5.逢引の夜、さわやかな朝

The Three Musketeers  三銃士  Pastiche  パスティーシュ


  とんでもない量の贋金を
  

 その夜は、大きな月が出ていた。夜半を過ぎる頃、風が強くなり、月を覆っていた雲が取り払われた。月明かりが照らす静かな村は、贋金造りの一味と、それを摘発しようとする男達の対決の場とは、見た限りは想像もつかない。
 生きものは皆、眠りについたと思われたが ― しかし、『本部』で人影が動いた。その人影はマントを巻き付け、足音が響かないようにそっと階段を降りてくる。男だ。
 彼はそっとドアを開けると、月明かりに照らされた外に踏み出した。そしてまた音を立てないようにドアを閉めると、手に持っていたランプの覆いを少しだけあけた。彼は誰にも見られていないか、辺りを見回すと、歩き出した。音がしないように、ブーツには拍車をつけていない。そして、腰の剣がガチャガチャ言わない様に、左手で柄を押さえた。
 彼は、すこし小走りに丘を登って行く。丘の頂上には、聖バシリウス教会が威容を誇っていた。この古い修道院の上に建てられたゴシック建築は、月明かりの下、足元を通り過ぎる全ての物を威圧する。男は、少し足を止めて教会を見上げたが、すぐにまた急いで歩き始めた。
 彼が向かっているのは、教会から少し下がった所にある、館だった。正面の玄関には、灯りが点っていない。二階建てになっているが、どの窓も閉ざされ、静まり返っていた。男は再び辺りを見回すと、小道を通って館の裏へと回った。 厩があり、馬が二頭休んでいたが、男の気配に気付いて鼻を鳴らした。別に騒ぐ様子でもない。男はそのまま進んだ。館の裏には、井戸場や洗濯場などがあり、きちんと整理されている。その先には小さな貯蔵小屋があり、脇に小さな出入り口があった。台所の裏口だ。
 男は、裏口のドアにそっと近付いた。すると、ドアが内側から静かに開き、小さなランプの光が漏れた。ランプを持ったその人影は、開いたドアから外を窺った。それを認めた男は、やはり足音を忍ばせながら、そちらに近付き、
「ビトリ夫人」
と、小声で呼びかけた。すると呼びかけられた方 ― 小柄で、黒い服にショールを羽織った女性が、近付いてきた男に向かって、密やかな声で応えた。
「アラミス様…」
 肩に巻き付けたマントを口元から少し引き降ろして現れた男の顔は、確かにアラミスだった。アラミスは女性のすぐ側まで来ると、小さく礼をしながら、もう一度言った。
「ビトリ夫人。」
「未亡人ですわ。」
 女性は、静かに言った。台所の裏口の外に立った二人の姿を、月明かりが微かに照らしている。アラミスはそっと夫人の手を取ると、唇を寄せて呟く様に言った。
「ビトリ氏が亡くなったというのは、風の噂で聞きました。確か、去年の事。」
「長患いの末です…ご存知でしたでしょう?」
 夫人は、口付けられた手をそっと引っ込めながら、アラミスを上目遣いに見た。大きな黒い瞳が、オニキスのように美しく輝いた。漆黒の髪が美しく波打ちながら、青白い顔を縁取っている。アラミスは彼女の瞳からそっと視線を外して応じた。
 「しかし、その後叔父と一緒に移られたとは聞いておりませんでした。このヴァイオンソレールにはいつから?」
「春からです。叔父の赴任について参りましたの。それより、アラミス様がここにいらっしゃる方が驚きですわ。夕方にあなたの従者が来て、会いたいという伝言を受け取った時は、何かの冗談かと思いました。」
「御迷惑でしたか?」
「いいえ。」
「マージョラ…」
 アラミスは思わず、嘆息と共に彼女の名を熱を込めて呼んでいた。
「しっ、アラミス様…どうぞお静かに。家人に気付かれます。」
 ビトリ夫人は、大きな瞳にきつく咎めるような色を浮かべた。アラミスの背筋に、なにか痛みのようなものが走る。彼の心のなかには、軽い後悔が湧き出ていた。しかし逃げ出す訳には行かないし、ましてや情熱的な行為に及ぶつもりもない。
 ビトリ夫人はそんなアラミスの気持ちに気付いているのかいないのか、密やかな声で続けた。
 「アラミス様は、どうしてここへ?叔父に会いにいらしたのですか?」
「あなたはもうご存知かと。村じゅうの噂でしょう。」
「贋金造りの摘発に来たという人の…?でも、アラミス様は銃士のはず。」
「応援派遣されたのです。あなたは何かご贋金造りについて知っていますか?」
「まぁ。」
 夫人は小さく驚きの声を上げた。そして小さく首を振ると、額にかかる艶やかな髪が揺れた。アラミスはそれを見るだけでも胃が痛くなる。
「私が何を知っていると思いますの?それに…アラミス様にしては不躾ですわ。私は若い身で夫と死別し、神父の叔父の元に身を寄せる哀れな女です。ただ、それだけですのに。」
 (哀れな女か…)
 アラミスは心の中で呟いた。夜の闇の中、教会の巨大な石積みから発した冷気が、圧し掛かってくるような気分がする。アラミスはまたマントを口元に引き上げた。
 「相変わらずあなたはお美しい。」
「おや、不躾の次は唐突…」
「ここには叔父上と?」
「ええ。」
 話題を変えたアラミスに、ビトリ夫人はにっこりと微笑んだ。
「叔父と、従僕の夫婦と…つつましく暮らしています。村に知り合いが居る訳でもありませんから、寂しい毎日です。」
彼女は少し目を細めてアラミスの顔を見上げた。
「教会の建物は、素晴らしく立派ですが、内部もそうなのですか?」
「私、あの中には入っていませんの。」
ビトリ夫人は、ゆっくりと微笑むと、更に声を潜めた。
「外観は立派なのですが…もう随分長い間神父も居なくて、荒れ放題とかで。叔父は毎日聖堂の中で奮闘していますが、私はこちらの館に小さな祭壇を作って、祈っております。」
 ビトリ夫人は、すこし首をかしげながら、上目遣いにアラミスを見つめている。彼はその淑やかな視線から逃れるように、聖堂を見遣って尋ねた。
「カタコンベがありますか?」
「カタコンベ?地下墓所ですか?」
ビトリ夫人は不思議そうに聞き返す。
「ええ。何百年も前、ここは修道院だったとか。聖バシリウスの居たカッパドキアの礼拝を真似て、大きな地下礼拝堂を作ったそうです。修道院が無くなって、教会が建てられた時、地下聖堂はカタコンベになった本に書いてあります。」
「さぁ…」
アラミスの問いに、ビトリ夫人は困ったように俯いた。
「正直な所、聖堂は気味が悪くて…私には分かりませんわ。叔父は知っているのかしら…私は地下墓所に入るなんて、生きていようが、死んでいようが嫌ですが…」
 アラミスは夫人が言い終わらない内に、彼女の右手を取った。そして少し力を入れて握ると、自分の口元に寄せる。そして低く言った。
「マージョラ。あなたは生きていますよ。こうしてね。生きて、こうして再び私の前に現れた…」
 アラミスは夫人の手にゆっくりと口付けると、その手を放し、踵を返した。夫人の声が引き止めた。
「もう行きますの?」
「行きます。今夜は本当にあなたかここに居るのか、確かめに来ました。」
「明日は、なにをなさるのですか?」
アラミスは数歩進んでいたが、立ち止まった。そして振り返って応えた。
「朝食を食べます。」
 夫人はもう何も言わなかった。静かに微笑んだようだが、雲が月を隠し、アラミスには見えなかった。
 ビトリ夫人は物音を立てない様に、そっと館の中へ姿を消した。
 アラミスも足音を忍ばせ、『本部』へ戻ろうとした。館を離れて数歩進んだ時、不意にアラミスは振り返った。一瞬、厩の影に人が動いたような気がする。それは、あのリシャールの従者ボメルではなかったか…?
 アラミスには確信がなかった。しばらくその場に立っていたが、やがて踵を返し、今度はゆっくりと『本部』へ戻って行った。

