ROAD TO BLUES Clarksdale
Memphisでリバーサイドホテルを予約したとき、「ついたら電話よこしなよ。迎えに行ってやるよ。」と言われたので、さっそく教えてもらった番号に電話をかけてみた。…しかし、誰も出ない。しょうがないので、その小さなバスステーションの黒人の女の人に、場所を聞いたんだ。その人はとても親切に教えてくれたな。ここからスタートするんだ。この町の人々は、事あるごとにとても僕に親切にしてくれた。サザンホスピタリティというのか、南部特有の親切心というのがあるらしいけど、そんな言葉なんかどうだっていいんだ。人種とか、国とか地域とかじゃなくて、とにかくとても僕は嬉しくて、…本当に嬉しかった。
ロバートジョンソンが悪魔に魂を売ったと言う、現在の61号線と49号線のクロスロード(後日、ここは新道で、旧道がちゃんとあり、そこにも行くが)を通りこえて、しばらく行くとサンフラワー通りにぶち当たる。そこを右に曲がると、住宅地(もちろんここは黒人住宅地)なのだが、はて、こんな住宅地にホテルなんかあるのかな?と半信半疑で歩いている
と、突然目の前に現われた。「Riverside Hotel」だ。ブルースホテルだ。ライトニングがここでいつも同じところで間違えながら練習し、以前病院だったとき、ベッシースミスが息を引き取ったところだ。平屋、というか、川岸に立っていて(サンフラワーリバー)、土手があり、地下というのだろうか、玄関が2Fというのだろうか、とにかくそんなところだ。このホテルを見たときの感動といったら、まったく計り知れないんだな。ここのママ、Z.L.ヒルおばさんは、数年前に亡くなられたんだけど、今は息子のラットおじさんが経営してるんだ。
おじさんは僕のことを(電話のジャパニーズ)覚えてくれていた。「まぁ座んなよ。(おしゃべりしよう、というニュアンス)」といった感じで、ゲストブックに僕は自分の名前を書いて、これまでのいきさつを(時間をかけながら)しゃべったんだ。ラットおじさんは、以前、ここに宿泊した僕みたいなブルース好きな人からの手紙を、一人一人大切に額に入れて飾ってあるんだ。もちろん、ヒルおばさんがいたときからの、ブルースマンの写真もたくさん飾ってあった。日本人の僕に、シーナ&ロケッツ(以前2度訪れ
ている)のシーナさんの写真を僕に見せては、「俺の妹だ」と嬉しそうに見せてくれた。その後、ベッシースミスが息を引き取った部屋を見せてくれたりして、僕をその隣の部屋に案内してくれた。5泊するということで、宿代も大幅に安くしてくれたんだな。
毎朝会うごとに「よく眠れたかい?、ひまだったら事務所でくつろげよ」と言ってくれたし、ある日、僕が食パンに飽きて、何か買いにいこうとしたとき、「どこまで行くんだ?、乗せてってやるよ」と、愛車に乗せてもらったりしたな。もちろんカーステレオからはブルースナンバー(伝説のWROXだろうか、不明)で、ラットおじさんは歌いながら連れてってくれたもんだ。
近くに、中国人一家(移民してきたのだろう)が経営するフードマートがあって、そこでは日本に留学していた人もいて、ラットおじさんとそこへ行ってはいろいろ交流させてもらったな。大学で中国語を習った僕は、自己紹介だけ覚えていて、ちょっとしゃべってみせたりもしたな。そこのフライドライス(チャーハン)はおいしかったな。ラットおじさんはそういうとき「Everybody knows me(この町で俺のことを知らないやつなんかいないぜ)」とちょっと自慢げに笑って見せた。(実際そのとおりだし、ヒルおばさんが亡くな
ったときは町を上げてのお葬式だったと聞いた。)
ブルース博物館(こういうととても近代的な町に聞こえるが、そうではない)は、新しく立て直されていたけど、その資料にはとても満足した。図書館に出向いたら、順番待ちでインターネットが無料でできたな。南部、また都会以外に限ってだけど、とにかくすれ違ったら軽く挨拶を交わすんだけど、この町では、(この時季の)日本人が珍しいのか、道路の向こうっ側からも、挨拶してくれたな。ちがうフードマートじゃ、僕がちょっと贅沢に食パンにはさむハムを選んでいるとき、店員が、「日本から来たのかい?、ブルーズが好きなんだね?」と話しかけてくれたりもしたな。
一日中、リバーサイドホテルにずっといる日もあった。とにかく、ずっといてもよかったんだな。僕が次の町へと移る日、グレイハウンドバスのディーポ(バスステーション)まで、車で送ってくれた。途中、中国人のフードマートへ挨拶した。「ブルースフェスティバルの頃に絶対またおいで。待ってるよ。」と言ってくれた。
その後、ラットおじさんにお礼を告げて、軽い握手を交わした。
…初めて「別れ」というものに、悲しみを覚えたんだ。
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※個人的なお断りですが、クロスロードの写真は控えます。