打ち所が悪かったのか、デズモンド・リンゼイの鼻血はかなりのものだった。私はリンゼイをキッチンの椅子に座らせると少し上を向かせ、水で冷やしたハンカチで眉間とまぶたを覆った。
「いいかい、ルーク。」
私はハンカチを絞って渡してくれた少年に言った。
「出血を止めるには、まず傷口への血流を止めることが大事だ。この場合、鼻の粘膜の毛細血管が傷ついているので軽く上を向けば良い。量が多い時は呼吸のために気道を確保する事も忘れちゃいけないね。それから患部を冷やす。血管が収縮して血が止まるからだ。だから傷を負った後の入浴は避けた方が良い。衛生的にもね。アルコールも血管を広げる働きがあるから、摂取しない方が良いんだ。」
少年は熱心に聞き入りながら、ハンカチでリンゼイの顔を押さえる役目を交代し、医者への第一歩を踏み出した。
「たかが鼻血ぐらいで、大袈裟だな。」
ホームズはリンゼイの向かいに座り直しながら、皮肉っぽく言った。
「ホームズ、初歩を馬鹿にしてはいけないよ。出血を止めるという事に関しては、鼻血も大腿部切断も原理は同じなのだからね。」
主人がやって来たのが嬉しいのか、マルはちぎれそうなくらい尻尾を振り、傷つける主人の膝に飛び乗った。
「犬は本当に主人に忠実だね。濡れ衣を着せられた上に、あやうく下剤を飲まされる所だったと言うのに。」
「ホームズさん。」
リンゼイは鼻にかかった声を出しながら、ホームズの方に体を向けようとしたが、テーブルの上に赤い滴がポタポタと落ちて来る。
「まだ駄目だよ、止まっていないんだから!」
ルークが強引に上を向かせ、リンゼイはまた黙った。ロビーが弟をたしなめたが、ルークは素知らぬ顔で手当てを続ける。良い医者になるだろう。
主人が構ってくれないのが気に入らないのか、マルはリンゼイの膝から降りてホームズの足元にやって来た。彼はしばらくホームズを嗅ぎまわっていたが、やがて興味を失うと、今度は私の所にやってきて膝に飛び乗った。両手で頭と喉を撫でてやると、嬉しそうな声を出し、腰を落ち着けた。
「つまりですね、リンゼイさん。」
ホームズは頬杖をつきながら口を開いた。
「さっきもロビーに説明していたのですが、僕はマルがサファイアを飲み込んではいないと、分かっていました。そもそも、あなたの手元にはなかったのですからね。しかし今朝、急にポントレイ嬢との夕食が決まり、サファイアが必要になった。困ったあなたが作った筋書きは、恐らく『マルがどこかにやってしまった』とか何とかでは?」
ホームズの問いに、リンゼイは上を向いたまま顎を上下させて頷いた。
「やっぱりね。所が、執事のヒルズは何を思ったか『マルが飲み込んだ』と飛躍してしまった。元々サファイアがなくなっている事を白状できないあなたは、執事の飛躍を否定する事も出来ない。しかし、このままではマルは下剤を飲まされ、消化器官の…ええと、終着駅。ヒルズ風に言えば出口からサファイアが出てこなければ、それこそ大変な事になる。そこであなたは、執事には『マルが飲み込んだ』と思い込ませたまま、ロビーと共謀してマルを隠した。ロビーはあなたの証言を裏付ける発言をしていますから、彼が共謀者なのは明白です。そこで僕らはロビーがホテルを出るのを待ち、彼をつけたのです。行き先に犬が居る事は間違い無いでしょうからね。そこでさっきのワトスンの疑問に行き着きます。どうやって、マルをハドスン川を挟んだこのランベスに隠す事が出来たのか?マルが弟のルーク君に良くなついている辺りにヒントがありそうだね。」
 ホームズがロビーを見やると、ロビーはリンゼイのの顔を窺う。リンゼイが投げやりに手をふってみせると、ベルボーイはやっと口を開いた。
 「ルークは、ホテルの小遣いとして働いているんです。」
「学校が終わった後と、休みの日だけだよ。今日は休みなんだ。勉強は大好きだからね。」
