実利行者が大峰に入り活動を始めたのが幕末であったことはまちがいない。慶応四年八月(1868)と書かれた「孔雀明王の木札」が上北山村に保存されている。実利は郷里の美濃国恵那郡坂下を出奔して大峰で修験者としての本格的な修行を始めたのだが、それがいつからのことなのか、はっきりしていない。それどころか、彼の生年も2説有り確定していない。 《1》 まず、生年問題と初期の活動に関して、どのような資料が存在しているのか。以下で取りあげるものを列挙しておく。
実利行者の年齢問題を、ここでざっと見ておく。 まず、生年については2説ある。ひとつはG:北栄蔵「実利行者尊御事跡」(p274)の天保十四年(1843)説である(月日は示されていない)。ブッシイ前掲書はこれに従っている。もうひとつは坂下町の実利教会にあるI:「碑文」で、「天保九年(1838)八月二日を以て生まる」(p157)としている。この2説には、五歳の差がある。 なお、この「碑文」は実利の捨身入定のことを、次のように記している。 而して結願の意を遺書し那智瀑布上に座禅し、遂に深淵に投して入定す。時に明治十八年四月二十一日也(p157)正しくは「明治十七年四月二十一日」である。この碑の建立の日は明治三十五年四月二十一日で、第十九回忌の当日である。関係者に回忌は意識されていたであろうから、この誤記は信じられないような杜撰さである(ブッシィ前掲書には傍書して(ママ)とあり、碑文の誤読や本書の誤植の可能性は否定される)。だからといって天保九年生年説の信憑性が薄いことにはならないが、すくなくとも、この「碑文」の撰者や碑の建てられたいきさつなど、ぜひ調査・探求して欲しいものだ。さして長くない碑文(ブッシイ前掲書では20行)のうち、有栖川宮に関連したところが4行に渡っていることなど、気になるところだ。 つぎに、出家(郷里から出奔)したときの年齢に2説あり、本編【03行目】で述べたように、二十二歳説と二十五歳説である。G:北栄蔵「実利行者尊御事跡」は二十二歳説であり、「導師和讃」とI:「碑文」は二十五歳説である。 もうひとつ関連するが、アンリ・マリ ブッシイ「実利行者と大峯山 ― 特に前鬼山の生活を中心として ―」(『近畿霊山と修験道』名著出版1978)のはじめで、「明治元年二十五歳の時出家して」と述べている(p225)。(これは、数え歳の計算ミスの可能性がある。二十五歳出奔なら慶応三年のことで、明治元年の前年である)。 生年に2説あり出奔に2説あれば組み合わせれば4つの場合があり得る。
実利行者の出家の時期は、彼の自筆自作の和讃と伝記によると、二十五歳の時(慶応三年=1867)であった。(p27)となっている。「彼の自筆自作の和讃」については本編【03行目】で示したように、そこで「二十五歳の秋過ぎ」に出家したと述べていた。このブッシイの行文によれば、「伝記」によって二十五歳が慶応三年に当たることが分かるとしていることになるが、「伝記」がどれを指すのか明らかでない。 前掲書の冒頭「第一章 一」は学術書らしく「その基礎的な資料」となっており、その中で実利行者の活動に直接関わる資料を述べた後で、「数種の実利行者伝記」を挙げている。われわれのI、G、F、Hの順に挙げてあるが、それですべてである(p25)。 上引の数頁あとの「出家の動機」のところで 出家の動機については、伝記では、「霊の御告によって・・・」という理由が取り上げられているだけである。(p30)と述べているが、H「実利行者伝聞書」に「霊告により吉野修験者となり」云々(p276)とあることを指すか。天保十四年説のGは、 一夜神夢ニ感ジ、飄然トシテ故郷ヲ辞ス。(p274)とし、その時二十二歳であったとしているのは既述の通り。 