泉靖一『済州島』(東京大学出版会1966) について



前年の夏以来読み続けていた金石範『火山島』全7巻のバックグランドを知るために、現状ではおそらく最良の資料である泉靖一『済州島』を私はしばらくさがしていたのである。 そして、この本の簡単な紹介を「き坊の近況」(4/28-2002)に書いておいた。
泉靖一は1935年夏に最初に済州島に渡って旅行・調査し、この島に深く興味を持つとともに、漢拏山[ハルラサン1950m]が積雪期未踏峰であることを知る。仲間を語らって36年元旦に山頂に立つ。しかし、下山途中に前川智春という友を失う。「この遭難がきっかけとなって、国文学を専攻していた私は、文化人類学に専攻を変える決心をした」と泉は同書「まえがき」で述べている。「そして、1936年から1937年にかけて、憑かれたもののように、済州島の村々を歩いた」と。文化人類学者泉靖一がこうして誕生する。
1950年に「東京における済州島人の研究」を行う。1965年に韓国済州島へ30年ぶりに渡航し、4日間滞在して調査する。これらを集大成したのがこの本である。巻頭に80葉の写真があるのも素晴らしい。その大部分は1935~37年に撮影されたものである。
1935~37年にかけての調査に基づいたのが第1部 済州島民族誌(1935-37年現在)、1950年の研究が第2部 東京の済州島人、そして1965年の調査に基づいて第3部 済州島における30年という3部構成になっている。いうまでもなく、第1部が分量的にも内容的にもこの本の中心をなしており読みごたえもある。
第1部の「第5章済州島の宗教」のなかで、自らその遭難に触れつつ島民の漢拏山への信仰を次のように述べている。(注1注2参照)
1936年の1月3日、筆者の畏友前川智春君がこの山の吹雪のなかに逝いたのであるが、この事件について、ある島の人は、彼の死はその前年の秋、漢拏山頂のすぐしたの大石沢に小屋をつくったから山神が怒ったのだ・・・・・・と解していた。また、その当時死体の発見がおくれていたときに、済州のある神房(巫)は、某の依頼によって、賽神して、「前川さんは小屋を逃れて大石沢のどんづまりに、いまなお安住している」と語った。ともに漢拏山を神聖視して、そこに俗なる小屋をつくったために、前川君の不幸がおこったと解釈しているようであった。牛馬をさがしたり、植物をとるために、漢拏山で夜をあかす人がいたにもかかわらず、たしかに、1935年まで、漢拏山の高い地帯には、全然建築その他の人工による工作物をみなかったのである。(p182)
司馬遼太郎『街道をゆく28 耽羅紀行』(朝日文庫)には「泉靖一氏のこと」という節をもうけて、ていねいな紹介がある。「耽羅」は済州島の古い呼称である(「島の国」の意)。この文庫本はとても読みやすく、済州島紹介だけでなく朝鮮文化について色々勉強させてもらった。司馬氏が手元に持っていた『済州島』は第2刷(1971年)で泉靖一の死の翌年の刷りで、「奥付に、そのことも書かれている」としているが、私が図書館から借りだした『済州島』も「1991年4月30日2刷」となっていて、奥付にはなにも書いてない。ちょっと、疑問が残るがこのままにしておく。なお、司馬遼太郎のその個所にある泉靖一の生没年を引いておく。
1915年(大正4)東京生まれ ~ 1970年(昭和45)死没(55歳)
済州島にはじめて渡ったのが20歳のとき、京城帝大法文学部卒。死んだときは現役の東大教授だった。


