目次に戻る

トップへ戻る

次へ

鳥屋のエッセイ
P.5


人と野鳥の距離

有名な、野鳥の水場に行って驚いた。
ヤマガラやコガラなどのカラ類が、全く人を恐れず、足元に置いたリュックや、目の前に立てた三脚のスコープに平気でとまる。数メートル先の水場には、色んな野鳥が次々と水浴びにやってくる。
とにかく、人と野鳥の距離が異常に近い。
まるで野鳥の楽園に迷い込んだかのようで、間近に見る小鳥の可愛らしさに、夢見心地になりかけたが、周りを見回すうち、そこここに餌が置いてあるのに気づいた。
ヒマワリの種を石コロの間に隠してあるのは、撮影しても餌付けがバレないようにしてあるのだろう。うーむ・・・。

最近東京を離れた、先輩のバードウォッチャーが、「野鳥が遠くなった」とこぼしていた。
都会よりも緑豊かな地方こそ、より多くの野鳥に会えそうな気がするが、現実は全く逆だと言うのである。
都会に散在する狭い公園は、砂漠のオアシスに似て、野鳥が集中する場所なのである。
「地方の緑は奥が深い。野鳥は遠くからしか観察出来ないし、すぐに飛び去ってしまう。首都圏のバードウォッチャーの方が、近くから野鳥を観察出来るチャンスに恵まれていて、野鳥を見分ける能力も養われる」と先輩は笑っていた。

台湾から招かれたバードウォッチャーが、東京都内の公園で親善バードウォッチングをしたら、全員が「人と野鳥の近さ」に大いに驚いたそうだ。
台湾のウォッチャー達は「野鳥を食べてきた台湾の習慣が原因」と考え、同行した日本人ウォッチャーは、これを「誇らしいこと」と感じ取ったらしい。
しかし考えてみれば、実態はそう単純では無いようである








道具を使うカラス

人類(特にキリスト教文明)は昔から、人と動物の違いを強調したがり、「人間様にしか出来ないこと」を幾つも並べたててきた。
しかし、科学的な動物研究が進むにつれて、この「人間様にしか出来ないこと」は着実に減ってきているようである。
そういう中のひとつに「道具を使う」というのがある。
ササゴイは、水面に木屑などの疑似餌を投じて、魚をおびき寄せる漁をする。
道具を使うのは人間だけの筈なのに、鳥のくせに生意気な奴が居る、と注目され、ササゴイの漁は有名になった。

先日、不忍池でコサギの巧妙な漁を見た。
コサギはクチバシの先端を水面に入れて、細かくパクパクさせ、水面に小さな泡と波紋を作っていた。
水中の魚から見れば、水面で虫が暴れているかのように見えるのだろう。
こうやって辛抱強く、小魚が寄ってくるのを待つのである。
コサギは、ササゴイの疑似餌のような「モノ」を使わないから、「人間並みに道具を使う鳥」との栄誉は与えられないものの、泡と波紋を「道具」にしていると見ることが出来そうで、なかなか賢いものである。(画像参照→コサギの漁

さて、ササゴイとコサギは前座の話に過ぎない。
「道具を使う鳥」の真打は何と言っても、ニューカレドニアに棲息するカレドニアガラスである。
このカラスは、虫を引っ掛ける道具を自作し、それを使って穴の中の虫を釣り上げる行動で有名だ。
このカレドニアガラスの動画が、オックスフォード大学の、某研究グループのホームページに掲載されている。
動画には「カラスが、真っ直ぐな針金の先端を曲げ加工し、それを使って餌を釣り上げる」という、驚くべき行動が映されている。

聞くと見るとでは大違い。
この動画を見て、ボクは感動した。
これを見れば、人間様の偉さを守る砦のひとつが、あっけなく崩れ落ちる感覚を味わえること、請け合いである。


オックスフォード大学の某研究室HPの動画参照
http://users.ox.ac.uk/~kgroup/tools/movies.shtml
自力で針金を曲げて餌を釣り上げる様子が、このページ10行目にある1.3MBの動画で見られる。
他にもいろんな道具を使う画像が掲載されている







遊ぶカラス

人類をホモサピエンスと言うが、ホモルーデンスという言い方もあり、これは遊ぶ人という意味だそうだ。知性も遊びも人間様にだけに備わっているという、いずれも思い上がった言葉である。

カラスも人間同様に遊ぶらしい。
木の枝やヒモをくわえて仲間と綱引きをする。植えたばかりの苗を片端から引き抜く。木の枝や電線に逆さにぶら下がったり、大車輪をする。都心のビルの谷間でビル風を利用し、上昇と下降を訳もなく繰り返す。公園の滑り台を何回も滑り降りる。ひっくり返って背中で滑っていたという目撃談まである。
最近、線路の置石事件の真犯人はカラスだったというニュースが話題になったが、あれもカラスの遊びだとする説が有力だ。

