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鳥屋のエッセイ
P.8


ヘルパー

野鳥の繁殖に「ヘルパー」という存在がある。
巣立ち後も実家に居残り、親の子育てや、巣の防衛を手助けする若鳥のことである。
ツバメの巣に、成鳥が3羽出入りするのを見ることがあるが、あれは一羽がヘルパーだ。
人間世界のように、片付かない娘やオタクな息子などが居るのかもしれない。

鳥のヘルパーはかなり多彩で、詳しくは解明されていないようだ。
ハチクイという鳥のヘルパーが、風変わりである。
ハチクイの親は、息子が首尾良く結婚して子育てを始めると、「実家に戻ってヘルパーをしておくれ」と誘いに来るそうだ。
親は息子の新居に足繁く通い、懇願し、おだてて、ついには実家に連れ帰ってしまうのだそうで、その成功率は40%に達するという。
独立出来ない子供側の事情でヘルパーとなる例もあるが、親の事情から手離したくないというのもあるのだ。

実際、ヘルパーの意義は鳥の種類や生息環境によって様々らしい。
良い営巣場所や縄張りが少ないため、実家を相続しないと繁殖の希望が持てないという、厳しい例もあるようで、これは江戸時代の家督相続に良く似ている。
それぞれの状況に適応した、ヘルパーという工夫が、一家のDNAを残すのに貢献すれば、その習性は伝承されるのである。







威勢の良い離婚

日本の離婚率は70年代以降、一貫して上昇している。
女性の地位向上という側面を思えば、必ずしも悪いことでは無いのだろう。
しかし、近頃の「熟年離婚の激増」というのは大いに気になる。

仕事一筋の不器用な会社人間が、定年を迎えた日に、一人しか居ない古女房に突然出て行かれたら、あとには何も残らないではないか。

葦原で歌うセッカのオスは、一夫多妻で威勢の良い鳥だ。
セッカはテリトリー内に数軒の巣を構え、メスを誘って住まわせる。
子育てはメスに任せっきりで、ひたすら歌って暮らすだけだ。
いわば仕事一筋。


セッカの離婚は、もっぱらオスがメスを追い出す形をとるらしい。
この追い出し方が、実に威勢良い。

セッカのオスは巣の骨格と外装までしか作らない。
そこにメスが材料を持ち込んで内装工事をする。
ちょうど、男が構えた新居に女が嫁入り道具を持ち込むようなものだ。

オスがメスを追い出すときには、この嫁入り道具も巣の外に放り出す。
オスは「出て行けー! 」と雄叫びを上げながら、タンスや鏡台などを家の外に威勢よく放り出すのである。


というわけで、見習うべきはセッカ。
熟年諸氏よ、双眼鏡を下げて葦原に出かけよう






冬鳥激減の真相?

この冬は冬鳥が極端に少なく、バードウォッチャーたちは一様に首をひねった。
渡来が遅れているのか、よそへ行ったのか、それとも鳥の数自体が減ってしまったのか。
真相が分からないまま、誰もが大いに不安を感じたに違いない。

5月7日の読売新聞に、冬鳥減少に関する記事が載った。
記事はオランダ生態学研究所が調査し、科学誌「ネイチャー」に発表した内容で、以下がその要旨である。
@アフリカから欧州にかけての渡り鳥が減少している。
Aマダラヒタキの調査では、繁殖地で子育ての栄養となるイモムシの発生時期と、マダラヒタキの繁殖時期がずれてしまったことが判明した。
イモムシは気候変化を追従して発生時期を変化させたが、マダラヒタキは渡りの時期を変えられなかったため、繁殖の成功率を低下させたという。

B同研究所は、これを地球温暖化の影響であるとして、世界各地で同じような問題が起こっている可能性を指摘している。

昨年末に「遅れているのか、よそへ行ったのか、数を減らしたのか」と首をひねった現象だが、この調査の示すものが主因であれば、事態は深刻だ。
鳥たちの次の繁殖期が、好条件に恵まれることを願うばかりである。







そつたく

「そつたく」という言葉を初めて知った。
孵化寸前の雛鳥が卵の内側から殻をつつくと、気づいた母鳥がそっと殻に穴を開ける。
「そつ」は雛鳥が、「たく
()」は母鳥がつつくことを意味し、広辞苑によれば「機を得て両者が相応ずること」とある。
禅宗に由来するそうだが、なかなか情緒のある言葉である。

孵化期の雛鳥のクチバシ先端には、卵歯という小さな突起があり、これを使って自力で殻を破ることが出来る。
雛鳥はか細い鳴き声を発しながら、この卵歯を使って殻を破ろうとし、これに母鳥が相応じて手助けをするのである。
「そつたく」は母子の協働作業なのだ。