私に済州島が気になりだしたのは、もともと宮本常一の「家船」や「海士・海女」や「漂海民」(羽原又吉)などに興味を持っていて、鶴見良行の大著『ナマコの眼』(筑摩書房1990)を読んだこと。ちょうどその頃、野村進『コリアン世界の旅』(講談社1996)で「済州島4.3事件」を知ったこと、など幾つかのきっかけが重なっていた。
だが、『ナマコの眼』には済州島は古来アワビの名産地として名高かったとして言及されている程度で、ページは割かれていない。私は、済州島の海女の優秀さは、それでも、知っていたので漠然と済州島は漁業の島としても古来重要な位置を占めていたのだろうと考えていた。この点は『済州島』によって完全に訂正しないといけないことになった。
というのは、海女が優秀であることはその通りであるが、漁業は零細な・または副業的なものという位置づけであるという。 まず海女について、泉の記述を見よう。
パカチ(瓢箪)に網のついた浮きと鎌または貝起こしを携えて、眼鏡をかけて潜水する。(中略)船から潜水する場合もあれば、岸から泳ぎでて潜水する場合もある。泳ぎかたはほとんどが、平泳ぎと立ち泳ぎであり、潜水の方法は日本のそれと変わらない。(中略)一回の潜水がおわりかけると、身体を折って、脚部をしたに沈め、強く海底を蹴って飛びあがる。水面に浮かびでると同時に「hiyu」と磯鳴くのである。(中略)潜水の時間は1分から1.5分で潜水深度は10尋までであるが、おおくの場合、4,5尋の場所で作業する。(中略)
この島の潜女は、からみで潜る深度についても、天候や季節にたいする強さにおいても、はるかに日本の海女よりも優っているといわれている。そのためかって朝鮮沿岸に働いていた伊勢海女を追いだし、陸地はいうまでもなく、対馬をはじめとして日本の各地に、さらには満州にまで出稼いでいた。(p112)
「陸地」という語が特異な使われ方をしているが、済州島民は朝鮮半島を指して「陸地」と呼ぶという(野村前掲書p224)。泉はそれを借用している。なお、ここでいう済州島の潜女の出稼ぎは1900年代から始まるもので、近代的なものである。
済州島の潜女が日本の海女より優れているわけは、(1)賃金が安い割合に能率がよく、(2)低水温にたいしては日本人にはみられぬ靱度をみせるうえに、(3)裸潜にたいして10尋まではなんらの器具も使用せず、船が無くても相当沖まで隊を組んで泳ぎ出すことをいとわないから、入漁料が安くて済むことがあげられていた。(p117)
済州島潜女と日本の海女(泉はこういう語の使い分けをしている)の社会的なあり方の上で相異している点で、泉が指摘しているつぎのところが重要だと思う。済州島潜女は農業に深く関わっており、日本海女は純然たる漁業である、と。
漁獲の対象は日本では食用の貝類、海草類が主であるのにたいして、島の潜女はまず畑の肥料としての馬尾草(ホンダワラ)がおもで、食用の海草類と貝類がこれにつぐことである。一見見のがしやすい事実であるが、島の裸潜が農業の要求と関係の深いことを物語っている。(中略)海草類の取れないときにおこなう潜水賽神において、神房(巫人)が粟を海中に散布し、これが種となって海藻の芽が出るという信仰は、あきらかに農業文化の繁栄とうけとれる。日本の海女についてはこのような信仰行事がみられない。
済州島は火山島で土地がわるく、農業の適地とはいえない。そのためホンダワラを畑に敷きこんで肥料とする。それ以外の肥料は済州島に多い牛馬や豚の糞。「済州島潜女」の主たる漁獲の目的物はそういう肥料用の海藻であるという。食用としての海藻や貝類はそのつぎである。食用としての海産物が、自家用か周辺村落での小規模な消費にとどまっていた、と推測される。