神宮を塒にするカラスを追跡してみたら、午前中に銀座で食事を済ませ、午後は水元公園で遊び暮らしていたという報告を読んだ。
カラスは鳥のくせに柔軟な胃袋を持っていて、多少の食いだめが効くらしい。
バードウォッチングをしていると、カラスによる他の野鳥へのモビング(チョッカイ出し)を良く見かける。
あれは餌場やナワバリを守るためではなく、イジワルを楽しんでいるように見える。
カラスは暇なのだろう。

人が出す生ゴミのおかげでカラスに余暇が生まれた。
暇になったカラスは遊びながら様々な試行錯誤をするから、新しいやり方を見つけ出すチャンスが多い。
彼らは群れているから、魅力的な発明発見は仲間内に広がり受け継がれるだろう。
カラスの繁栄は当分続きそうである。

画像参照→トビにアッカンベーをする意地悪なカラス







もめるカラス

毎年11月頃、渡良瀬遊水地西側の広大な田園地帯に、ミヤマガラスとコクマルガラスの混群が越冬のために渡来する。
九州地方では良く観察されるものの、関東では珍しい野鳥たちである。

ミヤマガラスはハシボソガラスに似ているから見ても面白くないのだが、ミヤマの群れの中に小型のコクマルガラスが僅かに混じり、そのコクマルの中に稀に白い個体(淡色型)が居る。
これを見たくて、3年ほど続けて菖蒲町付近を探した。
群れは毎年見つかるのだが、コクマル淡色型は1昨年がゼロで、昨年やっと1個体を確認出来た。
しかし先日のウェブ情報によれば、800羽の大群の中に白いのが5羽も居るらしく、どうやら今年は「白いカラス」の当たり年のようである。

このミヤマ・コクマルの群れの飛翔を観察すると、その混乱ぶり無秩序ぶりには呆れる。
ミヤマはいつもコクマルをいじめて追っかけ回し、コクマルは「ミュー、ミュー」というネコみたいな鳴き声を上げて逃げ回っている。
上になったり下になったり、絶え間なく内輪揉めしながら、それでいて群れは大集団を維持して飛ぶ。

コクマルがあれだけいじめられても群れから離脱しないのは、どんな理由があるのだろうか。
ミヤマ・コクマルの混群が、はるか遠くのユーラシア大陸から、あんな調子で内輪もめしながら飛んで来たのかと思えば、なんとも疲れる連中である。

画像参照→コクマルガラス淡色型コクマルガラス暗色型ミヤマガラス







カルガモ親子のシンクロ

6月頃、めぼしい野鳥が出ない時に、カルガモ親子の羽繕いを撮影した。
後日この画像を自宅のパソコンで見ていて、羽繕いの仕草が親子でシンクロ(同期)している現象を発見して眼を丸くした。
羽繕いはクチバシで全身の羽毛をクチュクチュと突く動作だが、驚いたことに、10枚ほど撮った画像のほとんどで、雛は親と同じ部分を突いているのである。
この見事なシンクロぶりに、笑いながらも首を捻ってしまった。
まずは、その愉快な画像を見て欲しい。→シンクロ画像

カルガモの雛は、絶えず母親を追っかけ回し、何でもマネをしているようだ。
有名なカルガモ親子の行列は、シンクロではなく後追い行動だが、行列も羽繕いも同じモノマネなのかもしれない。
親鳥は生き延びて繁殖した成功者なのだから、雛は親の行動を何であれ、とりあえずマネしておこうというのだろうか。

羽繕い画像は、偶然にシンクロしただけかも知れないので、来年の繁殖期には注意深く観察してみようと思う。








鳴かぬなら・・・

水元公園にツツドリが居ると聞いて撮影に出掛けた。
現地の桜林では数羽のツツドリが虫捕りをしており、十数人のカメラマン達が大砲レンズを並べていた。

デジスコを構え、しばらく鳥の動きを追っかけていると、隣に陣取ったカメラマンが「ここで撮った写真を専門家に見せたら、ホトトギスと鑑定されました」と言い出した。
ボクも他人の言うことを鵜呑みにして、ツツドリと信じ込んでいたが、考えてみればツツドリとホトトギスの姿はそっくりだから、鳴いてくれないと見分けがつかないのである。
ホトトギスは「特許 許可局」と鳴き、ツツドリは「ポポ、ポポ」と鳴くが、この時期のホトトギスは鳴かない。カメラマン達は全員がツツドリと信じている様子であった。

