9.空飛ぶタマネギ

The Three Musketeers  三銃士  Pastiche  パスティーシュ


  王冠が道端に落ちていた
  

 アトスはやっと痺れが引いてきた右足にもそっと体重を掛けながら、低い声で言った。
「フィーレン、それにパゴスだったな。やけに球根に執着するじゃないか。そんな暇があったら、グレーシュの行方でも追ったらどうだ。」
「ほう、ルイ・グレーシュについてもご存知か。まぁ、いい。ルイ・グレーシュの追跡は私の仕事ではない。」
 アトスは、さっきトレヴィルの言っていた「階級、職業、年齢、性別さえも様々なリシュリューの密偵」を思い出した。目の前で短銃を構えたフィーレンも、そして昨日まではただの酒場の主人にすぎなかったはずのパゴスも、そう言った男の類なのだろう。
 フィーレンは更に続けた。
「銃士たちは事の重大さに気づいていないようだな。あの球根の本当の価値について、分かっているのか?」
「2000ギルダーだろう?」
ポルトスが言うと、フィーレンは鼻で笑った。
「それは、ハールレムのチューリップ栽培協会がグレーシュから受け取った金額だ。それからもう一ヶ月はたっている。チューリップの球根の値段が上がっているんだ。下手すれば2500はする。しかも、最高級の『ファン・デル・アイク提督』の数によっては、もっとだ。オランダからの最新情報によれば、『ファン・デル・アイク提督』の種付けがあまり芳しくなく、来年はほとんど収穫が見込めない。だから、いま球根の状態の『ファン・デル・アイク提督』が出てくれば、それこそとんでもない金額になる。」
「あんた、相場師かぁ?!」
 ポルトスは笑いながら言ったが、状況は笑い事ではない。アトスは笑わずに言った。
「フィーレン。気の毒だがな、ムッシュー・チューリップが担いできた球根は、もう無いんだ。」
「とぼけるな。状況は分かっているだろう。」
「分かっているさ。だから嘘をついたって何の意味も無い。いいか、フィーレン。チューリップの球根は追いはぎに奪われた上に、めぐり巡ってタマネギと間違えられ、一部は食われ残りは全て、ある下宿屋の中庭に植えられ、土と水をかけ、今朝めでたく緑色の芽が出たんだ。つまり、球根は既に球根ではなく、チューリップに育とうとする『草』になった。理解したか?」
 アトスがここまで一気に言う間、フィーレンとパゴスは縦長に口をあけ、愕然とした表情に変わっている。ただ、短銃の銃口だけはしっかりとアトスとポルトスに向けられていた。フィーレンはつばをゴクリと飲み込むと、声が乱れるのを抑えながら言った。
「それで、そのある下宿屋というのはどこだ。」
「リュクサンブールの近く。平たく言えば俺の下宿屋だ。」
「よし、分かった。」
 冷静だったフィーレンの語気に、明らかに怒りが加わった。
「お二人には枢機卿閣下のお屋敷までご同行願おう。」
「何の容疑だ。」
「反逆者逮捕妨害、および証拠物件の破損。」
「何が証拠物件だ。差し押さえた球根で大金にありつこうとするリシュリューの魂胆なんて、見えすえている。それとも、王妃様にチューリップの花束を贈って形勢を逆転するか?」
 反論するアトスも、自暴自棄だ。状況は圧倒的にアトスとポルトスが不利だった。この至近距離では、下手に抵抗すればフィーレンとパゴスの短銃の餌食になる。この手の飛び道具の命中率たるや信じられないほど低いが、現にさっき、アトスは拍車を吹き飛ばされている。しかも連射が可能と言う事は、イギリス辺りからの新しい高性能品だろう。
(それでも、連行されるのなんて真っ平ごめんだ。)
 アトスが全速力で打開策を考えている間、隣に突っ立っているポルトスの美しい顔立ちは、至って暢気なものだった。
「なぁ、フィーレン。球根の話だがな。」
 ポルトスの気の抜けた声に、フィーレンは警戒しながら視線を大柄な方の銃士に向けた。
「さっきのアトスの説明は、厳密に言うと正確ではないんだ。」
「ほう。」
 フィーレンの瞳が僅かに輝いた。
「ありかを教える気になったか。」
「全部じゃない。ただ、一部は俺がここに今、持っている。」
「一部?」
 フィーレンとアトスが、図らずも異口同音に聞き返した。特にアトスは凶悪なまでのしかめッ面になっている。しかしポルトスは涼しい顔のまま答えた。
「そう、このマントの中に。」
「見せろ。ゆっくりだ。剣に手を掛けたら、即座に発射するぞ。」
 フィーレンが僅かに銃口を左右に振って命じた。
「俺を撃ったら…その銃の様子じゃ球根も木っ端微塵になると思うが。」
 ポルトスは笑いつつも、大きな動作でゆっくりとマントをたぐり、やはりゆっくりと右手をポケットに入れて中身をつかみ出した。
「ほら、これだろう。お前とリシュリューが血眼で探している、チューリップの球根は。しかも、その値が高騰するであろう、『ファン・デル・アイク提督』だ。」
 ポルトスが腕を伸ばして前方に突き出した手には、生成りの布地が手の上に広げられ、その上に小さな茶色い植物の球根が十個前後、所狭しと載っていた。アトスがそれを横目で見て眉を寄せる。
(無駄だ ―)
 フィーレンは子供だましで誤魔化せるような男ではないだろう…
「こっちに渡してもらおう。ゆっくりだ。」
フィーレンは銃を構えたまま、ポルトスに合図した。ポルトスは小さくため息をつくと、まず手を前に差し出したまま、布地で球根を包み込み、こぼれないように布の端を縛った。そしてその袋を前に突き出したまま、ゆっくりとフィーレンに向かって歩き出した。

