。
側近の女房たちはみな京都に帰された。

三年後に京都伏見の金剛寿院に、さらに草深い嵯峨の小倉山の麓に庵を結んだ。
天竜寺の夢想疎石に弟子の礼をとったのは、まだ残っているかも知れない世俗の臭みを払いのけたかったからだ。

法皇が最後の数年をおくった丹波山国の常照皇寺は正しくは常照寺というのだが、法皇にちなんで「皇」の字を入れて呼ぶしきたりになっている。

■ 一休宗純 いっきゅうそうじゅん (1394 − 1481) 機知に富んだ破戒僧

後小松天皇の寵愛を受けた母が、后妃の讒言によって宮廷を追われたのち、一休を生んだという。
六歳で安国寺に入り周建と名づけられる。
十七歳で西金寺の謙翁宗為に師事。
宗純の法諱に改める。
二十五歳のとき華叟宗曇の下で一休の動号を受ける。
六十三歳で山城薪村酬恩庵を建て、七十四歳から入滅するまでの大半をここで過ごした。
八十一歳のとき大徳寺住持の勅請を受けたが、寺には住まず、弟子たちの援助で大徳寺の復興にあたった。

一休という名前は、煩悩と悟りの境界線でひとやすみするという意味で、昨日は俗人で今日は僧、朝には山中にあり暮れには市中にあるのが自分だ、とうそぶく一休はどうみても悟りすました禅僧ではない。
しかも肉食飲酒はむろんのこと、女犯なども公然としてはばからない。

ある年の正月元旦、一休は髑髏を竹の先にくくりつけ、「ご用心、ご用心」と言って街をふれ回る。
それを見た人が気持ちわるがり尋ねた。
「どうしてめでたい日に、そんなことをなさるのですか」
「私も心から正月を祝おうと思い、こうして髑髏を皆さんに見せて歩いているんです。よくごらんなさい。目が抜け出たあとは穴ばかりで、本当に目出たいものでしょう。いずれ皆さまもこのようになるのです」
と答えるのだった。
生きている者は必ず死に、会った者は必ず離れるという仏の教えを髑髏に託して訴えるのである。

また一休は、幾度か堺の町に現れているが、その姿は汚れ放題の黒の衣、伸び放題の髪、自ら削った大きな木剣を携え、肩をいからせて歩き回るのだった。
そんな一休に、「僧であるあなたが、なぜ人を殺す刀を持ち歩いていらっしゃるのですか」とたまたますれちがった人が問いかけると、「いまの人が知識と言っているのはこの木剣のようなもの。鞘に収めておけば真剣と見紛うが、抜けばただの木片にすぎないのだ」と答えた。
一休の言うにせ知識の代表は禅僧たちで、禅の修業はそっちのけで武器を所有し、武勇を誇示することさえ珍しくない僧らの滑稽さを笑ったのだ。

一休は実生活でも七十八歳から亡くなるまでの十年間、住吉の薬師堂に野宿し鼓を打ちつつ歌う盲女森侍者とともに過ごし、彼女を溺愛する詩を多く残している。
これは腐敗堕落しきった宗教界を痛烈に批判し、安逸になれた庶民たちに警鐘を鳴らし続けるという、一休の妥協のない姿勢だった。

■ 日親 にっしん (1407 - 1488) 困難こそ「法華の行者」のしるし

日蓮宗の僧。
上総国の埴谷出身。
妙宣寺の日英、中山法華経寺の日祐に学んで京都に出る。
本法寺を拠点として鎌倉や九州に布教活動を展開した。
将軍足利義教に「立正治国論」による国主諫暁をこころみたが、その清書中に逮捕され、きびしい拷問に耐えぬいたので「鍋かむり日親」の名で呼ばれる。
京都の本法寺を拡張し、「本法寺法式」をまとめた。

法華経では「法華の行者」というものを非常に重いものとしてあつかっている。

膨大な種類と数の仏教経典があるが、そのうちで法華経だけが唯一真正な経典であり、それだけに法華経を弘めるにはさまざまな困難がつきまとう。
その困難にうちかって法華経を弘めるのが法華経の信徒であり、僧であるとされている。

