9.聖バシリウス教会大聖堂

The Three Musketeers  三銃士  Pastiche  パスティーシュ


  とんでもない量の贋金を
  

 アラミスは馬に飛び乗ると、丘を駆け上がった。聖職者が逃げ込む所といえば、教会しかない。
(マージョラも教会か…)
 アラミスは拍車を当てながら思った。彼女は、叔父と従僕夫婦とで暮らしていると言った。さっきの二人がその夫婦なのだろう。妻のほうも飛び出してきて、迷わずにリシャールの手当てを行ったと言う事は、ビトリ夫人は館に居ないということではないだろうか。
 そして、アラミスは夕べの会話を思い出した。夫人は、聖堂は古くて荒れ果て、気味が悪いので入らないのだ、と。そして、あの教会の地下にはカタコンベがある。そんな事を考えるアラミスの頭に、リシャールが言っていた、『どこかに隠してあるはずの大量の偽金貨』という言葉が忍び込んできた。

 アラミスは教会の正面で馬から下りた。さすがに、気持ちが昂ぶっている。アラミスはもう一度帽子を直し、自分を落ち着けるように深呼吸した。そして、左の腰に手をやって少し考えた。丸腰になって踏み込むべきか ― ?アラミスは打ち消すように首を振った。アトスにはあのように怒鳴り返したものの、武器を持たずに乗り込むほど、お人好しではなかった。もっとも、あの雰囲気の神父に、素手で負けるとは到底思えないのだが。
 アラミスが正面右側の通用口に手を掛けると、意外にも扉は素直に開いた。
 聖堂内部は、確かにビトリ夫人の言った通り、すっかり荒れ果てていた。外側は立派なゴシック建築の威容を誇っているが、内部の壁は所々くずれ、いくつかの窓にはぽっかりと穴があいている。一方でほとんどの窓に板が打ちつけられ、日の光が僅かにしか射してこない。こんな丘の上だというのに、足元は水っぽく、天井からも水が滴っていた。身廊内には椅子の残骸のようなものがあるが、ほとんど役には立たないだろう。教会で良く感じるような静かな荘厳さよりも、息苦しくまとわりつくような不快感が満ちている。
 アラミスは用心深く足を踏み出した。
「クールベ神父!」
アラミスは呼びかけた。さほど大きな声ではないが、堂内に響き渡っている。
「私です。アラミスです。どこですか?」
反応はなかった。天井からしたたり落ちる水音だけが響いている。
「クールベ神父!出てきて下さい。リシャールさんは生きています。」
 呼びかけながらアラミスは身廊の真ん中を、祭壇に向かって進んだ。身廊の途中で、アラミスは一度立ち止まった。背後の大きな柱の影に、人の気配がする。しかし、それを無視してアラミスは再び歩き始めた。
 祭壇の窓には、辛うじてステンドグラスが残っていた。それを通して、日の光が祭壇付近を微かに照らしている。アラミスは辺りを見回した。
 「ひどいものだ…」
 彼は一人呟いた。ここはかつて、立派な修道院だったし、その上にこれだけの大きな聖堂が建てられたというのに、この荒廃ぶりはどうだろう。説教台や聖歌台は崩れ落ち、祭壇の段差にも、下手に足を掛けると抜けそうになる。僅かに、聖書台と燭台,水鉢などが整然と置かれているのは、クールベ神父が急ごしらえで揃えたのだろう。
 ヴァイオンソレールの村民は、この聖堂で礼拝をしていた訳ではなさそうだ。村の集落の中にある、もっと小さくて手ごろな礼拝所でも使っているのだろう。
 アラミスは西側の側廊へと近付いた。その時、彼の頬をすうっ、と冷たい風が撫でた。彼は用心深く足を止め、辺りを見回した。側廊の奥には、聖バシリウスの祭壇があるはずだが、すっかり瓦礫の山になっている。そういえば夕べ、リシャールは西の側廊は崩壊の危険があると、言っていた。
 風は、瓦礫の真横にある、小さな扉から流れていた。石造りのアーチ状に縁取られたその小さな扉は、よく見ると取手がさびついていない。アラミスはそっとその脇に立つと、息を殺し、素早く扉を蹴った。アラミスはすぐに体を脇によけたが、内側から何かが飛び出すような気配はない。そっと扉の内側を覗き込むと、そこは小さな部屋になっており、奥の壁にはまた扉がついていた。その扉の前に、クールベ神父は居た。
