Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         フィールズ校の初夏 
  

フィールズ校の初夏 2

 『幾何学のレポート?』
 私はまた思わず聞き返した。すると、あいも変わらずコーク先生は真面目な表情で頷いた。
『その通り。ライル・ヘンダーソンは現在三年生で、スポーツの得意な生徒だ。チェルシーの大地主の息子で、フェンシングの腕は大人顔負けと評判だ。しかし、学校に入ってからはもっぱらサッカーやラグビーなどの、球技に夢中だがね。確か、クリケットのチームからも声が掛かっている。』
『それだけスポーツの話が出ると言う事は、そのレポートとスポーツに関係が?』
『その通りだよ、ホームズ君。』
キング先生が厳格な顔つきで説明を引き継いだ。
『春には学校対抗戦がある事は知っているね。』
『もちろん。』

 春の対抗戦は、非常に盛り上がる行事だ。我がフィールズ校と、ライバルであるストンプトン校,ノープ校の三校が、一ヶ月に渡って様々なスポーツで競うのである。低学年と高学年がそれぞれチームを作り、相手校に出向いたり、自校のグラウンドに敵を迎えたりして対戦をするのだが、通常の授業も行われているので、出場選手にとっては楽しくも忙しい期間だった。

 キング先生は説明を続けた。
『当然ヘンダーソンは対抗戦での活躍が大いに期待されておった。特に、期間の最初に行われるラグビーでは、どの選手よりも期待を集めていた。しかし、直前になって大問題が起きた。提出を指示されていた幾何のレポート提出が、できなかったのだ。』
『間抜けな。』
 私は思わず本音が出てしまった。

 心身ともに鍛える事が目的のフィールズ校ではあるが、一方に夢中になるあまり、一方を疎かにする事は許されない。春の対抗戦は非常に盛り上がるイベントだが、その前のテスト,レポート,口頭試験にパスしない者は、出場を禁止されていた。
『そもそもヘンダーソンの学業成績は、特に良くも悪くもなく、普通程度に努力すれば、問題なかっただろう。しかし、少々数学が苦手だったらしく、幾何については、レポート作成が指導教官のウィックス先生から指示された。日数的には余裕があったと本人も教官も言っている。しかし、ヘンダーソンはせっかく製作したレポートノートを提出前に紛失し、結局期限に間に合わずにパスできなかったのだ。
 このために、対抗戦日程の頭にあたるラグビーの試合には出場できなかった。結果、ラグビーはストンプトンにも、ノープにも惨敗。やはりヘンダーソンの欠場が響いたのだろう。』
『そんな因縁のある幾何のレポートが、東棟の地下から発見されたとなると、確かに奇妙な話ですね。』
私が頷くと、キング先生は首を振った。
『待ちたまえ、そんなに単純な話ではないのだ。良いかね、東棟の地下でコーク先生が発見したヘンダーソンの幾何レポートは、二回目に提出されたものだったのだよ。』
『二回目ですか?』
『そうだ。最初に提出するはずだったものを紛失したヘンダーソンは、再度レポートを作成した。そして幾何の担当教官ウィックス先生に手渡すべく、提出期限日の午後、数学教官室へノートを持っていった。あいにくウィックス先生は不在だったため、机上にノートを置いたのだ。ところがウィックス先生が教官室に戻った時、机上にノートは無く、要するに再び紛失したのだ。』
『つまり、コーク先生が発見したのは…』
 私がコーク先生の方に振り返ると、若い彼は頷いて見せた。
『そう、東棟の地下室で私が見つけたのは、ヘンダーソンが作成した二つ目のレポートだったのだよ。』
『二つ目というのは、どうして確認できるのですか?』
『見たまえ。』
 キング先生は書類かばんの中から、学生がよく使うようなノートを取り出し、私に手渡した。ごくありふれたノートで、さほど古いものではない。しかし、全体に湿ったような質感で、まだ埃が挟まっている感じがした。ページをめくると、おなじみのユークリッド幾何学の証明問題と回答がぎっしり書き込まれている。注目すべきは、冒頭の日付と、『紛失によるニ回目の提出』と書かれていることであった。私には、その文字から、ヘンダーソン少年のやるかたない怒りが滲み出しているように思えた。
 『ヘンダーソン君は何年生ですって?』
私が表情に笑みを残しながら尋ねると、キング先生も苦々しく笑いながら応えた。
『三年生だ。さっきも言ったように、スポーツに関しては学校随一の生徒だ。』
『普段はどこで寝起きを?』
『アンドリュー・クルス寮の大部屋だ。ホームズ君、きみの弟と同室だよ。』
『ああ、つまり…』
 私がレポートを返しながら言うと、今度はコーク先生が口を開いた。
『そう。弟に会いに行くという名目で、寮の部屋と同室の生徒達を調べて欲しいのだよ。』
『レポートの紛失は学生の誰かの仕業だと、お考えなのですか?』
『ほかに考えられるかね?』
キング先生は大きくため息をつきながら言った。
『ヘンダーソンが最初に作ったレポートだけが消えたのであれば、ヘンダーソン自身の管理が悪かったのだと考えるが、しかし二回となると、そうは行くまい。おかげでヘンダーソンはラグビーの試合には出られず、代わりに出る予定だったサッカーも二回目の紛失で棒に振ってしまった。もちろん、両方ともわがフィールズ校は惨敗だ。結局、対抗戦日程の最後に残っていたフェンシングの団体戦に出場して、優勝したから、我が校の体面は保たれたがね。』
『フェンシングには弟も出たはずですが。』
 私はまだケンブリッジに居たので見ていないが、両親と祖父母はシャーロックの活躍を見るために、意気込んで対抗戦を観戦しに出かけていたのだ。シャーロック可愛さのあまり、彼らは優勝はシャーロックの功績だと浮かれていたが、要するにスポーツ万能で、フェンシングの名手であるヘンダーソンのおかげで、勝ったというわけだ。」

