Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ


  リンゼイ家の犬
  

リンゼイ家の犬 1

 シャーロック・ホームズは暇が嫌いだった。彼は常に興味深い事件を渇望しており、それが起きないと、「きょうびの犯罪者は意気地が無い」などと物騒な事を言い出した。事件が持ち込まれない日が長く続くと、彼は癇癪を起こしてコカインに浸ったり、壁に向かって銃を発射したりする。友人であり同居人である私としては、ロンドン市民の安全はさておき、何か事が起って欲しいと思わずには居られなかった。
 ホームズの一番のお気に入りは、一見つまらなそうに見えて、実は背後に重大な犯罪が潜んでいたりする事件である。私もそういった事件を多く発表してきたため、些細な出来事の相談がよくベーカー街の下宿に持ち込まれた。無論、それらの全てがホームズを喜ばせるような興味深い事件では有り得ず、実際とんでもなくつまらない話が大部分を占めていた。暇を嫌う以上、そういった事にも関わらねばならないのが、ホームズの宿命である。ここに記すのも、この類に入る小事件である。

 その日の朝、私はいつものように起きて朝食を済ませ、新聞に目を通していた。ホームズは9時半過ぎになって、のそのそ起きて来た。前の晩、彼は8時には寝室に引きこもったはずだが、眠り足りないような顔で長椅子に寝そべってしまった。
「暇だなぁ、ワトスン…」
朝から挨拶もせずにこれなのだから、どうも重症のようである。
「何か面白い記事はのっていないかい?2階の窓から牛を背負った老婆が侵入してきたとか…」
ホームズはパイプを探して椅子やテーブルの下を覗き込みながら、無茶なことを言う。
「ないよ。おはよう、ホームズ。小麦が高騰しているようだな。パンがなくなる前に、朝食を食べたまえ。」
「昨日も食べたよ。朝に朝食を食べなきゃいけないとは、いかにも単調じゃないか。たまには朝に夕食を食べても…どこだ?」
ホームズは目当てのパイプが見つからないらしく、絨毯に這いつくばり始めた。その時、ノックする音がして、
「ホームズ先生、お手紙ですよ。」
と、言いながらハドスン夫人が開けたドアが、勢いよくホームズの頭を打った。
「ハドスンさん…」
ホームズは忌々しげに立ち上がると、彼女の手から手紙を取った。
「ドアは『お入り』と言ってから開けてください。」
「この間は、『事件は一刻も待ってはくれないのだから、待たなくてもいい』と仰いましたわ。」
ハドスン夫人は平気な顔で言い返し、私の方へ少し笑って見せてドアを閉めた。ホームズは頭を振りながら椅子に座ると、バリバリと封筒を破いて、中身を取り出した。ところが、彼は手紙を一読するなり、それを放り出して立ちあがった。私がどうしたと尋ねる間もなく、寝室に駆け込むとコートと手袋を帽子を持って出て行こうとする。咄嗟に私は絨毯に落ちた手紙を拾い上げ、一瞥するや間一髪の所でホームズの腕を掴んだ。
「待てよ、ホームズ。『本日午前10時に尊宅に伺います』って書いてあるじゃないか。もう10時だ、どこへ行くつもりだい?」
「この件は、君に任せた。」
「馬鹿言っちゃいけない。」
「だって君、犬だぜ、犬!」
私は今にも逃げ出そうとするホームズの腕を片手でおさえたまま、手紙を読み上げた。
「『シャーロック・ホームズ様。リンゼイ家の犬について、至急ご相談申し上げたき事態となりました。つきましては本日午前10時に尊宅に伺います。A.ヒルズ』ランガムホテルの便箋と封筒だね。筆跡や簡単すぎる内容からして大急ぎで書いたようだが…」
「君、犬好きだろう?適当にやってくれ。」
「君だって、犬嫌いじゃないだろう。」
「ランガムに泊まる、サーのつきそうな家の御犬様のために、几帳面な執事か召し使いが書いて、メッセンジャーにたっぷりチップを弾んでよこしたんだ。どうせろくな依頼じゃないよ。」
「そんな事、分からないじゃないか。逃げるなんて君の信用に関わるぜ。それに、もう遅いよ。」
 階下で、ハドスン夫人が訪問者を迎える声がする。ホームズに面会の約束があると言う訪問者の声がとどくと、さすがにホームズも観念した。抱え込んでいた物を寝室に放り込むと、依頼人が居間に通された。
「シャーロック・ホームズさんですか?」
入ってきたのは、50がらみの背が高く痩せぎすの男で、こぎれいな服装で髭を剃り、実直で勤勉そうな表情が印象的だった。
「そうです。こちらはパートナーのドクター・ワトスン。ヒルズさん、お待ちしておりました。」
ホームズは簡単な嘘をついて、依頼人に椅子を勧めた。
「さて、ヒルズさん。お顔を拝見するに随分ご心配の様子ですが、いかがしましたか?依頼内容をお聞きしましょう。」
「私はアンドリュー・ヒルズと申します。リンゼイ家の執事を30年勤めております。リンゼイ家はご存知ですか?」
ホームズが眉を上げてこちらを見るので、私は記憶をたどりながら口を開いた。
「詳しくは存じ上げませんが、確かアンチェスターの…」
