Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         フィールズ校の初夏 
  

フィールズ校の初夏 4

 入室を促す声がするので、コーク先生と私が部屋に入ると、顔見知りの数学教官が二人、お茶を飲みながらくつろいでいるところだった。
『今日は、ウィックス先生。ローガン先生、お邪魔します。』
 コーク先生がまずそう言うと、二人の教官はにこやかに我々を迎えた。二人ともフィールズ校に十年以上勤めており、私とも顔見知りだ。そしてすぐに、小遣いを呼んでお茶をいれてくれた。
 ヘンダーソンの数学を見ているウィックス先生は、コーク先生,私と対面して応接用の椅子に腰掛け、同僚のローガン先生は仕事机についたままで話は始まった。
 まず、コーク先生が口火を切った。
『相談に上がりましたのは、ほかでもありません。例の三年生、ヘンダーソンの件です。』
『ああ、あれね。』
ウィックス先生は、すっかり禿げ上がった頭を上下させて、真面目な顔になった。
『ヘンダーソン君は少々気の毒だったな。活躍が期待された、ラグビーもサッカーも出られなくて。私は結構賭けていたのだがね…。』
そう言ってウィックス先生は苦笑した。対抗戦で、教師たちが賭けを展開しているのは有名な話である。
『ヘンダーソンは二回、レポートを無くしているのですよね?』
私が尋ねると、ウィックス先生はまたさっきと同じような仕草で、頭を上下させた。
『三年生のうち、数学が苦手な生徒…そう、全体の三分の一は何らかの形で春にレポートを提出しておるのだが。まぁホームズ君や、きみの弟とは縁の無い話だ。とにかく、ヘンダーソンもその三分の一のうちの一人だ。関数には問題が無いので、幾何だけのレポートを課し、確かあれは…』
 そう言いかけると、ウィックス先生は椅子から立ち上がり、自分の仕事机に置いてある手帳をめくった。
『そうだ、そうだ。丁度対抗戦初日の三日前を提出期限としていたのだよ。』
『ヘンダーソンはその最初の提出期限に間に合うように、レポートを作成したと言っています。』
私がそう言うと、ウィックス先生は頷きながら、椅子に戻った。
『確かに。しかし提出日に彼がここに来て説明する事には、夕べ確かに完成させたはずのレポートが無くなったと言うのだ。』
『どこで無くしたと言っていましたか?』
『寮の自習室だ。三年生だから、個人机があるだろう。出来上がったレポートを、個人机の引出しにしまい、就寝し、朝になってみると無くなっていたらしい。しかし、あの小僧どものことだ。宿題の類が提出できない言い訳をいくらでも考えつくからな。私はすぐに一週間後に再提出するようにと、指示をした。』
『それで、ラグビーの試合出場は取り消しですか。』
 ヘンダーソンが気の毒になって、私が聴き返すと、黙って話を聴いていたローガン先生が口を出した。
『仕方あるまい、ホームズ君。スポーツは確かに尊ぶべきものだが、勉学を疎かにするのは学校理念に反する。とくに対抗戦での厳格な扱いは、我が校の伝統だ。』
 私は仕方なく頷いた。この『厳格な』対抗戦出場資格定義では、競技の初戦三日前までには、全ての教科の決められた課題をクリアせねばならない。
 面白いのは、『対抗戦日程の開始三日前』ではなく、『各競技の初日の三日前』という点だ。ヘンダーソンが不運だったのは、開催が最初に設定されていた、ラグビーに出場する心積もりだった事だ。
 『つまり一週間以内に再提出すれば、ラグビーの代わりに、サッカーに出場する事は可能だったのですね。』
私が質問を続けると、ウィックス先生はお茶のおかわりを注ぎながら頷いた。
『私とて、ヘンダーソン君を出場させてやりたい気持ちには、かわりが無いのだよ。ともあれ、彼にはレポートの再提出を指示し、期限をええと…』
ウィックス先生は再び立ち上がると、手帳を見て戻ってきた。
『期限は、サッカー開催日の丁度三日前だった。』
『そして、その再提出のレポートも無くなった。』
『そうだ。』
『そのときの状況を、詳しくお願いできますか?』
私が身を乗り出すと、ウィックス、ローガン両先生は顔を見合わせた。そして、二人は代わる代わる提出日の状況を説明した。話を総合すると、こういう事である。