漁業が漁業として成立するためには漁獲物が商品(古代の献納物なども含めて)として流通していることが前提となる。済州島は道路が徒歩・荷駄の牛馬用であり、車輪用の道路は日韓併合(1910)後にはじめて作られるという状況であった。「併合後つくられた全島一周道路は、路面の傾斜を少なくし、車類の交通を便ならしめていることは、島外の交通の発展とあいまって島内における商品経済の発達をうながしたちがいない」(p65)済州島周辺の海域がきわめて海産物豊富な優秀な漁場であることはいうまでもない。そのただ中にありながら、済州島では自給自足的な農業に従属した漁業しか存在しなかった。なぜであろうか。 良港に恵まれず消費地と結ぶ航路ができたのは併合後であった。 「潜女」が東アジアでもっとも優れた潜水技術をもっていたことは彼女たちの進出が証明している。 大規模な資本導入による漁業は日本漁船によって占められていた。 きわめて原始的な筏舟による「カジキリ漁」(スズメダイの一種を採る)
本島は魚介類が豊富な、暖流と寒流との会合点であるにもかかわらず、カジキリ(jali)の沿岸漁業と裸潜および馬尾草採取程度の魚撈しか発達しなかった。そうしたせいか海村であっても、農業が生産活動の主体をなし、漁業は副業的な役割しかはたさなかった。(p101)
鶴見良行は前掲書で平城京木簡に「耽[正しくは「身」偏に「包」]羅鮑6斤」とあることを指摘して、次のように述べている。
アワビもまたナマコとならんで、その歴史は古い。745(天平17)年9月「志摩国英虞郡名錘郷戸主同マ得嶋御調」を示す平城京跡出土木簡には「耽羅鰒6斤」とある。耽羅は済州島の古名。志摩の海民が、済州島のアワビを貢納したのではなく、済州島がアワビの名産地であるため、アワビを形容する字句として付着したのである。しかし、北九州、瀬戸内海を経て、志摩海民と朝鮮海民が何らかの連絡をもったことは、当然、想定できる。(p381)
司馬遼太郎は前掲書の末尾で『延喜式』に「耽羅鰒6斤」とあることを指摘して、
まさかはるかに耽羅から輸入するというものではあるまい。常識的に解すれば、いまの大阪湾か伊勢湾あたりに、耽羅からたえず海女[ヘーニョ]がきていて、大きなあわびを獲っていたのではないかということである。想像しうることは、それ以外にはない。(p305)
と述べている。
日本古代の朝廷周辺に「耽羅鰒」という表現が残っていることは、(1)済州島でかつては漁業としての潜漁が盛んであったか、(2)潜漁をおこなう漁業者(潜女)が日本列島へも進出していたことを意味するのではないか。おそらく、その両方を意味するのではないかを想像させる。しかし、ことは潜漁だけでなく漁業一般に広げられるのかも知れない。築港、造船などの関連技術の水準についても、近世-近代の済州島の沈滞ぶりだけで全体を推し量ることはできないと思う。(1)に関連して、済州島で旧石器時代-縄文時代のかなり大規模な遺跡が発掘されつつあることは、重要な情報である(Jeju Net は充実している。http://210.104.87.69/n_jpn/Jeju_Main/menu/index.asp)。
高麗朝末期の三別抄の乱(「別抄」は選別の意。特別選抜の3軍)は、元に降伏する朝廷に反乱して、反蒙古の戦いをおこなう(1270-73)。三別抄は珍島から済州島へ移動する。その間、南朝鮮の海上権を握っていたこともある。
(三別抄)は反乱に決起し,珍島,次いで済州島を根拠地に,海上から南朝鮮各地,あるいは租税米輸送船等を襲い,一方南朝鮮各地の農民もこれに呼応し,蜂起するなど,高麗政府および同方面で日本侵略の準備を進める元に大打撃を与えた。しかし,73年,元・高麗連合軍に滅ぼされ,翌年,元の日本侵略が実行された。(北村 秀人『平凡百科事典』)
済州島が元に占領されたのは1273年から1374年までの百年間である。その間「船を作り馬を養って、日本および南宋攻略の根拠地となった」(『済州島』p67)。そのとき純粋な蒙古人が何名済州島に来たか不明らしいが、三別抄の乱の平定のために上陸した元軍は「1700人」(元史外夷伝)という。