つまり「法華の行者」とは、法華宗の僧と信徒を法華経弘通の義務の面から呼んだ言葉なのである。

ささいなチャンス、ささやかな場所を求めて法華経を弘めようと工夫努力するもの、それが法華経の僧であり、信徒だということである。

きらびやかな衣装につつまれ、壮麗な寺院におさまっているのは真の法華の行者とはいえない。
そんな暇があるわけはない。

日親こそ文字どおり法華の行者の一生をおくった人だ。

彼には「鍋かむり日親」というニックネームがついている。
帽子のかわりに鍋をかぶった、なんていうものではない。

将軍足利義教に諫暁しようとして逮捕され、言うにいえない残酷な拷問を受けた。
拷問のうちでもっとも残酷だったのが真っ赤に焼けた鍋をかぶせられたことで、日親の髪も皮膚も焼け爛れたが屈しなかったところからついたニックネームなのだ。

真っ赤に焼けた鍋のことは『日親上人徳行記』という本に出てくるもので、あるいは真実そのままではないかも知れないが、高さが一メートル三十センチしかない牢屋の天井からは釘の先が出ていて、歩けば頭に傷がついたと彼自身が言っているから残酷な拷問を受けたのは事実である。

足利義教への諫暁、そして拷問は1440年(永享十二)で、日親は三十四歳だった。
若いとはいえ、命の危険がある。
命を危険をおかしてまで、なぜ諫暁をするのか、諫暁とは何か ?

国の支配者に法華経が唯一真正な経典であることを認め、信じさせる、それが国主諫暁である。
僧としての位が高いほど国主諫暁の義務があるとされた。

国主諫暁の結果として命を落とすのは貴い殉教であるが、誰でも諫暁していいというわけではない。
苦行に耐え抜くだけの精神と肉体の鍛錬を経てはじめて諫暁することが許される。

「日親御上人のお言葉に照らせば、このような苦難にあうのは、まさにわたしが法華の行者であることの証明であろう」

傲慢にも聞える彼の言葉には、どんな苦難に出会っても法華経弘通の義務を果たさずにはおかないという強い決意にあふれている。

京都の法華宗本山の一つの本法寺は日親に任されていたが、そこで安住しなかった。
伝道につぐ伝道の旅を続け、彼自身が「日本の三分の一ほどは往復した」と言うほどだ。

他宗から激しく攻撃されたのはもちろん、味方のはずの法華宗からも非難された。
出身寺院の中山派法華寺からさえ破門されたのは、彼の「法華の行者」としての抱負が口先だけのものではない、何よりの証拠だ。

中山法華寺から破門されたのは弟子もいない、経典も持たない、何もない浪人の僧侶になったということだ。
逆にいえば法華経を弘める義務まで奪われたわけでもあるから、何もしなくていい立場になったのである。

しかし、日親がめざましい活躍を始めたのは浪人僧侶として京都に出てからのことだ。
僧としても認めてもらう、もらわない、そんなことは枝葉末節のことだというのが日親の姿勢なのである。

「来年をお待ちください。身軽法重・死身弘法の掟の命じるまま、わたしは国主に諫暁してみせましょう!」
ひそかに信仰を告白してくれたわずかの弟子に、日親はこう告げている。

浪人の僧侶の身分では、助けてくれる力は何もない。
それでも諫暁しないわけにはいかなかったのだ。

■ 蓮如 れんにょ (1415 - 1499) 女性に優しかった中興の祖

本願寺教団中興の祖。
第七代宗主存如の長子として生まれる。
六歳のとき生母と別離。
十七歳で得度。
諱は兼寿。
法名は蓮如。

宗祖親鸞は「弟子は一人ももたずそうろう」という信念から、市井に埋もれるようにして暮らしていたのだが、現在の本願寺は浄土真宗の最も大きい本山として海外にまでその名を知られ、東西両本願寺の信者の数はそれぞれ一千万人を超えるという。
このような大教団に発展させる基礎を築いたのが、四十一歳で第八代宗主となった蓮如の功績だといわれている。