 再提出期限の日の午後、ウィックス先生は四年生の授業と、五年生の授業が連続していたので、この教官室には戻っていなかった。ヘンダーソンが来たのは、丁度その時で、数学教官室には、ローガン先生だけが居た。
 ローガン先生は午後の最初の枠に授業は無かったので、この教官室で仕事をしていた。すると昼休みのすぐ後に、ヘンダーソンがやって来た。たしかに手にはレポートを持っており、ウィックス先生は居るかと尋ねた。そこでローガン先生が授業中だと教えてやった。すると彼は、提出期限のレポートがあるのだが、これからストンプトン校へラグビーの試合の応援に、出かける事になっていると言うのだ。そこでローガン先生は彼に、ウィックス先生の机の上に置いておけば良いとアドバイスした。
 ヘンダーソンはその通りにした。ウィックス先生の机の上に確かにレポートを置いて、ストンプトンに向かったのだ。
 午後の一限目の間じゅう、ローガン先生はこの教官室に居たし、一歩も出なかった。そして、確かにレポートは机の上にあった。少なくとも一限目の間は。
 問題は、午後のニ限目が始まる時刻だった。ローガン先生には、一年生の授業があった。いつもの教室での授業ではなく、その日は特別に野外実習が組まれていたのだ。三角測量の実習だったからだ。私にも覚えがある。確かに一年生のとき、全員で外へ出て、グループごとに幾つかの塔や木々の高さを三角測量を用いて測る授業があったのだ。
 ローガン先生は、一限目が終わったらすぐに一年生全員でこの数学教官室に来るように、指示してあったので、彼らは時間どおりに来て廊下に整列した。そこでローガン先生は、彼らに 外に出るように指示し、それから十人ほどに測量道具を運ぶように言った。
数学教官室の片隅には背の高い戸棚があり、人の背丈よりも長い細い棒、輪になっているロープなど、三角測量の実習に使う道具が何年も、何代にも渡って使い古され、収まっていた。

 『つまり、この道具を取るために、一年生が十人ほどこの部屋に入ったのですね?』
 私は一旦話を中断して、ローガン先生に確認した。
『そうだが、まさかホームズ君。一年生達が怪しいと言うのではないだろうね。きみの弟も居たよ、背の高いシャーロック・ホームズ君は、弟だろう?』
『この部屋に入った人間は、すべて疑わざるを得ませんから。』
 私の言葉に、ローガン先生も黙ってお茶を啜っていたウィックス先生も、ギョッとしたようだった。しかし、ローガン先生は勤めて冷静に説明を続けた。

 ローガン先生は、その十人ほどの一年生たちに用具を分担して運べと指示してから、もう一度ノートがあるのを確認している。ウィックス先生へのメモを書いたからだ。『三年生ヘンダーソンの提出物です。よろしく』とメモして、レポートの上に置いたと言う。
 それから、一年生たちがそれぞれに『道具を持ちました』と言うので、彼らに外へ出るように指示した。そして廊下への扉とは反対側にある、窓際のキーボックスを開けて鍵を取り、道具を持った一年生たちが教官室から出たのを確認すると、ローガン先生も部屋を出て、鍵をかけた。これは間違いないと、ローガン先生は念を押した。
 ウィックス先生は午後の二限目も五年生の授業があったので、この部屋には戻っていない。三人目の数学教官は、新人のグラスマン先生だが、一週間ほどオックスフォードへ研修に行っていて、不在だった。鍵は二つ。だから一つはウィックス先生が持ち、もう一つはさっきのように、ローガン先生が持って、外に出た事になる。
 つまり、ヘンダーソンのレポートがウィックス先生の机に乗ったまま、数学教官室は無人になり、施錠された。次に鍵が開けられたのは、ウィックス先生がニ限目を終えて、戻ってきたときだ。
 手持ちの鍵で扉を開けて、入室した時 ― そのとき、レポートは机上あったか否か?

