飛梅の由来

漢詩:「秋思祭(九月十日)」

承和12年(845年)学問の家として知られる菅原家に、男児が生まれた。これが後の道真である、父の是善(これよし)も祖父の清公(きよただ)も名尾ある文章(もんじょう)博士だったので、道真もその名を辱めぬよう幼少のころから勉学に励んだ。

その甲斐あって、23歳で早くも文章得業生に選ばれ、33歳で文章博士となった。祖父と父の二代にわたるこの官に弱冠33歳で就任したことは、道真にとって本懐とするところではあったが、このあたりから道真の身辺は複雑な人間模様に彩られていくのである。

まず第一は、あまりにも順調な出世に対する周囲の羨望と嫉妬であり、第二は朝廷上級官僚らの勢力争いであった。確かに道真の累進は目ざましいものがあった。とくに、宇多天皇の信任が厚く、寛平5年(893年)には参議となり、同8年には中納言に進んで、藤原氏の代表者時平と肩を並べるにいたり、昌泰2年(899年)には時平が左大臣、道真が右大臣に就任した。

名門とはいえ藤原氏には比ぶべくもない菅原氏出身の道真のこの昇進は、時平にとって快いことではなかった。しかも道真の娘のひとりは宇多上皇の女御になっているし、他のひとりは宇多上皇の皇子、斉世(ときよ)親王の室である。時平は次第に身の不安を感じるようになった。

時平は密かに道真追放の陰謀を画策しはじめ、道真の娘が斉世親王の室になっていることを逆に利用して斉世親王を皇位に就ける陰謀を道真が企んでいると、時の帝醍醐天皇に密告した。そのため道真は昌泰4年、突然右大臣近衛大将の地位から、筑紫の大宰権帥(ごんのそち)に左遷されたのである。それだけではなく、道真の4人の男の子は土佐、駿河、飛騨、播磨へそれぞれ配流となった。

左遷の詔勅が下ったのは正月25日だったが、2月1日には早くも今日を出発せねばならなかった。長男から4男までがは各地に流され、妻室と年長の女子は京に残され、年少の男女のみが道真とともに筑紫に下ることを許された。完全な一家離散である。この日、長年住み慣れた都の自邸を去るにあたって、日ごろ梅を愛する道真は、庭先の梅に向かい、東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ と愛憎の歌を残した。


配所における生活は淋しく苦しかった。太宰府の政庁からほど遠からぬ観世音寺近くに与えられた榎寺の宿舎は荒れ果てていた。誠実な道真は、無実を心に叫びつつも、ひたすら謹慎に務め、日に一度は近くの山に登ってはるかに都を排し、国の安泰と天皇の御無事とを祈りつづけた。

そのうちに夏も過ぎ、秋となった。重陽の節句の日、道真は一年前の当日のことを思い出した。
その日彼は清涼殿で天皇から御衣を戴いたのである。道真は感慨に耽りつつ筆を執った。
去年ノ今夜 清涼ニ侍ス          
秋思ノ詩篇 独リ腸ヲ断ツ         
恩賜ノ御衣 今此ニ在リ          
棒持シテ毎日 余香ヲ排ス
(「九月十日」)




思えばあまりにも有為転変の激しい人の世であった。

流謫のうちにその年は暮れ、延喜2年(902年)の春がめぐって来た。しかし待ちに待った恩赦の沙汰はない。
道真の胸には、まだ春は来なかった。

するとある朝、そんな道真を慰めるかのような不思議な出来事が起こった。昨夜まで、何の変化もなかった配所の庭先に、一夜にして見事な梅樹が咲き誇り、ふくいくたる香気をあたり一面に漂わせたのである。
「おう、これは都に残してきた梅の木じゃ。去年、都を出るとき、詠んだ歌を忘れず、ここまで飛んできたのであろう」
道真の目は感激にうるんでいた。これがいまも太宰府天満宮本殿横にある“飛梅”である。