「待てよホームズ。簡単に言うがね、サファイアが今夜手元にない理由を、事実にしろマルへの責任転嫁にしろ、令嬢にはもちろん、執事や父上にも説明するわけには行かないんだよ。リンゼイ君は八方塞りなんだ。」
「人生にはそれなりの困難があるものだ。」
「ホ、ホームズさん、僕は婚約を破棄された上に、勘当されてしまいます!」
リンゼイが泣きそうな声でオロオロと言った。私の膝から飛び降りたマルが、主人の足元にちょこんと座って、心配そうに見上げる。
「身から出た錆ですな。僕への依頼内容は、犬とサファイアの捜索であって、幸せな家庭生活への協力ではありません。」
ホームズは不機嫌そうに顔をしかめてみせる。リンゼイは情けないことにヘナヘナと椅子に座り込んでしまった。私はホームズの腕を取ったまま食い下がった。
「ジュリア・ポントレイ嬢はどうなる?どういう説明書きにしろ、リンゼイ君と令嬢との婚約破棄の記事が新聞に載っても、君は構わないというのかい?」
「しない方が良い結婚もあるよ。」
「令嬢の名誉に傷がついても、構わないと?婚約破棄はしなくても、彼女へ贈られた有名なリンゼイ家のサファイアは、犬の消化器官について知り尽くしているとか、サファイアを担保にして借りた金を婚約者が何に使ったとか、世間に知られても君は平気だと言うのかい?」
「ワトスン、僕は…」
「命がけで凶悪な犯罪者を捕まえろと言ってるのではないのだよ、ホームズ。この浅はかだけど婚約者を傷つけまいとしている青年を助けてやっても、悪くはないだろうと言っているのさ。」
「助ける?どうやって?」
ホームズはうんざりした顔を私の方に捻じ曲げた。私はリンゼイに尋ねた。
「銀行からいくら借りたのです?」
「千ポンドです。」
「どこの銀行だね?」
「シティの、オルソン・アンド・ギリアム銀行です。」
「よし、つてがないわけでもないな。そしてホームズは素晴らしいエメラルドのタイピンを持っている。」
「なに?」
ホームズは慌てて、ドアへ向かっていた体の方向を戻した。
「由緒正しいエメラルドのはずだ。安くはない。それに、何だったか大粒のルビーも持っているね。」
「待てよ、ワトスン!」
「そして何よりも、シャーロック・ホームズには社会的信用と、困った人を助けてくれるという一般認識がある。」
「いや、しかし…」
「もちろん、私も協力する。」
 私が言葉を切ると、ホームズは呆然として私の顔に見入った。
「ワトスン、君は…」
さすがのホームズも、リンゼイとロビー、そして何故かルークとマルの哀願するかのような視線を集中されては、これ以上拒否することは出来なかった。私はホームズの腕から手を離すと、静かに続けた。
「ねえ、ホームズ。君がここで一肌脱ぐのと脱がないのとでは、幸せになる人間と犬の数が違うんだよ。いや、もし君が見捨てたら全ての人と犬が不幸になる。私もその内の一人だろうね。」
「分かったよ。」
 とうとうホームズもあきらめた。
「言っておきますがね、リンゼイさん。あなたのためではありませんよ。レディの名誉と、職務に忠実で誠実なベルボーイと、医者志望の少年と、可愛らしい犬と、それから僕の親友のためですからね。あなたへの同情なんて、これぽっちもありませんから。」