 『問題はそこだよ、ホームズ君。』
 ウィックス先生は手にもっていたカップとソーサーをテーブルに置いた。
『私は自分の机の上に、特に注意を払っていなかったのだ。レポートはあったかも知れないし、無かったかもしれない。とにかく、残念な事に、その時はヘンダーソンがレポートを持ってきた事を、全く知らなかったからね。私は自分の仕事机には注意を払わなかったのだ。』

 ウィックス先生は入室すると、無造作に一限目と二限目に使った持ち物を置き、ガウンを洋服掛けに掛け、呼び鈴紐を引いて小遣いを呼び、お茶を持ってくるように言い、戸棚にしまっておいた論文と辞書を取り出し、この応接椅子に座って論文を読み始めた。
 小遣いに頼んだお茶はすぐに来た。同時に、卒業間近の上級生達が三人ほど来て、大学で世話になる数学教授への紹介状の相談をしたし、レポートを提出しに来た生徒も数人出入りした。校長も顔を出しに来たりもしたと言う。
 つまり、二限目が終わってウィックス先生が数学教官室に入ってから、小一時間ほどは色々な人が出入りしたと言う事になる。しかもウィックス先生は机上にヘンダーソンのレポートがあるかどうか、まったく認識していなかったのだ。その存在を知ったのは、ローガン先生が戻ってきてからだった。
 一年生の野外実習は、最初から一時間延長していたため、ローガン先生が戻ってきたのは、二限目が終わってから一時間弱ほど経ってからだった。丁度学生たちが全員出て行き、校長がウィックス先生と話していた所だった。ローガン先生も加わって十分ほど世間話をしてから、校長先生も出て行った。そこで初めて、ローガン先生はウィックス先生にヘンダーソンのレポートを見たかと、尋ねた。
 言われて初めて、ウィックス先生は自分の仕事机を見た。しかし、レポートはなかった。影も形も無かった。ローガン先生も一緒に見たが、確かに無くなっていた。

 私はそこで、確認のために、先生二人の説明を遮った。
『ローガン先生が書いたメモもなくなっていましたか?』
『無くなっていた。』
 二人の数学教官は同時に答え、同時に頷き、ウィックス先生が続けた。
『私とローガン先生は床もくまなく探したが、レポートとメモはみつからなかった。』
『つまり…』
 私は言いかけると、お茶をもう一口飲んでから、状況を整理した。
『午後の一限目にヘンダーソンがレポートを届けにこの部屋に来て、ウィックス先生の机の上に置いた。一限目の間は、ローガン先生が一人、この部屋に居た。二限目が始まる頃、一年生が外の廊下に集まり、内十名がこの部屋に入って、測量道具を持ち出した。ローガン先生はメモを書いてウィックス先生の机に残し、部屋を施錠してから外へ。つまり、二限目の間、この部屋は無人だったはずだ。
 そして二限目が終わってウィックス先生が鍵を開けて部屋に入ってからの小一時間は、小遣い,数人の生徒,校長先生などが出入りし、その間ウィックス先生はレポートの存在を認識しなかった。そしてローガン先生が戻ってきて、初めてレポートがなくなっていることに気付く ― 鍵は、その時お二人が所持していた二つだけですね?』
 数学教官二人は頷いたが、コーク先生が横からそれを否定した。
『いや、小遣いが一つ、合鍵を持っているはずだ。めったに使う事はないはずだが…。』
『合鍵ですか。』
 しかし、私にはこの件において、小遣いが保管している合鍵を使うという込み入った手段が、状況にそぐわないような気がした。私はもう一度、ウィックス先生に向き直った。
『ヘンダーソンのレポートが無くなっている事に気付き、床までくまなく探した後、どうしたんですか?』
『急いでヘンダーソンに連絡を取ったよ。』
 ウィックス先生は応接椅子の背もたれに背を預けながら言った。
『私も彼がこのレポートを今日中に提出しなければ、対抗戦でサッカーの試合にも出る事が出来なくなることは知っていたし、今回の場合はローガン先生が提出を目撃している。どうにかしてやらねばと思って、ストンプトン校に出向いているヘンダーソンあてに、急遽電報を打った。一緒に出かけた教官が上手く対応して、すぐにヘンダーソンはフィールズ校に戻ってきた。
 急遽戻ったヘンダーソンと、私、それからローガン先生も話し合って、校長先生と直接話し、特別措置として、ヘンダーソンのサッカー出場を認めて欲しいとお願いした。とにかく時間が無くてね、対抗戦のサッカー開始は三日後だ。校長先生の独断で許可を出して欲しかったのだが、結局理事会の承認が必要と言う事になり、協議は翌日に持ち越された。』
『そうですか。』
 私は憂鬱な気分になって、そう相槌を打った。理事会に掛けられてしまったのでは、ヘンダーソンの命運も尽きたというものである。あの頭の固い、厳格一辺倒の理事会が、特例を認めてくれるはずも無い。ウィックス先生やローガン先生の努力も虚しく、ヘンダーソンは対抗戦サッカーへの出場もできなくなってしまった。

