介良風土記  戊辰東征(その二)    3  二本松の戦か。正登等七人位が斥候となった。向うしも手には会津軍がいる。味方と の間には深い谷がある。上手に行ってフヂカヅラをよぢて上ると、敵陣地はまるみえ。 大砲いくつ、隊の配置がわかる。見ている中に敵陣がざわめきだした。味方の軍が下手 の橋を渡って攻撃をかけたのである。正登らは鉄砲をうち込み、はさみ打ちにした。  この時の戦に「薩摩正面、長州横や、土佐の斬り込み程がよい。」と、ほめられている。  そればかりではない。正登等は会津が残した大砲の口にススキの穂を入れて置いた。 そして占領が問題になった時に、土州が占領したことに決定。それは正登等のススキの 穂が証拠になった。    4  その戦のときである。逃げてくる敵があった。正登は吉田数馬(後、海南学校長)とい っしょにススキの原にこぼんでいた。数馬の近くへ来る。数馬はやりすごして刀に手を かける。半分抜いたが鞘におさめた。  今度は正登の真正面に来た。正登はたちあがって刀を振りかぶった。その時、鉄砲の 引きがねがカチン。しかし不発。正登は斬った。肩口をやった。片ひざついて「いかに も無念」と言うのを「何を言や」と正登は背中に二太刀目をあびせる。敵は「これで首 をはねよ」と脇差を差し出した。正登は、それでとどめを刺した。これは敵方の隊長石 塚だいろくである。  正登は自分の刀をすてて、敵のスペンサー銃一つと、名刀、手柄山正繁と外一刀をも ち帰る。その一本を吉田数馬に与えた。吉田は桐箱に入れて小笠原正登にもらったとい う箱書をしてあった。  正登のものは奥州白河住手柄山正繁の二尺六寸である。相手は二刀流の剣道指南役で あった。    5  白虎隊は切腹していたのはほとんどない。刺しちがえが少し、大抵はうしろから斬ら れていた。年長者がカイシャクしてやったものだろう。  女というものは戦争には役にたたん。みごと白装束で薙刀をもってやってくる。いか にもけなげに見えたが、鉄砲をかまえて「おけっ」と、どなると全部薙刀をおいて投降した。  会津城中は糞がいっぱい。臭くて仕方がなかった。  戦闘でこわいのは弓だ。ぴゅんぴゅん音をたててくる。来だしたら、ザンゴウにとびこんだ。       戻る  次へ


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