ホームズと私がホテルの玄関から出ようものなら、顔を知っている人間が居るかもしれない。そうなると、どう噂が広まるか分からないとヒルズが強行に主張するので、私たちは已む無く元来た裏口から出た。
「ワトスン、腹ごしらえをしようよ。あの執事ときたら、朝食も食べさせてくれないまま引っ張ってくるものだから。」
「食べてないのは君だけだろう。」
ホームズはホテルの斜向かいのカフェに入り、窓際の席を占領してお茶を注文した。
「さあ、君はそこに掛けて。僕はこっちだ。ワトスン、そこからさっきの裏口は見えるかい?」
「ああ、見えるよ。」
「よし、よく見張っていてくれよ。そのうち出てくるから。」
「犬がかい?」
「人間だよ。」
「誰が?」
「僕らが知っている人間さ。」
ホームズはすましてそう言うと、運ばれて来たビスケットをかじり、悠々とお茶を飲み始めた。それから彼はお茶の味を褒め、中国や日本の茶について色々喋り始めたので、これはどうやらいつものやつが始まったと分かった。そこで私も彼に犬とサファイアの事は尋ねず、インドに居たころに見た茶の葉の栽培の話などしてやって、20分ほどが経過した。すると、ホームズが言ったとおり、知った顔がホテルの裏口から出てきたではないか。
「ホームズ、出てきたよ。ベルボーイのロビーだ。」
私が言うとホームズはにこりと笑い、立ち上がった。
「よし、行こうワトスン。見失っちゃいけないぜ。」
 私たちが店を出ると、制服を着たままのロビーはリージェント・ストリートに出て、丁度来た乗り合い馬車に乗った。
「おっと、逃すものか。キャブ!」
ホームズはすかさずハンサムを捕まえ、御者に少年が乗り込んだ乗り合いの後をつけるように命じた。
「ランベス行きか。」
乗り合いの行き先看板を見て私が言うと、ホームズは悪戯っぽく笑った。
「どこに行くと思う?」
「そうだね、ランベス、ランベス…あの少年がランベスに用があるとしたら…自宅か?」
「そのようだね。と、言うことはロビーは仕事が終わって帰宅するところさ。」
「夜から朝までの勤務だったのか。」
「それも朝食までのね。時間的にはその前かもしれない。ただ、デズモンド・リンゼイの担当だから、彼が出かけるまでは仕事に就いていたんだろう。」
「今回の犬の件と、重要なつながりがあるのかい?」
「もちろん、あるとも。いいかい?あのベルボーイは、今朝犬が居なくなってからずっと、リンゼイ君の件以外の仕事をしていない。犬を探し、ヒルズがベーカー街から僕らを連れて来るに当っては裏口の鍵を開け、人に見られないように僕らを中に入れたんだ。」
「それで?」
「彼が行く先で分かるよ。」
ホームズは気楽そうに言った。
 ロンドンの道は馬車や人でごった返しており、ノロノロ進む乗り合いをつけるのはさほど困難ではなかった。テムズ川を渡り、ウォータールーを過ぎたあたりで、乗り合いからベルボーイが降りるのが見えた。ホームズはすぐにハンサムから降りると、彼の後を追った。
 ロビーは背後の私たちには気づかない様子で早足に歩き、小さな集合住宅の立ち並ぶ界隈に入っていった。そしてこじんまりとした家のドアの一つにたどりつくと、ポケットから鍵を出そうとする。それを見たホームズは急に走り出し、鍵を手にした少年の肩を叩いた。
「やあ、ロビー。お宅にご招待いただけるかい?」
「あっ、ホームズさん!」
ロビーは目を丸くして、真っ青になった。すると、ドアが内側から開き、十歳にもならないような金髪で頬の赤い少年が顔を出した。
「おかえり、ロビー!」
すると、その元気そうな少年の足元から、一匹のビーグル犬が顔を出してロビーを見上げているではないか。しかも嬉しそうに尻尾を振り、
「ワン!」
と、一声かわいらしく吠えた。

ベルボーイのロビーは当惑した表情のまま、私達に小さなキッチンの小さな食卓の椅子を薦めた。
「あの…」
ロビーが言ったが、ホームズは両手を頭の後ろで組みながら足を伸ばした。
「いいよ、ロビー。説明しなくても、だいたい分かっているから。第一、君はお客の秘密を軽々しく口にするようなボーイじゃないしね。」
可愛らしいビーグル犬は、金髪の少年に抱かれて興味深そうに私達を見回している。更にその少年も私をしげしげと観察して、元気な声で尋ねた。
「おじさん、お医者さん?」
「そうだよ、良く分かったね。」
「だっておじさん、すこし消毒液の臭いがするし、指先が茶色いよ。それ、怪我をした時の消毒液の色でしょう?」
「ほほう!ホームズ、君も顔負けの名探偵がいるぞ。」
「探偵じゃないよ。僕、お医者さんになりたいんだ。」
犬を抱いた金髪の少年が宣言すると、ロビーが厳しい口調で言った。
「ルーク、マルと外に行ってるんだ。」
「行こう、マル。」
ルーク少年は犬を床に下ろすと、勝手口から周辺の家と共有になっている裏庭に出て行った。ビーグル犬も尻尾を振りながらトコトコとついて行く。