 『悲劇ですね。』
私はため息と共に、そう言った。数学教官二人も、コーク先生も同感らしく、深く頷いた。
『ヘンダーソンは期日に間に合うようにレポートを作ったのに、二回も紛失し、ラグビーはおろか、サッカーにも出場できず、お陰で対抗戦ではストンプトン校に惨敗だ。賭けに負けた人も、被害者と言うべきかな。』
 ウィックス先生も、ローガン先生も同感らしく、黙って頷いた。ウィックス先生は続けた。
『ヘンダーソンが日程的に最後になっていたフェンシングに出場してくれたお陰で、我がフィールズ校の体面は保たれたが、とにかく嫌な話だ。キング先生が、ホームズ君に相談しようと考え直したくなる気持ちもわかるよ。』
 私はもう一度ため息をついて、考え込んでしまった。

 数学教官室を出ると、コーク先生はそろそろ授業が終わる時間だから、学生達に話を聞くかと提案したが、私にはどうもその気が起きなかった。その代わり、グラウンドに行く事にした。丁度、クリケットの練習をしているところだったが、私の目的はクリケットではない。
『小火騒ぎがあったのは、あれですよね。』
 私がグラウンドの向こう側を指差すと、コーク先生はしばらく私が何の話をしてるのか考えているようだった。
『ああ!小火ね。何の話しかと思ったよ。そうだ、あそこに焚き火場があるから。行って見るかい?』
私は頷いて、グラウンドをぐるりと迂回して、焚き火場に向かった。
 季節はもう殆ど夏で、ここ最近は焚き火をしないで済んだだろう。かまどのように大きな石が組まれ、木々の枝や、枯葉の残骸が黒く残っているだけだった。私はしゃがみこんで、その石組みの中をじっと観察した。コーク先生はそれを不思議そうに見つめていたが、やがて辺りを見回して言った。
 『例の小火は冬だったからね。焦げた下草もすっかり生え変わって、いつもの年より青々しているかもしれないな。』
 そこへ、グラウンドキーパーの老人が通りかかった。何十年も前からフィールズ校に勤めている男で、私も顔に見覚えがあった。
『やぁ、コーク先生。今日は。良い天気ですね。』
グラウンドキーパーはニコニコしながら、そう挨拶した。
『お客様ですか。あの、クリケットの弾が飛んでくるかもしれませんから、お気をつけ下さいね。』
彼は暢気な様子でそう言うと、口笛を吹きながら行こうとした。私は立ちあがると、彼を引きとめた。
『あの、ちょっとお尋ねしますけど。』
『はぁ、なんです?おや、卒業生さんですな。』
相変わらず、グラウンドキーパーはニコニコしている。
『あの、ここで最後に焚き火をしたのは、いつだったか、覚えていますか?』
『最後の焚き火?そりゃ対抗戦開幕の、前の、前の日でしたよ。ちょっと冷えましたからね、いつも火起こしを手伝ってくれる学生さんとお仲間が、サッカーだかラグビーだかの練習中に、火を焚きたいって言いましてね。でも、その後は暑い日が続いて。それ以降は、燃してませんよ。』
『そうですか。ありがとう。』
 私はもう一度ためいきをついた。しかし、グラウンドキーパーは直ぐには立ち去らず、にこやかな顔のまま、一言付け加えた。
 『焚き火の跡って言うのは、興味をそそるものですか?前にも、あなたと同じように焚き火の跡をじっと観察してる学生さんが居ましたよ。』
そう言って、グラウンドキーパーは笑ったが、私の顔を見て何かに気付いたのか、すこし怪訝な表情になった。しかし、彼はそれ以上は何も言わず、『それじゃ』と言い残して、立ち去った。」



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