・・鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス・・・家康
・・鳴かぬなら、鳴かせてみせる、ホトトギス・・・秀吉
・・鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス・・・・信長
これには、おまけがあって、
・・鳴かぬなら、鳥屋にやれよ、ホトトギス・・・・家斉
というのがある。
いずれも江戸後期に詠われたものだが、十一代将軍徳川家斉の句は「政治は専門家に任せた方がマシだ」という意味の皮肉らしい。

水元公園の鳥種判定は、まさに「鳴かぬなら、鳥屋にやれよ」で、ボクの鳥屋(バードウォッチャー)としての能力が問われることになってしまったのだが、十数枚も撮った証拠写真が幸いした。
これらと図鑑を詳細に見比べることでホトトギスと判断出来、先輩鳥屋のお墨付きも頂戴することが出来た。

ホトトギスの句には、いろんな替え歌がある。
今回は運良く鳥種を特定出来たけれど、もし出来なかったら、こっちの歌の方が相応しいところであった。
・・鳴かぬなら、私が鳴くわ、ホトトギス
・・鳴かぬなら、勝手にしろよ、ホトトギス
・・鳴かぬなら、遺伝子組み替え、ホトトギス
・・鳴かぬなら、後ろの山に 捨てましょか


画像参照 ツツドリ ホトトギス
鳴き声  ツツドリ ホトトギス







クルミ割る人、割れぬ人

カラスが自動車にクルミを轢かせて割る様子を、テレビで見た。
話には聞いていたが、実際の映像を見ると感心する。
カラスがクルミを割る方法には、車に轢かせる方法と、上空から落とす方法が観察されているらしい。
何かを利用してクルミを割るのは、カラスやサルなど、利口な動物に限られるようだ。

ニホンザルに興味深いクルミ割りの事例がある。
サルは平たい石の上にクルミを置き、別の石を手に握ってクルミを叩き割るのだが、これは結構難しい作業である。
クルミは窪みのある石に置かないと安定しないし、手に持った石は平らな面を水平に打ちつけないとクルミが横に飛んでしまう。
ここで面白いのは「クルミを割れるのは、群れの中の若いサルに限られる」という現象である。
若いサルが器用にクルミを割る傍で、その母ザルが一生懸命マネをするのだが上手く割ることが出来ない。

若いサルに出来て母ザルに出来ない理由は、クルミ割りという新技術が、このサルの群れに導入されて間もないからなのだ。
新技術の登場がごく最近の出来事だったために、若くて学習能力のあるサル達は、たちまちクルミ割りの技能を身につけたものの、悲しいかな、学習に最適な年齢を過ぎてしまっていた年配のサル達は、頑張ってもクルミを割ることが出来ないで居るのである。

サルに限らず動物はみんな、若い時こそ能力を高めるチャンスである。
その時期を過ぎれば、加齢とともに新しいことを吸収出来なくなっていく。

昔職場で、サルの事例をネタに「クルミ割る人、割れぬ人」という言葉を流行らせたことがある。
それを今、この歳になって後悔している。







ツミのファミリー

ツミは国内最小の猛禽である。
小柄な身体は機動性に優れ、小鳥を上手に捕らえることが出来る。
本来は山林の鳥なのだが、近年はなぜか市街地の公園などに進出して営巣する例が増えている。
昔と違って、動植物をオモチャにして遊ぶ悪戯小僧が居なくなったせいだろうか。
我が町の神社にも営巣したことがあり、社務所の人が「時々スズメの頭が落ちている」と言っていたから、市街地でも獲物には困らないようだ。

先日、住宅街の公園でツミのファミリーを観察した。
雛は雪だるまに猛禽の眼とクチバシをつけたような姿で巣に座っている。
ツミママは巣近くの見晴らしの良い枝にとまり、周辺を警戒しながら、1〜2時間おきに現れるツミパパをじっと待っている。
ボクたちバードウォッチャーもツミパパの登場を待つのだが、現れると夫婦は互いに「ピー」「ピー」と鳴き交わすのですぐに判る。
「ただいまー」「おかえりなさーい」と言っているようである。
パパはママに獲物を渡すとすぐに飛び去ってしまい、ママは受け取った獲物を早速「台所」に運ぶ。

ツミママお気に入りの台所は、巣から60mほど離れた大木の横枝である。
獲物は必ずこの枝上で羽毛をむしり取り、食べやすく加工してから巣に運ぶ。
ママは雛に給餌すると、再び見張りにつく。

このツミファミリーには親しみを感じた。サラリーマンの「標準世帯」にソックリなのだ。
子供は2羽だし、ママは専業主婦で、パパは一日中働きに出ている。
しかもマイホームは、東京に通うサラリーマンのベッドタウンの中にあるのだ。
良く似てはいるが、羨ましいことにツミには住宅ローンが無いし、満員電車も無い。