「ルーク、黙っているんだ。それで、今朝もルークが厨房に来ていたのです。ヒルズさんがコンシェルジェの所へ言っている間に、僕はリンゼイさんにマルをどこかに隠してくれと頼まれたので、すぐに犬を抱えて厨房に行き、弟に預けて家に連れ帰るように言いました。マルはよくリンゼイさんと一緒にロンドンに来ていたので、弟は遊び相手だったんです。」
「なるほどね。」
ホームズは私の膝に手を伸ばすと、マルの頭をそっと撫でた。
「さて、リンゼイさん。本題に入りましょう。サファイアはどこです?」
ホームズの甲高い声に、マルはびくっと身を縮めた。びくついたのは、鼻血の青年貴族もしかりである。
「…ありません。」
「それは分かっていますよ。どこの金貸しです?それとも銀行ですか?」
リンゼイは黙ってしまった。そしてゆっくりと顔からハンカチをよけると、体を起こして大きくため息をつき、そのまま深くうつむいた。血は止まったらしい。私はそろそろこの若者が気の毒になってきたので、彼の代わりに口を開いた。
「金貸しか銀行?まさか担保にしたって言うのかい?」
「その通り!ワトスン、君も分かってきたな。そうでしょう?リンゼイさん。」
「銀行です。」
「はっ!」
ホームズは天井を仰ぐと呆れたように首を振った。
「サー・ウィリアム・リンゼイの資産運用と教育方針のお陰で、君には自由になるお金がなかった。しかし婚約が発表された今、どうしても金が必要になった。しかも、親や執事には絶対内密で。そこで、リンゼイ家の大事なサファイアを担保に金を借りた。さっきヒルズが言っていただろう、弁護士に用があると。財産分与の手続きはもうすぐ完了する予定なんだよ。そうなれば金を返し、担保に渡したサファイアを取り戻せる。ところが、今夜急にポントレイ嬢と会う事になり、サファイアが必要になった。そこで、リンゼイ君はマルを利用して時間稼ぎを企んだ。しかし、『マルが飲み込んだ』と飛躍してしまったヒルズのせいで、このシャーロック・ホームズ登場と相成り、事態は意外な方向に!」
ホームズはシェイクスピア役者のように手を広げた。ルークとマルが目を丸くしてその様子に見入る。一瞬ホームズは右頬で笑うと、腕を下ろして続けた。
「リンゼイ君はロビーと共謀してまずは犬を隠し、外出して大急ぎで用を済ませ、ホテルに戻り、そこへ丁度ヒルズが僕らを連れて来たという訳だ。」
「用って?」
私の質問にホームズは一瞬口を開いたが、声は出さずに視線を泳がせた。それから肩をすくめてみせると、
「結婚間近の青年貴族が、身内にも内緒で調達する金の使い道と言ったら、だいたい決まっているだろう。」
と、言葉を濁した。私は彼の表情を数秒眺めていたが、幼い少年が同席している事に思いが至り、細かく頷いた。
「なるほど。分かったよ。それで?」
「それで?!」
ホームズはまた大声を出して立ち上がった。
「それでだって?何も。僕と君は家に帰る。それだけさ。」
「事件は解決していないのに?」
「解決なんてあるもんか。事件そのものが起こっていないんだから。」
「あの…」
リンゼイがゆっくり立ち上がると、ホームズと私の顔を交互に見やった。
「この件は…」
「リンゼイさん、執事には適当に説明なさい。僕は御免ですよ。それから、今夜のことをどうするのかは、ご自分でお決めになるのですな。マルは無実ですからサファイアが手元に戻るまで、かくまうのが良いでしょうね。下剤を飲まされ、しまいには輪切りにされかねない。幸いルークとは仲良しのようだし。主人の不始末の責任を取らされるより、ここに居るほうがマルにとっても幸せでしょう。では失礼。」
ホームズはトップハットを頭にのせると、キッチンから出て行こうとする。私は咄嗟に立ちあがると、今朝ベーカー街でそうしたように彼の腕を取った。



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