 突然 ―

 ポルトスが膝を僅かに折り、姿勢を低くした。
あっ ― と思ったのはフィーレンも、パゴスも、そしてアトスも同時だった。その一瞬、ポルトスは手に持った球根の袋を、フィーレンの背後に向かって勢い良く放り投げたのだ。
 咄嗟に、フィーレンの視線がずれた。ポルトスはその間隙を逃さない。袋の行方などには目もくれず、素早くフィーレンの手元に飛び込み、拳で顎を突き上げ、ブーツで銃を叩き落した。そしてそのまま、真っ直ぐに走り出したのである。
 さすがにアトスも、この好機を逃しはしなかった。ポルトスと同じようにパゴスを殴り倒し、取り落とした銃を思いっきり蹴り飛ばした。
 フィーレンはすばやく姿勢を建て直し、もう一度銃を持って振り返った。ポルトスとアトスは背後に目もくれず、全力疾走で「青獅子亭」の脇に回る。そしてそこには ―
 「なんだこれ?!」
と、素っ頓狂な声で叫ぶ、金髪の若い男 ― アラミスが、球根の入った袋を手に持ち、ポルトスとアトスと共に走り出していた。
(仲間が居たのか ―!)
 三銃士と呼ばれるくらいなのだから、もう一人の銃士が居る事に思いが至っても良さそうなものだ。フィーレンは自分に怒りを感じながら、とりあえず短銃を構えたが、もう手遅れだった。銃士たちは「青獅子亭」の陰につないでおいた馬に飛び乗ると、あっという間に逃亡してしまった。
 「なんて逃げ足の速い…!」
パゴスもようやく、蹴り飛ばされた銃を回収して、立ち上がった。アトスに殴られて、左頬がひどく腫れている。フィーレンも顎がガンガンと痛んだ。彼はため息をつきながら短銃の安全装置を戻した。
「追いますか?」
 パゴスが尋ねたが、フィーレンは首を振った。
「無駄だろう。」
「でも、球根が…」
「タマネギだろう。」
「タマネギ?」
 パゴスは目を丸くして聞き返した。フィーレンはもう歩き始めている。
「あんな高価な物を、勢い良く放り投げるはずがない。きっと、私達を騙すためにタマネギでも持っていたのだろうさ。」
「呆れた!彼ら、武勇の誉れ高き三銃士でしょう?」
「タマネギで最新式イギリス製連射銃に勝てたのだから、十分だ。」
 フィーレンはもう「青獅子亭」に入っていた。これから、オルデンバルネフェルトゾーンの持ち物にも球根はなく、とある銃士の下宿を調べる必要がありそうだと、ロシュフォールに報告しなければならない。