泉靖一が調査にいった1930年代には、済州島の漁業は「潜女」の出稼ぎを除けばほとんど見るべきところのない状況であった。彼は、「裸潜」以外の漁法をつぎの4つあげている。(1)カジキリ網漁 (2)一本釣り漁 (3)延縄漁 (4)地曳き網漁。
カジキリ(jali)はスズメダイの長崎方言。このカジキリ網漁は原始的な筏舟をもちいた沿岸漁業で、カジキリを一本釣りや延縄漁の餌ともするので、本島の漁業として基本的である、という。(次図はp102から、デジカメ映像)

(カジキリは)古くから島民が漁っていた魚のうちのおもなもので、この塩漬けは、島民の好むところである。カジキリ網は周囲4メートル、長さ3メートルぐらいの大きさで、目は細かく、形は紡錘形をなし、その口には丸い木の枠がつけられている。これを mutte または ttebe という筏舟に積んで、海にでてカジキリの集まるところにおろす。カジキリはさきにものべたように、群生する魚なので、1匹がこの網のなかにはいると、一群が全部はいることになるので、このような簡単な漁法ではあるが、漁獲は大きい。(p102)
猟期は5月から8月。のどかな漁風景を想像することができるが、自給自足的な島の閉鎖経済に対応した漁法と言っていいだろう。日本の植民地となった1900年代以降の、本格的な近代漁業に対抗すべくもない。実際、1936年度の済州島の漁獲高はつぎのようになっている(p105)。
日本人(686隻 5,078人)1,416,325円
朝鮮人(2,123隻 18,319人)760,707円
朝鮮人(除 裸潜)427,910円
島民漁夫302,750円
表で、「朝鮮人(除 裸潜)」と「島民漁夫」の差は、全羅南道からの出稼ぎ漁夫である。
気の毒なほど、島民漁夫の漁獲が少ないことが分かる。なお、日本は済州島の港を利用しない「管外日本漁船」というものもあり、この年度の漁獲予想高が「794,236円」とされていたという。朝鮮側に植民地としての種々の差別的で不利な扱いがなされていたであろうことは想像されるが、それでも「潜女」たちはその潜漁の実力で朝鮮半島から伊勢海女たちを追い出している。泉靖一はつぎのように評しているが、妥当だと思う。
これによって済州島近海の漁幸がいかに豊富であるかがわかると同時に済州島民が、資本と技術力に欠けているために、その恩恵をほとんどこうむっていないことがあきらかである。しかもこうした状況は今日まで続いている。(p105)
泉が「今日」といっているのは『済州島』初版の1966年当時のことである。
天然の良港といえるのは西帰浦港(ソギッポ)くらいで、そこも防波堤工事に17万円が投じられている。済州市山地港は1930年代に57万円で築港したもの、翰林港は12万円で築港した。巨費が投じられたことは宗主国日本の意志であって、泉のつぎのような評語が出てくるのも故なしとしない。
以上済州島民の生活上見過ごすべからざる事実は、これらの諸港が、土地の住民によって直接利用されることはすくなく、日本の大資本下における漁業者にのみおおく利用されていたことである。島民として恩恵に浴する部分は、いうまでもなく、これらの港から出稼ぎの人々が陸地や日本に送りだされたし、海産物が積みだされはしたが、それが本島の産業の開発に直接役立ったとは思われない。(p63)
学者としてはかなり踏み込んだ批判的意見であると言っていいだろう。こういうところにも、泉靖一の済州島にたいするひとかたならぬ思い入れを感じる。


野村進が1990年代に済州島高内里を取材で訪ねて、案内してくれた雑貨屋の主人に、
白いご飯を食べられるようになったのはいつ頃からですか?
と質問している。麦・粟・ヒエが常食で、それらの蓄えもなくなるとサツマイモや大根が主食になった、というような話をしていたからである。荒川の三河島で1934(昭和9)年に生まれ戦争末期に済州島へ帰国したという雑貨屋の主人は、口ごもりながら
1980年頃かな・・・・
と答えた(前掲書p220)。