このように、ブッシイ前掲書がなぜ天保十四年を生年とし二十五歳で出奔としたのか、特に理由が記されていない、と判断するしかない。ただ、ブッシイの本を読んでいくと、“たぶん、著者はこう考えたんだろうな”と推測される道筋はある。もちろんこれはわたしの考えだが、以下述べておく。 まず、ブッシイが二十五歳出家説を強く信じるようになったのは、信者の老人たちへの調査によるのであろうと思われる。つぎは少し長い引用だが、ブッシイがすぐれた聞き取り調査の能力を持っていることと、彼女の鋭敏な宗教的感受性がよく現れている箇所だと思う。 しかし私の坂下の調査によると、実利の出家についてもうすこし詳しい話を聞くことができた。これは実利教会に集まる信者の老人(男女8名の氏名を省略)から聞いたことであるが、土地の人々に信じられている話がある。行者が二十五歳の時、坂下の十二人の信者と一緒に、黒沢口登山道の千本松で行われる御嶽教のお座立て(託宣儀礼)に参加するために、御嶽山に登ったという。この「廻心」のあと、実利はいわば青竜王に見込まれた修験者として後半生を生きたのである。実利は一度も口にしなかったが、接するものは誰もがこの行者は異様な神秘を心中に抱えていることを感じざるを得なかったのであろう。「のちに那智の滝に捨身入定する運命は、この時定まっていたように思われる」というブッシイの表現はすぐれている。特に「運命」という語が光っている。 信者の老人たちへの調査によって「(坂下の)人々に信じられている話」を発掘したブッシイは、実利行者を中核にする信仰の本質を二十五歳の実利の「廻心」に見い出したのである。ここに触れられている問題は、「実利行者論」がもし書かれる場合には、その中心主題となると思う。 大峰山中の下北山村に保存されていた北栄蔵のG:「実利行者尊御事跡」をブッシイは伝記としてもっとも尊重している。その理由は明記していないが、F,G,H,Iを勘案すれば、G「実利行者尊御事跡」 が内容としてもっとも豊富で、全体としての信頼感があることは明らかであるとわたしも思う。 ブッシイはこのG「実利行者尊御事跡」が天保十四年生年説であることを採用し、慶応二年(1866)の記載のある「般若心経」などの手習帳がいまだ未熟な内容であると見て出家以前のものと判断し(p29)、坂下での聞き取り調査の結果の「二十五歳で神秘な出家をした」を重視したものと思われる。 すなわちブッシイは、北栄蔵の伝記の天保十四年生年と信者達から聞き取った「二十五歳で神秘な出家」を採用し、手習帳『般若心経』などの資料を総合的に考え合わせて、天保十四年生まれで二十五歳出家説に至ったものと思う。 《3》 G:「実利行者尊御事跡」は行者が二十二歳で出奔、富士山頂で「三霜」を経て下山したのが二十六歳春としている。とすると、「三霜」は三回の冬の意味であろうから、二十三歳、二十四歳、二十五歳の冬を頂上で過ごし、二十六歳の春に下山したということであろう(とすると二十二歳の冬をどこで過ごしたかが明らかではないことになる)。 また、「実利行者尊御事跡」は天保十四年1843生れ説であるから「二十六歳ノ春」は慶応四年=明治元年1868になる。その年に下山し「歩ヲ西ニ移シ」て笙の窟の修行を始めたというのだから、松浦武四郎「乙酉紀行」の「慶応三年峯中笙の窟に籠もりて行を始め一千日籠居し」と矛盾することになる。 しかし、「富士山頂で三霜」というのはいかにも誇張された修行伝説であると考えられる。御嶽講の熱心な信者であった若き林喜代八・実利が、何らかの形で富士修行を行った可能性はあるから、それを千日修行に結びつけて三霜と表現したとも考えられる。ただ、そのために年次の問題が窮屈になった、あるいは、そのために二十二歳出家説となったのかも知れない。 