 翌朝は良く晴れていたが、冷え込んだ。ポルトスは二階の寝室で目が覚め、ベッドから出ると、頑丈な木の窓を開けてみた。外の冷気に触れて身震いすると、下から声がした。
 「おはよう、ポルトス殿。」
 リシャールだ。この男は、四十歳位でポルトスよりもよっぽど年上だが、良く日に焼けた顔と白い歯と、短い髪でひどく若々しく見える。すっかり身支度を終えて、馬を引出している所だ。
「おはよう、リシャールさん。冷えますね。」
「今朝は今年一番の冷え込みですよ。でも晴れているから、昼間は暖かくなるでしょう。朝食をご一緒しましょう。神父さんがいらっしゃいますよ。」
「神父さん?」
「聖バシリウス教会のクールベ神父ですよ。」
「なぜ神父さんと?」
ポルトスの問いに、リシャールは上目遣いで悪戯っぽく笑って応えた。
「協力者だからですよ。」
 朝っぱらから、仕事をやる気満々らしい。ポルトスは笑って頷くと、部屋に引っ込んだ。 そこにムスクトンが入ってきた。
「おはようございます、旦那様。」
「おはよう、ムスクトン。良く眠れたか?」
「良く眠れたかなんて、冗談じゃありませんよ、旦那様。」
ムスクトンは憮然として、小さなテーブルに水差しと桶を置き、腕を組んだ。
「あの三階とか呼ばれているのは、部屋じゃなくて物置ですよ!頭をぶつけるんじゃないかと思うと、寝返りをうつのも一苦労なんですから!」
「慣れろよ。」
ポルトスはクスクス笑った。