 私は、ホームズがフェンシングをするという話は初耳だった。
「きみはボクシングだと思っていたよ。」
 私が実験台の向こうのホームズに言うと、
「もうやめたんだ。」
と、不機嫌そうな返事が返ってきた。マイクロフトと私は顔を見合わせて笑ってしまった。
「それでマイクロフト、調査を引き受けたのですか?」
「ああ、断る理由もないからな。どうせシャーロックの様子を見なければ帰れないのだし、恩のあるキング先生の頼みでもある。それに、無傷とはいえ、コーク先生が落ちた穴は、私が作ったものだからな。嫌とはいえまい。」
 マイクロフトは差し出された葉巻を手にとると、それに火をつけてまた語り始めた。

 「実のところ、キング先生宅で聞いた話には、あまり多くの情報はなかった。要するに、ヘンダーソンは幾何学のレポートを提出する前に紛失し、見つかっていない。そして再提出したレポートはウィックス先生の机から消え、東棟の地下室から見つかった。 ― それだけだった。

 私はコーク先生と共に、アンドリュー・クルス寮に向かった。 フィールズ校では、下級三学年は全員大きなアンドリュー・クルス寮に入り、上級三学年になると、小規模なハウスに振り分けられる。当然、規律はハウスの方が緩く、寮は色々と制約のある大集団生活を余儀なくされた。
 寮には大きな食堂と、水周り施設、そして六人一部屋の寝室が多数と、その寝室四部屋で一つの自習室が備えられていた。自習室には中央に大きな机が据えられ、主に一,二年生が使う。その大机を囲むように独立した個人机が並び、主に三年生が使っていた。個人机をあてがわれた生徒は勉強道具をそれぞれの机に収納できるが、大机を使う下級生は共同の戸棚を分け合って、収納する事になる。
 寝室は六人で共同になっていた。部屋によってその割合に違いはあるが、基本的に三学年の生徒が混在していた。寝室には壁に沿って六つのベッドが並び、それぞれの脇に洋服箪笥が置かれており、持ち物を収納する事になっていた。
 私もこの寮で生活したときに思った事だが、正直言って窮屈だった。生徒達にとっては苦痛だが、軍人にでもなればもっと窮屈をするのだからと、先生たちは訓示したものだった。四年生になってハウスに移ると、その快適さは天国のように思えた。

 私がコーク先生と共にアンドリュー・クルス寮に到着したときは真昼で、生徒達はまだ学校に居た。対抗戦も終わり、夏休み前の最後の授業だろう。
 寮監でもあるコーク先生は、まず私を15号室に案内した。ヘンダーソンの寝室だ。住人の構成を、コーク先生が一覧表にして見せてくれた。

 三年生 ヘンダーソン,カーク,ネイ
 二年生 ワイドストリート
 一年生 ソウズ, ホームズ

 ホームズというのは、もちろん我らがシャーロックだ。
 『この中に、ノートを盗んだ者があるとは考えたくはないが、しかし可能性は高いということになる。』
コーク先生は慎重に言った。
『普通に考えれば、同級生同士の悪ふざけで、カークとネイがまず疑われた。実際、最初にレポートが紛失したとき、ヘンダーソンは真っ先にカークとネイを問い詰めている。』
『その、最初の紛失では、レポートはどこで消えたのですか?』
 私は寝室を見回しながら尋ねた。
『自習部屋だ。ヘンダーソンは提出の前夜にレポートを完成させたと言っている。』
そう言いながら、コーク先生は自習室側のドアを開けて、私を手招きした。
 自習部屋は寝室四部屋の共同であり、かなり広かった。これまた、何の変哲もない普通の自習部屋で、中央の大机のところどころや、壁際の個人机には、学生達の勉強道具が雑然と、あるいは整然と置かれている。コーク先生は個人机の一つに私を案内した。
 『これがヘンダーソンの机だ。三年生になってから使い始めたらしい。両隣が、同室のカークとネイの机になっている。』
 私が在学していたころからそうなのだが、個人机の引出しの鍵は大抵壊れたままになっていた。コーク先生は無造作にヘンダーソンの机の引出しをあけて見せ、誰でも簡単にノートを盗む事は可能だと言った。
 『更に問題なのは、この自習室に入ること自体、寮生なら誰にでも可能だという事だ。』  コーク先生は苦りきった顔で言った。たしかに、自習室には鍵はかかっていないし、四寝室二十四名がこの部屋には自由に出入りできる。それだけではない。他の部屋の生徒だって自由に出入りできるし、寮監や職員だって、例外にはならない。
 『確かに、紛失したノートが一冊であれば、何かの悪ふざけで、この部屋に出入りする全ての人間が怪しいという事になります。でも、二回も発生したとなると、やはりヘンダーソンを狙い、しかも何かしらの目的があると考えるのが妥当でしょう。しかも、二回目はウィックス先生の教官室から持ち去っている。そんな危険を冒すくらいですからね。』
 私は一通りヘンダーソンと、その両脇の机を観察しながら言った。コーク先生もそれには同意したようだった。


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