染み男のカルテ
作:ぶんろく

「はぁー」
 無言で診察室に入ってきた啓介が、診察用の長椅子に座って長い溜め息をついた。診察室の二酸化炭素濃度が一気に上がるんじゃないかと思うほど長い溜め息だった。
 患者ならば話し出すまで待つところだが、わたしは啓介を患者とは認めていないし、幼稚園時代からの友人という気安さもあって声をかけてしまった。
「珍しく元気がないな、啓介。どうした失恋でもしたか」
「人の気も知らず相変わらず能天気なやつだ。それで、よくもまぁ精神科の医者なんてやっているな。でも今日は許す。特別に許す」
「なにを偉そうにいいやがる」
「いまのも聞かなかったことにしてやる」
「だからさ、なんなんだ、溜め息の原因は」
「鉄雄、俺の病気は治るのか。本当のところを言ってくれ」
「本当のところといわれてもなぁ。おまえみたいな症状は直すとか直さないじゃなくて、おまえ本人がどう折り合いをつけるかということだ。コントロールすることを覚えるんだ」
「アンコントロールだ! 薬はないか?」
「ない」
「じゃぁ、この世の中から染みを消してくれ。それが無理なら目をつぶせ!」
「まぁまぁそう興奮するな」
 啓介を落ち着かせて話をきくと、どうやら、染みだらけの空間に入ってしまい、いっせいに染みに話し掛けられてパニックになったらしい。
 夜逃げした家の掃除を請け負ったんだそうだが、天井の染み――福助みたいな形をしていたらしい――に、掃除の仕方が悪いと叱られ、畳の焼け焦げ――貼り付けにされたキリストにみえた――に身の上相談され、たんすの中の下着の染みに誘われたそうだ。おまけに襖の染みは次はわたしの番だと言うし、捨てていかれた湯のみのなかの茶渋の染みまで話し掛けてきたそうだ。
「そりゃ大変だったなぁ」
「あぁ、大変だった。とどめは仕事を終えて帰宅しようとして入った地下鉄の駅だ」

