イギリスのピューリタン諜報員・ジョルジュ・ブーク(偽名)の捜索は、朝ポルトスと決闘を演じた辺りから始まった。決闘騒ぎは数時間前の事であり、周囲の人々は立ち去ったブークの事はよく覚えていた。
「確か、あんたに負けた後、そこらにつないであった馬を引いて…」
「私の馬なんだ!」
アラミスが頬を赤くして小さく叫んだが、証言した商店主には聞こえなかった。
「出掛けていったよ。大荷物を抱えていたから、パリを出発するつもりじゃなかったかな。」
「その荷物も私のだ!!」
更に顔を赤くしたアラミスだが、ポルトスは笑いながら茶化した。
「そんなにムキになるほどの物が入っていたのか?金以外に…」
アラミスはいよいよ慌ててポルトスに抗議しようとしたが、アトスが遮った。
「それであの男、どちらに向かって出発した?」
「さてね、ああ確か早馬の詰め所に入っていったよ。」
「…手紙だな。」
街道と都市を結ぶ郵便業を兼務する早馬に、ブークも手紙を託していたのだろう。詰め所留めで受け取る事も可能だったはずだ。
まだ何事か冷やかしているポルトスと、哀れなほど狼狽しているアラミスを促して、アトスは商店主の言った早馬の詰め所に入って行った。
 意外に瀟洒な詰め所の中は、騎手や運搬業者、手紙を受け取る人、出す人でごった返していた。アトスは中をいくらか見回すと、やおら郵便受付の机に居る若い男に言った。
 「ブークさんは、今日いらしたかね?」
若い男はアトスの声に顔をあげた。そして、しばらく考えてから言った。
「ああ…ええと、ブークさん、ブークさんね…来ましたよ。今朝…」
「今朝?」
男の緩慢な口調に対し、アトスは急いで聞き返した。
「しまった、ではもう手紙も持っていかれた?」
「ええ…」
若い男は、アトスの勢いに飲まれて、少し呆然としながら答えた。
「困ったな…もう持っていったのか…ああ、いや待てよ。そうだ。実はな、この男が…」
と、突然アトスはアラミスを指差したので、アラミスはびっくりして目を丸くした。
「ブークさんに出す手紙と、彼女…ええと、彼女、名前は何だっけ?」
アトスが振り向くと、アラミスは真っ白になっていたが、ポルトスはすばやく反応した。
「ロジーナ。」
「そうそう、ロジーナだ。ロジーナへの手紙を間違えて出してしまって…ブークさんに読まれる前に取り戻したいのだが…その、つまりこいつと、彼女の名誉がかかっているんだ。」
「なるほど…」
若い男は、アトスの説明に緩慢に頷いた。
「でも、もう出ちゃいましたからね。転送も依頼されているし。」
「転送?手紙の転送か?どこへ?」
「トゥルスですよ。」
「よし、まだ間に合うぞ。今から追いかければ、お前の女の口説き方がブークさんにばれずに済む。」
アトスは、もう若い男の方に目もくれずに、詰め所を出て行った。ポルトスは笑いをこらえるのがやっとで、帽子で顔を隠しながらアトスを後を追い、アラミスはほとんどよろめきながらそれに続いた。
 「トゥルスか…」
アトスは、外に出ると大きく息を吐きながら低く呻いた。ポルトスは笑いすぎて涙を出しながらも、声だけは真面目にアトスに言った。
「馬が必要な距離だな。アトス、きみは自分の馬で行くとしても、俺達は馬なしだ。きみ一人で行くのは、さすがに危険だし…」
「一人では行かない。」
アトスは短く否定し、彼の馬に関する話題を終わらせた。そのまま、彼は腕を組んで考え始めた。ポルトスがアラミスの方を振り返ると、こちらの青年は言葉を失って悄然としている。
「…まさか、本当にロジーナだったのか?」
ポルトスが言いかけたところ、突然アトスが二人の肩を掴んだ。
「この近くに、ドーブルーユ侯爵夫人という人が住んでいる。」
「それが?」
アラミスが元気なく尋ねると、アトスはポルトスの顔をじっと見つめて、悪魔のように微笑んだ。
「ある事で有名なご夫人だ。」

