「永き旋律」を片手に


写真は、まさしさんが幼い頃、おばあちゃんによく連れられて きた諏訪公園の一部です。

参考書籍「永き旋律」佐田喜代子 著
1984年9月 自由国民社より出版


さだまさしさんの母君、佐田喜代子さんの著書「永き旋律」をもとに、長崎の町を歩いてみました。

喜代子さんが生まれたのは、国宝崇福寺の近くでした。
喜代子さんのお祖父さん(岡本安太郎さん)は、 長崎港の荷揚げ作業や倉庫業を仕切っていて、4〜500人の仲士をかかえる岡本組の頭取だったそうです。 (岡本安太郎翁の碑
お祖父さんは、喜代子さんが生まれて間もない頃になくなったそうですが、それでも喜代子さんの子供の 頃の思い出は、隣町までぬける長い屋敷の玄関に、家名と家紋の入った手提げ提燈がずらりと長押にかかって いたこと、勘定日(給料日)にはそれぞれの組頭がハッピ姿で集まり、座敷には緋毛せんが敷き詰められ 、卓袱テーブルの上にはご馳走が並んでいたという賑々しさです。
「永き旋律」に、大正時代に諏訪神社境内で 行われた岡本組の相撲大会の写真がありますが、 境内を埋め尽くすような観客の姿が映っており、この相撲大会が「長崎くんち」の原型と言われているの が納得できます。
喜代子さんの父親の代になって岡本組は衰退していったそうですが、 お父さんが趣味で始めた尺八をやがて本業にしてしまったのが、没落の原因だったと書かれています。 お母さんは声の美しい筑前琵琶の名手でしたが、喜代子さんが小学生のときに、 両親は相次いで亡くなられてしまわれたそうです。
両親から受け継いだ音楽の素養が、まさしさんに花開いたということなんでしょうね。 喜代子さんも歌を歌うのが好きで、お兄さんの影響でクラシック好きな少女でした。

喜代子さんが少女時代を過ごした町、 崇福寺の赤門の前に、喜代子さんとまさしさんが寄進されたお地蔵様の祠があります。 (写真をクリックすると、お名前が確認できます)
お地蔵様の前の道路をはさんで、右斜め向かいに 「自由飛行館」 (99年8月撮影) があります。このあたりは、喜代子さんにとってとても大切な場所なのでしょうね。

長崎市今籠町14番地、赤寺で有名な国宝崇福寺のある町です。 あの赤門と石段は、私の子供時代を 夢中で遊ばせてくれた、ゆりかごでした。静かな街並は二号さんと料理屋と、お寺との不思議なほど 自然に溶け合った平和な町でした。
雨が降ると石畳が、ツルツルにひかり、私は素足で町を駈けづり まわったものです。(「永き旋律」より)



喜代子さんは、女学校を卒業後、中国で貿易の仕事についていたお兄さんを頼って、漢口(現在の武漢) に行き、海軍の代行機関でタイピスト兼秘書を務めたことがありました。
会社までの道のり、 三教街(ロシア租界=居留地)の北欧風の町並みを抜け、フランス租界、ドイツ租界へと毎日歩きながら、 街角のレストランのおしゃれな店構えに感心したり、ヘーゼルウッドのケーキやアイスクリームを味わい、 花屋のウィンドウから立ち上る薔薇の香りにときめいたり。
そしてあるとき、ドイツ青年に出会い、 淡い恋心をいだいたこともあったそうです。 しかし、戦争がはげしくなり、爆撃で ドイツ租界があとかたもなく壊されると同時に、その青年の姿も見ることができなくなってしまった とか。
喜代子さんの青春の一ページを、まさしさんなりに創作して「フレディもしくは三教街」が 生まれたのですね。
「永き旋律」に書きとめられた喜代子さんの漢口での思い出はとても美しく、 多感な娘ごころに強烈なまでに刻まれた異国の美しい風景と、繊細でありながらこぼれるような情感を 感じました。
「上海物語」「上海小夜曲」も、喜代子さんの胸に秘められていたロマンスをイメージにして 作られたのでしょう。

「若い人達よ、あなた達の若さはすぐにすぎてゆくものです。 その今の若さを大切になさい。 そして若さと云う黄金を、まだ遠いとおもっている自分が本当に老いた時、悔いることなき様、 大切に真剣に輝かせて下さい」(「永き旋律より)

終戦の翌年の夏のことです。一足先に日本へ引き上げていた喜代子さんに、 お兄さんが一緒に連れ帰ってきた青年を紹介しました。
それが佐田雅人さんだったわけです。 佐田雅人さんはもともと長崎出身のではなかった(島根出身)のですが、満州で暮らす母親と連絡が 取れず、ひとまず一緒に引き揚げてきたのでした。
まもなく製塩の仕事を始めた雅人さんの 頼もしさと誠実な人柄に打たれた家族は、喜代子さんを結婚へと説得しますが、その頃ダンスに夢中に なっていた喜代子さんには、ズボンを荒縄でくくった姿の雅人には、あまり魅力が感じられなかったとか。
そのとき、お兄さんが喜代子さんに言った言葉が素晴らしいので書いておきます。 「人生には、挫折が必ずあるんだけど、何度挫折してもすぐに立ち直れる男を選ばねば、女は決して 幸せにはなれない」
実は、喜代子さんにはほかに好きな男性がいたそうなんですが、当時はまだ戸主のひと言で結婚も 決められてしまう時代。喜代子さんの恋は実らなかったのです。

