介良風土記

小笠原正登聞き書き   刀と鉄砲  刀は奥州白川臣手柄山正繁銘 (刀身八十センチ)  鉄砲はスペンサー (全長九四センチ)  味方は全員無傷で、敵陣へ行って砲身へすすきを折って押しこんでおいた。後で薩摩 占領ということになったとき、一番乗りは土佐じゃと苦情を云うた。来たときには土佐 は一人も居なかった、そんな筈はない、証拠はということになって、そんなら砲身をの ぞいてみよで土州占領と決着がついた。  刀も鉄砲も一しょに持ちかえったが、曲った刀は陣屋の外へほりすてておいたら、い つのまにか本人より先にうちへもどっておった。  数馬に陣屋で、なぜ斬らざったら、と聞くと恥ずかしいがこれを見てくれと刀を抜い た。三尺余の長い直刀だったが、それが当節のはやりだから気にもとめなかったが、中 身は大身の槍の穂であった。かまんなら一本くれんか、短いがをよろう、ということに なったが陣中つれづれの刀の品評会でいつもその刀が評判になった。  斬った敵は石塚だいろくという名負うての二刀流の使い手で、剣道指南番とのことで、 道理で長い刀を二本差していたわけである。  短い方も手頃な寸法であったが、実戦には長いが得である。それに正繁は奥州正宗と 言はれるだけあって、いろいろ切ってみたが切れ味は群を抜いておる。自分の背丈にも ころあいで、どうせ生きて戻れんと思っていたので一本でよかった。幸いなことに弾が でなかったが、調べたら銃尾口に弾が二発つまっていた。とっさのことで思わず二度掛 けしたらしい。ドンと鳴るか刀を抜かれていたら、この首はあの原に落ちた筈である。 運としか言いようがない。  後の話だが、数馬が、桐の刀箱をこしらえて蓋に由来を書いてあると云っていたので、 先ざき数馬の家と交際を持つことがあったら一度見せてもらうがええ。  スペンサー銃は1863年製、7連発 弾は床尾から入れるようになっている。一発撃って用心鉄桿を開くと遊底から空の薬莢 が出る。騎兵用とのことである。 (補記)  正登は毎年、石塚たいろくの命日に、お床の三宝の上に正繁と鉄砲を横たえ酒を供え て供養をしていた。晩年のことだが、「刀がいるなら一本やる。それが家重代の関の岩 捲、これが正繁、どれにするぞ。」「おじやんの方がええ」と貰ってから終戦後の進駐 軍の目もかくしとおした刀と鉄砲である。  戻る  次へ


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