 ドーブルーユ侯爵家の執事・バルトーが、女主人の部屋をノックし、恭しく告げた。
 「奥様、ラヴェル・ド・シュリバンなる方が、面会にいらしています。」
昼寝中だったドーブルーユ侯爵夫人は、億劫そうに長椅子の上に身を起こした。
「ラヴェル・ド・シュリバン…?誰だね、それは。」
そろそろ60歳になろうとする侯爵夫人は、昼寝を妨害されたことへの腹立ちを隠しもせずに、ぶっきらぼうに執事に尋ねた。
「さぁ。私は初めてですが。何でも、昔ご領地でお会いしたことがあるとか。」
「覚えてないわね。どんな人?」
「お若い紳士です。」
「若い…?」
侯爵夫人は、少し興味をそそられたように顔を上げた。
「はい、大層…その…ご立派な。美男子です。」
バルトーは最後の言葉にやや皮肉を込めたが、侯爵夫人は気にも留めずに立ち上がった。
「いま、どこに?」
「玄関に。」
侯爵夫人は立ち上がると、静かに、しかし素早く執事の脇をすり抜けて廊下に出た。そして吹き抜けから玄関を見下ろすと、なるほどそこには立派な身なりの、美しい青年が立っていた。
「ああ…彼ね。」
侯爵夫人は急いで自室に戻ると、鏡の前で髪を直し始めた。
「お通ししなさい。ええ、たしかにド・シュリバンね。随分久しぶりだけど、立派になって…わざわざ訪ねて来たのね…すぐに行くから。」
言いながら、彼女はバタンバタンと白粉を顔にはたきつけ、口紅をごそごそと探し始めた。
「かしこまりました。」
バルトーは無表情に言うと、主人の部屋を出て行った。

 ポルトスは無愛想な執事に案内されて、ドーブルーユ侯爵夫人邸の客間に通された。召使が彼のマントと帽子を持って部屋を下がった所に、2階から降りてきた侯爵夫人が、客間に入ってきた。ポルトスは洗練された仕草で深々と頭を下げ、侯爵夫人が差し出した右手に口付けをした。
 「お目にかかれて光栄です。侯爵夫人。私を覚えておいででしょうか。」
ポルトスが晴れやかな笑顔で言うと、侯爵夫人もにっこりと笑い、皴の間から白粉がボロボロとこぼれ落ちた。
「ええ、覚えていますとも。昔領地で…」
「はい、私はまだ少年でしたが。侯爵もまだご健在の頃で。」
「立派になったこと。最近、パリへ?」
「はい。侯爵夫人のもとへは、もっと早くご挨拶に伺わねばならなかったのですが。父のド・シュリバンが先ごろ死にまして、遅くなりました。どうかお許しください。」
美しく、しかも長身で逞しい青年が、緑色の瞳に少しだけ悲しそうな光を点して侯爵夫人を見つめると、彼女はすっかり有頂天になった。
(ああ、こんな美しい青年の事を忘れていただなんて、私はどうかしているわ。)
そう思いながらも、侯爵夫人は平静を装った。
「いいえ、若いのに、色々大変だったでしょう。こんな老婆のことなど、何時でも良いのですよ。さあ、お掛けなさい。コーヒーでも飲みながら、昔の話でも…」
「いえ、実は奥様。今日はゆっくりお話をしてはいられないのです。」
「まあ、残念な事…どうかしたのですか?何か心配事でも…」
ポルトスはすばやく侯爵夫人に近づくと、声を潜め、真剣な面持ちで言った。
「実は、奥様に危険を知らせに参りました。」
「危険?」
侯爵夫人は若者のつややかな肌をまじかに見て、半ばうっとりしながら聞き返した。
「はい、奥様。ゼロウという強盗団をご存知でしょうか?」
「強盗団?」
「奥様のような高貴な方がご存じないのも、無理もありません。主に地方の貴族の館を襲撃してきた、強盗一味でございます。実は先日、ご領地にこの強盗団が襲来したのです。土地の者が知らせてまいりました。」
「まあ!でも、領地の我が家からは何も…」
侯爵夫人は心底驚いて若者の顔に見入った。
「はい、留守を預かっていた当家の連中が追い払いました。奥様にご心配おかけしまいと、お知らせしなかったのですが、実はその強盗団がパリにやって来たようなのです。しかも、ご領地で得られなかった物を、このパリで得ようと企んでいるらしいのです。」
「何て恐ろしいこと!」
侯爵夫人が叫ぶので、更に白粉がこぼれ、真っ赤に口紅が塗りたくられた分厚い唇が乾き始めた。ポルトスは、優しく夫人の手を取り、落ち着いた声で言った。
「どうやら、事は緊急を要します。ゼロウ一味は人数こそ少ないものの、乱暴で凶暴な悪漢ばかりそろえ、今日にもこのお屋敷を襲うつもりなのです。」
「おお、シュリバン!どうしましょう!」
「私も当局に掛け合ったのですが、まだ押し入ってもいない強盗団の話は、なかなか当局を動かしません。ですから、私自らこうしてお訪ねし、奥様を安全な所までお逃がししに参ったのです。」
「お前が守ってくれるのですね!」
侯爵夫人は感激して、両手で青年の手を握り締めた。
「ええ、奥様。私と私の仲間がお守りします。どうぞご安心ください。しかし、一刻の猶予もなりません。今すぐ、馬車をご用意ください。そして、最低限の同行者をご指名ください。召使にはお暇をお出しください。」
 若者の短く、きびきびとした口調は、侯爵夫人を落ち着かせるとともに、まったく「その気」にさせていた。
「分かりました。この命を、お前に託しましょう。バルトー!」
呼ばれてやって来た執事に、侯爵夫人は早口で命じた。
「馬車を表に回しなさい。この方の指示に従うのですよ。お前はついてきなさい。他の者には休暇を与え、屋敷内を厳重に戸締りなさい。」
 執事はあっけに取られたが、夫人は構いもせずに青年を振り返った。
「これでよいですね?私は上で支度をしてまいります。直ぐにすみますから。」
「万事お任せください。奥様は私と友人たちが命にかえてお守りします。」
ポルトスは、第一級の笑顔で言い切った。

