ホテルの玄関先は、午前の出発客や馬車で賑わっていた。しかし、私達を乗せた馬車は表を通り過ぎ、裏道の手前で止まった。
「さあ、こちらです。」
ヒルズはどんどん私達を先導して、裏口へと向かう。厨房脇の戸口で、制服を着たベルボーイがこちらを窺っていた。
「ロビー、誰にも見られていないね?よし。さあホームズさん、こちらです。急いで!」
気乗りのしないまま、ここまで引っ張られてきてしまったホームズは、足取りも重くノロノロと続いた。私達はベルボーイの脇をすり抜け、非常時用と業務員用を兼ねた薄暗い階段を上り始めた。待っていたベルボーイもそれに続く。4階で階段から廊下に出ると、ヒルズは辺りを見回して人が居ない事を確かめ、
「さあ、今です!」
と、ホームズの腕を引っ張り、一室のドアへ駆け寄った。そしてそっと扉をノックすると、押し殺したような声で呼びかけた。
「デズモンド様、ヒルズです!」
しかし反応がない。すると、大階段から上がってきた若い男がこちらを見て、
「あっ…」
と、小さく叫んだ。それを見たヒルズは、さっと顔を赤くした。
「デズモンド様!どこへ行っていたのです?!」
執事が押し殺した声のまま詰め寄ると、上等なトップハットを被り、コートを着た若いデズモンド・リンゼイはどぎまぎしながら答えた。
「あ、ああ。いや、ちょっと外を捜してみたんだ。マルが居るんじゃないかと…」
「しっ!さあ、人に見られます!早く中へ!」
ヒルズが気忙しくしく言うと、幾らかの逡巡の後ベルボーイのロビーが鍵を取り出し、ドアを開け、私達は室内に通された。
そもそも豪華なこのホテルの中でも、中くらいの類に入るであろうと思われる部屋だった。大きな居間には東向きの窓があり、日の光が部屋を照らしている。テーブルには手をつけていない朝食が残っていた。
「それで?」
ヒルズがリンゼイにホームズと私を紹介すると、ホームズは溜息まじりに言った。
「僕は何を捜せば良いのですか?」
「犬です!」
ヒルズが甲高い声で叫んだ。
「分かりました、分かりました…」
ホームズはがっくりと俯くと、暫らく口の中でぶつぶつ言っていたが、やがて気を取り直したように顔を上げて、いつもの冷静で頭脳明晰な名探偵の顔に戻って口を開いた。
「大事なのは犬ではなく、その消化器官の中のサファイアなのでしょう?まず、サファイアの説明からお願します。リンゼイさん、母君からサファイアを受け取ったのはいつです?」
ホームズに顔を向けられたデズモンド・リンゼイは、見事な栗色の髪の持ち主だった。やや下膨れな白い頬に赤味が差し、大きな瞳はきれいな緑色をしている。つまりは、実年齢よりもかなり若く見え、少女たちが持っている人形みたいな顔をしていた。体つきも発育の良い子供のような印象で、黒いフロックコートがこれほど似合わない成人男子も珍しい。とにかく、リンゼイは相変わらずどぎまぎした様子で口を開いた。
「ええ、あれは確か先月の末です。新聞に僕の婚約が発表された日の晩餐の後、母から手渡されました。」
「サー・ウィリアムをはじめ、ご家族ご親戚一同がいらっしゃいましてね、それはそれは感動的でしたよ。」
ヒルズがやたらと頷きながら言い足した。
「その後2週間あまり、いつもあなたが所持していたのですか?」
「はい。」
「ええ、もちろん!サー・ウィリアムが直々に、召使には預けず、自分できちんと管理してポントレイ嬢にお贈りするようにと、おっしゃいました!」
「ヒルズさん、暫らく黙っていて下さい。リンゼイさん、サファイアは外出する時もお持ちに?」
「外出と言っても近所に居る時は、父の書斎の金庫を借りて、保管してもらいましたが…。」
「今日のようにロンドンに出てくる場合は?」
「携帯しています。」
「でしょうな。それで、今朝の状況を詳しく。…いつからロンドンに滞在なさっているのです?」
「ええ、あの先週の火曜日です。」
一週間前だ。ホームズは私が手帳に記すのを確かめてから、リンゼイに質問を続けた。
「目的は?」
「ああ、ええ。あいさつ回りです。婚約の事もありましたし。ロンドンの狩猟クラブですとか、大学の同窓会に…」