ニワトリのヒヨコにも卵歯があり、母鳥の助けが無くても、独力で殻を破ることが出来る。
だから、孵卵機で卵を温めるだけで、ヒヨコの大量生産が出来ているのだ。

あの愛くるしいヒヨコたちが、「そつたく」の情と無縁に生まれるのかと思えば、哀れな気がしないでもない。

家禽とは、人間の都合に合わせて、人間が創った鳥である。
ぞっとする話だが、産卵マシーンのような白色レグホンは沢山の卵を産むのに、「抱卵する遺伝子」は持っていないという。
「そつたく」の情どころか、卵を温める能力さえ無いのである。

環境を破壊して野鳥種を減少させる一方で、いびつな生き物を大量に創り出す・・・人間というのは恐ろしい。







平等な親、不平等な親


タカ類は、優勝劣敗ルールでヒナを育てる。
先に孵化したヒナは、遅れて孵化した弱いヒナを押しのけて餌をねだり、親は強いヒナに優先して餌を与える。
だから獲物の乏しい年には
1羽しか育たない。
これは餌の量に応じてヒナの数を調節する、巧妙な仕組だと言われる。

タカに比べ、小鳥類は平等な育て方が多い。
ベニヒワは所定の一腹卵数を産み揃えてから抱卵を開始するので、全部の卵がほぼ同時に孵化する。
この結果、ヒナはどれもが同じ強さで餌をねだることが出来るので、給餌は平等に行き渡るという。

親鳥には、ヒナの大口を見ると給餌したくなる本能があり、飢えたヒナほど必死で大口を開けるので、餌は平等に行きわたるのだとする説もある。
自然界は強いものが益々有利になるのが普通だから、少し不自然な気がする。


同類の鳥なのに、亜種間で正反対というのがいる。
オオバン(Fulica Atra)の親は、餌を独占しようとする強いヒナを無視し、時には横に押しのけてまで、弱いヒナに給餌する平等主義者だそうだ。
しかし、オオバンにそっくりなアメリカオオバン(
Fulica Americana)は、タカ類のように優勝劣敗の育て方をするので、弱いヒナは飢えて死んでしまうらしい。
このオオバンの例は、人間の「日本は平等社会で米国は競争社会」という相違を連想させて面白い







裾を引くカモ

上野不忍池の岸辺に立ってヨシガモを見ていたら、ズボンの裾を後ろから引く者が居る。
振り向いて見下ろすと、可愛らしいオナガガモのメスが、もの欲しそうにボクを見上げていた。
「ねぇ、何かちょうだい・・・」
かつて上野界隈の盛り場ではフーゾク嬢が袖を引いたものだけれど、上野のオナガガモ嬢は裾を引くのか。

ポケットのお菓子を差し出すと、お嬢さんは手から直接食べた。
2個3個と続けて食べさせると、まわりから他のオナガカモがザワザワと集まって来た。
するとお嬢さんは、周囲のライバル達を激しく突いて追い払った。
「テメェーらあっちへ行け!これはあたしのカモよ!」

上野公園の野鳥は人を恐れない。
ハトと一緒に、パンくずを貰うための先陣争いを繰り返すうちに、人との距離が異常接近してしまったのだ。
不忍池ではオナガガモやハシビロガモが、人の手から直接エサを貰う。
地方の沼なら双眼鏡で遠くから観察する鳥を、不忍池では肉眼で、足下に見ることが出来る。
その気になれば、パンくず片手に、手づかみのカモ猟も出来るだろう。

餌付けは不忍池のカモに限らない。
カメラマンによる小鳥類への餌付けも増加しており、都市公園では「野鳥のペット化現象」が広がっている。
こんな調子で、人への接近グセをつけた鳥が、大陸へ渡ったらどうなるのだろう。
中国では「四本足のものであれば、机以外は何でも食べる」「空を飛ぶものは、飛行機以外は何でも食べる」らしいから。


参照→妖艶なオナガガモ嬢






飛島で不思議に思ったこと

ひとつ目は、メジロの渡り。
今回はメジロがやたら多く、満開の桜の枝に鈴なりで花蜜を吸っていた。
本土で見飽きている小鳥なので双眼鏡も興味も向けないのだが、ふと不思議に思った。

飛島は日本海の離島で、大陸との間を往来する渡り鳥の中継地となっているが、鈴なりのメジロは朝鮮半島へ渡るのではなく、日本列島を北上中の群れである。
地形の影響で気流が複雑な陸上に比べて、海上は大気が安定しているから飛行しやすいとは思うのだが、飛島は本土から40キロも離れている。
メジロの体重は僅か10グラムほどで、吹けば飛ぶような小鳥だ。

賑やかに花密に群がるメジロたちは、どんな風に離島にたどり着き、これから一体どうするのだろう。

ふたつ目は、渡り鳥の食べっぷり。
同じ場所で延々と採餌し続ける、一羽のシベリアアオジ(スズメ目ホオジロ科)が居た。
毎日数回立ち寄ったが、いつも採餌中で、近づいても逃げない。
驚いたことに、ボクが滞在した
4日間は、連日休み無く食べているようだった。
渡り鳥は飢えと疲れのため、人を警戒する余裕も無く食べ続けるのだろうと思っていたが、どうも違うような気がする。
衰弱すれば消化吸収力も落ちる筈で、あれほどに食べ続けられるわけが無い。