 いや、彼だけではない。長椅子にぐったりと横になったクールベ神父の側には、他でもないビトリ夫人が立っていた。彼女は静かにアラミスを見つめている。長椅子の足元には、小さなロウソクの灯りが点っていた。
 アラミスはその扉に立ち、ビトリ夫人に低い声で尋ねた。
「叔父上は、死んでいるのですか?」
「いいえ。」
彼女は静かに答えた。
「死んではいません。ここに逃げ込むなり、失神しました。」
「なるほど。」
 アラミスは暫らく、だまってビトリ夫人をみつめていた。彼女も黙っている。ややあって、アラミスは毅然とした様子で尋ねた。
「マージョラ。あなたは、どの程度まで知っているのです?」
「何をですか?」
「この村の贋金造りについてですよ。」
「さぁ。その事は夕べ申し上げましたわ。」
「いや、その答えでは、私はもう満足しません。クールベ神父はリシュリューに派遣されておきながら、贋金造りに荷担した内通者だった。あなたは、何も関わりないと?」
 ビトリ夫人は黙っている。アラミスは続けた。
「貨幣法院特別捜査官のリシャールさんは、早い内にクールベ神父が怪しいと気付いていたし、あなたにも疑いの目をむけていた。そうだろう?ボメル!!」
そう叫ぶなり、アラミスは勢い良く身廊に向かって振り向いた。すると、大きな柱の影から、ゆっくりとリシャールの従者ボメルが姿を現わした。
「そう、この男は、一昨日この村にリシャールさんと一緒に来たばかりだが、同時にマージョラ、あなたを監視していたのです。夕べ、私達が荷馬車の出発を止めに行っている間に、村の封鎖要員へ食事を届けに行ったと言うが、それにしちゃ時間がかかりすぎだ。夕べのマージョラと私を見張っていたのも、お前だな?」
 アラミスの問いかけが、堂内に響き渡る。ボメルはゆっくりと頷いた。そして遠慮がちにアラミスに尋ねた。
「その通りです。アラミス様。あの…さきほど、『リシャールさんは生きている』とおっしゃいましたね。まさか、私の旦那様になにか…?」
「残念ながら、クールベ神父に腹を撃たれて重症だ。」
「えっ…」
ボメルは驚いて絶句した。アラミスは身廊の向うの出口を指差した。
「さあ、早く主人の元へ行け。お前の任務は私が引き継ぐ。」
ボメルは躊躇しなかった。ペコリとアラミスに一礼すると、一目散に正面から外へ駆け出していった。
 「さて。」
 アラミスは、改めて小部屋の中のビトリ夫人に向き直った。
「リシャールさんは無駄に部下を派遣するような人ではない。明らかにマージョラ、あなたはこの贋金造りに関する重要人物だ。クールベ神父と共にね。」
「女をその程度の根拠で責めるなんて、紳士のなさる事ではありませんね。かつて ― かつてと言いましょう。かつて、私が愛情を捧げたアラミス様のなさることでは…」
「そうでしょう。私はかつての私ではありません。今、あなたの前に立っているのは、今の私です。そして、今の私はあなたを告発します、マージョラ。」
アラミスは懐から、黒い表紙の冊子を取り出し、彼女に見えるように掲げた。ビトリ夫人は貧弱な光の中、眉を寄せてその表紙の文字を読もうとした。
「『マダム・マルソー秘伝 美顔・美白基礎のお手入れ』…」
 見る見るうちに、ビトリ夫人の顔色が変った。唇と噛み、きっと鋭い視線をアラミスにやった。その大きく艶めいた黒い瞳が、怒りを含んだように燃えている。
「書名に覚えがありますね?」
アラミスはそのままの姿勢で言った。
「この本は一見、貴婦人が用いる美容の本だ。その内容は主に顔の肌を美しく保つ方法。さまざまな薬草や、薬、食物の使い方が書かれているが、その一方で、毒殺の手引書でもある。」
 アラミスは一生懸命、声が昂ぶらない様に努力していた。しかし、やはりさっきと同じように、声が緊張している。ビトリ夫人は一瞬、椅子に倒れたままのクールベ神父をみやったが、すぐに鋭い視線をアラミスに戻した。アラミスは続けた。