 後ろは振り返らず、速度も落とさず、三銃士は一心不乱に馬を走らせた。真昼間の道に銃士が血相を変えて疾走するので、道行く人は何事かと振り返る。
 やっと馬の脚を緩めたのは、左右に商店や人通りが多くなり、そして最近乗り換えたばかりのアトスの馬が言うことを聞かなくなってきてからだった。そもそも、アトスは片足の拍車を吹き飛ばされている。この拍車のアンバランスさも、馬には気に入らなかったようだ。アトスは馬脚を緩めると、やがて鞍から飛び降りた。ポルトスとアラミスも同時に降りると、まずは背後を一生懸命観察した。
 「もう、追ってこないかな。」
アラミスが用心深く言うと、アトスが頷いた。
「まさかここまで追ってきて、乱闘には及ばないだろう。」
「ああ、怖かった。」
 ポルトスが額の汗をぬぐった。
「あのフィーレンとか言う男は、確かにトレヴィル殿がおっしゃるような赤い木偶の坊どもとは全く違うな。まともにやり合ったら、勝てないかもしれない。」
「ところで、アラミス。」
 アトスが轡を取り、パリ中心街のオランダ商館へ歩き始めながら言った。
「お前、どうして『青獅子亭』になんて居たんだ。」
「私のお陰で助かったのに、ご挨拶だな。」
 アラミスは肩をすくめた。オルデンバルネフェルトゾーンの上着と帽子を被ったアラミスは、トレヴィルの屋敷から飛び出すなりアラミス自身の馬を盗んだ振りをして、パリの町じゅうを駆け回った。やがて自分をつけてくる影がない事を確認すると、用心深く市場近くの厩に馬を預け、もう一度徒歩で尾行者がないよう、歩き回った。やがて上着と帽子を脱ぐと、そっと自宅に帰り、改めて自分の服に着替え、もう一度出かけたのである。
「それで、厩に預けてあった馬に乗って、『青獅子亭』に行ったわけ。」
「そうじゃない。打ち合わせた訳でもないのに、どうして『青獅子亭』に行ったかだ。」
 アトスが疲れたようにため息混じりに言うと、アラミスはまた肩をすくめた。
「馬に乗って散々パリの町を駆け回っている間に、思ったんだ。夕べ、『青獅子亭』から逃げ出したオルデ…ムッシュー・チューリップは、川の橋でポルトスに助けられたはずだ。真っ暗な中で、追っ手の髭の男…ああ、そう。さっきの男だ、ポルトスはフィーレンって呼んでいたな。フィーレンはポルトスとアトスがムッシュー・チューリップを助けただなんて知らないはずなのに、どうして今朝一番にロシュフォールが私の下宿に乗り込んできたか?つまり、あの『青獅子亭』の親父が怪しいって事になる。
 夕べ、アトスとポルトスに続いて店を出ようとした私を、引きとめたのはあの親父だ。つけを払えと言いつつも、私達が三銃士だということも同時に把握したのだからね。あの親父もフィーレンと同じく枢機卿の手先だからこそ、ロシュフォールに『三銃士の下宿に、ムッシュー・チューリップが居るに違いない』と、報告したのだろう。
 それでまぁ、あの親父の正体を確認したくて、『青獅子亭』むかったわけだ。ところが、近くまで行くと派手な銃声がするじゃないか。用心しながら建物の脇からのぞいてみると、私に背を向けた二人の男―あれが、フィーレンと、店の親父だな。その向こうには、切羽詰ったポルトスとアトス。二人こそ、どうして『青獅子亭』になんて居たんだ?」
「それこそ、お前と同じだ。」
 アトスはぼそぼそと答えた。
「あの親父が怪しいと思って、確認しに言ったんだ。そうしたら、運悪くあのフィーレンとか言うリシュリューの密偵に出くわした。あんな奴に連行されたら、バスチーユで何をされるか分かったものじゃない。」
「なるほど。それで…これは何だ?」
 アラミスはマントの中から、さっきポルトスが投げてよこした布袋を取り出した。
「ポルトスが、フィーレンに渡そうとしているのが見えたけど、急に私に向かって投げたからびっくりしたじゃないか。」
「いやぁ、よく受け止めてくれたよ。おかげで助かった。こんな貴重な物を放り投げれば、さすがのフィーレンも一瞬集中力が飛ぶからな。」
 ニコニコしながらポルトスがアラミスの手から袋を受け取った。
「貴重な物?」
 アラミスがキョトンとして言うと、アトスが苦々しく割って入った。
「タマネギだ。タマネギをチューリップの球根だと言って、フィーレンを騙したのさ。それにしてもポルトス、お前いつの間にタマネギなんて仕込んだんだ?」
 アトスが尋ねると、ポルトスは相変わらずニコニコしながら袋を大事そうにマントの中にしまった。
「タマネギだなんて、失礼な。これはもっと貴重で、美しい花を咲かせる球根だぞ。」
「なんだと?」
 アトスとアラミスが同時に聞き返した。そしてアラミスが続けた。
「チューリップの球根は、アトスの下宿で畑に植えてしまったんだろう?しかも今朝、芽まで出ている。」
「さぁ、どうかな?」
 ポルトスはアトスとアラミスに悪戯っぽく笑いかけると、ひょいと鞍に跨って馬の脚を早めた。




 
→ 10.パリのオランダ商館
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