その当時の真宗寺院としては仏光寺派や高田の専修寺派などの他教団ばかりが栄え、本願寺は参詣する人の数が珍しいほどにさびれ、経済的にも苦しい状態に置かれていた。
蓮如は宗主となるまで部屋住み生活をおくり、その間に七人の子供に恵まれるのだが、長男だけを手元にのこしほかの子供を養子に出さなければならないほどに生活は困窮していた。
一日に一度の食事さえままならず、一人分の食事を三人で分け合うことも珍しくないありさまだった。

しかも蓮如の下積み生活の苦しさは、経済的なものばかりではない。
生母が父親の正妻でなかったため、父親が正式な結婚をすることになると、六歳の蓮如を残し母親は姿を隠してしまっい継母に育てられることになる。
そしてのちに継母の実子と宗主の後継者の地位を争う、というつらい体験もあった。
父親の弟の尽力で蓮如が後継者と決まったとき、継母は土蔵のなかに味噌桶一つとわずかな小銭だけをのこし、おびただしい経論すべてを持って、子とともに加賀国大椙谷に去ってしまった。
実母と別れた上に、心ならずも育ての親を追い出す形となってしまったのである。
しかし蓮如はこうした苦しい環境のなかでも灯油の代わりに木を燃やし、その灯の下でひたすら勉学に打ちこむとともに、なぜ他派が栄え宗祖の血をひく本願寺派のみが衰退しているのか、どうすれば本願寺派を発展させることができるか、ひたすら模索を続けた。

その結果、直接説法こそ唯一の布教の手段と決意した蓮如は、各地を巡り始める。
貧しい農家かを訪ねたときには、稗の食事をともにしながら優しい言葉で宗祖の教えを説いた。
だがこの対話方法も、距離的には限りがある。
そこで親鸞の教えを要約した「御文」を書き送り、信者が仏事のときにこの御文を繰り返し聴聞するようにした。
蓮如はこの御文を死ぬ数ヶ月前まで書き続けた。
また「南無阿弥陀仏」の六字名号や「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を信者に与え、朝に夕に念仏を唱えることを勧めた。

「我ほど名号書きたるは日本でも有るまじきぞ」と語ったほど、立ったままでも、川を渡る船のなかでも蓮如は書き続けた。
御文や名号が社会の底辺で苦しむ貧しい人たちの間に浸透するとともに、本願寺教団は急速に発展していった。
特に女性の信者が増大した。

というのも、蓮如は往生の道を説くとき、男女の差別をしなかっただけでなく、阿弥陀如来は女性を救うことを本願とする仏だ、とはっきり述べている。
蓮如は二人の母を失っただけでなく、生涯に五人の妻と結婚したが、自分よりも年若い妻の死にしばしば遭遇しなければならなかった。
その悲しい体験も影響しているのだろう、蓮如の女性に対する心情は限りなく優しいものだった。

応仁の乱で身寄りを失い、天涯孤独の身だった三度目の妻如勝が、三十一歳の若さで死去したとき、信者への御文のなかで、蓮如は人の命のはかなさ、遺された者の言葉に尽くせない深い悲しみを切々と訴えている。
その当時、北陸での布教に明け暮れしていた蓮如にとって、如勝に十分なことをしてやれなかった、という思いが強かったに違いない。

が、蓮勝は生前に常々こう語っていたと言う。
「私ほど果報者はこの世にいないと思います。縁あって蓮如と結ばれ、今生の幸せは身にあまるほどであり、しかも後世の幸福は約束されているのですから」

明治時代に東本願寺の大師堂が建設される際に、女性信者の髪で編んだ綱を使用したという話が残っているが、それも女性信者の間に脈々と蓮如の女性に対する優しさが伝わっているからかも知れない。

■ 義堂周信 ぎどうしゅうしん (1325 - 1388) 都と田舎の合体

臨済宗の僧。
弟子の熱海中津とならんで五山文学の双璧とされる。
土佐の松岡寺で剃髪し、比叡山で受戒、天竜寺で無窓疎石に師事した。
関東管領の足利基氏の招きで鎌倉に行き、報恩寺を建立した。
将軍義満に請われて京都に戻り、建仁寺を経て南禅寺の住持になる。
詩文の才は中国にまでひびき、『空華集』『東山空和尚外集抄』などがある。

