染み男のカルテ
作:ぶんろく

「そんなに笑うな!」
「ごめんごめん」
「そりゃ、生きるの死ぬのって話じゃないけど、おまえは精神科医だから、もしかしたら原因がわかって、なおす方法があるかと思って……、おれは真剣なんだ」
 そういって目の前のカウチで涙目になっているのは、わたしの幼稚園時代からの友人である啓介だ。
 わたしが笑ったのは、トイレの壁の染みがバナナに見えた瞬間に、熱帯林にワープしてしまったと啓介に聞かされたからだ。
 気がついたら啓介は熱帯林の切り株に腰掛けて、手にしたバナナをオランウータンにやっていたという。ズボンをひざまでおろした状態で……。
 子供のころ天井の染みや壁の染みが得体の知れないオバケに見えたり、雲が動物に見えたりということは、多くの人が経験することだ。
 トイレにしゃがみ、目の前の小さな花を散らしただけの壁紙もじっと見ていると、人の顔が見えたりすることもよくあることだ。
 人の目がなにか見ようとし、見たものに意味を与えようとする生理的現象がなせる業なのであろうが、啓介の場合は困ったことに、見えたものに引き込まれたり、話し掛けられたりすることだった。
 目の前にいるのが友人でなければ、親知らずもとっくの昔に生えた大の男が、なにをたわけたことを、と知らん振りをするところだ。
 たしかに、啓介が夢見がちだったことは知っている。いまでも、今の自分じゃない自分を思い描いてストレスを発散することがあることも知っている。
 べつに本人にも周囲の人間にも害があるわけではないから、特異体質とあきらめてしまえばそれまでなんだろうが、啓介の場合、度を越している。
 まぁ、わたしにできるのは、こいつの奇想天外な体験を否定せずにに聞いてやることだけなのだが――。
「で、つぎはどこの染みの話を聞かせてくれんだい」
「あ、もう笑ってる。おれはべつにおまえに笑われるためにこの長椅子に横になっているわけじゃないぜ」
「わかってる。おれも精神科医の端くれだ、患者の秘密は絶対に守る」
「どうだかな! 小学校三年、五月七日木曜日、学校から帰ったら近所のお化け屋敷を探検にいくと約束したのに、いざ、おれが迎えに行くと怖じ気づいたおまえのことだからな、当てにはできんが」
「まったく古いことをことこまかに覚えているやつだ。友達なくすぞ!」
「ほっとけ。
 おれはその日、暇な午後をつぶそうとスポーツクラブに行った。トレーニングのあとサウナにはいったんだ。鉤形の平面をしたサウナのなかは二段になっていて、いちばん奥の壁に、人が寄りかかっているような形をした汗の染みがあったんだ」。

染み男のカルテ

 4月20日初診


[住友銀行紙屋町支店]
みりゃわかるだろ、弁当をたべているんだ。仕事さぼって早弁しているわけじゃないよ。朝飯さ。かあちゃんにつくってもらった弁当をいつも食べているんだ。夜勤あけでね。家に帰ってもだれもいないし、ここの玄関は西に向いていて日陰だからね。それにこの石の階段が冷たくて気持ちいいしな。この街の夏は蒸し暑いだろう。朝の八時だっていうのに、ちょっと歩いただけで汗が流れる。
 え、ずいぶんと人が働いているって? 変なこというね。土地のもんじゃないのかい。あれは、建物の強制疎開さ。広島の街を東西に貫いて六十間幅の空き地をつくるんだそうだ。あそこに見えるのが産業奨励館だよ。ちょっと変わった建物だろ。
 広島は空襲に遭わないっていう話だけどな。なんでかね。アメリカには広島出身者が多く移民しているからってうわさもあるけどね。
 今日もいい天気だな。今日は何日か? 八月六日だけどよ。いくら夏だからって、あんた素っ裸じゃないか? 酔狂な人だね。おい、あんたいかれてるんじゃないよな? 憲兵に見つかったらひっぱられるよ。
 まぁ。いいや。ここらへんじゃみかけない人だね。
 東京か。この春にはアメリカさんが爆弾を雨あられと降らしたそうじゃないか。東京が焼け野原にされたんじゃ、軍のおえらいさんたちはさぞや頭にきているだろうね。
 おまえさんの家は大丈夫だったかい。身内に死なれるのはかなわんからな。みんな疎開していてだいじょうだったのか。そりゃなによりだ。おれんちでも、大阪に嫁にいった一番上のねーちゃんも赤ん坊連れて帰ってきているよ。じいちゃんばあちゃんは、孫の顔を見られて大喜びだがな。
 おおかた、南方で戦死した兄貴の生まれ変わりとでも思っているんだろう。兄貴はジャングルで病死したそうだ。鉄砲玉にあたったわけじゃない。傷からばい菌が入ってからだが腐って死んだそうだ。
 兄貴は頭にいい人だったから、辛かったろう。納得できなかっただろうな。
 弁当食い終わったら、部屋にかえって、夕方までねる。今日も夜勤だ。電灯もろくにつけねぇで働かせるんだからな。それでも兵隊さんに比べればいくらかはましなんだろうとあきらめちゃいるが。おれもいつ招集がきてもおかしくないからな。
 あれぇ、またB29がきたね。朝っぱらからアメリカさんも仕事熱心さね。でも変だな空襲警報が鳴らないね。あぁ、なんか落とした。落下傘つけてるね。おおかた宣伝ビラでも撒くんだろう。日本じゃ紙がないのなにがないのと騒いでいるのに、豪勢なこったよな。憲兵には内緒だけどな、あのビラ集めて便所紙にしてんだよ。ちょっとちっこいけどないよりましだ。
 ビラを読んでもうすぐ戦が終わるという人もいる。いや、米英の謀略にたぶらかされるな、本土決戦だという人もいる。どっちかね。アメリカさんに勝つにこしたことはないが、早く終わってほしいよ。戦が終わったら、大阪に出て商売したいんだ。夜学にも通いたい。金儲けて、嫁さんもらって……。
 大丈夫だよ逃げなくても。ここらは爆弾おっことして何もないから。どっちみち呉あたりを空襲した帰りにビラを撒くだけだ。
 え、早くにげろって。なんでさ、原子爆弾? なんだいそりゃ? 焼け死ぬって。あんたも変なこというね。
 はいご馳走様。今か? えーと八時一四分だよ。(完)

参考文献
久保安夫 中村雅人 岩堀政則 著 『B29エノラ・ゲイ原爆搭載機「射程内ニ在リ」』 一九九〇年 立風書房


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