 侯爵夫人が2階で身支度している間に、ポルトスは玄関を出た。そこにアトスとアラミスが立って待っていた。ポルトスがアトスの耳元で、
「…完璧だ。」
と低く言うと、アトスは黙ったまま頷いた。そして侯爵家の召使達がアタフタと4頭立ての馬車を引き出して来た方に向かって歩き始めた。
「おい、ポルトス。」
アラミスがそっとポルトスに尋ねた。
「本当に大丈夫なんだろうな?」
「万事順調。」
「どうやってだましたんだ。」
「アトスの言ったとおりにさ。あとは、俺のこの美丈夫ぶりと、会話術と、身のこなし。」
「知り合って早々こう言うのもなんだが…」
アラミスは、痛い物でも見るように、斜めにポルトスの顔を見上げた。
「二人とも、とんでもない悪党らしいな。」
ポルトスは歩き出そうとしていたが、クルリと振り向くと、アラミスの帽子のつばを指で弾き上げた。
「いいかい、ぼうや。俺達は今、飛び切り大きな獲物に狙いを定めた狩人なんだよ。後ろは振り向くな。獲物を見据えて走れ。感想は仕留めてから、ワインでも飲みつつ語り合う事にしよう。次の狩も一緒に行くかどうかは、その後に決めれば良い。」

 強盗団から逃れるにしては随分とめかしこんだいでたちで、ドーブルーユ侯爵夫人夫人は出てきた。化粧を直したらしく、肌は塗り壁のように厚みを増し、唇は真っ赤な紅で本来の輪郭が何処であるかも分からない有様だった。しかも香水を盛大に振りまいたらしく、一緒に馬車に乗り込んだポルトスは、特殊な呼吸法を会得する必要に迫られた。
 何やらろくなものが入っていそうにない、大きな鞄を抱えて夫人に従った執事のバルトーは、落ち着き払ったアトスの指示でもう一頭の馬の背にまたがった。代わりにアトスが馬車の手綱を取り、アラミスは馬車の後部に陣取った。
 あっという間の事の成り行きに、侯爵家の召使達は主人および執事、それを「護衛」するらしき3人の若者の「逃走」を、口をあけて見送るしかなかった。しかし当の侯爵夫人は、若き美青年・ラヴェル・ド・シュリバンと逃げる気満々であった。
「私のこの命、お前に預けましたよ。」
馬車に乗り込むなり、夫人は悲劇的な声で言い、この上なく情熱的な視線を若者に向けた。
「ご安心ください、奥様。」
ポルトスは、香水の匂いと舞い飛ぶ白粉にむせないよう、注意深く答えて夫人の手を握り締めた。
 そして馬車が路地を抜けて街道に入るや否や、アトスが物凄い勢いで馬を走らせ始めたのである。車中の二人がもんどりうち、すんでの所で後方のアラミスが振り落とされそうになった。馬上の執事もおどろいて馬を走らせ、それを追う。
「シュリバン、シュリバン!」
侯爵夫人は悲鳴を上げ、隣の若者にむしゃぶりついた。
「この恐ろしい速さは、ど、どうにか、ならな、ならないのですかっ?!」
「ご辛抱ください、奥様!」
ポルトスは大揺れに揺れる馬車の中で、左半身は夫人に掴まれ、右手で帽子を押さえながら叫んだ。
「悪党どもから、一刻も早く遠ざからねばなりません…」
言っているうちに、ポルトスはおかしくてたまらなくなり、半分ゲラゲラ笑い出していた。
「危険が完全に去るまで、速度は落とせません!お気を確かに!私がついております!」
車中の騒ぎなど気にも留めず、アトスは4頭の馬に鞭を当て全速力で走らせた。目指すはパリの北方、トゥルスである。馬車の後方に立っているアラミスこそ、いい面の皮である。片手で帽子を押さえ、片手で手すりを掴み、落とされるのを必死に防ぎながら彼は思った。
(これじゃまるで、こっちが獲物だ!)