 散々嫌味を言っておきながら、その後のホームズの行動は迅速だった。彼は担保になりそうな物を適当に見繕うと、1時間もしない内にリンゼイを連れて銀行に乗り込んでいた。そもそも内密の貸し出しだっただけに、銀行の担当者はひどく驚いた。しかしリンゼイ本人が同席していたし、有名なシャーロック・ホームズの保証と担保がある以上、一も二もなくサファイアは返却された。リンゼイの喜びようと言えば、ここに表現するまでもない。その日の夜、リンゼイと婚約者との晩餐は万事順調に済んだ。無論、見た訳ではない。当夜の10時ごろにヒルズが再び、ベーカー街の私達の部屋を訪ねて来たのである。
夜遅い時間のせいもあるが、ホームズはランベスからずっと不機嫌だったので、ヒルズに会う事は断固拒否して寝室に立てこもった。この程度のへそ曲げは仕方無いと、私がヒルズの相手をした。
「ホームズさんはどちらです?」
昼過ぎにリンゼイがサファイアを持ち、マルを抱いてホテルに戻ってきた事、ホテルでの晩餐は素晴らしかった事、サファイアの指輪は令嬢の指には少し小さかった事などを、一通り喋ったヒルズが、部屋を見回して尋ねた。
「彼は今、別の事件の捜査で外出しているのですよ。」
「ははぁ、お忙しくていらっしゃいますなあ。どうやってマルを見つけ出したのです?」
「ええ…何と言いますか。今日の天候と犬の習性と、国際情勢など、諸々の情報を総合してホームズが推理しまして、その先に居た訳です。」
「さすがロンドン一、いやヨーロッパ一の名探偵ですな。素晴らしいお手並みです。それで先生、下剤はいかほど?」
結局ヒルズには、「マルが飲み込んだ」と思い込ませた方が面倒な説明をしないで済むと、ホームズが判断したのである。私は必至に噴き出すのを押さえた。
「さあ、どれくらいだったかな。単純に成人男子と犬の体重を比較して、同等の薬を飲ませたのですよ。」
「効果覿面だった訳ですね。」
「ええ、まぁ…」
「高価な宝石のためとは言え、大変な事をお願いしてしまいましたね。どうでしょう、あのマルにはこれからどんな躾をするべきか…」
「いやいやヒルズさん!」
私は慌てて手を振った。
「そんな必要はありませんよ。マルは本当に聞き分けの良いビーグル犬です。いまさら躾なんて必要ありませんよ。サファイアを飲み込んだのは事故のようなものですし、下剤を飲まされた苦痛との因果関係がはっきりしていますから、もう二度と変なものを飲み込んだりはしませんよ。それに今更、マルの躾を改めようものなら、サー・ウィリアムに怪しまれますよ。」
「ああ!それは何としても回避せねばなりません!ドクターとホームズさんにお願いしたいのですが、今度の件については絶対に秘密を守って下さい。」
「ええ、もちろんです。」
「ロビーにも厳重に口止めしました。」
「あの子は大丈夫ですよ。絶対に口外しないでしょう。」
「私とデズモンド様の間でも、今回の件は二度と口にしない事になっているのです。」
「それが良いでしょうな。」
「それでは、これをお納め下さい。これにて失礼します。ホームズさんによろしく。」
一方的に言ってヒルズは小切手を私に押し付けると、帽子とコートを取ってさっさと出て行こうとする。私はその金額に驚いて廊下に飛び出した。
「ヒルズさん、待って下さい!いくらなんでもこれは…」
私の声を無視してヒルズは玄関から出て行った。私は階段に向かって駆け出したが、突如ホームズの寝室のドアが開き、骨張った手が乱暴に私の後ろ襟を掴んで引き止めた。窒息しそうになりながら、私は振り向きざまに小切手をホームズの眼前に突きつけた。ホームズは仏頂面のまましばらく額面を眺めていたが、
「もらっておこう。」
と言って小切手を私の手から取り上げ、また寝室に引っ込んでしまった。

 小切手の名義は執事だったが、翌週になってデズモンド・リンゼイ名義の小切手が手紙と共に届けられた。こちらもかなりの金額だった。財産分与が無事に完了したらしい。ホームズは躊躇せずにこれを受け取り、手紙には見向きもしなかった。もちろん、担保の品も銀行職員が返却に訪れた。手紙はリンゼイ本人の筆で、ホームズと私に世話になった礼を丁寧に述べていた。また、悪い女と関わったのは若気の至りであり、金で解決できた以上今後このような愚行は二度と繰り返さず、妻に対して誠実に生きていくつもりだと書いていた。ロビーにも幾らかの報酬を与え、ルークには奨学金を出すつもりだと言う。私はそれを読んで嬉しくなった。最後に、あのビーグル犬のマルは相変わらず元気にしており、リンゼイ家の厳格な家風の中に安らぎを与えてくれていると、書き添えてあった。
デズモンド・リンゼイとジュリア・ポントレイ嬢の婚礼の記事が新聞に載ったのは、翌月の事である。

リンゼイ家の犬 完

あとがき
 HP開設公開第一弾の作品は、当初「マリルボンの音楽家」でしたが、もう少し明るい雰囲気の作品が欲しいと思って急遽書いたのが、
 この作品。もう少しましなタイトルを後でつけるつもりでしたが、結局思いつかないままこうなってしまいました。
 内容的には、少し「飛躍」がキツイかな?というのが反省点です。

Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ


  リンゼイ家の犬
  

リンゼイ家の犬 6

ホームズ・パスティーシュ
トップへ
ホームズ トップへ 掲示板,もしくはメールにて
ご感想などお寄せください。

No reproduction or republication without permission.無許可転載・再利用禁止
Copyright(c)2003-2006 Kei Yamakawa All Rights Reserved.