スズメの生活を観察すると、1日に占める採餌時間というのは僅か10〜30%で、あとのほとんどは休憩時間だという。
シベリアアオジが「一日中食べ続ける」のは、飢えというよりも、消化吸収能力が異常に高まっているためと考える方が妥当な気がする。
渡りをしている鳥の代謝と体内生理は、平常時と全く異なっているに違いない。
その解明は強力な消化剤の開発などにつながるかもしれない。


渡りシーズンの離島は珍鳥に出会えるのが大きな魅力だが、こんなふうに、渡りの謎を考えながら歩くのも楽しいものである。







伊豆沼に一極集中するマガン

先日、伊豆沼でマガンの飛び立ちを見物してきた。
マガンは日の出前に、塒(ねぐら)とする水面から餌場に向けて一斉に飛び立つ。
朝焼けを背景に大群が飛び立つ様子は、鳥好きでなくても感動させられる素晴らしい眺めである。


1985年にラムサール条約の登録を受けてから、伊豆沼のマガンは年々増加している。
先日の情報によれば総数53000羽で、昨年より10000羽も増加しているそうだ。
これが伊豆沼周辺の狭いエリアに密集している。

マガンの大群は落穂も食べるが、自然乾燥中の稲穂も食べるので、農家にとっては害鳥以外の何者でもない。
数年前の某報告だが、伊豆沼周辺で収穫された稲の0.05%を食べるという。

越冬の適地が他に少ないから、マガンは宮城県に、特に伊豆沼付近に一極集中している。
農家の被害は置くとしても、これで伝染病が流行れば国内のマガンは絶滅に瀕する恐れがある。


鳥インフルエンザでニワトリが大量死した事件は記憶に新しい。
先日の新聞報道によれば、英国が台湾から輸入した野鳥53羽が、鳥インフルエンザで死んだそうだ。

鶏舎や鳥かごのように、狭い場所に鳥を詰め込めば、伝染病は蔓延しやすい。

人が環境を破壊し、マガンの越冬地を少なくしてしまった。
伊豆沼には金網の囲いこそ無いものの、実質的には人が設置してマガンを詰め込んだ、巨大な鳥かごなのである。
分散策が急がれる








アイガモ農法

環境教育として、小学生によるアイガモ農法の体験学習が行われている。
子供とアイガモのヒナという組み合わせは如何にもほほえましいので、テレビ放映のネタにもなる。

某小学校の事例放映を見たが、ヒナを田植え直後の田んぼに放すことから始まり、最後には大きくなったアイガモを川に放すことで締め括っていた。
自然に放したアイガモは、人間が餌をやらなければ野垂れ死にするし、運よく生き延びれば生態系に影響しかねないだろう。
考えてみれば、これは真面目な教育とは言えない。

アイガモ農法は中国渡来の方式だが、日本には豊臣時代からアヒル農法があった。
それが廃れたのは、昭和20年代の食肉競争で、アヒルがニワトリに敗れたからだという。
アイガモ農法もアヒル農法も、最後に食肉になることで成立するのである。

テレビ放映の例で言えば、最初に可愛いヒナを田んぼに放した子供達が、最後には美味しそうにアイガモのバーベキューを食べてお仕舞いにするのが、正しい教育なのだ。
近年の日本人は軟弱になり過ぎているから、実際にそんな様子を放映して欲しいと思う。
放送責任者は無事に済まないだろうが。









「ブボがいた夏」という本

この本は、米国の昆虫学者ベルンド・ハインリッチが、ワシミミズクと共に山小屋で過ごした三夏の観察記録である。

大雪のためにワシミミズクの巣が破壊され、著者は一羽のヒナを保護した。
彼はこのヒナを育て、狩りを学ばせ、いずれ自然に帰してやろうと決心する。

科学者の眼による観察と考察は興味深いし、ブボと名づけられたミミズクと彼との「特別な関係」ぶりには心惹かれる。
研究者である彼は、カラスによるミミズクへのモビングを観察するために、同時に2羽のナミガラスをも育てる。
鳥たちが山小屋の周りを自由に飛び回るようになると、ブボはナミガラスを捕食しようと攻撃し、ナミガラスは防戦のためのモビングを始めるのだが、両者の危険な駆け引きはスリリングだ。

ブボは少しずつ人離れして自立し、最後の夏の終わりには、森の自然へ帰って行く。
理想的な結末なのだが、別れは物悲しい。


読み終えた時、ミミズクの気持ちが分かるようになれたと思った。
これは錯覚なのだろうが、ミミズクへの理解は間違いなく深まった。

詳細な記録なので一般の人には読みにくいかもしれないが、バードウォッチャーを楽しませる本だと思う。

・書名:ブボがいた夏
・著者:ベルンド・ハインリッチ
・発行:平河出版社


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