日本で生活している韓国人のうち済州島人の割合がとても高いことを、『済州島』第2部「東京における済州島人(1950年現在)」を読んではじめて認識した。つぎのような事実にはまったく驚いてしまう。
1933年の済州島での島民(日本人をのぞく)の人口はほぼ18万8千人で、その当時の朝鮮半島の総人口2289万9千人のほぼ8パーセント強(日本人をのぞく)にすぎないが、日本在住の朝鮮人についてみるとまったく趣をことにし、とくに大阪・東京などの大都市居住者のなかばちかくは済州島の出身者なのである。(p235)
これに註して、泉は更につぎのように述べている。
大阪市においては、朝鮮人の90パーセントまでが済州島人といわれ、かって島の南部の西帰浦港と大阪を結ぶ尼ヶ崎汽船の阪済線が存在した関係上、済州島には朝鮮本土を知らずに大阪を知っているものがすくなくない。(p272)
すでに前節でも引いた野村進『コリアン世界の旅』の「第8章済州島・日本に一番近い島」は泉の「東京における済州島人(1950年現在)」を補うものとしてすぐれていると思う。
(済州島から日本への)出稼ぎ最盛期の1934年の調査では、済州島全人口の5人に1人以上が、日本で生活するようになっている。だが、全体から見ると、東京へ行った者は少数派だった。当時、済州島と大阪との間が「君が代丸」や「京城丸」などの定期直行船で結ばれており、近隣の阪神工業地帯も低賃金の労働力を大量に必要としていた関係で、大阪とその周辺に定住した済州島出身者が圧倒的に多かったのである。
なかでも、大阪市の東端に位置する「猪飼野」こと現在の生野区一帯は、「小さな済州島」と呼ばれる集住地域となった。高内里出身で民団生野南支団長をつとめた洪智彦[ホンヂオン]によれば、現在でも在留許可を得ている生野の在日4万人のうち、驚くべきことに半分以上に当たる2万人強が済州島出身者とその家族だという。済州島の昔の習俗や方言が原型のまま残っているのは、いまや大阪・生野だけという専門家もいるほどなのである。(p222)
東京での済州島人の職種は(1950年現在)、ゴム加工・ミシン加工が圧倒的で、土工・人夫はほとんどない。「済州島人は刃物をつかうことをひどくいやしむので、シャベル・ツルハシを使う職業に就くことを極力回避する」のだそうだ(p255)。
ある古老(1921年に東京に来住)によると、「上京したころは、朝鮮本土人は土工人夫、済州島人には工員が多かったが、下宿兼食堂を営む済州島人も」少なくなかったそうだ(p256)。

「済州島人の気性は、非常に激しい。特に「女性の気性の激しさが目立つ」」(p256)とのべている。泉靖一は「彼女たちの激情性の蔭には、じつにナイーブな純粋さが宿っている」ともいう。
朝鮮本土出身のある主婦の話として
済州島の女には井戸端会議がない。蔭口をいいあうことがないからです。蔭口をいえば、かえって自分が馬鹿にされることになるので、そのことが頭にしみこんでいるのかもしれないが、とにかくなにかいいたいことがあれば、直接に相手にぶつかっていって、あとはさっぱりしている。
また、済州島人のマーケットの中に住んでいる日本人主婦の話として
女の人達がひじょうにあっさりしていて、なにがあっても、その場かぎりで解決し、井戸端会議で他人の悪口をいったり、噂をしたりすることはまずありません。そのかわり感情の抑制がいくらか足りないのではないかと思われます。一時にカァッとなり易いようです。
などを記録している。こういう項目は『火山島』のような小説を読む場合に参考になる。 (なお「現在約65万人の在日韓国・朝鮮人の約20%が済州島出身」といわれる。小石淑夫Web「韓国イヤギ」による。)

1948年の4・3事件に関して、『火山島』が触れているのは第3部「済州島における三十年」の4頁ほどである。
ふつう4・3事件とよばれている、済州島のおそるべき悲劇も、済州島出身でしかも日本で教育を受けた進歩主義者と、そのころ警察署長はじめ警官の多数ならびに町の与太者を含む西北青年隊との対立からはじまったもので、かならずしも共産党の指導によるものではなかった。そして、済州島の歴史と文化が物語っている、強い地方主義が全島民をあげて、島出身の進歩主義者を支持させることになったのである。
泉のこの「はじまり」論が果たして妥当なものかどうか、私は保留しておく。泉は4・3事件についての資料の制約からであろうが、朝日新聞の記事を用いて説明をしている。
この事件は長らく韓国で話題にすること自体がタブーになっていた。済州島で犠牲者の追悼行事が行われたのが、じつに41周年目の1989年であった。同年に「済州4・3研究所」が発足し、そのいっぽうで地元紙「済民日報」か4・3取材班を組んで資料発掘やインタビューをもとに連載をはじめる。この連載記事は5冊の本として出版された(日本語訳『済州島4・3事件』1~5)。
野村進は4・3取材班チーフ梁祚勲[ヤンジョフン]に「韓国現代史最大のタブー」とされた理由を問うている。梁記者の答。
私たちの調査では、犠牲者の9割が政府軍(国防警備隊)と警察および西北青年団によって殺されているからなんです。全斗煥や盧泰愚といった軍人出身の大統領が権力の座にあるかぎり、真相究明は不可能だったわけですよ(野村前掲書p227)
泉の『済州島』に4・3事件の見解を求めるのは無理だと思う。泉は「済州島の30年」の変化を自問してつぎのように答えている。ちょっと、意外ともいえる結論である。
しかし、この30年のあいだにおける済州島の文化の変化は、長い眼でみると、あまり激しいとはいいえない。とくに、太平洋戦争、4・3事件ならびに朝鮮戦争は、この島の文化をかえって変化させなかった。これらの事件による、経済的な停滞によって、文化の全体構造にもまた根本的な変化がおこりえなかったからであろう。
このようなアジアにおける村落の構成が、20世紀の後半でいかに変化してゆくかということは今後に残された重大な問題であって、済州島の村落は、アジアの近代化を考えるうえに、まさにふさわしいサンプルである。