義堂周信は中国に留学したいという強い希望をもっていた。
無窓疎石という一代の傑僧のもとで学ぶにつけても、自分の修行の不足を痛感せざるを得ないのである。

だが彼は、たぶん結核と思われる病気にかかっていて、中国までの長く厳しい旅に耐えられぬことがわかっていた。

足利基氏に、「関東の禅を指導してほしい」と請われたときに彼の胸に浮かんだのは学力の不足であった。

しかし彼は決断して鎌倉にくだっていった。
躊躇する気持ちをなげうったのは故郷の土佐のひなびた光景の思い出であったろう。
「土佐に帰るつもりで行けば、あるいは学力不足の自分にも勤められるかも知れない」

関東の鄙びは予想どおりだったが、かえってそれがよかった。
鎌倉武士たちは、下にも置かぬ歓迎振りをしめしてくれたのである。
自信が出てきた。

しかし、春になると京都の花見の雅が恋しく思い出されて落ち着かなくなるのを、どうにもできない。
「やはり、まだ修行が足りんな」
反省しつつも、京の花見を思う詩をつくってみる。

  三年、禁城に遊びを 作さざれば
  幾度かの 東風 客愁を喚びぬ
  今日の 暮簷 春風の裏
  華に対して 猶 認めたり 旧風流
     (「雨中 花に対して」)

鎌倉には二十五年もいう長期にわたって滞在した。
その間に足利幕府の基礎は磐石のものとなり、三代将軍の義満は義堂を京都に呼び戻した。
「ようやく田舎に馴染んできたところなのだがな・・・・・」

京都に戻った義堂を待っていたのは、義満が計画している相国寺の建立と運営を指導する役目だった。
「初代の尊氏が建立した天竜寺に負けない寺を建てねばならん。それには貴僧の力を借りねばならん」
そう言われれば拒否はできない。
奔走の余暇、どういうわけか鎌倉が懐かしく思い出されてたまらない気分となる。
「わしは、あの田舎が嫌いではなかったらしいの」

  半年 帝城の東に 窃食すれば
  千里 心は帰る 旧桂叢に

あるいはまた

  半年 富士の雪を 見ざれば
  六月の 煩襟を 如何ともすることなし

口をひらけば関東の光景への未練の言葉がうかんでくるのであった。

それまでの日本の詩歌は田舎の鄙びを謳歌するか、都会の雅を歌うか、二つに一つを選んできた傾向がある。

いやも応もなく二十五年間もの鎌倉住まいを続けた義堂周信にいたってはじめて、都鄙をあわせて歌う姿勢が現れてきた。
新と旧の姿勢を一身に集めて歌う役割だといってもいいだろう。

世俗を捨てて山林の鄙びのなかに生きたいというのは禅僧に共通する心境だが、山林に鄙びがあるとばかりはいえないものだという諦めの気持ちが義堂の心のなかに湧いてきた。

  家々は 歳旦に唐堯を祝し
  寿酒に 春は農やかなれば 酌むは 幾瓢なるぞ
  自ら笑う 山林にも 俗を免れ難きことを
  瓦甌に茗を淪て 年の朝したるに 答う
      (「甲寅の歳旦に 衆に示す」)

ついに義堂は南禅寺の住持になった。
五山の上に列すと定められた南禅寺の住持ともなれば、義堂は禅宗世界の頂点に立ったということになる。

義堂の詩文の名前が高くなるにあこがれて、禅僧のなかには詩をつくり文をつづるのに耽る風習が広まった。
しかし義堂は、まず教義の深化と修行に重点を置かねばならないと教えていたという。

■ 絶海中津 ぜっかいちゅうしん (1336 - 1405) 文学も方便のうち

臨済宗の僧。
土佐の津野氏の出身。
仏智広照国師。
無窓疎石や春屋妙葩に学び、同郷同門のの義堂周信をたよって鎌倉に行き、建長寺で修行した。
1368年汝霖良・如心中怨とともに明国への留学を果たし、詩僧として高名な李潭宗ロクらと交遊した。
帰国後は相国寺鹿苑院主として僧録となる。
詩集『蕉堅稿』があり、義堂周信とともに五山文学の双璧。