ブッシイ前掲書によると実利の父・小栗宗賢は御嶽行者であったと考えられ、「宗教的素質をもった家系」だったらしいという(p26)。実利は十八、九歳で結婚し子供もできていたというから、彼もすでに御嶽行者としての修行をいくらかは始めていたのかもしれない。江戸末期の坂下の農村生活の様子や御嶽講の信仰などについても考究の余地があろう。 「実利行者立像の讃解読」の観点からは、G:「実利行者尊御事跡」が「富士山頂で三霜」を主張しているのは重大である。というのは、これ以外の資料で実利行者と富士山修行を結びつけているものが存在しないからである。この点からも「実利行者立像」の作者が北栄蔵と昵懇の関係にあったことが推察される。 出家後のかなり早い段階で実利が大峰に入り、そこで修行に邁進したことはまちがいない。
「千日行」というが、正確に千日を費やしたものか、また、その千日の間に山籠以外のことは一切やらなかったのか、などの疑問がある。「千日」の意味で、「三年 みとせ」と述べていると思える場合もある。Gの「富士山頂で三霜」もあるいはその類と考えておいてよいのかも知れない。(ただし「三霜」の時間的なことについてのことであり、Gが富士山と実利行者を結びつけている資料として重要であることは変わらない。) つぎは平安後期の例だが笙の窟の千日山籠で有名な行尊[ぎょうそん 1055~1135]である。『撰集抄』の「行尊等笙ノ岩屋ノ歌ノ事」(第103話)の一部 笙の岩屋にこもりて、(中略)火なきに煙たえず、花は合掌にひらけて、春にもよらずして三年を送る。天香具山に籠て、無常の化仏を十方に現じ、香薫を庵のうちにみちて、三年をすごす。(岩波文庫『撰集抄』p266)“足かけ3年”という数え方もあるから、冬の山籠を2度越せばそれで「三年をすごす」とした場合もあったかもしれない。しかも、「伝記」では実利が生涯に千日行を6回かそれ以上をなしとげたとしている。I:「碑文」「六回毎回各一千日なり」(p157)、F:福山周平「御本尊不動明王」は地名を挙げ生涯に6回の千日行を行ったことを述べている(p273)。G:北栄蔵「実利行者尊御事跡」では地名と年齢をあげて、6回ないしそれ以上の千日行を行ったとしている(p274)。(このことは本文の【08行目】でも触れている) 実利が早い時期に大峰修行をしていたことの証言に、先に引用した松浦武四郎「乙酉紀行」がある。そこには 慶応三年峯中笙の窟に籠もりて行を始め一千日籠居し、明治三年九月大台山牛石に移りて自ら草庵を結て修行、同七年冬まで一千日修行有。とあった(ここ)。慶応三年から笙の窟で千日行を行うと、その満願は明治二年中である。したがって、この記述によれば、笙の窟での千日行を終え、その翌年に大台山牛石へ活動の場を移した、という流れが理解できる。そして、Cの供養塔は牛石へ移る1月前の日付になっていることになる。Aの木札は、この千日行の途中に、「孔雀明王秘供」を行ったことを示していると考えれば矛盾がない。 この推論が正しければ、Eの石碑は笙の窟での千日行だけでなく、鷲峯無双洞での山籠修行などをも含めた「金峯山山籠り満願」を記念したものであった、と考えられる。 慶応三年に笙の窟で千日行を開始しているという「乙酉紀行」の記述を正しいとすると、ちょうどその年が天保十四年生まれ二十五歳である。この年に出奔したとすると、出奔して大峰に入りただちに笙の窟で千日行開始ということになり、不可能ではないがやや無理がある。G:北栄蔵「実利行者尊御事跡」のいう天保十四年生まれ・二十二歳出奔であれば、出奔後四年経過しており「笙の窟で千日行開始」は十分にあり得る。しかし、Gは富士山頂で「三霜」を過ごしていて、下山が二十六歳春になっている。 もし、天保九年生まれだったとすれば二十五歳は文久二年(1862)になり、富士山修行も含めて、修験道の修行・勉学の時間に余裕がある。