今思えば、私は私の青春を精いっぱい生きていたんですね。 今もって私の青春は、美しいおもいでを、大きな花籠にいっぱい持ち続けているのです。 我が青春に悔い無しと、私は、今ふり返ってみても、とても幸せな娘でした。(「永き旋律」より)

雅人さんが幾年もかけて集めた材木で出来た新しい家に、喜代子さんは「自分の持っている 一番気に入った服の胸に、バラの花をつけて、着の身着のままで来てください」という雅人さんの 言葉通りの装いで嫁いだそうです。
当時は、家を建てるのは今以上に大変なことで、ましてや原爆で一軒の家に同居が当たりまえという 状況だった長崎で、新築の家に嫁を迎え入れるということはとても立派です。 この時には、雅人さんのお母さんも満州から引き揚げてきていて、三人での新生活のスタートでした。

さだまさしさんのルーツはここから始まったわけですよね。 この最初の家はもう残っていませんが、 「永き旋律」「噺歌集」を元に、この家があったと思われるところに行ってみました。 場所は、原爆中心地で中心標が真下に見える丘の上。原爆資料館の裏手の噴水のあたり。 たぶんこの辺だろうと思った場所は、(写真は2001年に撮影)ちょうど工事をしていました。 今は、 国立長崎平和祈念館(2003年7月6日開館)が建っています。

今も目をつぶれば、あの新鮮な木の香りとおばあちゃまの うれしそうな顔と、 ロシア風な地味な玄関 ドアーの開く音が、まるで、シンフォニーの様に聞こえてなりません。 その家を土台に、私の佐田家へ嫁いだ生活が始まることになるのです。 私が24歳の時でした。(「永き旋律」より)

その後、新しい家に引越し、まさしさんが誕生。
難産だったため、出産後が大変だったとか。二週間後の退院日は、家の玄関先に色とりどりの 矢車草が咲き ほこっていたことを、喜代子さんは桃源郷のように思いだされるそうです。
その頃の赤ん坊は必ず原爆研究所(ABCC)で綿密な 検査を受けさせられたということは、まさしさんもコンサートで話されていましたが、 畑をたがやすと爆死した方の骨や焼けただれた瓦の破片などが、まだざくざくと出てくる、 まだそんな時代だったのですね。

まさしさんが初めて歩いたときの感動や、子守唄を歌って寝かせた夜のこと、一番最初に切った 十本分の指の爪を大切に保存していること、「永き旋律」の中には、とても懸命で ほほえましい若いお母さんの喜代子さんの姿がありました。
大きなオムツをつけてヨチヨチ歩いたり、 よだれでアブちゃんをメロメロに濡らしている、赤ちゃんのまさしさんを想像するのも楽しかったです。
まさしさんは、おとなしくニコニコ笑っている、手がかからない赤ちゃんだったそうですが、 1歳すぎでおばあちゃまの浄瑠璃をすっかりおぼえたという箇所には、私までもびっくりして<目が点> に なりましたよ。

母は毎日、午前と午後と、きまって子供を公園につれて いきました。 明治生まれの人はすごい根性と 体力があったんですね。まさしが生まれた時には、母は77歳になっていましたけど、みごとに 三人の子供をお守りしてくださいました。しげりを、うば車に乗せ、まさしの手を引き、 三人で「行ってきます」と遊びに出かけた姿は、たまらなくなつかしいひとこまです。(「永き旋律」より)

まさしさんが3歳になり、喜代子さんは楽器を習わせたいと真剣に考えていたそうです。
当時は、雅人さんも材木商としてかなり羽振りが良くなり、 東上町(お屋敷町)の大きな家に住んで いました。
近くに諏訪公園があり、小さな野外音楽堂がある丸馬場(写真)という場所があります。 ちょうど長崎児童ヴァイオリン・オーケストラの演奏があり、それを聴きにいったことが、 まさしさんにバイオリンを習わせる方向を決定づけたようですね。


まさしさんが師事したのは、喜代子さんの女学校時代の音楽の先生でもあり、長崎では名の通った先生 でした。
先生の方針で幼稚園には行かせず、週2回のスパルタレッスンと自宅での念入りな反復練習が 始まったそうですが、まだ小さいチー坊(繁理さん)を家に残し、やがて生まれた玲子さんを 連れてレッスンに通うのは、喜代子さんにとっても大変なことだったでしょう。
レッスンに行っている間に、チー坊がいなくなった大事件のことも本には記されています。 繁理さんが迷子になったときには、きっとひどく落ち込まれたことでしょう。
その後、雅人さんが商売に失敗して上町のお屋敷を引き払い(「転宅」)、伊良林の小さな長屋に 引越すことになりますが(「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク」)、ソリストをめざし上京、まさしさんの 中学卒業までが「永き旋律」には書かれています。

まさしの芸術のために、しげりや玲子に、思う事の半分も接してあげられなかった事が どれ程悲しかったか、確実に成長してゆく二人に対して、取り返しのつかない母親だったとしか おもえず、申し訳なくてなりません。これは今もって、しげりと玲子への私のザンゲです。 (「永き旋律」より)



佐田喜代子さん 大正15年2月28日長崎市生まれ
長崎市立磨屋(とぎや)小学校、私立鶴鳴(かくめい)高等女学校卒業


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