A.M.ブッシイ『実利行者の修験道』の「第1章 実利行者の生涯」の中に、次のような箇所がある。天ヶ瀬に現存する この石碑は「もと笙の窟にあったもので、その横に安置されている不動明王の立像と一緒に、笙の窟から天ヶ瀬に移されたものである」(p34)と、その素性が判明していることをブッシイは述べている(想像するに、ブッシイが現地調査の際に、この石碑と立像の移設にかかわった天ヶ瀬の村民たちから直接の証言を得たものと思われる)。 まず、「碑伝」の銘文は次のようなものである。
つまり、実利自身が花押を書いて、「金峯山山籠り満願」を宣言している、という内容の石碑である。「金峯山」[きんぷせん]というと、通常は山上ヶ岳までの吉野の修験の山を指すが、ここでは、山上ヶ岳の更に奥の(南の)大普賢岳から大台ヶ原へ延びる尾根に位置する「笙の窟」にたいして、使用していることになる。 ブッシイは次のように、推論している。 「満願」というのは、千日行の期間が終わったという意味を持つから、その千日行の始めは明治元年三月までさかのぼるのであろう。(同p34)ここは計算ミスであり、正しくは「明治二年二月から三月」とすべきところであると思われる。 単純な計算であるが、はっきりと千日間の年月の計算を示してある例を知らないので、計算例を3通り示しておく。 太陽暦に移して計算するのが分かりがよいと思う。「明治四年十一月吉祥日」を「明治四年十一月一日」として計算してみる。これは、太陽暦(グレゴリオ暦)1871年12月12日である。
明治四年11月吉祥日が仮にこの時の晦日(みそか 二十九日)だったとすると、千日前は明治二年三月四日になる。 結局、上で示したA.M.ブッシイの計算ミスは修正されて、 「満願」というのは、千日行の期間が終わったという意味を持つから、その千日行の始めは明治二年二月から三月までさかのぼるのであろう。となる。 いうまでもなく、このことは、実利行者の出奔の時期や大峰へ入った時期を限定するのに、関係を持ってくるのである。 これで話は終わりなのだが、ついでに、慶応が明治に改元されたのは慶応四年=明治元年九月八日(1868年10月23日)のことである。そのまま和暦(旧暦)が使い続けられ、太陽暦(西暦)に切り替わったのは(改暦)、明治五年十一月十日=明治5年12月10日(1872年12月10日)。 つまり、上の千日行の計算には、改元・改暦のいずれも直接の関係はなかった。 |