私たちは、インターネットで現在の済州島のようすをある程度うかがうことができる(Jeju net,Life in Korea など。前者は既述。後者では済州島の写真映像をかなり見ることができる)。ホテル・ゴルフなどの観光産業によって、島全体をレジャーランドのイメージで覆う戦略のようにもみえる。ゴルフ以外に、海洋レジャーがメインとなる。珊瑚礁のある南側海岸諸島、豊富な漁場をひかえた釣り、名物の強い風を利用したウインドサーフィンなど。その他、牧場・乗馬、ピクニック・森林浴、サイクリング。いまや済州島は韓国での新婚旅行のメッカと言われているらしい。
済州島は80、90年代で急激な変貌をとげた。それが泉靖一の「本島の産業の開発」にどれだけ応えるものであるか。また、インターネットでは伝わってこない済州島人たちの生活はどうなっているのか。どのように「サンプル」として反応しているのだろうか。

以上、泉靖一『済州島』を私の関心と交差するかぎりで取り上げてみた。特に、私には手が届かない無知な領域である家族制度(「姓氏と名前」、「家族と親族の変動」)に関しては、まったく触れていない。(2002年5月8日)



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注1

泉靖一自身が、対談で済州島での遭難について語っているのを、二つ見つけたので、記しておく。いずれも『人類と文明』(東京大学出版1972)所収。この本は、いずれも泉靖一の加わっている対談・座談を8編集めたもので、泉靖一編。

まず、島田一男との対談1968年、「人類と文明──その繁栄と崩壊」のなかから。
(京城[ソウル]大学の)学部の一年のときに漢拏山──朝鮮の南の済州島にある──に登っ たんです。そこはい ままで冬に登った人がなかったんです。裏日本と同じような状態で、非常に深い雪が降るんです。なかなか面白そうだというので、登ったわけですが、帰りに友だちがひとり行方不明になりましてね。結局遭難したことになるんですが、いくら捜しても見つからない。若いときですし、友だちをひとり殺すということはたいへんなショックだったわけです。そんなこともあって、なにか済州島自体を勉強してみたいという気持ちになりまして、(と中略)そこでの研究内容は、いまでいう文化人類学だったわけですが、なんとなしにフラフラそちらにひかれそっちへ転科したわけです。