 「この本の最後の個所。ある化粧水を使った美白方法について書かれているが、『決して過剰に使用しない事』とある。しかも、その後の数ページは糊で張り合わされている。それに蒸気当てれば簡単に内側が読めるが、そこに記されているのは、この美白用化粧水を、少量ずつ食事に混ぜれば、確実に人を殺せるという事です。」
「私には関係ありません!」
 ビトリ夫人は、鋭く言い返した。愛らしかった唇が僅かに震え、手を握り締めている。
「では、ビトリ氏はどうして死んだのです?」
アラミスは冊子を掲げていた手を下ろしながら尋ねた。
「あの時 ― マージョラ。あなたと私が、恋に落ちた頃の事だ。あの時から、既にビトリ氏は体調を崩していた。いつも体調が優れず、微熱に悩まされ、嘔吐感が続き、どす黒い顔色をしていた ― 私があなたとの時間に別れを告げてから、ビトリ氏は回復する事無く、そのまま死亡 ― その過程は、この本に記されている通りです。違いますか、マージョラ!あなたはあの歳の離れた、裕福な夫を毒殺したのではありませんか?そして今 ― 贋金造りに荷担し、富を得て、邪魔になった叔父上をも同じ方法で殺そうとしている ― 今まさに神父に起こっている症状が、それを物語っている。」
 アラミスは真っ直ぐにクールベ神父を指差した。ビトリ夫人は、震える唇を僅かに開けて、何か言おうとしたが、アラミスがそれを制した。
「私も馬鹿な男ですよ。あなたの寝室にあった、一見どうでも良さそうな美容読本のタイトルなんて、忘れていれば良いものを…」
 その時ガラガラと音を立て、側廊の奥のほうで、壁が崩れ落ちた。
 アラミスは横目でそれを見ながら、小さく舌打ちした。
「さあ、マージョラ。ここは危険だ。外へ出ましょう。」
 アラミスは穏やかに言いながら一歩踏み出して、手を差し出した。しかし、ビトリ夫人は部屋の奥へ後ずさりしながら、首を振った。
「私を法廷に引き立てるつもりですの?」
「それは無理ですよ。」
アラミスは苦笑した。
「証拠が無い。この美白美溶液による毒殺のやっかいさは、その証拠が残らない事だ。あなたが法廷に引出される事はないでしょう。ただ、覚えておいて下さい。私は ― このアラミスは、あなたの犯罪を知っている。それで十分でしょう。」
「私への要求は?」
「ありません。」
 ビトリ夫人は、急に笑い出した。高く舞うような笑い声が響いた。
「そんな、まさか。アラミス様、あなたは私を脅してどこに金貨が隠されているのか、聞き出すおつもりでしょう?」
「みくびられちゃ困る。さあ、マージョラ!」
 アラミスはもう一歩踏み出した。側廊の天井から、また一つ二つと、石が転がり始めた。
「ここは危険です。早く外へ出るのです。神父は私が運び出します。早く…」
「アラミス様。」
 ビトリ夫人は、小部屋の奥の扉に素早く背中を付けると、手探りで取手をつかんだ。そして美しい黒髪の下 ― 燃えるような黒い瞳でまっすぐにアラミスをとらえ、声高に宣言した。
 「わたくし、あなたを愛していました。でも、それは誰に命じられた訳でもない、私が愛したからですわ。私はかつて夫を愛し、財産を受け継ぎ、夫から自分を解き放ち、自ら叔父の元に身を寄せ、叔父と共に欲しい物は手に入れ、そしてまた叔父から自分を解き放ちます。そんな私が、みすみすあなたに縛られるような選択をするとお思い?」
「縛るんじゃない!あなたを…」
 アラミスは地面を蹴って飛び出した。しかしその手が彼女を捕らえる前に、ビトリ夫人は身を翻して扉を開け、その向うに姿を消した。アラミスがドアに取りつくのと、閉まるのは同時だった。
「開けるんだ、マージョラ!ここはすぐに崩れる!死にたいのか?!」
 アラミスは内側からかけられた鍵を壊そうと、必死になってドアをゆすったが、びくともしない。
 一際大きな音がしたかと思うと、辺りに土埃が巻き起こった。側廊が本当に崩れ始めたのだ。
「マージョラ!」
 アラミスはもう一度叫んだ。 ― 時間が無い。側廊は外側から崩れ始め、アラミスの居る小部屋もあと数分もしないうちにつぶれてしまいそうだ。
「畜生ッ!!」
アラミスは思わず叫んでいた。その時、
「アラミス!」