 荷馬車は、荷物と荷馬車屋の親父、そしてグリモーを乗せて、順調にトゥルスへの道を進んでいた。無口なグリモーだったが、荷馬車屋がポツリポツリと持ち出す世間話に、やはりポツリポツリと応じた。荷馬車屋はそんなグリモーが気に入ったようである。目的地に着いた頃には、二人はすっかり打ち解けていた。
トゥルスの町の入り口に近く、宿屋兼食堂「かささぎ亭」に到着し、荷降しを始めると、グリモーの華奢な体つきからは少し想像しにくいような力強い仕事ぶりに、荷馬車屋はますます彼を気に入った。
「あんた、最近じゃ珍しい若もんだね。余計な事は喋らないし、真面目だし、手際も良いし。」
「はあ、どうも。」
グリモーはワインの樽をゴロゴロと降し終わると、今度は小麦粉の袋を肩に担ぎ、宿屋の厨房の裏口に積み上げ始めた。このトゥルスではこの宿屋が唯一らしく、もし運良くアトスの馬に乗ったリシャール・ワセラに会えるとしたら、ここしかない。グリモーは仕事を早く終わらせようとする一方で、表口の方をチラチラみやった。腰を痛めている荷馬車屋は、構わずに側に腰掛けて喋り続けた。
「あんた、普段は何しているんだい?仕事は?」
「はぁ、人にお仕えしてまして。」
「へえ。どっかの貴族かなんかのお屋敷かい?」
「いえ、銃士の方です。」
「銃士だって?!」
荷馬車屋は驚きの声を上げた。
「あんた、そりゃいけないよ。銃士ってぇ連中は確かに王様をお守りする花形職業らしいがね、その実ゴロツキと同じさ。毎日酔っちゃあ喧嘩騒ぎじゃないか。それにいざ戦争ともなれば最前線に駆り出されるだろう?連中気位は高いから真っ先につっこんじゃあ、従者もろとも、大いに無駄死にってあんばいだ。第一、銃士の給料なんて高が知れているじゃないか。それに衣装や武器に金が要るし、連中は大酒のみで、賭け事も大好きな奴も多い。従者をまともに扱ってやれるのが何人居るか怪しいものさ。」
荷馬車屋の言うことは一々もっともで、否定のしようがないグリモーだったが、彼はそれどころではなかった。最後の小麦粉の袋を肩に担いだところで、かささぎ亭の表口に、アトスの馬に乗った白髪の紳士を見つけたのである。これが貸し馬屋の言っていたリシャ−ル・ワセラに違いない。紳士は身軽な格好で馬を目抜き通りに進め、町の中心へと向かった。
 グリモーは大急ぎで小麦粉の袋を下ろすと、駆け出そうとした。しかし、その腕を荷馬車屋がつかんだ。
「ああ、ありがとう。助かったよ。」
「いいえ、とんでもない。馬車に乗せていただいて…その…急いでいますんで…」
「なあ、あんた。もし良かったら家で働かないかい?」
「え?」
荷馬車屋はグリモーの気も知らずに、彼を引き止めていきなり提案した。
「うちの若いもんが、先週急に辞めちまってね。困っていたところなんだ。あんたのような良い若者が来てくれると助かるよ。」
「いや、でもオレは…」
「銃士の従者なんてよしたほうがいい。これでもうちは、けっこう盛大にやってる店なんだ。きっと、銃士よりも良い給金を出してやれると思うよ。どうだい?」
「いや、でもオレには…その、立派なご主人様が…いや、完全にご立派ではないけれど、まあ面白いご主人様が居まして…」
「銃士の人がかい?」
荷馬車屋は疑わしそうにグリモーの顔に見入った。
「ええ、そうなんで…ああ、あそこに…」
グリモーは言いながら目を見張った。街道から、町に近づいてくる馬車を発見したからである。荷馬車屋はグリモーの指し示した方を見やって、開いた口がふさがらなくなった。非常識な速度で突進してくる馬車は、今にも壊れそうである。御者はそれでも構わずに馬に鞭を入れ続けている。
「あの馬車が、何だって?」
「あそこで…手綱を取っているのが、オレのご主人様でして…」


 → 6.グリモー、小麦粉を調達する

5.ドーブルーユ侯爵夫人、ときめく

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