それが実利教会の「碑文」である。「導師和讃」は生年を述べていないが、二十五歳の秋出奔としていた。 《4》 出奔した実利が大峰に入り笙の窟(上北山村)などで活動し、数年して深仙(深山)など下北山村前鬼に移ったことは確かなようである。それがBの実利自筆メモの「明治二年十月十九日、白川邑福田友之助氏より前鬼山釈迦ヶ嶽深山ニ入る」の意味するところであると考えられる。「白川邑」は上北山村の現存地名だが、笙の窟の千日行などの場合は、笙の窟と山道一本でつながる天ヶ瀬の部落で支援を受けていたと考えられる(ブッシイp36など)。そして、明治二年十月に上北山村から下北山村へその活動拠点を変えているのである。 このこと(活動拠点を前鬼へ移したこと)の背景には、当時の修験道の危機的な全体的状況と前鬼にいた五鬼熊義真という有名な山伏の存在があったと思われる。実利は修験道の再興を志すとともに五鬼熊義真を中心とする前鬼の山伏たちから修験道の基本を学ぼうとしたのであろう(ブッシイp37)。 すでに笙の窟での冬籠もりの荒行を経験してきた実利は、前鬼でもただちにその修験者としての高い能力を認められ、わずか1年後にはD「山籠行者両峯正大先達」と自称することが許されていたのである。「山籠行者」という自称は、実利が当時の修験者の修行でも珍しい山中独居の荒行をこなしていたことを意味すると考えられるが、実利自身にとっては“青竜王に見込まれた者”としてそういう荒行はすこしの困難事でもなかったのだろう。本文【11行目】に引用しておいたが、松浦武四郎「乙酉紀行」で、はじめて牛石で野宿するときの行文に「此奥山にて我等五人にて一宿さへ明し兼るに一千日の修行、実に世に目出度行者にてぞおはせしなり」とあった。また、「讃」の【16行目】には 此人と倶に山籠ねがひしとあったことも思い合わされる。 ブッシイ「実利行者と大峯山」(『近畿霊山と修験道』1978所収)は、実利行者が入った前鬼村についてその生活振りが具体的に述べられていて、貴重である。特に、“山伏村”としての前鬼が世俗・妻帯の村であった事によって永続性が保証され、反面、村の生活の中に女人禁制のタブー域をつくることになった、等々の分析は、ブッシイが前鬼出身の女性との面談によってはじめて可能になったものである(p241以下)。 しかしこれ(女性の「赤不浄」)よりも、まだ強い女人禁制があった。それは前鬼の女性には、山伏の礼儀・秘法・修行・思想・山中生活の様子は一切耳にいれられなかった。この男と女の聖と俗の区別はこれが極限であろう。女によって前鬼の世代はつがれたが、山伏の伝統とその精神の奥義には女を近付けなかった。したがって、詳しく年中行事と日常生活を語ってくれた中垣内花子女と中井みきこ女から、前鬼の修験道については聞くことができなかった。この伝統をもっていたのは実利あるいは大沢円覚のような行者のみである。しかし、この役割の区別は前鬼山の調和をはかる上で欠かせないものであった。(同書p244)実利の活動の背景に在るものを探るという視点によって、江戸期の修験道の状況や、明治新政府の下での宗教状況(修験道弾圧)が課題として見えてくる。そういう遠近法の中に置いて、実利の那智の滝における捨身入定の「運命」と、その120年余後の現在に至るまで持続している実利信仰の生き生きとした生命力が理解されるようになるのではないか、とわたしは考えている。 かつては実利信仰の講が存在していた美濃地方で、現在も地区の人々が「行者さんの祭」を行いつつ実利行者との関係をまったく意識していなかったり、「実利」という存在自体を知らない人々が毎年の祭礼を支えている例があるのだという(安藤氏メール)。こういう例こそ尊いと思う。 |
実利行者の生年問題と初期活動 終
5月30日(2011)