「ヒルズさんと一緒に?」
「お一人です!いや、正確にはお一人と一匹です!」
ヒルズはまた甲高い声で割って入った。
「サー・ウィリアムは決して、ご子息を甘やかすような事はなさらないのです。身のまわりの事は人任せにはせず、自立心を持つようにとの教育方針を貫いておられましてね。成人なさってからは、ロンドンに行くときなどはお一人です。私は始発の汽車でロンドンへ参りました。朝一番にポントレイ家から令嬢がロンドンにいらっしゃるから、夕食を令息と一緒にどうかと電報が来ましたので。いえ、お会いになるのはデズモンド様お一人で良いのですが、今回は指輪を直しに出す手続きがございますから。ピカデリーにリンゼイ家御用達の宝石屋がありまして。他のお家では、いちいち大勢の召使を連れて、ロンドンにいらっしゃるようですがね、どうせホテル泊りなのですから、家からぞろぞろ人がついて行くなど…」
「犬は?外出の時はいつも一緒なのですか?」
ホームズはこめかみ辺りをぴくつかせ、無理に口元だけで笑いながらリンゼイに尋ねた。
「いえ、いつもという訳では…」
リンゼイは落ち着かない様子で視線をふらふらさせ、相変わらず自信のなさそうな口調で答えた。
「たまに連れて来ます。今回は狩猟クラブを訪問しますので、メンバーにも可愛がられているマルを一緒にと思いまして…」
「犬種は?」
「ビーグルです。」
「何歳です?」
「ええと、たしか…9歳か、10歳だと思いますが…」
「9歳、もしくは10歳のビーグル犬がサファイアの指輪を飲み込んだのですか?」
「ええ、はあ。まあ…」
「場所は?」
「寝室だと思います。」
ホームズは眉を上げて見せた。するとリンゼイは私達を寝室に導いた。
「そこの…ベッドの脇の椅子に洋服と、サファイアの箱を置いておいたのですが…」
「リンゼイさん、どうもはっきりしませんな。」
ホームズは大げさに腕を振りながら、いらいらした声で言った。たしかにリンゼイの言葉は、起こったことを分かりやすく説明してくれそうにない。そこに、ヒルズの高い声が響いた。
「当たり前です、デズモンド様はご覧になっていないのですから!」
「見ていない?」
「ええ、よろしいですか?私が説明します。今朝、私はパディントン駅から馬車でこのホテルに8時に到着しました。それからまっすぐこの部屋へ。ちょうど、このロビーが(と、ヒルズはドアの前に立っていたベルボーイを指差した)朝食の給仕をしていました。デズモンド様は居間におられました。私が今夜のお食事の場所と時間を説明しますと、寝室が目に入りまして…気楽なホテル暮らしのせいですかね、寝具も衣服もほったらかしではありませんか。それで、私はこの寝室に入りました。すると、このベッド脇の椅子に昨日デズモンド様がお召しになっていた、シャツやらカラーやらが掛けてありまして。その椅子の足元に、蓋の開いた宝石箱が転がっていたのです。」
と、ヒルズはそれを指差した。ホームズはしゃがみこむと、確かにヒルズの言うとおり椅子の足元に転がっている小さな宝石箱を拾い上げた。よく指輪が入っているような四角い箱で、紺色のビロード張りになっており、中には白いクッションが詰められていた。ヒルズは説明しているうちに、どんどん声が高くなり、最後にはあえぎ始めた。
「それで、私がその宝石箱を見ますと、例のサファイアを入れる箱ではありませんか!しかし大事なサファイアの指輪がありません!私がデズモンド様に尋ねますと、デズモンド様は『あっ、マル!』と仰るのです。ええ、その通りです!寝室にはあのマルが上機嫌で歩き回っているではありませんか!マルは躾の行き届いた犬ではありますが、ただヒラヒラした物が大好きで、シャツなどうっかりつるしておきますと、すぐにじゃれつくのです。それで椅子のシャツに悪戯しようとして、宝石箱が落ちたのですよ。あとは犬のすることです、飲み込んでしまったのです!」


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