もうひとつは、1970年の金石範との対談「ふるさと済州島」。この対談は、泉靖一と金石範の済州島に対する思いが響きあって、双方思わず涙ぐんでしまってるんじゃないかというような感じを持たせる、またとない対談だったとおもう。泉はこの年、急逝している(11月15日、対談は雑誌「世界」4月号)。
2年前の「世界」(1968年4月号)に泉靖一が金石範の済州島関連の最初の表現である「鴉の死」について、批評を書いた。金石範は当時無名の作家だったと言っていいだろう。泉は金石範という作者のことはまったく知らずに「鴉の死」に感激したことを書いた。
 ぼくは、泉さんに書評を書いていただいたとき、ドキッとしたのです。ほめてもらってうれしいという意味ではないのです。ぼくには済州島を学問的、体系的に見ている人は、文学者よりこわいわけです。
泉は、まるではじめから告白するかのように、語っている。
 私は学校が昔の京城大学で、元来山登りが好きでした。済州島に初め行きましたとき、その自然と人間とにすっかり惹かれてしまいました。そのころ漢拏山には、冬、だれも近寄らない。それで、ひとつ冬の漢拏山に登ってみたいと思い、山岳部の友だちと一緒に登ったのですが、その結果、1月の1日に友だちが行方不明になって、ついに亡くなるという不幸な出来事がありました。私それまで国文学をやっていたのですが、そのとき以来いやになってやめてしまいました。人類学への志望はそのときの済州島行きがきっかけになったわけです。
それからの約2年間は、ひまがあると済州島に行って、田舎を歩き回ったものです。日本人の学生が1人ぶらっと村へ行ってもよろこんで泊めてくれましたが、だんだん仲よくなると、橋来里[キョウレリ]などというところでは、幾十日も泊めてくれました。1人であちこち歩きましたので、ずいぶん知り合いもできて、済州島を半分故郷みたいに思っていました。
だいぶ飛ばして、金石範の発言。
 ぼくは泉さんの『済州島』という本、いまでもたまに開いて見るわけです。あの本を見ますと、そこにはとくに済州島が好きだとか、特別そんなことは書いてあるわけではないのですが、あの冷静な筆の運びの中に済州島に対する、もちろん学問的な立場を通じてですが、愛着を私は感ずるわけです。
この金石範の発言に呼応して、泉靖一は、またもや告白のように語る。
 私の親父は京城大学の教授でした。親父が朝鮮に行くことになったのは、私が小学校6年のときです。そのときに親父がいうんです。日本人が朝鮮に行くと、朝鮮人をヨボと呼んで故なくしてなぐったり、故なくしてどなったり、ばかにしたりする。自分はそういうことはきらいだが、そういうことをお前はしちゃいかんぞ。これは人間として恥ずかしいことである。だから朝鮮に行ったら朝鮮人の中に友だちをつくれと。これがぼくの一生にとってものすごく強く響いています。
そういう状態で小学校の6年生の私は朝鮮へ行った。ところが、なるほど親父のいったとおりなんです。毎日毎日そういうことが起こっている。ぼくは本当にこれはひどい、こんなことじゃいけないと気づいて、親父を尊敬したのです。(以下略)
この対談では4・3事件のことがかなり語られているのだが、それはここでは省いて、泉靖一が漢拏山山頂の雪とスキーについて語っているところを引く。金が観音寺に半年いたことがあるといったのを受けて、
 観音寺は私にはなつかしいお寺で、あそこをはじめ基地にしまして、それからずっと北へ登っていく。その笹原ところは蟻頂というんです。あそこに雪がいっぱい積もってスキーをするのに非常にいいところなんです。それから、蟻頂から漢拏山のてっぺんに近づくと、右側に小屋があるんです。その小屋をぼくは基地にしておりまして、そのあたりは、雪が真冬になると、まず2メーター以上積もるんですよ。それから谷を越えて、漢拏山のてっぺんから尾根にとっつくんです。深い雪でね。それを登って尾根筋に出ますと、ひいらぎの木があるんですよ。ひいらぎの木を縫ってずっといくと漢拏山の火口壁に出まして、下に降りると白鹿潭に出てくるわけです。その白鹿潭の雪の中にぼくはキャンプを張りまして・・・、そうしたら、1月になると真夜中は風速30メートルから50メートルになっちゃう。そうなるとテントなどもめちゃくちゃにこわれちゃう。ぼくはそのへんをずっと歩いていまして、真夜中に雪の中を走り廻ったりしたことも思い出します。(後略)


