介良風土記 (橋詰延寿 著、介良風土記63ページから)  戊辰東征(その一)   小笠原正登  介良から戊辰東征の四勇士中に小笠原正登がある。本籍介良村宮の谷で、中島郷晴さ んの母方の父。はじめ政治といっていたが後に正登と改名した。  彼は嘉永二年(1849)五月十七日生。昭和八年(1933)六月十七日死亡、年八十五。  戊辰東征の時は二十歳、迅衝隊第三番隊所属である。正登は戦功で、新規に召出され 禄七石七斗をいただき、御親兵勤務をした。後に征韓論を唱え、西郷の挙兵とともに呼 応して藩閥政府打倒を画策中、露顕して、国事犯となり、石川島監獄に入れられた。  後に許されて帰郷したものである。疾風怒濤の時代に身をもってその中に立っている。  東征中の二、三の逸話を記す。    1  人というものは斬れるものぢゃない。刀を抜いて向かいあうと、相手の眼が二つタイ マツが燃えるように光る。そのタイマツに向うて斬りつける。剣道をやるなら面から他 は打つな。時にはにらみ合うて別れたこともある。七人斬った男もあるが、あれは逃げ るのを斬ったがぢゃ。    2  東征の土佐軍の軍律は実に厳しかった。盗みをしたり,女をつついたものはその場で 全部切腹さした。  友人の一人に門限におくれて軍律違反、切腹を命ぜられたものがある。正登がカイシ ャクを頼まれた。山路元治隊長に首は落とすなよと言われた。刀に白紙を巻き、糸でま き、先を少し出し、これで斬れと言った。この兵は腹へつっこんだかと思うと早や死ん でいた。血は殆ど出なかった。  そののちまた一人カイシャクした。  これは見事一文字に切ったが,ざーっと血が出た。うなるだけで死なない。  後から手をそえて二の字に切ってやったがいかん。はみ出て土もつれの腸をつめこん で、羽織をまき帯でくくって軍医のところへ行ったら、ふろをはねえと言う。のど笛を 切ったがひゅうひゅういうだけ、水を飲ましてものどから出るだけで死なぬ。肩口から 心臓へ向って刀を刺して殺してやったが、あのときは往生した。  あれが血迷ったというものぢゃろうが、ああなったらなかなか死ぬるもんぢゃない。 次へ


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