背後で聞き慣れた声がした。振り返ると、アトスが小部屋に駆け込んでくる。
「馬鹿、すぐに出るんだ!信心深いからって、教会の下敷きになりたいのか?!」
「神父を運び出す!」
アラミスはドアの方は諦めて、椅子にぐったりしているクールベ神父を担ぎ上げようとした。アトスは逃げ出そうとしていたが、振り返りながら怒鳴った。
「死んでいるんじゃないのか?!」
「まだ生きてる!」
 アトスもクールベ神父の腕を自分の肩に回した。アトスとアラミスが小部屋を離れ、身廊へ出ると背後で天井が落ちるような衝撃が襲った。二人は、一目散に身廊を駆け抜け、正面の扉から日の光に満ちた外へ転がり出した。
 その直後、西側の側廊全体が崩れ落ちたらしく、埃と小さな瓦礫を含んだ突風が身廊を通り、扉から外に向かって大砲の煙のように噴き出した。アトスとアラミスはそれに足を取られ、無用にひっくり返ってしまった。

 しばらく地面に突っ伏していると、やがて振動が止んだ。アラミスがそっと顔をあげると、辺りは元の通り日の光に満ちた丘の上だった。体を起こしてみると、アトスも同じように起き上がった所だった。二人の間には、クールベ神父が仰向けに倒れている。どうやらまだ息はしているようだった。
「やれやれ。」
アトスは地面に座り込んだまま、つぶやいた。アラミスもやっと息をつくと、アトスに尋ねた。
「おい、アトス。リシャールさんは?」
「ああ、大丈夫だ。」
アトスは落ちた帽子を拾い上げながら答えた。
「大した人さ。さすがは元銃士だな。ひどい出血だったが、すぐに意識が戻ったよ。あの女の手当ても手際が良くて。内臓には達していないようだったから、手早く縫合してくれた。その上、リシャールさんが言うには、自分の膏薬を塗れば更に早く良くなると。ボメルが戻ってきたから、あとは任せて教会に駆けつけてみたら、お前が崩れそうな教会の中で、女の名前を呼びながらドアをゆすっていた。」
「なるほど。」
 アラミスはぼんやりと教会を見上げた。アトスはその横顔を見詰めていたが、再び口を開いた。
「あのドアの向うには何があるんだ?」
女の事は聞かない辺りが、アトスらしい。アラミスは教会の威容を見つめたまま答えた。
「カタコンベさ。」
「カタコンベ?地下墓地か?」
「ああ。ここが修道院だった頃のなごりだ。クールベ神父は(アラミスはちらりと横たわった神父に視線をやった)、贋金造りたちに協力して得た財産を、カタコンベに隠していたんだろう。朽ち果てているとは言え、教会だからな。リシャールさんのような捜査官が武装して踏み込む事は出来ないし、内部の様子を知っている人もいないから、安全な隠し場所だろう。」
「もう、だめかな。」
 アトスがつぶやいた。それは隠してあるであろう、贋物,本物を含めた金貨と、カタコンベ内へ逃げ込んだ女の事を示唆していた。
「分からない。」
アラミスは埃を払いながら、立ち上がった。そして大きく深呼吸してから大きな声で言った。
「まったく、今日ときたら、こんな事ばっかりだ。私は四回目だぞ。」
「四回目?」
「まず、ポルトスと踏み込んだテルミードの工房では短銃が暴発し、ジャック・ボンボンの工房では水蒸気と灰の煙の中でアトスが格闘し、神父は短銃でリシャールさんを撃ち、しまいには教会の側廊が崩落ときた 。そうだ…ポルトスは?」
アトスも立ち上がったが、すっかりポルトスの事は忘れていたらしい。
「知らん。あいつ、どこで何をしているんだ?」
 アトスとアラミスは顔を見合わせた。丘から村の集落を見下ろすと、家々や工房から村民達が出てきて、この丘のほうを眺めたり指差したりしているのが見えた。教会の側廊が崩壊した衝撃が伝わったのだろう。
「それから…」
アトスが付け加えた。
「何だって村の中を、ああもやたらと豚が走りまわっているんだ?」
「さぁ…」
 アラミスは呟きながら、自分の懐にあったはずのあの黒い小さな冊子が無くなっているのに気付いた。あの混乱の中で、落としたに違いない。今はもう瓦礫の下だろう。



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