「絶海中津の詩には日本風の臭みがない」
明の如蘭という僧は、絶海の死をこう評価したといわれる。

日本の禅僧は漢文学を学んで漢詩をつくるが、日本風の発想を中国語に翻訳して詩作するのが普通だった。

日本人の詩である以上はこれでかまわないはずだが、禅僧としては発想そのものから中国風の詩歌をつくりたいものだと苦心していた。

だが、それは容易な業ではない。

日本に生まれ、日本の寺院で修行している現実が、純然たる中国風の発想や詩作にブレーキをかけてしまうのである。

そのなかで絶海中津の詩だけは、本場の中国人詩人から「日本人の詩とは思えない」という高い評価を受けたのだ。
いかにレベルの高い詩であったのか、これでわかる。

さて、絶海は明国に留学する幸運をつかんだのだが、先輩で病弱な義堂周信をどんなにうらやましがらせたことか、想像にあまりある 。

明国は1368年(応安元)、つまり絶海が留学したほんの少し前に建国されたばかりで、日本人の入国についてはかなりきびしく規制されていたらしい。
それまでに留学していた何人かの日本人僧があちこちの寺院に軟禁されていたという話もあるほどだから、絶海の留学生活も色々と制限を受け、思うように禅の修行ができなかったはずだ。

それが逆に好結果を生んだ、と言えるかどうかは難しいところだが、絶海は禅の修行そのものより詩作に集中したのである。
留学僧を管轄する役人が、文学修行なら大目にみてやろうという姿勢であったらしい。

絶海中津という日本の禅僧は本格的な詩を作るとう評判が、明朝の創始者の太祖にとどき、「ここへ呼べ」ということになった。

これは推測にすぎないが、この頃絶海は帰国しようと計画していて、その筋からなかなか許可が出ないのに困っていたのではないだろうか。

絶海に同情する人があり、皇帝の謁見を受け、かんばしい印象を与えれば許可が出るように条件を整えてくれたのではないか。

禅の教義について基本的な質問があり、絶海が答え、そのあとで太祖皇帝が姿勢を改めて問うた。
「除福の伝説を知っておるか?」
「存じております」
「ならば、今ここで除福伝説にっ材をとって詩を詠んでみせよ」

秦の始皇帝に命じられ、数千人の者を連れて不老不死の仙薬をもとめて海に出て行ったいうのが除福である。
除福の一行が日本に着いたという話は沢山あり、熊野の新宮には「除福の祠」といわれるものがある。

しばらく瞑目していた絶海は、紙筆をもらってさらさらと書きつける。

  熊野峰前に 除福の祠ありて
  満山の薬草は 雨余に 請えたり
  只今 海上は 波濤も 穏やかなれば
  万里の好風なり 須らく早く 帰るべし

     (「制に応じて三山を賦す」)

「只今」の一句には「太祖皇帝の明の世は」という意味にかけてあるにちがいない。
つまり賞賛の言葉である。
太祖皇帝の政治が立派だからこそ風も波も静かなのであります、というわけだ。
「よくできた」
皇帝は賞賛の言葉を返し、絶海は帰国の船に乗ることを許された。

五山文学の双璧として、絶海と義堂の人間や作品はしばしば比較の対象にされる。

義堂があくまで禅僧としての立場から踏みはずさないことを心掛けたのにたいして、絶海は文学偏重ともいえる。
ある意味では危険なところに踏みだすのに躊躇することがなかったといわれる。

どちらがどうと言うべきものではないが、文学もまたホトケの教えを弘める方便の一つとみれば、絶海の決断は貴重なものだといっていいだろう。

■ 明兆 みんちょう (1351 - 1431) 画業に終始した禅僧

室町時代の画僧、道号は吉山。
東福寺の殿司役を務めたので兆殿司と呼ばれる。
淡路島に生まれ、同郷の大道一以をたよって東福寺に学んだ。
殿司役を務めながら画業に精進し、数多くの仏画や頂相を描いて禅林画壇をリードした。
妙心寺退蔵院所蔵の「瓢鯰図」で有名な如拙とほぼ同時代の画僧だが、如拙は淡い色彩の山水、明兆は濃厚な色彩の仏や菩薩絵を特徴とする。