染み男のカルテ

 7月14日再診


だんな、天井なんか睨んでなんの思案ですかい。おかげでこっちの姿が目にとまったんだからありがたいけどね。
 うるさいって、ずいぶんつれないんじゃないですか。もうたくさんだ、あっちへいけっていわれても、あっしは動けないんですよ。
 なんで天井に貼りついているといわれてもね。あっしにもわからねぇんで。ちょっと先の天井に散茶が居ませんか? 散茶ってなにかっていうんですか。野暮はこれだからいやだよ。吉原ってのは知っているでしょう? 花魁は知ってますか? 散茶はその下のランクです。えっ? 女郎にも階級があったのかって? こりゃ話にならねぇや。
 あいつは獄門になったあっしの後を追って沼に飛びこんだんですよ。かわいいじゃありませんか。のろけているわけじゃないんですよ。
 散茶のそばに禿がいるって? そりゃだんなの目の錯覚だ。お医者に診てもらったほうがいい。禿がつくのは太夫だけだ。あっしらのご時世にはそんなものはもういませんでした。
 なんで獄門になったかって聞いてくれるんですか。うれしいねぇ、それじゃ聞かせてしんぜやしょう。
 なに気取ってんだって、へへ、だんなにゃかなわいねぇ。
 あっしは、白浪です。泥棒ですね。日本新左衛門っていいます。もちろん本名は違います。本名ですか、恥ずかしいな、笑っちゃいやですよ。鳶の油助といいます。
 江戸の生まれですが、十五のときに勘当されて、それ以来無宿です。日本人であって日本人じゃない。埒外の存在です。
 勘当されるからには、悪がきだったわけで、その後も巾着きりからはじまって、最後は押し込みです。ねずみ小僧の友達かって? 冗談は芳之助です。
 ねずみ小僧は義賊っていわれてます。庶民の味方だって。大名屋敷ばかりねらって庶民にばらまくってね。でも、泥棒にいいも悪いもないじゃないですか。悪いに決まってます。だんなだってそう教わったでしょうが。
 義賊ってのは本人がいったんじゃなくて、泥棒したくてもできない、だけど金持ちはうらやましいねたましいっていう奴等が、つけた飾りでさ。ほかにも日本左衛門とか、今日本左衛門、因幡小僧なんてのもいました。みんな義賊です。芝居にもしたてられて、冥土じゃいまでもいい顔ですよ。閻魔さまも手玉にとってやがる。
 義賊なんって言われている奴等は、盗みはするけど殺生はしないなんていいますけど、うそですよ。有象無象がかってにそう思い込んでいるだけ。たまに大店の人間が殺されても、あくどい儲けかたをするからだ、侍が殺されても、商人から袖の下をとっていたにちがないって、自分たちで理由を見つけてやる始末です。
 たしかに殺しは少なかった。でもね、女とみりゃ手当たりしだいに手込めにするやつはざらでした。それも、表に出ないだけです。だから義賊なんていやしないんです。
 悪党のなかには、義賊だなんていわれていい気になって、ぶるやつもいました。
 それにね、大名屋敷ばかり狙うっていったて、そりゃ、いちばん狙いやすかったからですよ。たたいても埃も出ないとわかっている裏店にすむやつなんてだれが狙いますか。大名屋敷は金は少ないけど、金目のものは結構ありやす。それにね、盗まれても「面目がたたないのか」訴えるやつもいない。
 そこへいくと、大店は警備も厳重だし、いざとなれば訴えもする。だからね、武家屋敷なんです。それでもできるだけでかいところ。いったん塀を乗り越えて入ってしまえば二、三日いたってちょっとのことじゃ見つかりはしません。本当ですよ。あいつらは、自分たちがいちばん偉いなんて油断してますからね。
 義賊ぶるやつには、獄門にされる前に引き回されているときに、声がかかったそうですよ。まったくこまったもんですよ。善悪の判断もつかないんですからね。で、勘違いしてる盗人のほうも辻辻で馬を止めさせては辞世の句なんて読んだりしてね。世の中狂ってますよ。
 だからね、あっしは泥棒らしい人生を歩んだんです。殺生はしませんでした。女を犯したりもしませんでした。でもね、盗みに盗みました。大名屋敷では家宝を盗み、大店からは大枚盗み、千両箱は重いんですよ。あっしっは徒党を組まなかったから、百両もあれば十分です。
 それから、裏店からも小銭や米や味噌を盗みました。それを全部自分で使いました。おまけにちゃんと名前を残して帰りました。染め抜きの手ぬぐいです。鳶の画を書いておきました。
 大名屋敷の家宝は、辻にさらし者にしてやりました。大店もつぶれそうなところでもかまわず盗みました。そのあと一家が心中しようが、お家が取り潰されようが関係ないです。
 だからね、あっしは憎まれました。江戸中を敵に回したといってもいいぐらいです。
 四、五年もそうしてました。ところが捕まっちまった。義賊のなかには捕まったときにも、天網恢恢疎にしてもらさずを知らせるために捕まった等とほざいたやつもいるそうですがね。あっしは悔しかった。で、お役人に「日本新左衛門」と呼んでくださいといったら、なにをこの悪党が、おまえは悪党の風上にも置けないといわれましたよ。お役人からしてこうですから、あとは押して知るべしです。
 で、あっさり獄門にするのはもったいないとおもったのか、散々責められました。石を抱かされ、水攻めにされ、ようやく獄門にされるときに引きまわされたときには、石をさんざんぶつけられて二度ばかりはよけそこなって気を失いました。
 さらし首も蹴られたり石を投げられたりで、腐る前にぼろぼろになったと、後からやってきた散茶に聞かされました。ひどいもんですよ。
 でもね、あっしは、ざまぁみろと思った。悪党らしく生き抜いてやったと誇りにも思っているんです。
 そのわりには名を残してないって。だんなまでそんなこというんですか。情けねぇ。あっしは人に好かれませんでしたからね。悪事を隠すために人情にこびることもなかった。だからね、忘れられたんです。いっとき、芝居に登場して、義賊を裏切って死ぬ悪党として書かれたこともあったみたいですよ。
 でもね、だんな。同じ悪でもどっちが悪ですか? 盗っ人の居直りだって? どっちも悪だってあっしが言った? そうでしたっけね。比較の問題ですよ比較。天秤にかけりゃ少しは傾くでしょうが? (完)

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