「弟さんかね?」
私が尋ねると、ロビーは突っ立ったって口ごもりながら答えた。
「はい。」
「いくつだい。」
「9歳です。」
「元気で頭の良さそうな子だね。」
私は窓越しに駆け回って遊ぶ少年と犬を眺めたあと、ホームズの横顔を窺った。
「あのさ、ホームズ…」
「大丈夫だよ、ワトスン。下剤は無用だ。」
「そりゃ良かった。」
「うん、良かった。」
そう言ったっきり、ホームズはすましている。私とロビーが穴があくほど彼を見つめるので、ホームズは肩をすくめた。
「つまり、マルはサファイアの指輪なんて、飲み込んでいないんだよ。」
「飲み込んでいない?じゃあ、指輪はどこに?」
「さあね。」
「おいおい、これは盗難事件だって言うのかい?」
「ロビーにその質問をすれば、ノーと答えるだろうね?」
ホームズがベルボーイに目をむけた。ロビーは更に顔を青くして、唇を固く結んでいる。
「ワトスン、君はさっきホテルの部屋で事のあらましを説明されたね?」
「ああ、君と一緒に。」
「ふむ。では、あの説明の中で、誰か犬がサファイアを飲み込んだのを見た人はいたかい?」
私は少し考えると、静かに答えた。
「誰も見ていない。」
「その通り!」
「寝室には椅子から落ちたらしき空の宝石箱があり、犬が歩き回っていたけれど…」
「あの執事は、リンゼイ君が『あっ、マル!』と叫んだだけで、犬がサファイアを飲み込んだと、思い込んだんだ。」
「考えてみれば、凄い思い込みだな。」
「きみの責任だよ、ワトスン。」
「何だって?」
私は驚いて目を丸くした。するとホームズは、嬉しそうに続けた。
「あの執事、君のファンのようじゃないか。今朝ロンドンへ向かう汽車の中で、ストランドのバックナンバーを読んだと言っていただろう?さしずめ、カーバンクルを飲み込む鵞鳥の話でも読んだのだろうさ。」
「ホームズ、君は最初から犬が飲み込んだ訳ではないと分かっていたのかい?」
「最初からではないけどね。ベーカー街では、怪しいと思っていた。ホテルで現場を見ると、これはいよいよ違うと分かったね。」
「どうして?」
「簡単な事さ、ワトスン。まずさっき言ったように、誰も犬がサファイアを飲み込む現場を見ていない。それにマルはあの通り(ホームズは裏庭で遊ぶルークとマルを見やった)、大人しくて躾の行き届いた犬だ。分別の無い子犬でもないしね。ひらひらした物にじゃれついたとしても、物を飲み込むのとはまた話が別だ。第一、あの空の宝石箱には傷の一つもなければ、唾液の跡も、歯形も無かった。犬が何の痕跡も残さずに箱の中の指輪をくわえ出して、ご丁寧に飲み込むなんて不可能だよ。」
「わかった。」
私は溜息をつくと、相変わらず立ったままのロビーを見やった。彼は小さく息をついたが、やはり黙っている。
「じゃあ、質問を変えるよ。サファイアを飲み込んだと濡れ衣を着せられたマルは、ホテルから脱走した。でも、どうしてテムズ川を挟んだこちら側の家にいるんだい?」
「濡れ衣を着せたのは、あの執事だけだよ。彼一人で思い込んでいるんだ。リンゼイ君はマルの潔白を知っていたから、ロビーと共謀してマルをかくまったのさ。」
「潔白を知っていた?リンゼイ君は『吐き出させようとして、マルの口を開けた』と言っていたじゃないか。飲み込んでいないと知っていたのに、どうしてそんな同調するような嘘をついて、犬を隠したんだい?」
「犬が潔白だとすると、サファイアがどこに消えたかという問題になるじゃないか。リンゼイ君は、サファイアの所在を追求されるよりもマルが飲み込んだ事にして隠す事を選んだんだよ。」
「どうしてそんな事を?」
「サファイアの所在を秘密にしたいからさ。僕らがホテルの4階に到着したとき、リンゼイ君が外から戻って来ただろう?ドアの前に集まった僕らを見てひどく狼狽していた。彼は『犬がまだ居るかもしれないから、外で探していた』なんて言ったけど、嘘だよ。帽子もステッキも手袋もきちんと持って、犬を探したりするもんか。彼は執事がベーカー街に行っている隙に、何か用事をしに外出したんだよ。」
ホームズが言い終わらない内に、ドアを叩く音がした。ホームズと私、そしてロビーが一斉にドアの方に向いた。するとドアの外から、聞き覚えのある声がする。
「ロビー、僕だ。」
ベルボーイは、当惑したようにこちらを見る。ホームズは目でドアを開けるように促した。ロビーはぎこちない仕種でドアに歩み寄ると、ゆっくりとドアを開けた。すると、息を切らしながらキッチンに若者が飛び込んできた。
「ロビー、マルは?」
彼はやおらロビーに言ったが、そこに私達が座っているのを発見すると、
「あっ!」
と叫ぶなり、踵を返して駆け出そうとした。しかし敷居に足を取られてぶざまにも転倒し、顔面を石畳に打ちつけてしまったのである。



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