みごとな仏画に感動して作者の名前を聞けばたいていは兆殿司の名前がかえってくる。
そういわれるくらいに著名な存在だ。

東福寺の「五百羅漢図」「聖一国師像」「達磨・蝦蟇・鉄拐像」「四十祖像」といった重要文化財指定の作品のほか、南禅寺金地院の「渓陰小築図」(国宝)もまた兆殿司の作品だろうと推定されている。

仏画といえば兆殿司といってしまっては大袈裟になるが、そう言いたくなるくらいに、たくさんの仏画をのこいsた人である。

足利義満が三代将軍になった頃から世は安定にむかった。
中国大陸でも明朝の建国によって漢民族自身の統合が復活し、東南アジア諸国に対する文化的な影響力を取り戻した。

政治の安定は禅宗世界の内容的な深まりを可能にした。
水墨画の需要が急増し、それにこたえるべく専門的な画僧が誕生してくる。

明兆は子供のときから画業の才を発揮していた。
同郷の大道一以をたよって東福寺に入ったのも、そこへいけば得意な絵の道で生きていけるという展望があったからだろう。

絵を描きたいから禅僧寺院にはいったというのは矛盾した動機のように聞こえるかもしれないが、当時の禅宗寺院は明兆のような芸術家を必要としていたのである。
いいかえれば、専門的な芸術家を育てあげるパトロンの能力をつけてきていた。

大道が他出していた留守、明兆は不動明王の絵を描いていた。
そこへ突然、大道が予定を早めて戻ってくる。

描きかけの不動明王の絵を膝の下に隠したまではよかったが、膝の下から炎がふきあがってきた。
不動明王図の火炎が生命をふきこまれたのである。
「兆殿司よ、お前の腕はこれほどまでに!」
師の大道も、それからは明兆が仏画を描くことを許したという。

水墨画で有名な雪舟には、涙で描いたネズミが動き出したというエピソードがある。
神技とも見紛う芸の力を賞賛するための作り話ではあろうが、雪舟がネズミで明兆が不動明王という対比が面白い。
明兆はあくまで禅の画僧としての立場に終始したのだ。
たいする雪舟は芸術至上主義ということになろうか。

東福寺の「五百羅漢図」の作成にとりかかっていた時、故郷の淡路から母が重病だととの知らせがあった。
見舞いに行けぬことはないが、ここで筆を置くと調子が狂ってしまい、はじめから描きなおさなくてはならない。
明兆は自画像を描いては故郷の母に送り届けた。
「水鏡像」と名付けられた明兆の自画像は、いかにも篤実な彼の人柄をしのばせる。

明兆は四代将軍義持に愛された。
「欲しいものはないか、望みにまかせるぞ」
「桜の木はいけませぬ。引き抜くことをお命じになってくださいませ」
「桜の木・・・・・それはどういうことじゃ?」
東福寺の衆僧たちは桜の木を境内に植え、花の咲くのを楽しんでいた。
このままでは静寂な雰囲気がこわれ、東福寺が有楽の地になってしまう。
それを憂えていた明兆であった。

■ 雪舟等楊 せっしゅうとうよう (1420 - 1506) 落ちこぼれだった水墨画の大成者

備中赤松に生まれる。
十一歳の頃京にのぼり相国寺の春林周藤について参禅。
周文に絵を学ぶ。
四十五歳のとき、山口の雲谷庵に住す。
三年後遣明船に乗り入明。
水墨画の技法を学ぶ。
帰国後大分の雲谷庵に住し「天開図画楼」をいとなむ。
六十歳から三年あまり諸国遍歴し、東北地方にまで及ぶ。
「山水長巻」「破墨山水図」「恵可断臂図」「天橋立図」など晩年まで傑作を描き続け、山口雲谷庵で没したといわれる。