 ポルトスが身支度を終えて下に降りてみると、アラミスがテーブルについて本を読んでいた。
「おはよう、アラミス。朝から何読んでいるんだ?」
「おはよう、ポルトス。聖アウグスティヌスの『三位一体論』さ。神学の基本。」
「神父さんとの対面を前に、臨戦態勢,準備万端って訳だな。朝飯には教会の神父さんも招待されているらしいぞ。」
「お前とリシャールさんが話しているのが聞こえたよ。」
 ポルトスはふと、アラミスの右肘の下にある小さな冊子に目が釘付けになった。それに気付いたアラミスは、冊子を懐に入れる。ポルトスは何か言おうかと躊躇したが、その時妙な音がした。二人が顔を上げると、二階からグリモーがアトスをずるずる引き摺って来た。一体どうやってアトスに身支度をさせたのだろうかと不思議だが、とにかくグリモーは階段を降り始めた。一段下る度にグリモーは主人の背中を押して体を縦にしてゆき、一階に着く頃には、なんとかアトスは立ち上がっていた。
 「おはよう、アトス。」
 ポルトスとアラミスが声を掛けると、アトスは音でも立てそうなぎこちなさで首を回し、一つ大きくあくびをした。
「アトス、朝飯食えるか?」
 ポルトスが尋ねたが、アトスは応えずにノロノロと窓際に立ち、ぼんやりと外をみやっている。一たんアトスの部屋に戻ったグリモーが、空になったワインの瓶三本を抱えて降りてくると、ポルトスとアラミスは肩をすくめて顔を見合わせた。
 すると、窓から教会の方を眺めていたアトスが呟いた。
「朝飯の客人って、あれか?」
 ポルトスとアラミスも一緒に窓から外を見遣ると、あの館の方から、馬に乗った男がトコトコとこちらにむかってやってくるのが見える。
「そうですよ。」
 急に外側で声がしたので、三人が窓の外に身を乗り出してみると、壁際でリシャールが桶に張った水で手を洗っていた。
「あれが、聖バシリウス教会のクールベ神父です。聖堂から少し下ったところに見えるあの館に、姪御さんと一緒に住んでいます。」
「協力者っておっしゃいましたね。」
 ポルトスが言うと、リシャールはニヤリと笑った。
「ええ、そうです。元々聖バシリウス教会には神父が不在だったのですが、この春、枢機卿閣下がクールベ神父を派遣したのです。」
「贋金調査のために?」
「そうです。」
リシャールは事も無げに頷いた。
「私の調査は去年の頭からずっと続いていましたからね。ヴァイオンソレールが怪しいと睨んだのは、一年くらい前ですよ。それを閣下に言上したら、まずは『こちら側の』神父を派遣して、ヴァイオンソレールの内情を探った方が良かろうという事になりましてね。」
「彼は信用できますか?」
 抑揚の無い声で、アトスが言った。リシャールは窓の内のアトスを真っ直ぐ見つめた。別に憤っているような様子はない。アトスが続けた。
「リシュリューが派遣した神父だそうですが、要するに護衛士達を同じような者だ。買収される恐れだってある。神父だからと言って簡単に信用するほど、あなたはお人好しではなさそうだが。」
「どうでしょうね。」
リシャールはまた笑って、歩き出した。そしてドアから部屋に入ってくると、帽子を取って台所に向かって呼びかけた。
「ボメル、バザン!朝食は出来たか?皆さんお揃いだぞ。」



 
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