「ええ、その通りです。アンチェスターの名家です。当主サー・ウィリアムのご長男、デズモンド様のご婚約については新聞にも載ったかと思いますが。」
「ああ!」
私は先月の新聞で読んだ事を思い出した。
「確か、ジュリア・ポントレイ嬢と婚約なさったとか。」
「そうです。サー・ジョン・ポントレイのご令嬢で、皇太子妃殿下のご親友であられます。」
「良縁ですな。」
「それで…」
ホームズが組んだ足先をイライラと動かしながら、話の先を促した。
「ご令息の幸せな婚約が、どうしたと言うのです?」
ヒルズは身を乗り出し、顔を強張らせ、声を低くしながら言った。
「リンゼイ家へ嫁ぐ花嫁には、伝家のサファイアの指輪を贈る事になっております。今度も、令息の母君からポントレイ嬢へお贈りするために、いったんデズモンド様に託されました。所が今朝の事です。何とデズモンド様の愛犬マルが、その大事なサファイアの指輪を飲み込んでしまったのです!」
ホームズは「そら見ろ」とでも言いたげな視線を私によこし、鼻から溜息を漏らしながら右手の指先をこめかみにやった。
「どうやら、これはドクター・ワトスンの領域のようですな。」
ヒルズは深刻そうな表情のまま、私に振り返った。私は笑うのをこらえながら、努めて平静を装いながら答えた。
「10時間もすれば、しかるべき所から出てきますよ。」
「犬の?」
ヒルズは大真面目に聞き返す。
「ええ、犬の。」
「でも、その犬が消えてしまったのです!」
ホームズはもう、呆れたと言うよりは、悲しそうな顔になって立ち上がった。私は依頼内容よりも名探偵の哀れな表情を見て、笑わずにはいられなかった。ホームズはそんな私にも腹が立ったのか、大きな声で早口に言い放った。
「では、その犬を捜しなさい!」
「どうやって?」
「名前を呼べば出てくるでしょう?腹が減れば戻ってくるだろうし。」
「それが見当らないのです。そもそも犬の割には迷子になりやすい性質で、しかも今の滞在先はアンチェスターのお宅ではなく、ロンドンのホテルなのですよ。自力で戻ってこれるかどうか…」
「では新聞広告を出しなさい。犬種と特徴、年齢、性別、名前、行方不明になった場所と時間、情報提供者には1000ポンドの賞金を出すと!そして人をかき集めて金をばらまき、その金持ちな犬の大捜索作戦を実行しなさい!」
「とんでもない!」
ヒルズは頓狂な声を出して立ち上がった。背の高い彼はホームズと同じ高さから、同じように叫んだ。
「そんな事をしたら、どうなります?リンゼイ家が血眼になって犬を捜していると、世間に宣伝するのですか?ただでさえ、今回の縁組みで噂に上っているのですよ?口さがない連中はあの犬についてあれやこれやと詮索を始め、すぐに有名なリンゼイ家のサファイアの事まで知られてしまいます!ポントレイ嬢に贈られる宝石が、犬の消化器官をひと巡りしてきただなんて、両家とレディ自身の名誉に関わります!この事は絶対に秘密にせねばなりません。秘密裏に、今夜までに犬を探し出し、サファイアを回収しなくては!」<BR>
ホームズはもう何も言いたくないような表情で、どっと椅子に沈み込んでしまった。ヒルズが一人、仁王立ちになっている。<BR>
「どうして今夜までになのですか?」
私が尋ねると、ヒルズは気がついたように椅子に腰を戻した。
「実は、今夜ポントレイ嬢がロンドンに来られるのです。ちょうどデズモンド様もいらっしゃるので、お食事という事になりました。それで、ついでなのでレディの指輪のサイズを確かめ、必要なら直しに出そうと言う約束を。だから今夜、どうしてもあの指輪が必要なのです。」
「以前から決まっていた事ではない?」
椅子に長くなって沈殿していたホームズが、ひどく間延びした声で尋ねた。
「ええ、令嬢の方から今朝、連絡がありまして。だからこちらにお伺いしたんです。ホームズさんなら、秘密と迅速さを要求されるこの大問題を、上手く解決して下さるに違いないと。ご活躍はドクターのご本で知っておりますし。ええ、ロンドンへの汽車の中でも、雑誌のバックナンバーを読みましたよ。」
「大問題ねえ…」
ホームズは両手を目に当てて、ますます長くなってしまいながら、つぶやいた。
「鵞鳥がカーバンクルを、犬がサファイアを飲み込む。きょうびのの動物は舌が肥えているな。」
「まったく、その通りです。さあ、そうと決まれば早速、現場に。」
「いや、別に何も決まっちゃいませんが…」
ホームズは言いよどんだが、ヒルズはさっさと立ち上がりドアを開けていた。
「下に馬車を待たせています。事は一刻を争うのですよ、早く支度をして下さい。ドクターは、下剤をお忘れなく。」
「下剤?」
「それから消毒液もたっぷりですよ!」
珍しく押しの強い依頼人に、ホームズも私もすっかり気圧されてしまい、否応なくランガム・ホテルへと馬車で向かう事になった。


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