注2

金石範『火山島』(第5巻)の第19章に、泉靖一に触れたと思える、つぎのような個所がある。南承之というのはゲリラに参加している青年で、副主人公格の人物。
南承之が山中で、ゲリラの1人が起こした強姦事件の犯人をピストルでうって処刑する場面を偶然見かける。南承之は別の日に、観音寺近くの炭焼き小屋のアジトから済州へ下山する途中の道で、その場面を何度も思い出して反芻するのだが、その条につぎのように、泉靖一らの遭難のことが言及されている。
昔から全島民の守護神としての信仰と畏敬の対象になってきた漢拏山は霊峰であり、山中での不謹慎な行為は許されない。漢拏山の深い渓谷や深山で大声を発したりすると、たちまち周りに霧が湧出して人は道を見失う。淫らな言行をしてもならない。山神の怒りを呼ぶのである。何十年も郷土の地に住みながら、生涯に一度も漢拏山の登山を果たしていない島の人間がほとんどなのは、みだりに漢拏山の霊域を犯さぬためとされる。
漢拏山の冬は雪深い。いまだかって積雪期の雪に覆われた頂上へ登った人のいないことを知った京城(ソウル)在住の日本人学生その他がその登攀を計画、実現したのが十数年前になるが、後日その1人がふたたび冬の漢拏山に登り、スキーを試みて遭難,絶命したときも島の人々は山神の怒りに触れたとした。その死に大きなショックを受けた友人の日本学生が、のちに済州島の村々を何年もかけて歩き、それまでの専攻を変えて済州島研究に身を投ずる道を選んだ。
かつての李朝時代に済州牧使(地方長官・正三品)が漢拏山へ上がったのは、火口湖の白鹿潭[ペンノタム]で天祭を施行するためであって、あるかなきかの険難な道に加えて悪天候故にそれを果たせぬときは、山川[サンチョン](泉)壇[ダン]に祭壇を設けて天祭を捧げたという。・・・・・・漢拏山の峰々はお婆さんの萎びた乳房、その慈悲深い乳房を足で踏みつけて、みだりに漢拏山へ登るな・・・・・・。(p342上)
この物語の現在が1948年で、泉たちの登山が1936年。12年前となる。「済州島研究に身を投ずる道を選んだ」日本学生があったと述べて、泉靖一をさしていることはまちがいない。しかし、「後日その1人がふたたび冬の漢拏山に登り、スキーを試みて遭難」というのは、金石範が意識的に事実とずらして書いたところだろう。いまの若い読者は、ゲレンデスキーまたはその延長くらいの感じで受け取るかも知れない。が、上の注1や、今西錦司のいくつかの文章(『山岳省察』1940 に納められているスキー関連の文章)によってもわかるように、泉らは山岳スキーなどについて日本での先端的な試みをなそうと考えていたのであろうと、想像される。

司馬遼太郎『耽羅紀行』(街道をゆく28)はつぎのように述べている。 司馬遼太郎は泉靖一とは「生前、面晤を得たことはない」といっているが、その周辺から別の情報をもらっているらしいことを伺わせる。梅棹忠夫らとの座談会の途中で梅棹宛てに電話があり、泉靖一の死が知らされる、というところから上記の一節ははじまる。いずれにせよ、「頂上付近に数日居た」というのは重大な情報である。
大学での夏休みを利用しての旅だったのにちがいない。数週間、島内をまわった。
この旅で、泉さんたちは冬の漢拏山の話をきいた。冬は大変だという。積雪のために雪を踏んで頂上までのぼったひとはまだいないというのである。この話に泉さんたちは刺激された。彼らは山岳部員だった。
この年、冬が来るのを待ちかねて、泉さんは友人たちと登った。1936年の元旦を期し、目的どおりにその頂上に達した。頂上付近に数日居た。1月3日、泉さんたちは仲間の前川智春という人を亡くすことになる。
泉さんたちの登頂計画は入念で、山頂のすぐ下の大石沢という地点にキャンプとしての小屋をつくったらしい。前川智春青年はその小屋の中で死んだのではなく、山の吹雪に巻かれて死んだのだが、土地のひとたちは、もともと小屋を造ったのがよくなく、そのために山の神の怒りを買った、と解釈した。(朝日文庫p272)
このあと司馬遼太郎は、泉論文の漢拏山の高所は一切の人工物を造ったことがない「聖所」のひとつであった、というところを引用している。




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インターネット上の4・3事件関連の情報(私が実際に読んだものに限る)
講演「済州島4・3事件と韓国現代史」(藤永 壮1998)
http://www.sv.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~ai369/kouen.html

「『済州4・3研究』の書評」(藤永 壮1999)
http://www.he.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/S43kenkyu.htm

民団新聞の52周年記念講演会の報道(2000)
http://www.mindan.org/shinbun/000419/topic/topic_i.htm

「済州島4.3事件53周年を迎えて」(金泰基2001)
http://www.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2001/4/0404/51.htm

ビデオ「レッドハント」(74分、チョ・ソンボン1997)の紹介
http://member.nifty.ne.jp/videopress/redhunt.html

「済州島事件(上)」読売新聞「現代史再訪142」(1992)(Googleのキャッシュによる)