雪舟が楊雲谷と呼ばれるようになるまでの半生は、備中国津窪郡赤浜村、現在の岡山県総社市赤浜生まれで、生家はわずかな農地をもつ藤氏という武士というくらいしかわからない。
江戸時代に狩野永納が書いた「本朝画史」は俗姓を小田氏とし、雪舟の子供時代の逸話としてよく知られる、涙で描いたネズミの話が出てくる。

雪舟は子供の頃、生家から十二キロほど山奥にある宝福寺に預けられた。
ところが絵ばかり描いて、少しも禅の修行をしない。
いくら和尚が注意しても改まらないので、とうとう本堂の柱に縛りつけてしまう。
夕方、和尚が様子をみにゆくと、雪舟は泣きつかれて眠っている。
ふと見ると、側に一匹のネズミ。
和尚が追い払っても逃げない。
よく見るとそのネズミは雪舟が足の指を使い、流した涙で描いた絵だった。
それからは和尚も、雪舟の絵の才能を認め、絵を描くことを止めなくなったというのだ。
物語の真偽はよくわからないが、子供の頃から雪舟に画才があったことは本当だろう。

雪舟は十一歳の頃京都にのぼり相国寺に入るのだが、この寺には画僧として名高い天章周文がいた。
周文は『瓢鯰図』の絵で知られる如拙の弟子で、その才能は将軍足利義政などからも高く評価されていた。

相国寺での禅僧としての地位は「知客」といい、賓客の接待係だったから、どちらかといえば低い。
その上に経を読んだり、古典を学んだりするのが好きではなかった雪舟だから、春林周藤について禅を学びつつも、のちに雪舟が絵の師を「吾が祖如拙、周文両翁」と称した周文のもとで絵の修行をせっせと続けていた。
そうするうちに、もっと自由に絵を描きたい、できれば好きな絵だけを描いて暮らしたい、という思いが年々強くなってくるのは当然のこと。

雪舟がはっきりと水墨画かとして生きる、と決意したのは、四十歳代の前半になってからで、対明貿易で栄えていた大内氏の本拠地山口に移ると、絵を描くために雲谷庵をいとなむという思い切った行動にでた。
人生五十年の時代にあっては、随分と遅い出発だったといえよう。
雪舟は師の春林周藤より与えられた諱の等楊から一字をとって楊雲谷と名乗り、間もなく地元ではちょっとは名の知られた画家になった。

雪舟が山口を選んだのには、ひょっとしたら明に渡れる好機があるかも知れない、という思いがあったのが、四十八歳のときにその機会がやってくる。
足利義政が明に派遣する勘合貿易船に乗ることを許された雪舟は、憧れの地、中国五山第三位で栄西や道元が受法した名刹として日本でもその名を知られていた大伯山天童景得禅寺に入ることができたのだ。
しかもこの寺で「禅班首座」の席を与えられた。

雪舟は三年間明にとどまり、墨色の濃淡やにじみを使う技法の破墨や色彩などを学んだものの、絵の師といえる人にはめぐり会えなかった。
当時の明の画壇には、雪舟の憧れた北宋や元の水墨画を生み出したエネルギーはすでに失われ、かえって雪舟の絵が人気を集め、礼部試院中堂の壁画を描いて一層名をあげるというありさまだった。
しかし雪舟は失望しなかった。

「大明国のなかに絵の師はいなかった。しかし絵がなかったわけではない。中国の名山、江河、草木鳥獣、人物風俗、これらが絵そのものである。そして中国の溌墨(破墨)の法、運筆の技術を心得て手に応ず、これは自分のことだけのことであって、師にあるのではない」
とのちに雪舟が語っているように、中国の自然に感動するとともに対象を心でとらえる力量が不足していることを実感し、せっせと古典の模写を始める。
帰国後は、遅いスタートを取り戻すかのように、次々に力作を生み出していく。
国内を旅行しては、中国にはない日本の四季の変化を絵に写しとり、八十二歳を超えてから大作「天橋立図」と取り組むほどの、執念とさえおもわれる情熱をみせた。

1486年(文明十八)完成の大作「山水長巻」には、雪舟の名が墨書きされる。
これは自覚的に書かれた最初の落款といい、落ちこぼれ禅僧雪舟の絵によせる自信と誇りを伝えている。

つづく  

 
名僧 100人
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