画像参照→ツミの子供 見張りをするツミママ 調理をするツミママ







フクロウとカメラマン

今年の冬、双眼鏡をぶら下げて公園を散策していると、突然フクロウの声が聞こえた。
ちょくちょく来ている公園なのだが、フクロウとの遭遇は初めてなので驚いた。
声のした茂みの中を覗き込んでいると、公園管理事務所の青年が通りかかったので、問いかけてみた。
「フクロウが居るのですね?」
青年はフクロウの存在を知られたくなかったのだろう。一瞬、嫌な顔を見せてから、今度は訴えるようにしゃべり始めた。
「カメラマンに知られたら大変なのです。カメラマンが大勢集まると・・・・」

どうもフクロウ類とカメラマン(デジスコマンの一部も含む)の相性は良くない。
他の野鳥と違って、フクロウ類は夜間に活動し昼間は眠っている
眠るときは眼をつぶるから、あの特徴的な丸い目玉は見えない。
見えなくても、観察するだけのバードウォッチャーなら諦めるが、カメラマンとしては写真にならない。
撮りたければ、眼を開けるまで待つか、開けさせるしかない。

眼を「開けさせる」のは論外だが、開けるまで待つとなればカメラマンの滞在時間は長くなり、結局多数の望遠レンズが、一日中フクロウを狙うことになってしまう。
皮肉なもので、人が増え騒然としてくると、警戒したフクロウが眼を開ける回数が増え、カメラマンが喜ぶことになる。
個々のカメラマンに「開けさせる」つもりは無いのだが、実質的には未必の故意みたいなもので、フクロウの安眠や繁殖活動は妨げられることになる。
フクロウの起きている夜間に撮ろうとすれば、今度はフラッシュや照明で脅かすことになるから、フクロウ撮影というのは他の野鳥と違って、特に弊害が大きいのである。
NHKの撮影チームが来た翌年から営巣しなくなったという話も聞く。

先日、神社のご神木にとまったアオバズク(フクロウ科)をデジスコ撮影し終え、駐車場で帰り仕度をしていると、境内からポンポンという柏手の音が聞こえてきた。参拝者ではない。
我々が引き揚げた後で、一人になったカメラマンがアオバズクの眼を開けようとしているのだ。
「柏手を打つのは賽銭箱の前にしなさい!」カミさんが音の聞こえた方に向かって小声で怒ってみせた。


毎年、庭にフクロウがやって来るという知人が居る。
バードウォッチングをする人に教えたら、次々にカメラマンが現われ、フラッシュ撮影をする人が出たため、翌年は来なくなった、と怒っていた。

自分も撮りたがる鳥屋だけど、
庭にフクロウが来るお宅は、どうぞ鳥屋には秘密になさってください。








五十肩とデジスコの重さ

五十肩が悪化してきた。バードウォッチングで三脚を持ち歩いた翌日は特に痛い。
前回、反対の肩が痛くなった時は1年以上も治らなかったが、今回はどうなるのだろう?

五十肩は治せないものだと思いつつも、会社の同僚が薦めるので、ご高齢の中国人医師に診てもらうことにした。
漢方の本場、中国千年への淡い期待がある。
症状を訴えると、レントゲンを撮って、やっぱり五十肩との診立てだった。
痛み止めの注射を打ちますと言って、医師は注射器を構えた。
「痛イトコ、ドコデスカ?」
聞かれて困った。
腕を上げると猛烈に痛いのだが、肩全体が痛いと言う感じであって、どの部分が痛いのかは自分でも良くわからない。
触ってみても「ここが痛い」という部分が無いのである。
という意味の説明をしたら、医師はすごいことを言った。
「ソンナコト言ワレタラ困ルヨ。モウ注射ノ用意シタンダヨ」
老医師が構える注射器は、チョウゲンボウのように、着地点を探って空中でホバリングしている。
ボクは、異国で異文化の医師と相対しているような気分になった。
「はい・・・あえて言えば、この辺が痛いような・・・」
「ホカニ、ドコガ痛イデスカ?」
結局、痛くも無い数ヶ所に針を刺されてしまう羽目になった。

当分痛みが続くのであれば、デジスコ機材の軽量化を図らねばと思い、重さを計ってみた。
重量級の三脚と雲台、大口径スコープ、デジカメ、バランスプレート、スカイサーファーと外付け電池・・・フルセットを体重計に乗せてみたら、なんと5s以上もあるではないか。
カーボン三脚などの軽量機材は欲しいのだけれど、小遣いが乏しいため身体で払ってきたのである。

症状と重量の訴えを聞いたカミさんは「五十肩ハ、待テバ自然ニ治ルアルヨ」。
確かにそうなのだが、さて、どうしたものか。



目次に戻る

トップへ戻る

次へ