ROAD TO BLUES Chicago
ブルースが戦前と戦後で区別されたり、デルタ(ミシシッピ)とシカゴで区別されたり、まあいろいろあるわけだし、ブルースファンなら一度はたずねてみたい土地でもあるのだろう、シカゴ。もちろん、映画「ブルースブラザーズ」の舞台でもある。
シカゴのブルースクラブは洗練されている。わかりやすく言うと、うまいのだ。ただ、僕は、この旅において、唯一、後悔がある。サウス地区のブルースクラブに行かなかったのだ。これは正直に言おう。行けなかった。
昼間、サウス地区に足を運んだ(サウス地区とは、黒人地区のこと)。南部のように、黒人があたりまえの世界ではなく、やはり、L.Aと近いところがあるけど、大都会で、白人社会で、目に見えてハングリーな黒人達がいて、その住宅地に足を踏み入れるという、多分、それまでの経験から言うと、実際行ってしまえば何もなかったのだろう。ただ、ちょっと疲れていたり、めんどくさかったりしたのもあるし、
お目当てのライブがなかったのもあるし、昼間行った時も、人っ子一人いないような荒廃した地区を歩いたわけだけど、L.Aでは、それでも数人の人たちがいたり、マーケットがあったりしたわけだけど、そういう雰囲気ではなくて、ちょっと踏み入れてはいけないような、そういう匂いがしたんだ。
今思えば、なんてことなかったんだろうと思う。まあ、今度行くときは、夜のサウス地区に行ってみよう。
当たり前のように、ブルースクラブはあるわけだけれど、大物で言えば、バディガイ、オーティスクレイ、ココテイラー、ウィリーケント、いろんなミュージシャンのライブを聞いたし、バディの店でちょいと苦い経験もしたわけだけど、そうだな、ナイトライフというよりは、この街の夜の風景を記そうか。
![]()
同じ観光でも、食パンを昼頃に食べたっきり、クラブをはしごしてはほっつき歩いて、電車で近くまで帰って、開いているリカーショップでビールを買って、酔っ払いに絡まれてたばこを投げ捨てていたある日のニホンジンは、有名なバーガーショップでもいやな顔をされて、注文せずに出てきた。気分は黒人だった。これまでの旅でのいろんな歪みがあったんだな。正直言ったら、撃たれてもいいと思う夜もあった。
・・・ちょっとディープなこともあったけど、初めての海外でのカウントダウンは、よかった。
それはあっという間だったんだ。シカゴは、マイナス10℃で、風があるもんだから、とても体感温度は低いんだけど、12月31日、
日本ではみんな初詣を済まして初夢を見ている最中、とある広場に集まってカウントダウンさ。
「全てが始まるような、それまでの全てが終わるような、悪いことなら特に・・・」テロ後のアメリカだったから、特に、そういったエネルギーにあふれていた。
北海道神宮と違って、とてもNEW YEARだった。カウントダウンは30秒前から始まって、ファイアーフラワーが盛大に10分くらいあったかと思うと、三々五々、終わりなんだ。要するに、クリスマスも、イースターも、「過程」を楽しんで、当日「ワア!!」というのがアメリカンチックなんだな。とってもロマンチックだ。すごくよかった。
初めての海外での年越しは、「今年も終わるんだ・・・」的なニホンジンの風習ではなく、明らかに笑っちゃうくらいバカな感じだったな。そういう、バカをわかってて、それに乗っかっていく、ドライというか、言ってしまえば、ユーモラスなんだな。日本は、文明開化からわずか100年ちょっとだもの、そういったユーモアは顕著にはまだないよな。でも日本酒飲んで寺の鐘も大好きだけどね。
ラットおじさんの、クラークスデイルは、どういうNEW YEARなのかな?とふと思ってしまった。きっとみんなアットホームなわけだけど、おじさんは一人なわけだし、どっかのクラブに行ってたのかな。それともあの部屋で当たり前のようにアメリカンフットボールをみてたのかなあ。
僕にとって、シカゴの夜は、ちょっと理性を要した。なぜならば、南部と違って、まぁたまたま住むところがそうだったのがあるけど、ブルースクラブへ行くのも、帰るのも、電車かバスだったし、夜のダウンタウンの僕の住んでいたループ地区は人っ子一人いないんだ。札幌で言えば、大通り公園から北のオフィス街みたいなもんさ。一人でふらっとクラブへ入ったもんなら、ずっと一人さ。それもいいよね、と思う人もいるかもしれないけど、そんな毎日ばかりじゃ、いやにもなるよね。たぶん、英語がもっとしゃべれたり、ギターでステージに立てるだけの技量と度胸があれば、180度変わってくるんだろうな。とても悔しかったな。
それでも、楽しいことは山ほどあったよ。年が明けてから、ほんと楽しいことがたくさんあった。きっと、何年後かに行っても、地図とかガイドブックとかなしにいろんなところにいける。楽しい場所をたくさん見つけた。
僕のアメリカ滞在費はギターの借金を抜いても日本円で残り5000円を切っていた。